1. のらじお
  2. Let is goと魂の傷
2023-06-07 31:28

Let is goと魂の傷

「どうせ死ぬ三人」のエピソードについてはhttps://t.co/oAaB0EMSi5https://t.co/oAaB0EMSi5。
許せないと許す意味について
かえ
のらじお
muro
こんにちは、のらじおのMuroです。
かえ
こんにちは、かえです。
muro
今日はね、あれですね。
かえ
なんだっけ?
秒速5センチメートル回に引き続き、
muro
どうせ死ぬ3人の方で、
かえ
僕がしくじってるのをこっちで言い訳する回。
あー、いいですね。
muro
かえちゃん聞きました?
かえ
はい、聞きました。面白かった。
muro
ひぐちさんのゲスト回?
かえ
4人目のやつ聞きました。
許す許さないの話?
muro
あれ聞いてみてかえちゃんどうでした?
かえ
うーんと、あれ聞いてみて、
私は結構、むろこしさんと同じ感覚ですって感じでした。
あの、許せないということに、
許さないということに、
意味とか機能みたいなものがあると、
muro
思っている部分があるみたいな感じかな、私。
かえ
どうぞ、言い訳どうぞ。
muro
あの話ね、やっぱね、
勘でなかったんじゃないかなと思って、
ひぐちさんが言ってることに対して僕は。
かえ
あー、でもそれはあるかも。
許すっていう言葉が結構多議的だから、
そこですれ違った可能性が高いなって思った。
muro
つまり、ひぐちさんがずっと言ってたのって、
あの、ひぐちさんの個人的態度として、
かえ
レッドイットゴーしたいって言ってるんだと思ったんですよ。
muro
何か起きた時に、
自分の感情をさざ波立てるようなことなく、
その現象みたいなものをレッドイットゴーする、
かえ
みたいな態度を今年は取りたいっていう話を彼はしてあったなと思ってて。
muro
で、僕がその時に本当は言いたかったのは、
かえ
その、本当は言うべきだったのは、
muro
レッドイットゴーしてはいけない局面ってあるよねっていう話をしたくて。
で、なぜレッドイットゴーしてはいけないのかっていうと、
かえ
その起きた現象が、
なんていうかな、
unforgivableだからだっていう。
どういうことですか。
forgiveって許すっていう、
muro
なんていうかな、罪とかを、
かえ
宗教上の罪とかを許すみたいな時に使う。
muro
で、許せることっていうのはforgivableだと思うんですけど、
かえ
これが許せないっていうのはunforgivableだと思うんですよね。
樋口さんの考えとMuroの考えの不調和
muro
だから、その現象がunforgivableだから、
かえ
レッドイットゴーしてはいけない局面ってこの世にあるよねっていう話を僕はしたかった。
分かる分かる。
だから、基本的態度として何もかもレッドイットゴーしたいっていうのはいいんだが、
muro
レッドイットゴーしてはいけないことはあるよねっていう話をしたかったなって。
そこで噛んでなかったよねっていう。
かえ
それがレッドイットゴーも、
muro
forgiveも全部許すっていう言葉で表現してたから、
かえ
うまく噛まなかったなって思ったって感じ。
muro
で、僕の話を聞いて、
かえ
僕は可烈だなって思う人いたと思うんだよね。
muro
で、僕がどの立場でそれ言っとんって思う人いると思うんだけど、
それを思うのは、僕が許すっていうのをallowとかpermitの意味で使ってると思ってる人たちなんじゃないかなと思って。
かえ
許可するみたいな。
あー、なるほどね。
muro
なんであなたが許可する側なんですかっていう話で、
僕は許可する許可しないじゃない。
かえ
それは思ってなかった。それは想定してませんでした、私。
permitしてるわけじゃない、allowしてるわけじゃなくて、
forgiveableでないものはありますよねっていう話をして。
で、それをなぜ主語が僕、僕は許さないっていう話になるかっていうと、
なんていうかな、
それがforgiveableであるかunforgiveableであるかっていうのが、
muro
誰によってっていう話だと思うんだよね。
by whomっていう話だと思ってて、
かえ
で、そのby whomの主語っていうのが、
muro
僕以外のものになるっていうのは、
僕はそれは不誠実な態度だと僕は思ったわけ。
つまり、それがunforgivableなのは、
社会的正義とか、規範とかに対して、
かえ
対してっていうか、によってunforgivableなんだが、
muro
僕が個人として、
あなたがやってることは社会的にunforgivableだよねっていうのは、
かえ
その社会のせいにしてることなんだ。
muro
