2021-06-27 28:56

#61 21/6/27 超時空の祝福

エペソ1:3-6 からの礼拝説教。2021年6月27日録音。神様からの祝福として、私たちが世界の始まる前から選ばれていた、神様の養子とされたとは、どのようなことか3つの点から学びます。
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1章3節から6節お読みします。
私たちの主イエスキリストの父である神が褒めたたえられますように、
神はキリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって、私たちを祝福して下さいました。
すなわち、神は世界のもとへが据えられる前から、この型にあって私たちを選び、
御前に聖なる、傷のないものにしようとされたのです。
神は御心の良しとするところに従って、私たちをイエスキリストによって御自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは神がその愛する型にあって、私たちに与えてくださった恵みの栄光が褒めたたえられるためです。
以上です。
今日はこのところから、超時空の祝福と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
梅雨がまだ明けませんが、天気予報では今日雨だという予報だったんですけれども、
雨も降らずにこのように共に礼拝を守れることを感謝しています。
エペソビトの手紙から学んでいますが、ちょっとこの地図見にくいですけれども、
エペソというのはですね、ここエルサレム拠点としまして地中海がありますが、
このですね、営業界の中にある、現在トルコですね、ここにある昔の小アジアの港湾都市エペソというところに向けられた手紙です。
それで、このエペソという町はですね、先週、前回まで学んでいたコロサイビトの手紙やピレモンへの手紙の宛先の
このコロサイ地域と約150キロ、同じアジア州の町にある境界でした。
そしておそらくコロサイビトの手紙の中で、ナオデキアから回ってくる手紙を読んでくださいと、
パウロが言っているのはおそらくこのエペソビトの手紙であったのではないかと言われています。
そのゆえですね、コロサイビトの手紙の後はエペソビトの手紙を学んでいるわけです。
内容がとても似通っています。
で、その中でですね、今日は2回目、3節から6節、1、2節の挨拶が終わった後ですね、
いよいよ中身に入っていくわけですが、いつも言ってますが、この手紙の冒頭というのはですね、植物の種のようなもので、
これから展開する内容がぎっしり詰まっています。
ですから、3、4回ぐらいこの箇所から説教できるぐらいなんですが、
何度か選んで、大事なところだけ、これからの学びに準備できるべく、いくつかのところを選んで学んでいきます。
03:03
そして今日の3章の冒頭では、パウロはですね、神様を褒めたたえています。
私たちを祝福してくださった神様を褒めたたえています。
実はですね、英語の聖書を見るとわかるんですが、私たちの父である神が褒めたたえられますようにという、褒めたたえるという言葉は、祝福するという言葉です。
英語ではBlessed be a Godと書いてあるんですけど、祝福するという言葉です。
それを褒めたたえると訳しているんですが、祝福するというのはですね、ギリシャ語、聖書の元の言葉ではですね、
エウロゲートスという言葉です。
それは、エウというのはですね、良い。
で、ゲートスはですね、ロゲートスというのはですね、ロゴスと関係あるということで、祝福というのは良いことを言うという意味があるんです。
ですから、相手に祝福する言葉を与えるという意味で、良いことを言う、祝福する、褒めたたえるとなるわけです。
ですから、三節をギリシャ語のニュアンスを合わせて直訳するとこうなるんですね。
英語の聖書なんかではそう訳されているんですけども、私たちの主イエスキリストの父である神が、祝福されますように、
神はキリストにあって天上にある全ての霊的祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。
3回もですね、祝福という言葉が冒頭繰り返されています。
この祝福という言葉、これはですね、先週述べました福音ということの内容である、
恵みと平安と置き換えた言葉とも考えてもいいかもしれません。
