自他の区別の曖昧さ
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月14日、埼玉県民の日ではなかったでしたっけね。
7時28分です。ようやく復活、というかこれ、
昨日の夜のポッドキャストで申し上げましたが、
多分この時間、もう多分これは夢ではない、確実だということを今撮っていて、
確信したんですけど、なぜかでもそれは上がっていなかったので、
夜にそれのリメイク版を上げたつもりだったんですけどね。
今日ですね、いろんなことが最近起きて、
良いこともあれば悪いこともあり、それは全くどっちもイリュージョンで、
多分良くも悪くもないことがずっと起こっているはずなんですけど、
俗に言う良いこともあれば悪いこともあってですね、
割といろんなことが起きている11月なんですが、
冷え込みが過剰に厳しくなり、つい先日までは熱中症になるんじゃないか、
みたいなことを言ってたのに、突然4度とかに立って二宮町ね、
いや、これは良いことでは僕にはないですね。
でもまあ、冬もね、冬で良いところもありますので、
一つ、皆さんは私みたいに優秀なことは言ってられない人も多いと思うんですけれども、
夜の真っ暗い中、通勤しなきゃならないとかね、
本当にお疲れ様ですが、
まあ、原則イリュージョンなんでね、本当に、
暑い寒いとかも、イリュージョンだと言われても困るケースもあると思いますね。
熱中症とかは幻想でかかるわけじゃないですからね。
ですが、原則イリュージョンみたいなところも多分にありますので、
なるべくニュートラルは無理にしても、
ネガティブなものを作り出さないというのは良いと思います。
どういうことについてでもですね。
今日はちょっとそういう話もしようと思っておりますが、
断続的に11月19日のお知らせはさせておいてください。
フラザ野圭祐さんとのタスクシュートをテーマとした対談をします。
私が普段、タスクシュートをクラウドライトというツールを主に使っていますが、
それで何をしているかも若干お話をしたいと。
佐々木が今どうであるかを興味持ってくださるという方がいらっしゃるので、
ここも全部セキュララにいっても大したことは何もないんだけど、
出しますんで、まんま出しますからね。
それによって何が得られるかっていうのはちょっと、
私にもこれだっていうものが伝えられないんですけれども、
一番私が少なくともタスクシュート協会の理事の中ではトレーナーも含めて、
僕の使い方が一番ラディカルだということになってますんで、
ラディカルなのかもしれません。
認識の改めに対する抵抗
ラディカルだからといって難しくはなくて多分一番簡単です。
僕が一番項目数が今少ないだろうと思ってます。
任天堂レーナーさん全てを合わせて僕が一番少ないかどうかまでは調べてみたことがありませんので、
分かりませんけれども、3人の中では間違いなく僕が一番少ない。
活動量が少ないという可能性もなくはありませんけれども、
要するにこいつは仕事をサボってるだけだという話もなくはありませんけどね、
でもこれで十分やっていけるっていう点についてはですね、
他お二方と何ら変わりはないと思っております。
ジェイマツザキさんとハイセイツさんと比較しても、
私の人生はこれで十分回るっていうのは多分遜色ないと思いますので、
そんなタスクシュートユーザーの一例をお見せすることも19日にやろうと思います。
今日はですね、ここのところタスクシュートユーザー、
ZBI嘘ファクトリーという蔵野健三さんとのコミュニティの中で、
罪悪感というのがしきりとテーマに上がってくるなと思っておりまして、
罪悪感とイコールではないんですけど、
限りなくこの文脈ではイコールに近い危機感というものについてですね、
ちょっとお話ししたいと思ったんですね。
要は危機感を持つのはやめようねってことに結論はなるんですけど、
なぜかと言いますとですね、
まず我々は良くも悪くもですね、
良い面ももちろんあるんだけど、
良くも悪くも自他の区別がつきにくい存在なんですよ。
だから僕は生物ってそもそも自他の区別なんてつけずに生きてると思うんですね、
一般的には。
だから人間だけ急に、
私は私、あなたはあなたってやるのがなかなか難しいのは当然でして、
ノーはそこを特に近代社会なのかな、
個人主義に合わせて頑張ってきたんですよ。
肉体を持ってここが個人の境界だということにして、
でもそれだけではないですよね。
例えば所有権というのは、
実はナポレオンの時代に結構すごく発達したんですけど、
彼は近代化ということに関してはずば抜けた人だったので、
所有権というのをおそらくナポレオン法典で、
