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テサノイケビトの手紙、第1、5章、16節から、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これがキリストエースにあって、神があなた方に臨んでおられることです。」
今日はこのところから、消えない喜びと題して、御言葉が取り継ぎます。おはようございます。
今日も音声のみの配信です。 4月19日、日曜日、晴れておりますね。
今日の箇所は、以前学んでいた テサノイケビトへの手紙、第1からのその続きです。
いつも説明していますが、これは パウロがコンナの中にある、この教会の人々にあてた御言葉です。
テサノイケの教会の人々も、また私たちも共に不可抗力によって、喜びが取り去られました。
テサノイケの人々は、イエス様を神として信じているその信仰の上に、社会的な反対、そして様々な制約を受けていました。
一方、私たちは、今皆さんが体験している、私たちが体験している、コロナウイルスの感染の蔓延によって、社会的な制約を受けているわけです。
こうして外出、自粛が、今もハスレされておるわけです。
ただ、このテサノイケ教会の人々は、社会的な援助さえも受けられませんでした。
これまでもそのことを話してきましたが、そのような状況になったので、まだ私たちの方が、これから給付金が一律10万円を負たれるという話もありますけれども、
そういうことも含めて、まだ私たちの方が社会的な福祉を受けられる状況にあるので、マシなのかもしれません。
あるいは、テサノイケの教会の人々のように、暴力的な命の危険に晒されてはいない、もちろん見えないウイルスの戦いはありますけれども、
その中で、私たちも共に同じ制約や外部から、私たちの責任以外の理由で、不自由を強いられ、喜びが取り去られているという状況が共通しています。
そして、その結果ゆえに、この御言葉から私たちも今日も今を生きる糧を学ぶことができるわけです。
今日のこの御言葉は、3つの命令がセットで語られています。
喜び、祈り、感謝を絶えず実践しなさいという3つの命令です。
その3つのセット、これが18節にありますように、
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キリストイエスニアッテ、神があなた方に臨んでおられることです、とまとめられているわけです。
このキリストイエスニアッテという言葉、キリストというのは救い主という意味ですから、
この救い主イエスニアッテという言葉が、この3つの命令を実践する、あるいは解く鍵となっているわけです。
今日はこの最初の命令の、いつも喜んでいなさいという御言葉に耳を傾けます。
その意味から消えない喜びを体験するというテーマですが、
そのために救い主イエス様はなくてはならない存在である、ということを2つの点から学んでいきます。
まず第一の点、救い主イエス様が喜びの土台であるという点です。
これらの私たちが今まで経験してきた様々な喜びを、今取り去られているような状況です。
その今こそ、救い主イエス様を喜びの土台とするべきである、この意味が私たちに伝わってくるわけです。
言い換えますと、イエス様が私を救ってくださる、
私を救ってくださるイエス様を喜びの土台とすることが今こそ求められています。
その上でまず最初に大切なこと、それは喜びの土台として救い主イエス様を認めるということです。
その存在です。
なぜそう言えるのか。
それはですね、私たちが何かを喜ぶ、その時にはですね、喜びの土台があるということです。
喜びの原因があるからこそ、私たちは喜べるわけです。
喜びにはその土台や根拠が必要です。
今の状況を考えてみると、そのことがよくわかるのではないでしょうか。
現在のコロナ禍において、全ての芸能活動や文化活動、またエンターテイメントが制限されていますね。
野球、サッカーをはじめとするこのスポーツイベントがのきなみ中止や開催延期になっている。
東京、ディズニーランド、あるいはUSJ、テーマパークが閉じています。
USJは閉じていますが、UFJ銀行は開いていますけれども、そんなくだらないことをされておいて、
また、テレビの番組も様相が変わっていますね。
それは、社会的距離を保つために、この番組の中に、生番組の中に出てくる登場人物を
スタジオに入れないようにして、ネット配信で参加しているコメンテーターなども見られるわけです。
