朝の散歩と本のタイトル
おはようございます、グッドモーニングボイスです。はい、11月15日水曜日の朝8時10分です。
なんというか、50分ずれなんですよ、だいたい。50分ずれ、まあそんなところですよね。40分ずれか。
えー、ちょっとね、朝、散歩をしてくる。なんか異様に清々しいことをやっちゃってるんですけど、これには、やっぱり事情がいろいろありまして。
一番しょうもない事情だけしゃべっておきますと、ピクミンブルームというのはですね、花植えゲームをやってるというよりはやらされていて、
あまりにも僕の主人公がしょぼい状態なので、歩いてこいと言われておりまして、そういうようなことも手伝ってですね。
手伝ってというか、まあほとんど今言ったようなのは全ての事情のような気もしてきたんだけど、まあそういうわけですね。
で、ぐるっと家の近くを回ってきて、今戻ってきたら40分遅れでグッドモーニングボイスを録ることになってると。
現実はこういうもんなんでね。
しかもこれ大変いい感じがしているわけですよ、本人の中ではね。でもこれを毎日続けるかと言ったら、毎日続ける気は多分ないし、明日なんか雨降ったりしそうだしね。
だからそういうことなんですよね。 事前に考えたりした通りにやるのが必ずしもベストではないと思うんですね。
まあそんなことです。
幸い11月19日に申し込みが毎日途切れなくなってきまして、気がつけば20人が見えてきて、
今回久しぶりに自分の企画した企画がまともな形を取りつつあって、大変ありがたくて、やっぱ人間こういうところありますからね。
2人でも3人でも、それはもう2人でも3人でも大変ありがたくてですね。
私今ちょっと腹あんで考えてるやつは、本当に2人とか3人しか来ないかもなぁと思いつつ、絶対やろうと思ってる企画があるんですよ。
そっちはちょっとね20人とかいらっしゃってもむしろ微妙な空気になりかねないので、多くて10人かなって感じのものなんですけど。
ちょっといろいろ検討したりしています。
冬、調子悪くなるのに次から次へとこう仕事が企画がすっごい今増えてる感じがするんですよね。
これも流れに身を任せるという、最近J松崎さんまで流れに身を任せるとかお話になってきたんで、
こうなってくると教会理事では大橋裕三さんが、この方がストッパーやってるから勝手に流れに身を任せても動けてるんだろうなぐらいに思うようにしているんですけれども。
要するに個性と役割というやつですね。僕はだいたいどっちつかずな人間なんで。
その時の良い方にフラフラっと流されるという傾向が、傾向というかもうそれがいいやと思っちゃってるんでね。
今はJさんのパワーで、それにモーターボートの後ろにバナナボートってやつあるじゃないですか。
自分では駆動できないやつで、あれに乗っかってビューンって行ってるなって感じで。
でもあれは前のモーターボートから離されると止まっちゃうんですよね。そういうような感じでやっております。
何言っているのかよく分かりませんが、ぜひ19日も。まだまだこちらはまだまだ行けますんで、来ていただけると本当にありがたいです。
今日は久しぶりに専門用語の話をさせていただきたくてですね。
これ僕結構一生懸命真剣に考えてはいるんですよ。専門家の方でこれを聞いていらっしゃる方がもしかしたらいらっしゃるかもしれませんし、
そういう方は思いながら見て聞いていただいても、でもそれだと何のために聞くのかわかんないけどね、大変聞いてて気分悪くなるんじゃないかと懸念しますが、それはちょっとご選択なのでしょうがないということですが、
もしね、これは致命的にダメだっていうことがあったら、別に晒しても構いませんからね。
私別にそんなに痛いと感じませんから、デジタルで晒されるとかは本当に、面と向かって30人くらいの前でいかに間違っているかをとくとくと言われるとさすがに傷つくと思うんだけど、別にXとかに書かれても全然いいと思うんですよ。
僕は悪名は無名に勝るとまでは思わないんですけれども、Xはいいかなみたいに、XとかFacebookでガンガン言われるのは僕に関しては全然いいやっていう感じがします。むしろちょっと読んじゃうぐらいな感じに最近ちょっとなっているんでね。
Amazonとかでも割と星1とかを拾って読んでいるんですよ。これは相当無理な曲解に思えるけど、これは意図的に意地悪をしているのか、それとも本当にこういう感じがするのかみたいな、最近出した本で、最近僕の本ですね、いろいろ星がつけやすくなっているからなんですけどね、Amazonで結構厳しい星もつくんですよ。
ただ、ノーコメントってちょっとあんま面白くないですよね。星が1つけようと2つけようと、コメントがないと結局あんま著者的には得るものが少なくて、もうなんかボロボロなコメントでもコメントがあるとですね、なんかそこからヒントがあるような、これからやっぱ本出すんで、どういうところが人にこう割といい意味でも悪い意味でも響いちゃうんだろうみたいな。