あれ最初にはっきり明記したのは、
アメリカの法律と並ぶより早いんじゃなかったっけね、
ちょっと習った気がするがほぼ忘れました。
ナポレオン法典ってやつですね。
これがあるから、
身体を持って区切ってるわけではない気がするんですけどね。
例えば家とか明らかにそういうものと関係があるじゃないですか。
私ん家は私ん家ってやつですね。
しかもそれは所有物というにはちょっとデカいですよね。
私も今家の中にいますし、
所有権の概念に入るんだと思うんだけど。
だから身体で区切るって言っても、
必ずしもそんなに明快な境界線があるとも思えないわけですよ。
どっちにしても自他の区別というのは、
普段はそんなに意識の表面に置いてるわけではなくて、
ただあることある。人間であれば。
ただし子供なんかがそうですけど、
かなり曖昧な人もいっぱいいる。
我々はですね、これが、
いざとなると結構曖昧になっているというところをですね、
意識してない気がするんですよね。
例えば誤解されるというものをひどく嫌うじゃないですか、人は。
で、それって私はですね、
誤解するのは他人の自由と権利だろうってよく思うんですよ、実は。
これは自分に言われると何となく釈然としないものがあるわけですね。
認識を改めろという要求って、
ものすごく押し付けがましい感じがするんですよ。
外からもらうとね。
何と言っても、こう認識っていうのは、
こういう認識を持つぞっていうふうに改めて大宣言をしてるわけではないし、
認識を心の中で持ってるだけであれば、
特に誰に迷惑をかけるわけでもないので、
そしてどうせ認識なんて間違ってるものはいっぱいあるに決まっていますから、
時代とともに正しい認識ってそもそも変わりますしね。
あの超有名なやつで言うとコペルニクスですよね。
あの時代には、地球が回ってるとか言うだけでも、
逮捕されかねない勢いになったわけですよ。
でもそれは事実認識としては正しいわけじゃないですか。
ただこれ、いわゆる学者の良心的な話を除くと、
どっちだって別にほとんどの人の日常生活にさしたる差し障りはないですよね。
地球は動いてないんだと思って言おうと、地球が回ってるんだと思って言おうと、
まあまあ他人に迷惑をかけたりはしないわけです。
で、認識改めろって言うほど、
私は人間がですね、みんながみんな正しい認識を持って生きていけるかというと、
そんなことは多分、混沌在ないだろうなって気がするんですよ。
なのに認識を改めさせたがりますよね。
宗教と認識改め
私たちはこれらのことを知らないわけじゃないと思うんですよ。
こういうことはいっぱい習ってくるんで、
頭の良い人は特にですね、学歴が高い人は、
この人間の認識というのはものすごく間違ってるっていうのは、
山のように習ってきているはずなんですよね。
でもそんなに頭が良い人だっても、やっぱり認識を改めさせるんですよ。
人の認識を改めさせたがる。
これは僕はですね、どうしてなんだろうと思うとやっぱり、
自他の区別がつきにくいんだろうと、
これがやっぱり一番の理由だろうと思うんですよね。
自分と他人というものは別々なんだというふうに、
自分の頭の中と他人の頭の中は一致してないんだということを、
私たちは結構我慢がならないときているんですね。
これはもう本当に、そこら辺の人とやらない方がいいと思うんですけどね。
例えばコロナワクチンについて話してみたり、
原発について話してみたり、
イスラエルについて話してみたりすればですね、
すぐ明らかになるはずなんですね。
大概の人は大体こうみんなも思ってるんじゃないだろうかなと思ってしまうんだけど、
それが相当裏切られるはずで、
そうすると何か落ち着かなくなるという不思議な現象がね、不思議じゃないんですよ。
自他の区別がついていると思っているからこれが不思議なんで、
自他が区別されてなければ、他人の認識がずれていると、
私も汚染されるとかって思っちゃうんで、
人が誤解していると自分が損害を被るという直接的な理由がないケースであってもですね、
ここで我々はすぐ作り出すんですけどね。
だから私は誤解を解くというものがあんまり前向きになれないというか、
ほぼ後ろ向きなんですね。
これは私がやっぱり黒くなってきたんですけれども、
このポッドキャストで何度も言ってる通り、
うちが宗教の家だったから、寺だったからこういうことにはどうしても気が乗らないんですよね。
宗教というのは人の認識を改めさせるということが、
一つの存在意義になってしまってるんで、
もうみんなこれがやりたいんですよ。
みんなこれをものすごく激々してやるっていうことを、