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また、例えばテレビドラマなんかもですね、外のロケができない。
ロケを伴う番組が作れないということで、先々、放送が中止にされるということが、
延期されるということが発表となったり、4月に放送開始となるドラマが進められなかったり、そんなことが起こっているわけです。
これらの状況に直面したときに、私たちは、いとも簡単に、しかも短期間のうちに、
このようなものが失われてしまうということに気づきました。
そして、その広がりが今、世界的であるということが驚くべきことなわけですね。
このような喜びの土台が崩れ去ってしまった。
それは、私たちが直接の原因ではない。
そして、私たちの責任ではないだけではなくて、私たちの力が及ばないことだということです。
先ほど申し上げましたように、テサルニ教の教会の人々と同じような制約があるわけです。
そんな中で、パウロは、かつての教会の人々に、そして今の教会の私たちに、神の御心としてこの御言葉を宣言したわけです。
このように言っておりますね。
救い主イエス様にあって、いつも喜んでいなさい。
この救い主にあって、というのが英語では、in Christ、inです。
そこにおいて、その場において、この原因においてという意味です。
つまり言い換えますと、この第一のポイントに挙げたように、私たちの喜びの土台は、私たちを救ってくださるイエス様であるということです。
このコロナの騒動の中で、救い主イエス様を喜びの基礎、土台とすること、これが、消えない喜びを体験する道だということです。
では、その土台をしっかり築くために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
その一つの方法として、神の御言葉、聖書を土台とする、そこに根拠を置くということを見ていきましょう。
御言葉、聖書により救い主を土台に添えるということです。
救い主イエス様が、私たちの喜びの土台となるために、私たちがそのようにイエス様に喜びの根拠を置くために、私たちはさらに聖書に根拠を置くことができるわけです。
実は、このパウロの教の命令、いつも喜んでいなさい、ピリピリとの手紙にも書かれていますが、主にあって喜びなさいという、この言葉やこの信仰は、旧約聖書に土台を置いています。
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つまり、パウロも聖書に土台を置いて、この御言葉を語っているわけです。
彼が参考にしたであろう聖書は、おそらく詩編と言われていますが、その中に次のような言葉があります。
35編の9節、
こうして私の魂は主にあって喜び、
御救いの中にあって楽しむことでしょう。
次は詩編の40編16節、
あなたを主体求める人が皆、あなたになって楽しみ、喜びますように。
あなたの救いを愛する人たちが主を崇めようといつも言いますように。
この詩編には共通の言葉があります。それは救いという言葉です。
こういう信仰、姿勢が貫かれています。
これまでも神様が救ってくださった、
出世エジプトの物語しかり、そして私の経験しかり、そしてその神様はこれからも私を救ってくださる。
だから今の困難の中でも、この主なる神様こそ私たちの喜びの土台である、
このような信仰の姿勢です。詩編がそのようなことを証しています。
神こそ救いであり、その救いの神に喜びの土台とする生き方を聖書がこのように証言しているわけです。
そしてこの神が救ってくださるという証言が私たちの喜びの土台ともなるわけです。
そしてこの神様が目に見える形でこの地に下ってこられたお方、それがイエス様です。
イエス様ご自身もその生涯の中でご自分についてこう言っておられますね。
聖書や旧約聖書が私自身を証言しているとそのように言われています。
ですから私たちはこの救い主イエス様によって、私たちを救ってくださる神様をはっきりとイメージすることができる。
その救い主である神様をイエス様によって明確に知ることができるわけです。
では二つ目のポイントを見ていきましょう。どうしたらその救い主のイエス様を喜ぶことができるのでしょうか。
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その第二のポイント、それは救い主イエス様が喜びの焦点であるということです。
