2021-12-12 23:37

#84 2021/12/12 泥酔と聖霊

エペソ-20からの礼拝説教。2021年12月12日録音。感染拡大が収まりかけたと思ったら、オミクロン株の出現でクリスマスや忘年会をどうするかが問われています。今日の箇所では飲酒と宴会の様子が聖霊の満たしと礼拝賛美と比較され、教えられています。それに関連し1.機会を生かす、2.聖霊に満たされる、3.主に向かって歌うの3つの点から学びましょう。

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それでは、読みます。
エペソビトへの手紙、5章15節から20節
ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。
知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。
ですから、愚かにならないで、主の御心が何であるかを悟りなさい。
また、武道主によってはいけません。そこには宝刀があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。
使徒、賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエスキリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
以上です。
今日はこのところから、霊水と精霊と題して御言葉を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
日本の小読みでは、12月はシワスと言いますね。文字通り先生をやっている方もいらっしゃいますけども。
昔は先生はゆったりしていたらしいですね。ゆったりしている先生でさえも走り回るのがシワスで、
車なんかも工事がコロナでなかったせいか、すごい混んでいて、バスや車の運転でも渋滞に待たされたり、
いろんなことがありますし、また役所関係ですとかね、いろんな何か締めのことが12月に集中してバタバタする。
それが12月じゃないかと思って、自聴しながらですね、皆さんと今の時期の気持ちを共有させてもらっています。
何と言っても、新型コロナウイルスに翻弄された1年です。
今、オミクロン株というのが出てきてですね、ついこの間まで、今でも感染者数、東京近郊少なくてですね、
いよいよ、まあ教会で言うのもなんですが、飲み会が解禁かとか言われています。
まさにこれから、一般社会ではクリスマスシーズンや忘年会といって、お酒を飲む宴会のシーズンに入りますけれども、
オミクロン株の対応はどうなのかという、やきもきした状況かもしれません。
そんな中で今日は特に、この聖書のパウロの箇所、飲酒の宴会と、
精霊の満たしを受けた礼拝のコントラストが教えられている、語られている箇所です。
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そこからですね、機会を生かすということと、精霊に満たされるということと、
酒に向かって歌うという3つの点から学んでいきます。
言わずもがな皆さんも、これまで学んできたように、ここは四章の一節から始まった、
種の民としてのふさわしい歩みの続きの中の、この一箇所ですね。
さあ、第一番目。知恵のある者、知恵ある者として、機会を十分に生かしなさい。
それが最初の注目点です。読んでいますね。
ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなた方は細かく注意を払いなさい。
前の聖書箇所、ここから読めるかで読んでみましょう。
知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に生かしなさい。悪い時代だからです。
そして、ですから、愚かにならない弟子の御心が何であるかを悟りなさい。この部分ですね。
パウロはですね、この悪い時代について、別の手紙、後輩の牧師である手元にあてた手紙で、こう書いています。
第二手元三章一節から五節、ちょっと長いんですけども、言い得てみようですから、
ここにあるものと比べながらイメージしてください。
終わりの日には、困難な時代が来ることを承知していなさい。この悪い時代の特徴。
その時に人々は自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、良心に従わず、恩知らずで穢れた者になります。
また、情け知らずで人と和解せず、収賞し、自制できず、素やで、善を好まない者になり、