僕はよく、もうちっちゃい頃からこればっかりやらされてきたというか、
こればっかりやってるところを見て、
これがいかに正しいかってことを、
もう毎日毎日教え込まれるわけで、
すっかりやらさしちゃったんですね。
もう新聞は作るわ、説法はするわ、説教はするわ、
もう何でもいいんですよ。
街頭に立ってそれをやるし、駅前に行ってビラは配るし、
とにかく人の認識は間違ってるから改めなさい、改めなさいなわけですよね。
これをやってると、もう大好きでこれをやりまくるか、
これが嫌になって、
すっかり人の認識にこんなに興味を持って生きるのはごめんだと思うかの、
大体どっちかになると思うんですけれども、
私は後者だったわけですね。
だから僕は誤解を解くっていう表現が、
もう寝ますみたいになっちゃうわけですね。
誤解を解くのは難しいんですよ、本当にね。
あれほどの情熱を持ってやっていたとしても、
これは他の人はこう言うんですよね。
でもその寺の認識は間違ってるからダメでしょって言うんだけど、
なんで寺の認識なら間違ってることに簡単にできて、
自分の認識なら正しいことに簡単にできるのかというと、
僕はそれはエゴの働きだと思うんですよね。
だから僕はすっごい宗教というのは、
やたらとこう最近も時々耳にするようになった、
ボーコリタとかね、山ほど聞くわけですよ。
僕なんかもう何回聞いたかわかんないですよね。
ボーコリタってうちの宗教者は言わないけど、
同じようなことはどうせ言いますからね。
ボーコリタと言ってめちゃくちゃエゴイズムなんですよ、これが。
僕は絶対誤解を解きたいと思ったとき、
本当にボーコになってるかそれという、
そして本当に理だかそれっていうのはですね、
いっつも言いたくなるわけですね。
でもこういうことを言いたくなること自体が、
人の認識を改めさせようとしてるじゃないですか。
実にエゴイスティックなところが僕の中にあるわけですよね、やっぱりね。
人の誤解を解きたいという人に対して、
対立的な視点を取ってしまうんですよ。
危機感の重要性
この辺が僕はGood Vibesの初歩的に頑張るところでもあるし、
一番最後に頑張るところでもあるんじゃないかなっていうふうに、
いつもよくよく思うことがありますね。
ここが難しいんですよね、正しさを手放すっていったときに。
難しくないって言われるかもしれませんが、
いざとなると難しくなるときがあると。
これは僕がこのポッドキャストで言うところの、
妄想分裂ポジションに入るんですよね。
というか取るんですよね、このポジション。
PSポジションですね。
なんつうんですかね、これはね、
考えるという能力が剥奪されていく感じ、
失われていく感じなんですよね。
冷静になって考えると、
同じことやってるなって考えることはできるんだけど、
やってる真っ最中には、
なかなかそこから抜けにくくなってくるという感じがあります。
このときに僕はプレッシャーを感じるんですよ。
見てからも、自分からも、
プレッシャーの真ん中に置かれたような感じがしてくるんですね。
平穏とは程遠い感じがします。
でも僕が今日したいのは、
この妄想分裂ポジションで、
うーってなってるときの話ではなくてですね、
犬がふなり合ってる感じ近いですよね。
あれでお互いの認識を改めさせようとしてる感じ。
飼いとけ、お前こそとけ、みたいな。
それで犬がうーってやるじゃないですか。
体勢低くして。
あの状態に入ってる感じなんですね、これは。
よく思います。
これを犬に例えるのもね、
私、うちの信者さんのことを、
今念頭において喋ったわけだから、
非常にうちのっつったってもううちのじゃないから、
いいんですけどね、別にね。
と思ってるんですけども、
難しいんですよね、本当にこの辺の話。
この辺のことっていうのは。
全ての人の認識を改めさせるなんていうのはですね、
すぐに宗教はそこを目標にしちゃうんだけど、
土台とんでもないことだと思うんですよね。
相手も全く同じことをやろうとしてきてるわけだから。
現にうちなんかにはですね、
エホバの証人がいらっしゃるわけですよ。
エホバの証人が寺に来るんですよ。
そしてあなたたちは全員間違ってるから、
エホバの証人になりなさいと。
ならないですよね。
そうしないと地獄の業火に焼かれますよって言うんだけれども、
誰もそれを信じない。
お前こそ仏教にきえしろみたいな。
これが僕は誤解を解くっていうものの根本にあると思ってるんですよ。
第三者がこれを聞くと笑い話になるじゃないですか。
でも僕らが誤解を解こうとしてる時だって、
きっと同じだと僕は思うんですよね。
だから僕は眠くなってしまうと。
これは多分愛がストップかけられるんですよね。