焦点はフォーカスという意味ですね。日曜の夜の番組ではありません。
喜びには実はフォーカスが必要なんです。フォーカス、焦点がしっかり合っているならば喜びも確実になるわけです。
今、外資制限がかかる中、SNSに話題がたくさん集まっていますね。
そこに画像や動画がアップされ、人々を楽しませています。
例えばこの広い風景写真、この山中に映る富士山の絵、それを見ると心がゆったりするかもしれませんね。
例えばこんな風景を想像してみてください。
緑色の広く大きなこの丘の上に一本の桜の木が立っている。その桜、ソメイヨシノでしょうか。
満開の桜がその広い丘の上に一本立っている。
その風景を写真に収めるとき、もし桜を中心にしたいのであれば、その桜にピント、フォーカス、焦点を合わせます。
そうすると画像処理をして、トリミングして、桜だけを切り取ったとしても、しっかりと満開の桜の美しさが伝わってくるわけですね。
その桜を眺めたときの感動や喜びがまた味わうことができるわけです。
このパウロは、困難の中にあるクリスチャンたちに命じます。
喜びの焦点、中心を救い主イエス様に据えて、いつも喜んでいなさい。
写真の被写体の中心に焦点を合わせるように、イエス様に焦点を合わせます。
イエス様が私を救ってくださった、そしてこれからも救ってくださる、この点に喜びの焦点があっているのなら、
私たちは困難の中にあっても消えない喜びを体験できるわけです。
困難の中で喜ぶことができる、そのように聖書は私たちに告げているのです。
先ほども言いましたが、今、自粛や規制の中で楽しみにしているものが消えてなくなってしまったかもしれません。
画像に例えるならば、この私たちが楽しみにしているものを、画像に例えば貼り付けてコピーをすると考えてみましょう。
私だったら、例えば卓球のティーリーグとか、家にいますけど、犬や猫とか、皆さんだったらどうでしょうか?
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フェットの写真を貼りますか?野球選手の写真を貼りますか?テーマパークに行った時の写真を貼るでしょうか?
そしてその写真、様々なエンタメが映る画像の写真、その写真を考えた時に、今、この周りの画像が消えてしまったり、ぼやけてしまったような状況と言えるでしょう。
その時に、この写真の真ん中に、真ん中を拡大したり、その写真の真ん中をトリミングして切り取ってみると、何が映っているか。
そこにイエス様の十字架が映っている。
そのイエス様の十字架が私たちの喜びの中心にある。
それが今、私たちに与えられている状況なのではないでしょうか?
しかし、この言葉を頭でわかっていても、気持ちがついていかないかもしれません。
このような時に、私たちの心や気持ちの焦点を救い主イエス様に当てて、喜びを実感する、その方法とは何でしょうか?
どのようにしてイエス様に喜びの焦点を当てるのでしょうか?
その方法の一つが、お祈りです。
実は今日取り上げませんでしたが、詩編では、それを賛美するということもそうなんですね。賛美の歌声を上げる。
今、教会に集まって大きな声で歌うことができませんから、そういう体験はできにくいかもしれません。
広井の原に行って、大きい声で賛美歌を歌うことがいいかもしれません。
それとは別に、今、声を出さずに、あるいは大きな声を出さずにできること、それは祈りです。
祈りの中で、イエス様に焦点を当てます。
例えば、祈りの中で、これまでイエス様に助けてもらったことを思い巡らしてみてください。
今日は2020年4月19日ですが、例えば私は1984年の4月19日にイエス様を信じたんです。
今のお茶の水のキリスト教学生会館で、集会が終わった後、あるレストランで、4月19日にイエス様を信じる頃に受け入れました。
皆さんにも様々なイエス様に救ってもらった、そういう体験があると思いますが、それを祈りの中で思い出しましょう。
さらに、聖書の言葉を思い巡らせながら、祈り、その救い主に喜びの焦点を当てるということができます。
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先ほど紹介した、支援の言葉を思い巡らすこともできます。
人は、命の危険に晒されるときに、自然に祈りが生まれると言います。
よく言う、微量的なスピリチュアルケアの中で、まさに肉体的な危機に瀕した人々が、祈りたいとよく言うことがあると言われます。