で、その社会における通念とか規範みたいなのは、
それはそれで常に批判にさらされるべきものだから、
私は社会的規範をこのように考えていますよっていう、
かえ
立場としての僕みたいなものが、
僕が許さないという言い方をせざるを得ないんだっていう話だなって思った。
樋口さんの考え方について
かえ
です。
うん、そう、うんうん、わかる。
えっと、樋口さんの言ってたことは、
思い出しながら喋るとちょっと違うとこあるかもしれないですけど、
何かこう、自分の許せないことが起こった、
例えば樋口さんの具体例としてあげたのは、
あの、いくつかと思うんですけど、
何かそれが起こった時に、
でもそれはこの人が悪いではなく、
全体の人類の歪みがここに出たみたいな言い方をしてたと思うんですよね。
だから、いろいろな結果で、
それが衝撃、音と音とかがぶつかって、
ここがピュって、なんかこう、上がるみたいにこの人に現れたのであって、
この人、個人の悪意ではないので許す、みたいな言い方をしてたかと思うんですけど、
その話もわかる。
言ってることはよくわかるし、そういうことはあると思うんですよね。
というふうに私は、それを意味を取ったんですけど、
自己の認知と意志の問題
かえ
でも、その人間いっぱいの中の構成員の一人としての、
私がこれを許さないという態度をすることにも、
することに、また全体としての意味がある、
muro
というような感じでは、西村樋口さんの話を受けたんですけど、
かえ
そうです。再生産されるからね。そういうもんだという態度。
で、この全体の歪みとして現れた、自分の許せないものを許すか許さないかっていうのは、
私の認知の問題だと思うんですよ。
そのように理解して、この人を許すと、私が決める、みたいなことだと思うんですけど、
それは、私にとっては意味があると思うんですね。
心が平穏に保たれたりとか、この相手に対して攻撃したり、
心を乱されたりしなくて済む、みたいな、
お互いにとって良かったりっていうのは、私の認知によって可能だと思うんですけど、
でもそれって、それでおしまい、みたいな感じに思うんですよ、私は。
私はそれでいい、今日の今の私はそれでいいかもしれない、みたいな。
それは認知によって達成できるけど、
これにNOということが、その後のまた全体のことに何か意味を発揮してくると思うから、
そこで済ませていいのかな、っていう感想でした、私は。
で、そういうふうに室子さんの話を捉えて、
私もそれにNOと言ったりする、NOと言って許さない態度っていうのは、
するなって思った、って感じ。
そうなんだよね。
世の中のことをほとんどは、なんていうか、
俺はいいけど矢沢はなんて言うかな、だと思うんだよね。
大抵のことはそうだと思うんだよな。
muro
その海なら海でもいいけど、
かえ
俺は海だと思うけど、矢沢はなんて言うかな、だと思うんだよね。
だから、その全体として考えた時に、
それを海だとして、その海を出た海に対して、
また全体で反応して、それに対処したり、予防したりするっていうことは、
許すという考え方として、理想的だと思うんですけど、
個人、私個人としては、
それが海だったとしても、
海が出てるよって言っていかないと。
そうですよね。
誰かが石鹸球の役とかをしないといけないわけだから。
どっちだろう、白血球かな。
石鹸球とか白血球みたいな役割を果たさないといけないから、
海が出てりゃいいって問題じゃないからね。
と思いました。
だね。
だから、そうですね、社会は個人の集まりなんだけれども、
そこで、個人の素直な感情を消す必要はないかなと思いますね。
もう没、個人になるっていうか。
私は私を生きることしかできないから、
結局みたいな感じかな。
わかるわかる。
そこで結構僕、魂の自由意志の問題に行き着くと思ってるんだよね。
muro
まあ、結構いろいろな研究が、僕たちの自由意志の存在みたいに対して、
かなり怪異的な結果を出してる。
僕たちの生態的メカニズムのバグみたいなものから、
かえ
意識みたいなものが生まれてる可能性が結構高いみたいで。
muro
と考えた時に、いろいろ自由意志みたいなものを支持しない言説ってのがある。
かえ
それしかも昔からあるんだけれども。
でも、なんていうかな、せっかく生きてるんだからさ、みたいな話があるんですね。
うん、そうですね。
muro
ここで自由意志があると考え、自由意志を出すみたいなことをしないと、
かえ
人間には自由意志がないのであるから、これが世界のメカニズムとして、
こういうもんだよ、みたいなことをやり続けて、
まあ、なんていうかな、その人生で本当に良いのあなたは、みたいな気持ちはある。
もう、どうやったって主観でしか世界を捉えられないし、
私は私を認識できないから、そこに別に疑う必要はないかな、みたいな。