この辺でまたグッドバイブスの愛の話にここでなってくると、
エホバの人も愛を持ってやってきてますから、
向こうの立場としてはですね。
エホバの人って僕が今言ってますけれども、
一度や二度じゃありませんからね。
まあいいや。
BeingとDoingの関係
そこで何を言いたいかというと、
危機感を持てってやつなんですよ。
これも僕はものすごく誤解だと思うんですね。
危機感を持てと言ってる人は危機感を持ってるんですよ。
だから自他の区別がついてないんだと思うんですね。
人が危機感を持たないことは危険だと思っているんだと思うんですよ。
これ完全に危機感を持たない危機感というものに、
自分がその過虫に囚われている感じになっているじゃないですか。
この人危機感を持ってない。まずいみたいな。
なぜまずいのか。
例えば佐々木が危機感を持たないとなぜまずいのか。
話作り出すんですよ。
ここでもすっごい似た話が出てくるんですね。
私は危機感を持たないから、
タスクシュートとかノホーズになっていくわけですね。
これがベストだと思っているわけですよ。
第一にこれを聞いた人は、
私のタスクシュートまで危機感がなくてノホーズになってしまったら、
私はもう会社をクビになるかもしれないという危機感を持つんですよ。
でも、だとしても、
だから佐々木に危機感を持たせようというのは、
明らかにロジックが狂ってるじゃないですか。
私が危機感を持っていたところで、
その人は会社で出世するわけではないですよ。
ここに認識を統一させないと、
自分がやっていることについて安心感が持てないというですね、
非常に人間らしい心の持ち寄ってのが現れるんですよ。
これは私たちの宗教の態度と全く同じなんですね。
この宗教が役に立つんなら、
他の人にも信じさせたいと。
他の人は別に、
この宗教を全く信じをしていないのに幸せになっているんだとすると、
なんか私がやっていることっておかしいんじゃないだろうかと不安になるって、
こういうことなんだと思うんですよね。
他それは信じられてないっていう証拠だって思うんですよ。
間違いなく。
宗教などでは、信じるか信じないかが全てなんで、
信じられないんだったら、
あのものはやらないほうがいいに決まっているわけですよ。
もう信じるっていうことが、
全価値を代表しているのに、
信じきれないんだったら、
他の人が他のことをやっていて幸せになっていると、
私はこの宗教をやっている価値がないって思ってしまうぐらいだったら、
本当はやめたほうがいいんだけど、
私は寺にずっと暮らしていた人間として、
価値と危機感の関連性
こうは言えるんですよね。
でもみんな大体そうだと。
他の人が他のことを信じていて、
それで幸せになっていると不安になっちゃうんですよ。
それぐらいまでしか信じられないってことなんですよね。
これがGTDとタスクシュートだろうと、
七つの瞬間だろうと、
何でも当てはまってしまう結果、
私はします。
それでですね、
でも危機感を持つっていうやつはですね、
おかしいんですよ。
この文脈に照らしてもなおおかしいと思うんですね。
確かに他の人は危機感を持たずに幸せになってしまったら、
私だけ危機感を持っているっていうのが、
なんだかバカくさい感じがする、
ではない感じがするんですね。
もっと深刻な感じがするんですよ。
みんなが危機感を持ってくれないと、
世の中困ったことになるぞっていうのを、
多分ですね、
心の奥底で人々は持っているような感じがするんですね。
そしてこれは、
あんまり近代と関係がないように思えるんです。
ここが一番めんどくさいというか、
グッドワイブスから見てもですね、
多分僕は臨床心理から見ても、
非常に厄介なポイントだなという感じがします。
一昔前は、
政権交代ができない日本に危機感を持とうみたいな、
そういう、
これは政権交代したい等の、
要するにPRだったんですけれども、
これ結構効いた感じがするんですよね。
だんだん日本が平和になって幸せになると、
みんなが危機感を失ってしまって、
今の党がずっと政権与党になって困るみたいな、
君たちが困るんでしょうと。
僕は別に、
政権交代がない方がいいとか、
思っているわけじゃないですけれども、
なんでみんなが危機感を持ってまで、
今の幸せは嘘だって信じなければならないのかっていうと、
多分そこに理由はあんまりないんですよね。
大事なのは、
みんなが危機感を持つということの方なんだと思うんですよ。
だから何かにつけてですね、
これが出てきちゃうんですよ。
例えば誰かがですね、
BeingとDoingで、
大事なのはBeingの方であって、