この冒頭のパウロの言葉にはですね、本当の祝福を与えてくださる神様に、
私たちはその祝福に応えて、神様の名前を祝福し、褒めたたえますという、
そういう祝福の源の神様に、祝福の言葉をもって応答しているという、そういうニュアンスなんですね。
今日その内容ですね、本当の祝福を与えてくださる神様を褒めたたえて、その祝福に応えますという宣言です。
ちなみにこの福音というのは、ギリシャ語ではユーアンゲリゾーといってですね、
やはり良い、ゲリゾーというのは宣言するという言葉ですけど、ちょっと祝福と関係あるのかなという気もしますけれども、
前置きが長くなりましたけれども、今日はその祝福、時空を超えた神様からの祝福ということを、
3つの点から学んでいきます。
冒頭でもいっぱいあるんですけれども、実はこの1章の3節から6節にはですね、
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キリストにあってin Christという言葉、それに関係する言葉が4回出てきますので、
イエス様によって救われているから、そういう根拠が前提にあること、
今日それ触れませんけれども、イエス様の救いが前提である、
イエス様の救いによって祝福されるということを覚えておいてください。
それではですね、第1番目、天上の霊的祝福ということを見ましょう。
ちょっともう一度皆さん、1章3節冒頭、読める方は小さい声で良いですので、読んでみましょうか。
前を見て読める方読みましょう。
私たちの主イエスキリストの父である神がお目称えられますように。
神はキリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました。
最初はですね、天上にあるすべての霊的祝福という言葉を少し詳しくもらいます。
天上の霊的祝福、あまりイメージできにくいですよね。
私もパウロのエピソード1章の前半を読んでいて、あまりよくわからなかったんです。
詳しく読んでよくわかってきたんですけども、
まずですね、天上の祝福と霊的祝福という2種類の言い方になっているんですね。
だからまず天上のという言葉を見ます。
これ天上のというのはですね、ギリシャ語ではエポ・ウラノイス。
エポというのはですね、恩という、上のという意味の窃盗語で、
ウラノイスのウラノスというのは天です。天国はウラノス。
ウラノスに天国があるって覚えててくださいね。
ウラノスが天国。だから天上のエポ・ウラノイスという言葉。
これはですね、珍しい言葉で、エピソード1の手紙で5回、しかもパウロしか使ってない言葉。
パウロしか使ってないことじゃないですけども、
エピソード1の手紙の中で5回作られた大事な言葉ですが、
この言葉にはですね、目に見えない天の領域、霊的な領域という意味があるんですね。
実はその天の領域で、地上の領域があって、天の領域があって、そこに神の霊と悪霊が蠢いていて、
パウロはエピソード2章で、悪しき霊が救われる前のエピソードの違法人に対して悪しき霊が働いて、
その結果エピソードの兄弟姉妹が救われる前は、肉と欲の赴くままに生きていたと言っているんです。
悪しきものが天上、霊的な世界で未信者を惑わしているという、そういう言い方をしていました。
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でもパウロはそれで終わるのではなくて、2章の4節6節でこういう祝福を述べているんですね。
しかし哀れに豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪かの中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし、
ここから読んでみましょう。
キリストイエスにおいて共によみがえらせ、共に天のところに座らせて下さいました。
この天のところがいわゆるエポウラノイスです。
肉と欲の赴くままに、悪しきものに支配されていた私たちを、
神様はイエス様のゆえに生かして、よみがえらすだけじゃなくて、
天の溝にイエス様と一緒に座らせてくださった、
そういう天の祝福を与えてくださったと言われているんですね。
後々詳しく見てきますけれども、
この鍵は私たちは今地上で来ている間、
悪しきものに惑わされてしまうかもしれませんし、
そういう誘惑に誘惑されることがあるかもしれませんが、
そのような中にあっても既に勝利が与えられているということです。