人を裏切り無功みずで思いやがり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。
こういう人たちを避けなさい。
ここでもありますが、よく私の恩師クワズに亡くなった伊豆田明先生はですね、
2000年前の聖書の言葉が今の時代にぴったり合っている。
全く驚くべきことだと言っていますが、今の時代に寸分違わない指摘にこれは思います。悪い時代。
また別の言い方をすると、悪い時代の特徴、そこに生きている人々の特徴は、
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当然イエス様の救いや、神の裁きなど関係ないという、そういう視点で生きていますね。
基準は、尊徳感情。
自分中心の人が徳をする時代とも言えるかもしれません。
しかしそのような人は、たとえ徳をしているように見えても、パウロの指摘によれば、愚か者だ、ということです。
短絡的な見方では損をするかもしれませんが、神を恐れて、神と人のために生きる人。
このパウロが言うように、神の御心を悟って、今何をすべきかを賢く生きる人。
短絡的には損をするかもしれませんが、そのような人こそ賢い人だと聖書は教えています。
そしてこの愚かな者と比べて、神の民は機会を十分に生かしなさい。
前に示しましたが、機会を十分に、機会という字が間違えましたけどね。
機会、チャンスを十分に生かしなさい。
これは元の言葉では、時をあがないなさいと言います。
悪い時代から時をあがないなさい。
これはコロサイビトの手紙の4章5節、エペソビトの手紙の双子の手紙のコロサイ4-5ではこう言われているんですね。
読める方は前の印のところを読んでみましょう。
外部の人に対して賢明に振る舞い、機会を十分に生かして持ちなさい。
これは教会外の人に対してですから。
機会を捉えてキリストを明かししなさい。
イエス様も人々の中であなた方の光を輝かせなさい。
しばらく前もエペソから見ましたけど、光の子供らしく歩みなさい。
そういうことです。
それは私たちの言動が慈悲にかなったキリストの証となるようにその言動をわきまえる。
あるいはキリストにふさわしい福音的なことを言うことです。
でもそれはこういうことではないんですね。
時間、時と場所をわきまえない。
TPOをわきまえないでマシーン、機械のようにですね。
イエス様信じれば天国救われます。
なんていうのと違うんですね。
よくみなさん携帯最近スマホ頭いいですからね。
なんかいじってると勝手にですね。
SiriとかOK、Googleがですね。
作動して何を言ってるかわかりませんと言いますけど。
そういうような機械的にイエス様信じれば天国行けるって誰かで構わずいうことではないんですね。
ここぞという機械、チャンスを捉えて、
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言葉や行いによってイエス様の代わりを放って、
光の子供としての証、光を灯すということなんです。
ですからその機械を捉えるということにおいて、
どういう言動がイエス様の証になるかということを見極めて行うことにおいて、
支援が求められるわけですね。
2番目、それに続いてパールは言います。
酒に酔わず精霊に満たされなさいと教えています。
神科薬聖書のこれの前の訳ではですね、
これは武道酒に酔ってはいけませんと言うんですけど、
前の神科薬聖書の訳では酒に酔ってはいけませんとなっています。
微妙な話になりますけど、聖書は飲酒そのものは禁じてはいないのです。
飲酒そのものは禁じてはいません。
ただ、クリスチャンによっては、
お酒に対して厳しい基準を持っている人がいます。
あるいは信仰悪なしに関わらず、
お酒のゆえに自分やあるいは家族がひどい目に遭っている人がいます。
そういう人にとってはお酒というのはつまずきになりますから。
あなたがクリスチャンとして酒を飲んでもそういう人につまずきを与えないように配慮しなさい。
ローマの十四章などで言われています。
皆さんよく知っているボーイズ・ビー・アンビシャスという言葉を残したクラーク先生。
彼は自分の国から日本に来るときにブランデーが好きだったんです。
船にいっぱいブランデーを積んでいました。
しかしその旅の途中で、日本では飲酒が非常に大きな問題になっている。
アルコール中毒で体を滅ぼす人や泣きを見ている家族がいっぱいいる。
それを知ってクラーク先生は日本で私が酒を飲んだら
キリストの福音を伝えるのにつまずきになるということで
船から全部ボトル、お酒のボトルを全部船から投げ捨てた。