Doingというものはスキルとか、
その人の触手における価値を意味してるんで、
あくまでも在り方としては我々は価値マックスなんですっていう、
わざわざそういう発想を誰かが考え出しても、
必ずこれに対して反論が入って、
あ、そうか、
Beingとしては価値マックスなのかもしれないけど、
やっぱり我々はDoingが大切だよねって話で、
ひっくり返されてしまうんですね。
別にひっくり返す人が悪いわけじゃないですよ。
でもひっくり返す人は、
やっぱりだから危機感大事なんだよっていう結論を、
持ってたいってことなんですよ。
もうこれも持ってるのは自由なんだけど、
そういうふうにして私たちは、
Beingで安心しようとしてるところに水を刺されるってことが起きてくる。
起きてこざるを得ないってことですね。
ただし僕も今同じ論法を実は使っちゃってますけどね。
で、この我々はBeingとDoingで分けたいわけではなくて、
これはあくまでも多分僕は方便なんだと思うんですね。
要はその人が言いたいことは、
私たちは価値マックスだって本当はそれを言いたいんだけれども、
それだとなかなかこの危機感、危機感イズムに対して対処できないから、
BeingとDoingみたいなことを考え出す。
例えば我々は、僕で言うとですね、
野球で言ったら太谷翔平さんには絶対かなえません。
これは当然なんだけどね。
しかし私の価値は太谷翔平さんと同じでマックスですって言おうとしても、
いやそれは全然違うだろうってことに、
太谷翔平に比べて佐々木翔吾の価値は明らかに低いでしょうという感覚がある人にしてみれば、
ではどうすればいいのか。
太谷翔平のようになるために朝4時に起きろって言われても、
彼が朝4時に起きてるかどうか疑わしいんですが、
朝4時に起きて毎日うさぎ飛びしなさいみたいになるわけですよ。
何のためにそんなことをするのかというと、
やっぱり危機感を持ってないとそんなことはできないから、
だって寒いし暗いしめんどくさいからね、伸びたくんですけれどもこれは。
とてもじゃないけどそんなことはやってられないわけですけれども、
いやいや、あなたの価値が低すぎる。
このままでは大変なことになるから、
そういう危機感を持ってやらないと、
今はいいかもしれないけど将来大変なことになるよと。
僕も50なんで、あんまり将来のことばっかり考えてもいられないっていうか、
将来のことなんか全く考えてないんですけれども、
この話はもう僕10の頃から繰り返されていて、
完全に映画させておりますんで、
なんで将来のことを今考えなきゃならないんだって感じに、
もうとっくになっちゃって久しいのでね。
でもまあ危機感を持てという話にしたいわけですね。
なぜしたいのか。
その人は何の動機を持っているのかというと、
その人は危機感を持っているってことなんですよ。
俺このままじゃ大谷翔平になれないわと。
他の何か知りませんよ。
これはあくまでも比喩ですからね。
その人野球で頑張りたいわけじゃないんだろうと思って、
藤井壮太になれないのかもしれないし、
他に何でもいいんですけれども、
何かになれないのかもしれないっていう危機感を持ってるわけですよ。
この場合、この人は自分がうさぎ飛びしてればいいわけですよ。
私にうさぎ飛びさせなくてもね。
ここにさっきの宗教が絡んでくるわけですね。
自らの区別がはっきりついていないもんだから、
危機感の持ち方と振る舞い
他の人は全く何の危機感も持ってないけど、
全く幸せそうにやってるけど、
俺だけ真夜中にうさぎ飛びさせられていて、
そんなみたいになりかねないわけですね。
それはやっぱり我々は何かを信じるにあたって、
人の振る舞いを参考にしすぎるんだと思うんですよ。
人の振る舞いを参考にするというのは、
やっぱり自分と他人というものが一致しなくていいんだと
どうしても思えないから、やっぱり一致させたくなる。
やっぱりみんなでうさぎ飛びをしないと、
自分がうさぎ飛びを心安らかにやることができなくなるわけですね。
僕からすれば、それだったらみんなで寝ていたほうが
よっぽどマシだと思うんだけど、
これも同じようなことになっちゃうんですけどね。
認識の統一ってやつになってしまうんだけれども。
こうして危機感というものだけがですね、
頑張り続けている感じっていうのがあるんですよね。
その僕は、罪悪感というのは、すこぶる似ている感じがします。
この文脈では。
結局、私が路頭に迷う仕事でうまくいかなくなる。
お金が稼げなくなる。
これ自体は全然、仮に危機感が不足しているんだとしても、
罪の意識を持つ必要は本来ないと思うんですよ。