その悪しきものがあいなくするさらに上に、
既にイエス様とともに王様と一緒に座っているから大丈夫だよと。
この地上にいるけれども、あなたは神の永遠とつながっていて、
既に天のところでイエス様とともに王様に座っていて勝利しているんですよと、
そういう約束があるんですね。
それが天上の祝福に預かっているということです。
次に天上の祝福の次、
天にあるすべての霊的祝福の霊的祝福とはどういうことかというと、
それは精霊によってもたらされる祝福だというのです。
これまた後で詳しく出てきますけど、簡単に言うとこういうことです。
私たちが天国のこととか、神様を知ること、イエス様の救いを知ること、
それを若事として知り、また日々の生活の中で体験できるのはなぜか、
それは精霊が働いてくださるからです。
見えない、分からない、でも皆さんがイエス様の救いを信じている、
祈りが応えられる、神様を求める、それは全部精霊の働きです。
そして当然、自分もイエス様と一緒に天国に入ることができるんだなと希望を持っている、
それも精霊が働いている証拠です。
この精霊によって体験できる祝福をパウルは、
12:04
エヴェソビトの手紙の中でこれからさらに詳しく教えていきますので、
共に学んでいきましょう。
まず第一番目は、天上の霊的祝福、天の祝福、霊的な祝福ということを見ました。
二番目、聖火と英火への選び、キリストの身姿へなるべく選びということです。
1章の4節読める方、これちょっと読んでみましょうか。
すなわち、神は世界のもとへが据えられる前から、この方にあって私たちを選び、
見前に聖なる、傷のないものにしようとされたのです。
パウルは神様の霊的祝福の内容を多面的に語るのですけれども、
神は私たちを天にある全ての霊的祝福で祝福してくださいました。
すなわち、その内容の一つ目が、
世界のもとへが始まる前から私たちをイエス様にあって選んでくださったということです。
実は、神に選ばれている先民思想ということを、
私たちに注意しなければいけないのは、大事なことは、
自分が選ばれているということに集中することです。
よく私、学生の方に福音を伝える、いわゆる学生伝道を携わっていると、
クリスチャンじゃない方が、選ばれない人ってどうなるんですか?
救われない人ってどうなるんですか?
そういうことも歴史上、いろんな議論が進学的にされていましたが、
パウロや聖書のフォーカスというか価値観は、
選ばれない人じゃなくても既に選ばれちゃっている人、
皆さん救われているその人に対するメッセージなんです。
だから選ばれない人を気にしないで、
クリスチャンである私たち皆さんは、
私は選んでもらったんだ、
それを祝福として受け取っていただきたいんですね。
なぜかというのは、その選びの思想というのは、
苦しんでいるクリスチャンを励ます意味があったからです。
エペソの兄弟姉妹は、
偶像礼拝、皇帝礼拝の中で少数派の不利益をこむっていましたね。
そういう人はですね、信仰者として励ますという意味で、
あなたは神に選ばれているから大丈夫だというメッセージが
選びには込められているんですね。
だから大事なことはですね、
このようなメッセージを受け取ることなんです。
誘惑や戦いの中にあっても大丈夫ですよ。
試練の中にあっても大丈夫ですよ。
あなたは既に神様に選ばれているんですから、
15:00
あなたや環境の不安定さではなくて、
神様の確かさをよりどころぞしてください。
それが安全保障しています。
今ね、安全安心という言葉が乱発されて話題になってますけど、
本当の安全安心、私たちは神に選ばれているから、
本当の安全安心を保障されていると安らぐことができるんです。
どれくらい安全安心確かかというとですね、
その確かさは世界のもとへが据えられる前から選ばれている、
その言葉で保障されています。
ちょっと難しいんですが、英語でですね、
before the foundation, creation of the world
この世界の土台が据えられる、天地創造の前から
あなたは選ばれているんですよ。
そこでやっぱり言われているのはですね、
神様の選びは移り変わりゆく私たちの状況によらず、
天地万物を創造された永遠の神によりどころがあるということなんですね。
そのことをですね、私たちの不確かさではなく
神の確かさに希望があるということを
旧約聖書の神の民を選んだこの約束の御言葉から知ることもできます。