その全生体的な機能の中のバグとしての自我っていうか自由意志っていうよりは、
その生体機能ごとはもう私でいいじゃん、みたいな感じっていうか。
muro
そう、なんか、わかる。
えっと、客観的な、システム上の問題としては自我みたいなバグなんだが、
それがバグがあるかどうかっていうのは、
かえ
その主観的な主体である私たちにとってあまり関係がないっていうことだなと思っていて、
muro
この意志っていうのがバグ的に勘違いによって生まれているものであっても、
僕たちはそれを意思として扱うしかないじゃんっていう話だと思うんですよ。
で、それをね、メタ認知して世界のシステム的に捉えるのはまあいいんだけど、
それは世界のメカニズムを分析するときにその態度を取るのは別に大事だと思うし、
もしくは自分の感情がうまく処しないときに、
かえ
感情の処し方としてそのような視点を持つっていうのは別に好きにしたらいいと思うんだけど、
それを一般的なスコープにする必要は必ずしもないし、
一般的なスコープにしたからといって特に何も問題は解決しないっていうことだと思う。
幸福の追求
muro
じゃあみんなの時間を繋いで、統合することはできないから、やりたくもないし。
かえ
みんながそのメタ認知して、その世界に対してその距離感を取るみたいなことをしても、
その世の中回っていかないから、
世の中となんていうかな、
muro
やっぱ僕がちょっと前にそのツイッターでリツイートしたと思うけど、
かえ
ジジェクの翻訳動画あるじゃん。
あれでジジェクが、人間は幸福なんて追求してないっていう話をしてるじゃん。
muro
ベンサムの最大の間違いっていうのは、
最大多数の最大幸福なんだと。
人間は幸福を追求するんだというところが間違っていて、
かえ
人間というのは基本的に苦しむ準備ができている生き物なんだと。
muro
何かを成し遂げようと思った時に、幸福になろうと思ってる奴はいないと。
かえ
苦しもうとしてるじゃねえかと。
いう話をしていて、そうだなと思ったんだよね。
muro
我々が幸福を求めているみたいな方がある意味で間違い。
なんていうかな、別に求めたっていいんだけど、
日常的な幸福感みたいなのを、
かえ
脱却しろみたいな話をしてるわけではなくて、
muro
生きていくっていうのは根本的には苦しいことだっていう、
お釈迦様の洞察は正しいと思うんだよね。
かえ
彼は下達してしまえばいいじゃんみたいな話を多分してるんだと思うんだけど、
僕がここで言ってるのは、一切快苦なのであるから、苦の中で生きればいいじゃんっていう話をしてる。
どうせそれ以外の方法がないんだからっていう。
し、その人の固有の苦しみの中に、その人の固有の魂みたいなのがあって、
その魂の美しさによるその人の魅力みたいなのはあるよねって思ってる。
muro
だから樋口さんの事例で言うと、樋口さんが、
そのように世界をレッドイットゴーしたい、みたいな言ってることがすでに魂の苦痛の傷跡を見るから美しいなと思うんだけど。
かえ
なるほど。
今実況的にライブで見てる。
muro
削れとるやんけみたいなやつだから美しいから、
かえ
そういうことを言うのは全然面白いと思うんだけど、
それが一般化してみんながしなきゃいけない、この一般法則かって言ったら別にそうは思わないっていう話。
muro
苦しめばいいやんけって言ったけど、世の中は許容すべきでない苦しみもいっぱいあるんで、
かえ
その許容すべきでない苦しみに立ち向かうみたいなことを、
やったらいいんじゃないかなって思う。
muro
僕が自分自身に対して使ってる苦しみって、
非常に微温的なものっていうか、バカバカしいものだから、
遺伝子検査でモテるって出てるのに実感としてモテてないとか苦しみを感じてるから、
かえ
そんなのほっとけばいいやんって話だから、そんなことで苦しんだったら苦しんどけばいいやんみたいな話なので、
人を何にも殺傷しなきゃいけないと思うような苦しみがあるんだったら、そのような苦しみに再生存されない方がいいよねって思う。
だから、なんていうか、多様性がサバンナだっていうのもそういうことかなって解釈してるんですけど、
みんなが自分自身を精一杯やるみたいなのの一つの方法として許さないみたいなものもあるみたいなイメージかな。
そうなんだよね。それが、そうだよね。それがやっぱりサバンナの意味っていうか、
muro
究極的で公平な審判みたいなのがいないっていう話だと思うんだよね。
かえ
最終的に誰かを公平にさばいてくれる人がいないので、みんなが精一杯やるしかない。
で、そもそも違うので、その違いみたいなものをその乗り越えるためには精一杯やらないといけない。
それは公平なジャッジとかはないので、ある意味で生存競争になるっていう話だと思う。
で、そこでだんだんこの均衡が生まれるというか、