そういう逸話が残っています。
今SDGsの観点からどうかと言いますけれども
でもそのように彼は信仰のつまずきにならないように
この飲酒を控えたということです。
そういう原則があるものの聖書は飲酒そのものは禁止していない。
そういう微妙なバランスを知っておいてください。
その上でここで本来言っているパウロの指摘は
深酒による弊害。理由は砲塔があるからです。
三聖堂の日本で最も有名な国語辞典
去年度版のところで砲塔を調べたんですね。
こういう意味です。
砲塔とはかっこ
本来行うべきことを怠ってかっことち
深酒や女遊びなどにふけて身を持ち崩すこと
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これが砲塔だ。
その実例としてこの辞書には砲塔息子と書いてあったんです。
これが深酒、泥酔の弊害ということで
パウロはそのような酒に酔ってはいけないと指摘しているんです。
その上でパウロはこの砲塔をもたらす深酒と
精霊の見たちを比較していますね。
エピソディの手紙の中には
精霊とクリスチャンの関係
精霊と教会の関係がいくつか教えられています。
クリスチャンや教会の中に宿る精霊について
こんな教えがありますね。
ちょっと前を見てください。
2章の22節
このキリストにあってあなた方も共に建てられ
見たまによって神の住まいとなるのです。
こういうキリストの、クリスチャンの集まる群れの中に
精霊が宿って
まさに建物を越えてここが神の宮になるという考えです。
3章16節
読める方はちょっと前の見言葉を読んでみましょう。
どうか父がその栄光の豊かさに従い
見たまにより力をもって
あなた方の内なる人を強くしてくださいますように
他の箇所にもありますが
精霊はクリスチャンの中に宿る神の霊として
そしてクリスチャン、私たちを内側から強くしてくださる
力を受けますと
精霊が注がれると力を受けますというように
精霊は私たち一人一人の中に宿って
力を与えるお方ですね。
そのような精霊を内に宿すクリスチャン
またクリスチャンの群れは
それに相応しく歩むようにパウロは進めています。
その上でパウロは
飲酒と精霊の満たしの比較から教えているんですね。
それが最後の点。
酒に向かって心から賛美しなさい。
この5章の19節から20節でパウロは
何回も言いますが
宝刀をもたらす、霊水をもたらす深酒と
精霊の満たしを比較しています。
この精霊に満たされた人とか
また教会は精霊によって
神に賛美の歌を、喜びの歌を捧げますね。
その様子を
お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをする
宴会、そういう様子と比較して
クリスチャンは精霊によって
神によって歌いなさいと
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神に向かって歌いなさいと
教えているわけです。
お酒を飲んだらだいたい
誰かが歌い始めたりするわけですよね。
賑やかに
昔であればネクタイを頭に巻いて
とっくに叩いて歌うとかあるわけですが
旧約聖書の神言の中に
やはりこの深酒や泥酔の
描写がこう書いてありますね。
ちょっと長いんですけど
面白いので弾いてみました。
神言23章29節から35節
災いのある者は誰か
嘆く者は誰か
争いを好む者は誰か
不平を言う者は誰か
ゆえなく傷を受ける者は誰か
血走った目をしている者は誰か
葡萄酒を飲みふける者は誰か
混ぜ合わせた酒の
味見をしに行く者だ
これが
お酒が蛇のように噛みつき
マムシのように刺す
あなたの心はねじれごとをしゃべり
海の真ん中で寝ている人のように
歯柱のてっぺんで寝ている人のようになる
これ最後読めるかで読んでみましょう。
私は殴られたが痛くなかった
私は叩かれたが知らなかった
いつ私は醒めるだろうか
もっと飲みたいものだ
まさにですねこの言動が
泥酔している人の様子をありありと
描いているわけですね
この手紙を受け取ったエペソや
当時のギリシャローマ社会の人々は
皆さん聞いたことあるでしょう
バッカスという酒の神です
そのバッカスを称えるために酒を飲んで
その歌を歌ったりとか
あるいはゼオネセシというですね
やはりギリシャ神話にまつわる酒の神を
称えるために同じように酒を飲んで
歌ったということがあるんですが
パウロはそれと比較して
酒によってそういう偶像のために歌うんではなくて
見た目に満たされて
神に賛美をしなさいと歌っているんです
それがこれですね
主と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い
