2021-11-28 23:33

#83 2021/11/28 口にすべき言葉とは

エペソ5:3-6からの礼拝説教。2021年11月28日録音。昨晩(11/27)のニュースで南アを中心に新型コロナウイルスの変異株が発見されました。注意すべき新変異としてオミクロンと名付けられました。年末にかけてクリスマスそして新年へと向かう今、宴会も解禁されていく流れもあります。そのような中で起こりえる逸脱行為に関わるであろうことに関してパウロは教えています。1.性的逸脱を避ける、2.それにかかわる悪い言葉について、3.感謝のことばについて、聖書に耳を傾けましょう。
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朗読します。エピソディットへの手紙、5章、3節から6節。
あなた方の間では、生徒にふさわしく、乱らな行いも、どんなけがれも、またむさぼりも、口にすることさえしてはいけません。
また、わいせずなことや、愚かなおしゃべり、下品な冗談もそうです。
これらは、ふさわしくありません。むしろ、口にすべきは、感謝の言葉です。
このことをよく知っておきなさい。乱らな者、けがれた者、むさぶる者は、偶像礼拝者であって、こういう者は誰も、キリストと神の御国を受け継ぐことができません。
誰にも虚しい言葉で騙されてはいけません。こういう行いの家に、神の怒りは不従順の子らに下るのです。
以上です。
今日はこのところから、口にすべき言葉とは、と題して、御言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
11月も最後の礼拝になり、また少しだけクリスマスの備えといいますか、礼拝堂もささやかなながら、アドベントの飾りをつけて、クリスマスの季節に入ってまいりました。
昨晩の夜8時に臨時ニュースが入りまして、新型コロナウイルスの新たな変異株が南アフリカを発端として見つかったと。
注目すべき点、ワクチンの効果を弱めるという点が危険だということで、つけられた名前が公表されて、オミクロン、ギリシャ語のオウという字ですね、オミクロンと名付けられました。
このような中、これからまさに年末にかけてクリスマスが行われ、新年と向かい、なんとなくお店での宴会も解禁されていく流れにも見えなくもありません。
そんな中で見られうる、逸脱行為に関わる、そんな教えを今日パウロが語っています。
クリスマスの前にカボチャのハロウィンというのがあって、そちらの方がちょっと乱れているという声もありますけれども、
そのような言ってしまえばですね、この3点で一番最初、性的逸脱を避けるということ、それと関わることから今日学んでいきますが、
2番目はそれに関わる悪い言葉について、最後3点目はその反対の感謝の言葉について、パウロの教えに耳を傾けていきたいと思います。
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まず最初ですね、この性的な逸脱を避けなさいとパウロは教えています。
今日見た最初の箇所でパウロはこう教えていますね。読める方は読んでみましょう。
3回、あなた方の間では、生徒にふさわしく、乱らな行いも、どんな汚れも、またむさぼりも、くじにすることさえしてはいけません。
実はパウロはこの5章、この先の31節で、まあ31節というかその前から、結婚について教えています。
結婚式の知識でよく読まれる有名な御言葉が続いています。
その中でパウロは、結婚は神が作られたものだということで、このようなことを述べていますね。31節、読める方は読んでみましょう。前にもありますが。
3回、それゆえ人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、二人は一心同体となる。エペソ5章31節。
まあ賛否両論ありますけど、人はというのはここはアダムですね。
神が一番最初に人間を作られた物語の人、アダム。
まあ男性は、書いてみるかもしれません。
その男性は父と母を離れ、妻と結ばれて、いわゆる夫婦は一心同体となる。
そこの中にはですね、いわゆる性愛も含まれているわけであります。
そして、今日朗読した5章の3節から6節にある禁止事項はすべてその、いわゆる性愛に関した教えなんです、言葉なんです。
つまりパウロは、そして聖書は、神様が定めた結婚の範囲を超えた性愛の関係、逸脱した行為を禁止しているということなんですね。