でも残念ながらそうはいかないんですよね。
それでいいの?お子さんの教育費は?って言われると。
訴えかけてきているのは、ここでは危機感ではないですよね。
危機感もあるんだけど、罪悪感になってるじゃないですか。
父親としてそれじゃどうなんだろうと。
アドバイスブースなんかを信じて、子供を路頭に迷わせても。
この辺めちゃくちゃ極端なんですけどね。
そんな教育費が、僕が危機感を持たなくなっただけでですね、
たちましく子供が教育に失敗して路頭に迷うわけはないんだけれども、
そういう話の展開を好んでしたがる人ってのは、いらっしゃるわけですよ。
最近僕の周りにはいなくなっちゃいましたけど、
昔は僕もグッドファイブスと名指しにはされなかったにしてもですね、
そういう危機感を持っていないことで、
例えば英語の勉強とかも僕は一切しなくなったりしていて、
もちろん夜中のうさぎ跳びなんて一回もしたことはないですけど、
筋トレとかね。
僕筋トレってしたことがほぼ全くない人間なんだけど、
今ゼロになってるわけですね。
運動も特にしているわけじゃない。
みんなに勧めてるわけじゃないですからね。
僕は別に皆さんの行動認識を統一させたいという欲求は全然持たないようにしてるんで、
いらないと思うんですよ、そんなものは。
したければするに、したいことをするに越したことないと思うんですね。
自分がそれをする余裕があるうちは。
とにかく僕は別に余裕がないから運動してないわけでも、
筋トレしてないわけでも、
オーディオブックを聞かないわけでも、
別にオーディオブックを聞かないのはいけないわけでも、
いいわけでもないと思うんだけども、
とにかくそういうことをしてないんですよ。
それは確かに危機感がないからなんですよ。
で、まあビーングとしては価値マックスだと信じているからなんですね。
で、私はそういう言い方はしませんが、
私の言い方で言えば万能感を保持しているから。
つまり私は万能だと信じているから。
っていうのはどういうことかというと、
現実ならなんとかなるよ。
危機感の影響と害
裏園慶三さんの言葉で言うと、
言うのが一番みんなにちゃんと伝わると思うんで、
万能感じゃ伝わりにくいですもんね。
何が起きても万能に対処できるということは、
現実ならなんとかできるってことですよね。
現実ならなんとかできるというのが、
私は結局価値マックスということに支えられている、
感覚に支えられているんだと思うんですよ。
こうして私は危機感というものを手放したわけですね。
このことに対して危機感を人は抱くわけです。
なんとかこの佐々木をですね、
これは多分僕がタスクジュードについて語る人だから、
っていうポジションもあるんだと思うんですよね。
なんとかこの佐々木を危機感を持たせないと、
何かマシいことになるんじゃないだろうかという、
危機感を持った人が、
でもDoingとBeingは違うんじゃないかとかですね、
いろんなことを考え出していただくわけですよね。
多分そういうことなんだと思う。
今日のログは、今日の行動記録は万能だった、
完全だったかもしれないけど、
それより明日の方がよくはできますよね、
みたいなそういう考え方もあるわけです。
どんな考え方でも結構ですけれども、
私は万能だと思っているし、
現実はなんとかなるとでも思っているし、
危機感はない方がいいと思っているという、
ただそれだけなんですよ。
これによって、あなたのどなたのかわかりませんが、
世の中にトレーニングをしたとしても損はないし、
私が危機感を持たないことによって、
いかなる世の中に損害が起きることもないんですよ。
私は別に政権交代に反対もしませんしですね、
現状維持のために危機感ないから、
現状が最高だから現状維持のために
万全を尽くそうとかも別に全然しませんし、
政治的に困ることもないはずですし、
とにかく私が危機感を持たないことによって、
他の人が損害を被ることは1ミリもないと思うんですね。
タスクシュートについて言うと、
でもタスクシュートを危機感なしに広めると、
誤解が広まるんではないかという方もいらっしゃるかもしれませんが、
私はここでだから原点に帰るわけですよ。
しえつおさんは最初、タスクシュートから危機感を感じられるように設計しただろうかと思うと、
そんなものはないように見えるんですよね、タスクの中からは。
一番最初にタスクシュートがExcel版でできたときにも、
あそこからタスクのセットの仕方によって、
例えば毎日昼寝とか朝寝とか夜寝とか、
入浴、温泉、食事食事食事というとビビーって出てきてですね、
あなたはその人生では危機感が足りないから、