この支援では、命の危機に瀕した人々が、神様に助けを求めて祈るという、その信仰が人間の自然の営みとして数多く記されています。
支援の著者たちは、呼吸をするように当たり前のこととして、苦しみの中から自分を救ってくださる神様に、その救いを求めて祈っているのです。
それはあたかも、命意によって自分の病を治してもらった人、治療してもらった人が、新たに病気にかかった今、その命意のところに再び行って治療してもらえる。
それがまた喜びであり、希望である。そんな証言や思いと共通するものが、この支援の中にあるわけです。
糖病期とかですね、そういう糖病のドキュメントをテレビで見たりすると、私たちは感動するわけですよね。
昨日も再放送でジンというドラマをやっていました。そのドラマは、お茶の水の潤天堂大学でロケしているんですね。この風景見たことあるな、なんて。
その中で、頭に怪我をした、江戸時代にタイムスリップした医者が、脳外科医が、頭に切り傷を受けた、刀傷を受けた侍を、金槌とのみで治してあげたり、
これらが蔓延した中で、これらの予防策、治療を指導したりするわけです。
それを見ると、私たちも感動するわけですよね。この人が死にかけている時に、救われている、救ってくれる医者がいる、
そういう物語を見る時に感動します。それはなぜかというと、自分の命の危機的な状況と気持ちがリンクするわけです。
そして自分も感動するわけですね。この聖書の詩篇も同じように、命の危機の中で救われた人々や、救いをイエス様に、神に求めて、
祈って喜んでいる人々、その気持ちに私たちも詩篇によって共感できるわけです。
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ですから、この詩篇の言葉を思い巡らせながら祈る時に、私たちはその詩篇の作者と共に、救い主に焦点を当てて、
それを困難の中の喜びや希望に結びつけることができるわけです。
例えばですね、皆さんも探してほしいのですが、詩篇の33篇、特に16節から22節を黙想し、祈ることもできるでしょう。
18節から21節だけをここに記しましたけれども、こんな言葉が書いてあります。
みよ、主の眼は主を恐れる者に注がれる、その恵みを待ち望む者に。
彼らの魂を主から救い出し、危機の時にも彼らを生き永らえさせるために。
私たちの魂は主を待ち望む、主は我らの助け、我らの盾、誠に私たちの心は主を喜ぶ、私たちは聖なる皆に信頼している。
先ほども言いましたが、この詩篇で言われている主なる神様とは、今私たちは救い主イエス様として知ることができる神様です。
この神の救いをはっきりと見据え、その神のイメージをはっきりと焦点を合わせるために、イエス様が人となった神としてこの地に下って、私たちのために救いを成し遂げてくださったわけですね。
ですから今の私たちは、祈りの中でこの詩篇を用いながら、救い主イエス様に焦点を当てて祈ることができるわけです。
この救い主イエス様こそ、消えない喜びの土台であり、中心となるわけです。
そしてそのイエス様は、信じる私たちと共に、そして私たちの心の中心にいてくださるわけです。
パウロもこのように証言しています。その言葉を最後に紹介し、このお話を終えたいと思います。
ガラディア人の手紙2章20節
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
コロサイ1章27節
このおこぎとは、あなた方の中におられるキリスト栄光の望みのことです。
お祈りします。
天の父なる神様、皆を賛美いたします。
あなたはダビデをはじめ、私たちの信仰の先達たちを危機の中で救ってくださいました。
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彼らの救いを求める祈り、また救いに預かった感謝と喜びの御言葉が聖書に記されていることも感謝いたします。
私たちも今、様々な状況の中で制約を受け、あるいは喜びの土台が取り去られているそのような状況にあるかもしれません。
しかし、そのような時だからこそ、私たちが救いの土台であるイエス様、救いの焦点となるべくイエス様に祈り、思いを馳せながら、
どんな時にもあなたにあって、救い主イエス様にあって喜んでいることができるようにどうか導いてください。
イエス様にある喜びをどうか新たに、さらに深くこの機会に知ることができるように、どうかご精霊によって助け導いてください。
この願いと感謝をイエス様の名前によって祈ります。
アーメン