5章3節、その根拠として、ここ前にももう一度戻りますが、
聖徒にふさわしく、清いという字に聖徒の徒ですね、聖徒にふさわしく歩むべきであるからだと述べています。
この聖徒という言葉は、英語ではSaint、あるいはHoly PeopleとNIBで訳されています。
まさに聖なる民、エピソードの手紙の最初から言われている神に選ばれた、そのような神の新しい民、聖なる民、清められた民を指し、
エピソードをはじめとする理法人クリスチャン、私たちもそこに含まれているわけです。
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その聖なる民にふさわしく、特にここではその性的な逸脱行為から離れなさいと教えています。
ここにいる方々はおそらく大丈夫と思いますが、キリスト教の価値観ということで、しっかり学んでほしいので、そして聖書が教えているので、この機会に明確に語るわけです。
この聖徒にふさわしく歩むという言葉はもう一つですね。これまでパウロがふさわしいと言葉で教えてきたように、私たちが良い行いに歩むべく根拠や動機となるわけですね。
聖徒にふさわしく自分は生きようという根拠や私たちの動機になるわけです。その中にこの性愛の文言も今語られているわけですね。
ここでパウロはこれらの罪を前の御言葉にも掲げてありますが、むさぼりという言葉と関連付けて語っているんですね。むさぼり。
どういうことか。何度も言いますが、結婚は神が創造した清く良いものです。ですからそこのいわゆる夫婦の肉体関係も神の創造の祝福として良いものです。
だから私たちはいわゆる、あえて言いますが、性愛というものをタブー視する必要はないんですね。神が創造された良いものとして感謝して受けるべき他のものと同じものなのです。
ただ大事なことは、タブーではないのですが、むさぼりと結び付けられているその理由は、むさぼりというのは自分の欲を満たすことしか考えていないという点なんですね。
つまりこれは相手のある問題ですが、その相手を自分の欲を満たす対象としか考えていない。それが間違いだ、罪だということです。
そしてそのような性愛を売り物にしたメディアをはじめとする商売がやはり日本はおるか世界中で広がっていますけれども、ネットの時代であればなおさらですけれども、それこそ消費文化の典型例であるわけである。
まさにむさぼりを助長する、むさぼりゆえになり立つ消費文化であるわけです。
そして実はむさぼりをパウロは偶像礼拝、特に性愛との関係で偶像礼拝だと断言します。なぜか、むさぼりというのは先ほども言いましたが、自分の欲望を満たすことしか考えていません。
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それはどういうことか、食べ物もそうですしその性愛も神様からの賜物だとして感謝して受け入れることと正反対の態度、そうではなくて与えてくださった神様を無視してその賜物を乱用する、それが偶像礼拝である。
自分の欲望が神になっているから、与えてくださる神ではなく自分の欲望に赴くままに従いそれが神になっているから偶像礼拝であるとパウロは言うわけです。
そしてまたこのエペソの最初の説教の方で説明したり紹介しましたが、エペソには皆さん覚えていますか、とある有名な神殿がありましたね。
女神とされていたアルテミス、当時の世界の七不思議とされていたファルテノン神殿の7倍の規模の大きさ。
そのような神殿がエペソの街にあって、それは結婚や多産の神と言われていますから、実はそれに伴う神事が性的に非常に乱行したり乱れていた。
あるいはこのアルテミスだけではなく当時の偶像礼拝にはいわゆる神殿勝負のような乱れも公認されていたわけです。神事としてそのような行為が公認されていた。
日本の祭りでもそういうことが今でも残っているわけです。
まさにこの偶像礼拝と性的逸脱が深く結びついている。そのこともあってパウロはこの貪りは偶像礼拝だと断言して避けるよう命じているわけです。
パウロはこれだと私たちクリスチャンが欠別すべくさらに明確な教えを次に述べています。
それが2番目です。
口にすることさえいけません。
このところ前にも掲げてありますが読める方は5章の途中と4章の途中まで読んでみましょう。
私から先に読みましょう。
どんな汚れもまたむさぼりも三杯。