もっと朝一番に英語の勉強、プログラミングの勉強、デザインの勉強、筋トレってやりなさいって、
タスクシュートは言ってこないんですよね、私の見た限り。
どこをどういう観点から見ても、
タスクシュートが危機感を募らせるようには作られていないんですよ。
私は今のままでいいと思った瞬間に、
タスクシュートが何かアラートを発してきたっていう記憶は一回もないんです。
だから私は危機感を持ってタスクシュートを使うのは別に構わないですよ。
トラウマと危機感
でも危機感を一切なくタスクシュートを使ったとしても、
別にそれによって誤解が広まるとは思わないし、
タスクシュートの間違った使い方が蔓延して、
多くの人に実害をもだらすということも決して起こるはずはないと思うんですよ。
私はよくこれをですね、Jさんの言う話と私の言う話は、
別段大きな違いはないんだっていうのと近いんですよね。
一応何を入れようと構わないし、
現実ならなんとかなるんですよ。
そう思って使っていても、何ら差し支えはない。
もちろん現実というものは大事にしがたく、
お金もいっぱい貯めなければ大変なことになるし、
毎日健康増進のために運動をし続けていないと、
そして食事にも気を配らないといけないと思ってタスクシュートを使うんなら、
それはそれで結構なんですよ。
この2つに僕は別段違いはないだろうなって思うというだけなんですね。
で、この最後にですね、
危機感というものを持って、
何かをするというのは、
なんて言うんですかね。
危機感を持って何かをするということは、
なんて言うんですかね、これはね。
イメージは僕の中にはっきりあるんだけど、
うまく言葉にできないところがあるんですよね、やっぱり。
なんと言えばいいんだろう。
危機感を持って何かをするということが、
人に安心感をもたらすという感触を多分持っていらっしゃるんだと思うんです。
これは危機感を持って現にいる。
しかも持ち続けることにしている。
つまりそこにはですね、これは僕の考えですからね。
ちょっとあんまり嫌な気持ちに人になってほしくは全然ないので、
それはある意味本当にそうなんですけど、
僕の仕事に良い影響を及ぼさないから、僕の仕事上。
僕の仕事って結局3ヶ月チャレンジがそうなんですけれども、一つにはですね。
自他ともにケアできる状態というのを至上としてるんですよ、今の私の考え方では。
自分と他人をはっきりと意図を持ってケアできるという状態が望ましいと。
これをある意味不断に目指すということになるんですね。
もう少しわかりやすい言葉を使うと結局、
クラウドの慶応さんのGood Vibesの言葉になってしまうんですね。
つまり自分も他人も現実なら何とかなると、
どんな時でも思い続けられるっていう状態を、
私は3ヶ月チャレンジ等では一応目指している。
これは言うときには言ってるし、聞かれたときにも言ってるし、
これだけを3ヶ月チャレンジで目指してるって話ではないですよ。
でも原則ここを目指す、それを目指すことを支援するっていうのが、
私の仕事だと今は思ってやっているんですね。
危機感を持つということの中には、
僕は思うに、この現実なら何とかなるに対するトラウマがあると思っているんですよ。
だから僕はここでミニコットを持ち出すことが多いんですね。
ミニコットが言うところ、環境としての母親に私たちは包まれていると、
それが正常で健康な心理状態なんだというのは、
つまり現実なら何とかなるってことなんですよ。
環境というのは単なる環境ではなく、母親でもあるということは、
ちゃんと環境は何とかしてくれるようになっているんだからねっていう意味なんですよ、あれは。
でも心理的にそれが破綻する時がある。
それがつまり対象としての母親の登場なわけですね。
それはインピンジメント、心臭になってしまう。
菌が刺さるような怖さと痛さと恐怖感がそこにある。
なぜならば、母親というものが臨床になってしまうと、
環境だと信じていた人に、人の自己愛を著しく傷つけることになるから。
非常に嫌な例を一つあげると、
子供がまだ小さいうちに、キャリアと子育てどちらが大事かみたいな本を読んでいたとするじゃないですか。
そしてその子がそれが何となく意味がわかる年頃に達していたとするじゃないですか。
これはインピンジメントになり得ますよね。
これはお母さんが悪いというわけでは全然ないです。
お母さんがそれを意識するのはむしろお子さんのためかもしれないんだから、
お子さんの教育のためかもしれない。
でもやっとそれがわかるぐらいの年頃の子が、お母さんの本棚にそれがあるということを知ったらですね、
あ、お母さんというのは環境じゃないんだ。
自分の事情というものに左右される対象なんだ。