主に向かって心から賛美し歌いなさい
いつでも全てのことについて
私たちの主イエスキリストの名によって
父である神に感謝しなさい
不平を言う代わりに
酒飲んだら不平が出てきますね
誰らに対する文句が出てくる
その代わりにイエス様の名によって
父に感謝しなさい
酒飲んでですね
ふらふら歩くよりはですね
主に向かって賛美する
18:00
このようにですね
主と賛美と霊の歌というのは
微妙に区別しなくていいんですけれども
当時から教会で歌われていた歌です
ちなみに教養として言いますけど
主というのはギリシャ語でプサルモイス
それはですね
英語のプサームという
四辺のギリシャ語です
文字通り四辺を当時のユダヤ人も
教会も歌っていたんですね
どんな歌か
新学生の頃先生聞いたけど
音階はわからないんです
でも歌っていたそうです
賛美というのはですね
ギリシャ語でヒムノイズ
英語を知っている人
賛美歌のことを英語でヒムと言うんですね
その語源になったヒムノイズ
霊の歌というのは
精霊に導かれて自由に歌う
いずれにせよ区別はどうであれ
当時の教会から歌を歌っていた
当時できた歌とかがあってですね
先週見たこの
5章14節
眠っている人よ起きよ
死者の中から起き上がれ
そうすればキリストがあなたを照らされる
これもギリシャ語で見ると
きれいな韻を踏んでいるんです
そしてこれは当時歌っていた
賛美歌ではないかと言われています
何はともあれ
パウロは精霊に満たされて
礼拝の中で神をたたえて歌いなさい
不平を言う代わりに
神を感謝しなさい
神に感謝しなさいと言っているんですね
しばらく前にですね
都内のある有名繁華街のそばの
有名病院で勤務していた
あるお医者さんから聞いたことがあるんです
あの
隣町停職しないように言いますけど
ある日ですね
よく救急外来で酔っ払いが来るんです
ある50代の立派な男性が
頭に血を流して酔っ払って
泥水して運ばれてきたそうです
詳しく言いませんけど
非常に社会的地位のある方だったようです
でも酔っ払ってきた
夜救急外来で運ばれてきてぬったそうです
そしたらですね
次の日その方の娘さんと奥さんが
彼を引き取りに来たそうです
そして
本人もそうですけど
娘さんも奥さんもですね
本当に申し訳なさそうに
すまなそうにして謝って帰っていった
その様子をそのお医者はですね
哀れで悲惨でしたって
その朝の家族の様子を見て
本当に哀れで悲惨でした
まあ大きなことに至らなくてよかったんですが
飲酒の弊害はその本人はもちろん
家族をはじめ周囲の人々に悪影響を及ぼすわけですね
21:00
一方この神への賛美
これは神への賛美と感謝の言葉は
教会の徳を高めます
特別賛美なんか聞くとですね
私たちの心も神に向かって
引き上げられたりしますね
そしてこの賛美歌を歌うことは
自分にとっても
それを聞く人にとっても
神にある喜びと祝福をもたらす
パウロもそのこともあって教えているわけですね
私たちも精霊満たされてこの時期
このように教会に集っていますけれども
教会においてもまた
一人一人の送られている場所においても
神に向かって賛美の歌を歌いまた
感謝を捧げるものでありたい
そして賢く機会を見極めて
神を明かしするものとされたい
そう思わないでしょうか
最後にまた
エプストビートの手紙の双子の手紙
コロサイ3章の17節の御言葉から
この教えをまとめて読んで終わりしたいと思います
読める方は読んでいましょう
コロサイ3章17節
あなた方のすることは
言葉によると行いによると問わず
すべて主へその名によってなし
主によって死なる神に感謝しなさい
お祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします
あなたは私たちをあなたの民として選び
あなたにあなたを愛しあなたを知り
あなたの栄光をあらわすものとして
選んでくださったことを感謝します
どうぞ今あなたを信じる中で
損をすると思うことがあるかもしれませんが
あなたの導きを信じ
また御精霊の満たしを受け
あなたに賛美とまた感謝を捧げることができるように
そしてどうぞ暗闇の中で
あなたの光を灯すものとなることができるように
導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主
主イエス様のお名前によってお祈りします
アーメン
どうぞ皆さんそれぞれ神様に応答して
黙祷の時間を持ちましょう
23:37

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