口にすることさえしてはいけません。
またわいせつなことや愚かなおしゃべり下品な冗談もそうです。
ここでパウロは言葉についてしてはいけませんと言っています。
汚れた言葉を口にする罪についてパウロは禁じているわけですね。
実はある学者によればこの背景には当時の晩餐会のような場が設定されていて
そこで男女問わずいわゆるそのような話がなされています。
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今で言えばいわゆる和談とかそれに関する下ネタ
そういう中心とした下品な会話が晩餐会でなされていて
そしてそのような会話や言葉からその後実際な悪しき行為がなされていた
そういう背景があったようです。
そして当時のパウロの時代エペソの取り巻く環境も今の私たちにも共通した問題それは
自由に生きる正直に生きることを良しとした
それゆえにこの今言ってきた倫理や道徳を逸脱した関係を
自由や正直さそれによって大惨することがまかり通っていたわけです。
詳しく言いませんがしばらく前も著名な作家の方宗教家の方が亡くなられましたけど
その方の何かを揶揄する必要はありませんが
その文学の中そういうことをテーマにした文学がもてはやされていることもあるわけですよね。
パウロの時代から今もそれがまかり通っているがパウロはこう断言しています。
前にも掲げてありますね。
5章6節読める方これ一緒に読んでみましょう。
誰にも虚しい言葉で騙されてはいけません。
こういう行いのゆえに神の怒りは不従順の子らに下るのです。
パウロはそれらの自由や正直さが良いという価値観その言葉は虚しい言葉で
それによって私たちは騙されて生徒の道から逸脱する
それは幸いではなくて神の怒りを招くとパウロは言っているわけです。
またある信学者は言葉についてこう言うんですね。
ここに書いてあります。見てください。
私たちの語る言葉は大事である。
なぜならどのような言葉を使うかが私たちがどのようなものになるかを決定するからだ。
言葉は人を形成するのだ。
形状に値する言葉ですね。
教会では月に一回眼徹学外来カフェをやっています。
その創始者である医師である日野浩先生
彼の考えた眼徹学外来の大事な要素は言葉の処方箋なんですね。
聖書をはじめ過去の著名人の有名な格言を先生は処方箋として
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いわゆる面談する方にプレゼントするんです。
例えば人生茨の道、人生茨の道たると宴会
それは伝道者の書から取った言葉です。
人生に苦しいことがんに限らずあるけれども
そんな中でも宴会を見つけなさい。
宴会といってもそれは本当の宴会じゃなくて
ささやかな楽しみ、空を見上げてきれいだとか
がんになっちゃうとうつむいて何も見えなくなっちゃうけれども
空を見上げたらきれいだな、花を見て美しいな
そういうささやかな楽しみを心の宴会として持ちなさいということなんですけれども
何がさておき言葉というのはですね
日野先生が言うにはこのふさわしい言葉がその人の心にヒットすると
その人の価値観や生き方ががんであっても変わるっていうんですね。
それはがん患者さんにかかわらず人生に悩んでいる
すべての人に当てはまることだっておっしゃいます。
繰り返しになりますがこのように言葉は良くも悪くも
私たちを形成するわけです。
ですからパウロはそのいわゆる卑猥な言葉さえ
行為はもちろん口に出してはいけないと命じるわけです。
4章の29節以前学びましたね。前にも示してありますが
これ見てください。パウロこう言っています。
悪い言葉を一切口から出してはいけません。
むしろ必要な時に人の成長に役立つ言葉を語り
聞く人に恵みを与えなさい。
そんなことをパウロは言っています。
そして先ほども言いましたがその延長として
パウロは具体的な売壇や下ネタも禁じます。
なぜならそれらの言葉を通して私たちが
悪い行いの入り口に入ってしまうばかりか
それらの言葉が私たちを形作るからだというわけですね。
そして以前パウロが言葉に関して語った
素晴らしい約束も今しめも思い出しましょう。
エペソ4の24節。前にも掲げました。
読めるかで読んでみましょうか。
真理に基づく義と誠を持って
神に型取り作られた新しい人を切るべきである。
私たちはその神の御言葉の真理に基づく