脱響点が見つかるみたいな、ここで均衡するみたいな状態になるかなっていう。
誰かが一生懸命にやらないとその均衡点がずれると。 そうですね、そうですね。
まあ、均衡点がずれるってことは、どこかに負荷がかかりすぎたりとか、何かがギッ…こう…
まあバランスが悪くなるかなっていうイメージですね。
muro
でもとはいえ、その… こんなね、
僕たちみたいな抗戦的な、抗戦的な種族ばっかりじゃないからね。 そうなんだよな。私たちはどうやら抗戦的な種族らしいですからね。
かえ
あの最近知りましたけど、戦ってるつもりあんまりなかったんだけどな、みたいな。
ね。 その人々ばっかりじゃないから、その本当は戦いたくても戦えない人もいるし、戦うことは諦めちゃう人もいると思うんだよね。
そうすると、その、抗戦的である人たちみたいなのは、ある意味でその人たちのためにも戦うような責務があると思うんだよね。 そうですね。うんうんうん。うん、うん、うん、そう、うん、わかるわかるわかる、めっちゃ。
これが義強の心だと思うんだよね。 うんうんうん。
muro
ただ、なんていうかな、その人たちのために戦わなきゃいけない一方で、その人たちのために戦ってるんだ、みたいなのは大義にはならないと思ってるんだよね。
かえ
うんうんうんうん。 常に一人称単数で戦うしかないから。私が戦う、私のために、まあそれが誰かの役に立つかは知らんけどね、みたいな。
そうそうそうそう。 なので常にこう、
muro
この、なんていうかな、みんなのために戦っているつもりでも、それがある意味で勘違いであり、
どこかで後ろから刺されたりとか、処刑されてしまったりとかすることはあるんだけど、 だからといって戦わない理由にはならないよね。
かえ
それ勘違いだったかもしれないし、それによって制裁を受けるかもしれないんだけど、 っていう、
一人称単数として戦わなければならない、 みたいな感じだなって思って。
頑張って均衡点、 探して、
いったら、 多分ね、均衡はしないんですよね。
そうだよ。 ダイナミクスの中で生きていくんだよね。
ずっと変化し続けて、 行く。
均衡しないって分かってても、もうやるしかない、 みたいな感じ。
もう、やむを得やし、やっていくしかない。
本当にその、全員の幸福みたいなことを本当にするんだったら、 それはやっぱりマトリックスの世界だと思う。
Let it goについて
かえ
そうだよね。しょうがないんだよ。 しょうがないな、と思う。
しょうがないな、と思う。
風の谷のナウシカの7巻の最後のところで、 ナウシカも墓所の主に言ってたじゃないですか。
muro
私たちは血を吐きつつ飛ぶ鳥だって。 そういうことだと思うんですよね。
かえ
そうね。あれ本当にそういう話ですよね。
muro
あいでそういう話だと思う。
かえ
未来のためにとってある卵を全部潰して、 廃学されると分かっていても、
私たちは不快で生きるしかないっていう話ですよね。
そうね。しょうがないもんね。
あれはナウシカが私を生きた結果、あれっていう感じですよね。
それが勝つみたいなのがすごいよね。
muro
正常な世界で生きるはずだった調律された人間みたいなのが、 勝てねえんだみたいなのが。
かえ
そうね、あれは。
明らかに勝てそうだもんね。 墓所もあるし、墓盛りもいるわけだし。
muro
ナウシカが墓盛りをどうにか。
ナウシカが墓盛りをやり込めるじゃん。
かえ
どういうことってなるよね。お前仕事しろよっていう話だよね。
あれすごい話ですね。でもそうだなって思う。
魂の傷について
muro
ぜひ皆さんナウシカ7巻を買ってね、読んでみてください。
スタジオジオリはぜひスポンサーについてください。
かえ
のラジオ。
muro
でかいスポンサーね。
でも計画が大変だって。
そうなんだ。
ゴシップしに帰ってた。
君はどう生きるか。
宮崎駿の次のアニメ今作ってるじゃん。
かえ
あ、そうなんだ。今また作ってるんだ、新しいの。
muro
お詫びじゃなかったんだ。
宮崎駿にね、聞かれたくないよね。君はどう生きるかとかね。
かえ
聞かれたくないですね。黙るしかないもん。
muro
ごめんなさいって感じ。
かえ
できました?言い訳しっかり。
muro
まあまあできたんじゃないかな。
かえ
よかった。
muro
伝わったか。
サブチャンネル。
伝わってないかもしれないけどまあまあ伝わった。
伝わってないかもしれないけどまあまあ言ったんで。
かえ
よかったです。
muro
しょうがない。これでもまた怒られたらさらに死闘を繰り返す。
私をやるしかないですね。
終わったもんです。
それではまたお会いしましょう。ごきげんよう。
31:28

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