ちょっとこれ読めるかと読んでみましょうか。
新明紀14章2節
新明紀の7章のところではですね、
あなた方の数が多かったから神は選んだのではなくて、
神が愛して約束に誠実だったからあなたは選ばれたんだと言っているんです。
イスラエルは歴史を見ていくと神に背いてきましたね。
報酬の裁きも受けましたけれども、
それでもイスラエルに帰還して、そしてイエス様が生まれました。
そうやって神の選びの確かさ、
ご自分の宝の民として下さった、
それが私たちの拠り所なんですね。
そしてただ選ばれた選びには目標があるんです。
それは聖なる、傷のないものにしようとされたのです。
イエス様の前、神の前で聖なる傷のないものにしようとした、だから選んだ目的があるわけです。
この目的に注目してください。
それはどういうことか。
それはですね、イエス様と同じ姿になるべく選んでくださったって言うんです。
18:03
聖化と栄化って言いましたけどね。
パウルはその思想をですね、ローマの8の28、29でこのように約束しているんですね。
神はあらかじめ知っている人たちを、
巫女の形と同じ姿にあらかじめ定められたのです。
それは多くの教弟たちの中で巫女イエスキリストが超人になるためです。
ちょっと読んでみましょうか。
神はあらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、
義と認めた人たちにはさらに栄光を与えになりました。
ローマ8の28、29。
私たちが選ばれたのは神の前で聖なる傷のないものとして立つためだ。
それは究極的には私たちがイエス様の同じ姿に変えられ続けていって、
やがて天に行って神の前に出るときにイエス様と同じ罪なきものとされる。
そのためにこそ私たちは選ばれているわけなんですね。
それで何が言えるか。
私たちの人生の目標が一つわかってきます。
この間の金曜日夜8時半、オリンピックの男子陸上100mの代表選手選考会がありましたね。
2人選ばれました。
オリンピックの参加の開催の是非が問われますね。
私も仕事をして車で使ってますけど、
通行止めになったりしてですね、本当にやめてほしいと思うんですね、本音は。
でも出場を目指してゴールを目指している選手のひた向きな姿には感動するわけですね。
このような少なくとも選手のひた向きな姿が、
もしかしたら多くの子供たちにとって良いモデルになるかもしれません。
この間2人の選手がオリンピックの代表に選ばれました。
私たちはですね、どう足掻いてもオリンピックの代表には選ばれないわけですよね。
しかし私たちは神様に選んでいただいているわけです。
そして天国というゴールに向かってひた向きに走っていきます。
そして新しい人生の目標が与えられました。
それは肉の欲の赴くままの生活に背を向けて、
オリンピック選手がですね、勝利のためにひた向きに走るように
私たちはこのイエス様の身姿を目指して前進していく。
オリンピック選手のようになりたいと子供たちが言うならば、
大谷翔平のようになりたいと子供たちが言うならば、
私たちはイエス様のようになりたいです。
そういう新しい目標が与えられたわけなんですね。
実はそのことをパウロはこのエペソーションの中でさらに詳しく語っていきますから、
それも共に学んでいきましょう。
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最後3番目。
養子としての選びですね。
今日の5節を一緒にちょっと読めるかで読んでみましょうか。
神は御心の養子とするところに従って、
私たちをイエス・キリストによって御自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられました。
この御自分の子にしようとという言葉はギリシャ語では一つの言葉で、
養子にする、養子という言葉です。
養子縁組の養子です。
これこそパウロしか使っていない、新約聖書で5回しか出てこない珍しい言葉で、
救いや霊的祝福を表す大事なイメージなんですね。
今ですね、話題になっている夫婦別姓とかですね、
ジェンダーの問題とかはさておいて、
当時は男子が家庭を継いでいく、家族を継いでいくという、
それがローマの時代のしきたりだったんですね。
そういうことですから、
当時は子供がいない、男子がいない人はですね、
養子を迎えました。
皆さん、養子迎えるというと何歳ぐらいの子供を迎えるイメージあります?