義と誠を持った間違った言葉による人格形成ではなくて
神に見せられた新しい人に作り変えられていくべきだと
パウロが教えていることを思い出していきましょう。
そして続いて最後の点。
口にすべきは感謝の言葉だということです。
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短い言葉で繰り返しになりますが
前のこの言葉一緒に読んでみましょう。
むしろ口にすべきは感謝の言葉です。
誤章の4節ですね。
パウロは私たちが口にすべき健全な言葉
私たちを生徒にふさわしく育てあげる
ふさわしい言葉それは感謝であると教えています。
この後のエペサの誤章の19、20節で
パウロはこのようなことも言っているんですね。
死と賛美と礼の歌と思って互いに語り
主に向かって心から歌いまた賛美しなさい。
いつでも全てのことについて
私たちの主イエスキリストの名によって
父なる神に感謝しなさい。
ここでも神に感謝しなさいと言っていて
その前に具体的な礼拝について書いているわけです。
ですから私たちがこの礼拝で
自分の言葉を持ってこの口を持って声を持って
神に賛美を捧げる。
神に賛美を捧げ感謝の祈りを捧げることは
この教えに倣う意味のあることなんですね。
そして私たちは日常生活のあらゆる場面で
いつも言っていますが注意深く神に目を注ぎですね
生活のあらゆる場面でイエス様の名によって
父なる神様に感謝の言葉を語ります。
食べ物はありがとうございます。
家族はありがとうございます。
そういう具合に日常生活の中で
神に感謝の言葉を語るわけですね。
また皆さん覚えてますか
エベソビトの手紙の双子の手紙は何ですか。
双子といえば昭和の始めはザ・ピーナッツ
昭和の中頃はリンリンランラン
今は誰か分かりません。
大学生が頭を抱えて
ヘキヘキとしてますけども
双子の手紙はコロサイビトの手紙ですね。
コロサイビトの手紙はコロサイに出されて
そしてエベソビトの手紙もコロサイの人に読んでください
そしてこのエベソやコロサイのアジア地域で
両方の手紙が一緒に読まれた
そういう手紙である。
そこでコーパウルを教えています。
3章16節コロサイ3-16前にありますが読める方
一緒に読んでみましょう。
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに包まわせ
知恵を尽くして互いに教え互いに言いましめ
使徒賛美と礼の歌とにより
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感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
二子の手紙のようにここに出る箇所なんですね
感謝にあふれて神に賛美の歌を歌うということと同時に
ここでは新たにですね
キリストの言葉をあなた方のうちに豊かに包まわせなさい
と言っています。
私たちがイエス様の言葉、聖書の言葉
それを私たちの心の中に豊かに包まわせる
そうパウロは教えますね
私たちはそれによって豊かに養われていくわけですね
そしてこのように礼拝でともに
イエス様の言葉に耳を傾けることも
素晴らしいことであります
そして私たちは神の家族として
その私たちのお互いの会話の中で
神の言葉の喜び
それを分かち合うようにも進められているわけですね
その中で私たちは聖徒として新たに
神の身姿へと形作られていくわけです
そのような言葉に気を使いながら
また神の言葉に根差しながら
キリストの身姿を目指し歩んでいくお互いでありましょう
お祈りします
天の神様皆を賛美いたします
今年が終わるにあたり
また様々なものが解禁されるにあたり
私たちの心も解放されるかもしれません
また地元にはそのような雰囲気が流れるかもしれません
私たちはその中で神のお恵みを喜びつつ
また特に今日学んだ聖的な逸脱
またその言葉から自分を立することができるように
どうか導いてください
あなたが備えたふさわしい言葉
あなたの御言葉のうちに
私たちが歩んでいくことができるように導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
それでは1分ほど主に応えて
それぞれお祈りしましょう
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