だからお母さんに気を使わなきゃいけないんだというふうに思ってしまったら、
ちょっとしたトラウマになりますよね。
僕はこういうトラウマの蓄積が危機感を持つということについて、
すっごく厳しくなるなと思うんですよ。
その子はBeing、Going on Beingね。
BeingとしてかしMAXだと信じられる世界に生きてきたんですよ。
マトリックスの中ですね。
環境を作り迷い始める
お母さんは環境としての母親が環境を作ってくれているというのは、
私のために作ってくれていると。
その環境というのは、私が生きていくことというのは、
従前にいいことだという意味になって、
実はでもそれを作るかキャリアを選ぶかを、
この作っている人は迷っているというか、
作っている人がいるんだという認識そのものが、
トラウマになりかねないというか、恐らくなる。
そうするとその人は危機感を持って、
この環境というものを信頼してはいけないんだという感じを持ってしまう。
そうすると環境ですからね。
あらゆる環境を整備しようみたいになりかねないじゃないですか。
ここも転ぶかもしれない。
隙間風入るかもしれない。
そもそもこの家はお金によって建っている。
だからお金が少しでも減るような真似はしてはいけない。
こうして僕らは環境としての母親に不信感を抱いた瞬間に、
脅迫観念というものに囚われ始める要因を持つんだと思うんです。
私は危機感を持つというのは、脅迫観念そのものだという感じを持っているんですよ。
だって現実なら何とかなるということであればね、
私は恥になるようなことはしないはずだし、
鍵を開けっぱなしにしてどっか行っちゃうということもしないはずなんです。
仮にしたとしても何とかできるはずなんですよね。
現実なら何とかなるはずだから。
これが心理的にケアできている状態というものであって、
これを迂闊だというふうに考えるということは、
僕は迂闊なんだけど、危機感というものを持ってしまっているということは、
環境というものが信頼できないものだというふうに考えているという意味になって、
そうなったということはですね、最初からそうだった人はいないと思うんで。
この番組で言う通り、子どもが子宮の中にいた時に、
自分は子宮の中にいるのかもしれないと思った瞬間に、
おそらく正気を保てなくなってしまいますから、子どもは。
僕らが今現在正気でいるということは、
環境を100%信じ切っていた時代は間違いなくあったはずなんだよね。
そして今では自分で自分の環境というものを、
環境と共同作業によるケア
そういう信頼できるものにある程度して置き続ける能力を発揮する必要がありますが、
現実ならなんとかなるという話なんですよ。
これは結局自分一人ではできない話で、
ここを自分一人でやろうというむちゃくちゃな発想が、
世の中にはあるらしいんですけど、むちゃくちゃですよね。
それは自分で地球上の酸素を供給できるようになりましょうまで、
必ず行き着くはずだと僕は思います。
それができる人はいませんから、
それこそ何者であろうとも、大谷翔平であろうとも、
地球上に必要な酸素の供給をさせるのは無理ですからね。
だから必ずこれは環境と共同作業になるはずなんです。
ここに母と子の共同作業で、環境としての母親というものが従前に発揮されて、
要するに自分が十分ケアされて、
現実ならなんとかなるという確信を得られるという土台が、
共同作業によって、自分と他者との共同作業によって、
多分だけ成立するはずなんですよね。
ここに危機感はいらないというか、危機感でこれをやり始めると、
永遠に終わらない作業にただなってしまうだけなんで、
そしてその膨大さに圧倒されてしまう。
だからビーングで安心して、お前はのほほんとしてればいいって、
俺はドゥーイングで頑張って、お前とは違う、
あなたがいるそのダメな世界とは違う世界に行くっていう雰囲気を帯びてくるんだと思うんですよ。
あの種の話が出てきたときは、必ずこの種の問題とセットになっているのはこういうことだと思うんですよ。
要は露頭に迷うというのは、環境としての母親に見捨てられてしまった存在だって言っているわけですよね。
でも環境としての母親というのは、見捨てることはあり得ないと思えなかったら、
多分不全になると、そういうことだと思う。
だからキャリアと子育てで迷っているっていう本が戸棚にあるだけでも、
その環境に対して、その環境はこの母親という人間の意思次第によって、
金振り捨てられかねないと、そんなことはないんだけど、
子供が思ったときに危機感というものを抱くことになるんじゃないかと、そんなふうに思っています。