僕も何人かクリスチャーの方で養子を迎えた方知ってますが、
みんな赤ちゃんを迎えます。
でも当時は成人男性を養子に迎えました。
よく時代劇なんか見るとそうですよね、戦国武将なんかも。
割と大人になった男性を養子に迎えますけども、なぜそうするか。
それはですね、自分の家の家族を継ぐにふさわしい人間かどうかを見極めて、
それでふさわしいとなった成人の男性を養子にするんですね。
養子にするときに何を継ぐかというと、
家の財産とかお仕事、そしてですね、家の宗教も継がせることもあったそうです。
そうやって資質を見極めて成人になった男性を養子としたのが当時の風習でした。
多くの場合はですね、
家に仕えていた奴隷を養子にした場合があったそうです。
だからこの間まで学んでいたピレモンへの手紙、ピレモンとかですね、
奴隷とお家族的に付き合うということも背景にあると思いますけれども、
そのようなことが養子という言葉の中に込められています。
今話したように、当時はリスクを回避するために、
学者は言うにはですね、リスク回避のために成人男性を養子に迎えました。
しかし、神様の選びの確かさはそれと反していて、
その神の選びの養子縁組の素早さについてですね、
この英語の聖書ではもうちょっと分かりやすく書いているんですね。
24:03
ちょっと読んでみますね。
実はですね、これを日本語風に訳すとこういう訳なんです。
養子に迎えたというのはですね、
同じ一章の語説を訳すところなんですね。
神様はイエス・キリストを通して、
ご自身の喜びと意思に従って、私たちを養子とすべく、
ここです。
あらかじめ運命づけておられました、と言っているんです。
このPredestinedという言葉を使っています。
日本語では、愛をもってあらかじめ定めておられました、と言うんですけれど、
あらかじめ運命づけていた、世界の元への始まる前から。
ここにもですね、たくさん素晴らしい約束が込められているんですけれども、
先ほど言いましたが、パウロの時代は死な定めをして、
資質のあるあるいはどれの中から養子を選んでいました。
でも神様は、私たちが生まれる前から、
既にですね、喜びをもって、この子だと私たちを選んでくださったんです。
生まれる前から、海の者とも山の者とも分かる前からですね、
神様は私たちを、神様の子供として、
相続財産を授けるべく選んでくださった。
嫌々ながらではなくて、喜びをもって、意思をもって、
運命づけてくださったということなんですね。
ここにもですね、私たち自身の不確かさや、
まさにですね、今の時代、先行き不安な時代や世相の不確かさを超越した、
神様の確かさが根拠となっている。
そして、そうやって私たちを神様の実の子として養子としてくださった。
その素晴らしさが、パウロによって語られているわけですね。
実はこの養子とするということはなかなか分からない。
相続財産の素晴らしさは分からないんですけれども、やはりパウロは、
この手紙の中で、神の養子とされて、神の相続財産を受けることの幸いを、
これから私たちに詳しく喜びを持って支難してくれるわけですね。
そのことを共に学んでいきましょう。
そして私たちはその神様の霊的な祝福ことされた喜びを知った時にですね、
その祝福に応えて、神を喜んで褒めたたえるものとされていくわけなんです。
パウロはそのことを5節、6節で書いています。
前にありますけれども、ちょっと見てください。
27:02
神様は御心の良しとするところに従って、私たちをイエス・キリストによって、
御自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられました。
最後の部分、一緒に読みましょう。
それは神がその愛する方にあって、私たちに与えてくださった恵みの栄光が褒めたたえられるためです。
エペソ一の心にお祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
時間と空間、私たちの想像を超えたあなたの祝福、
それをパウロが御言葉としてエペソの人々に私たちに告げてくれました。
私たちは自分の生きる生活習慣やまた思考の束縛のゆえに、
これらの霊的な祝福をなかなか実感したり知ることが難しい、そのようなものであります。
どうぞ、まさに御精霊によって、私たちの心の目を開いて、
あなたが与えてくださったこれらの祝福がどんなに素晴らしいものかを、
これから御言葉を通し、また日々の生活を通して知ることができるように、どうか導いてください。
そして、そのあなたの祝福の幸いを知って、喜びを持ってあなたの祝福に応え、あなたを褒めたたえていく、
そのようなそれぞれであり、お互いであり、教会でありますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど、主に応えてお祈りする時間を持ちましょう。
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