悪い意味では当然響くのは良くないんですけれども、でも、つかないよりはついた方がいいなっていうのが売り物を売ってる人間としてあるんで、大量についた場合、星1がないなんてことは絶対にないわけですよね。
あるじゃないですか、よく星1409とか、うわぁ羨ましいわって思うんだけど、そういうところは星はかなり1もつくわけですよ。だいたい5が一番多いんだけど。
で、こういう時に1で無コメントってことになってくると、もうこれはただの階段の1個みたいになっちゃうんで、ほんと是非気に食わんみたいでもいいと思うんだ。
でもこれはね、僕のは良いけれども傷つくって人もいらっしゃるから、僕のは良いです。傷つくっている人のはやめておいた方がいいと思いますね、やっぱりね。
気に食わんだけどちょっと、せめてタイトルが気に食わないとかってあるといいんですよね。このタイトルはセンスが感じられないとかね。これもうちょっと細かいとありがたいんですけどね。
センスないのは僕とは限りませんからね、しかもね。僕だけでタイトル編み出せるってことは滅多ないので、ほとんどないんですよ。
1日1箱はね、かなり僕の、僕がだからタイトルつけるとああいう感じになるんだということなんですね。
まず短くなる。あと漢字の画数は極力少なくなって、できればひらがなを増やしたい。結局、本屋行って思うんですよ。遠目から目に入ってくるタイトルって何だろうみたいなのを思うと、
タイトルのインパクト
やっぱり僕はあんまりこの、画数多い漢字がいっぱい並んでるみたいなのは、逆張りで狙うこともあるんでしょうけれども、僕はあんまりそれが自然と目に入ってこない。
やっぱり僕は忘れられない光景があるんですよね。法輪堂の前にも行ったことありますけれども、何回かな、2回かな、もう全、いや本当これね、たぶん間違ってるんですよ、記憶が。
僕の記憶の中ではこうなっちゃってるんで、近い光景は見たと思うんですよね。2階のフロア全部の本がバカの壁だったことがあった気がするんですよね。ちょっとこれは嘘かもしれない。
でも少なくともピラミッドは建ってたんですよ。夢でなければですね。その時に僕の目に入ってきたのがバカバカバカバカって感じなんですよ。これはね、忘れられないんですよね。
これがやっぱ売れた大きな理由だったに違いないと、僕は真似したいとは言いませんよ。でも壁はちょっと画数多いですしね。でもこのやっぱりタイトルのインパクトってのは大事なんだよなっていうのを、あの時僕は法輪堂で学んだんですね。買わなかったですけどね。
最近この話を思い出したのは、先日ちょっとお話しした、私が尊敬している方がですね、このバカの壁を読み直しているって話をされていて、えーっと思ったんですよ。今あれを、みたいな感じでね。あれ500万部位いったんですかね。
ちょっとわかんないですけど、まああの、著者としては100万部いってももう一生ものだから、500万とかいう数字になってくるともう、えーっと、まあとりあえずどういう理由であれちょっと尊敬しちゃいますよね。500万部というのは。だからあの、もう目に入ってきたのバカの数。僕の人生では多分その時の目に入ってきたバカの数がバカの最大数だったと思うんですよ。
一生で目にする数と同数ぐらいを一瞬で見ちゃったみたいな瞬間だったんですけども。これはやっぱり、あの、どのコンビニにも置いてあった脳内革命と並んでですね。脳内革命は僕は格数多いと思うんだけど、ただ脳っていう字はやっぱりあの時代ものすごく響きましたから、もう脳つけとけば売れるみたいな時期がありましたから、そんなことはないんだけど。僕も脳つけた本、別に売れませんでしたからね。
でももっと前なんですよね。脳でほんといくらでも売れるぐらいな勢いがあった。そのバカの壁解体養老先生もユイ能論も結構あれは割とお固めだったけど売れましたもんね、やっぱりね。
というわけで、やっぱり字の力って結構大きいんで、何の話をまたしてるのかよくわからなくなっているんですけれども、格数多い感じで長いタイトルっていうのは僕は避けたいなっていうのはあったりしますんですが、ついちゃってる本もあるよね、結局。
それはつまり僕だけでは決められないっていう話。すごい盛大に人を周りしてますけど、今日は一時ナルシシズムって言葉を僕がバカみたいに使ってるんで、これについて説明したいんですね。本当はこの言葉良くないと思ってるんですよ。
僕は本当はこれ甘えで済ませてしまうべきだと思ってるんですけれども、甘えはドイタケオさんがそういうふうにおっしゃってた通り日常用語なんですよね。だから素晴らしいっていうのはもちろんその通りなんだけど、だからどんなことをイメージされているかが結局どうしたって不統一になっていく。
一時ナルシシズムの良いところは定義を持った言葉で日常では使われることがほとんどないから、むしろわかりにくいけれどもはみ出さないみたいなところあるじゃないですか。これですね、多分普通はあんまり良い意味で使われてないのかどうなのかがはっきりしないんですよね。そういう意味で曖昧になっちゃってるんだけど。
私はこれを肯定するっていうことを時々言いますけど、本当は肯定すると言いたいんではなくて否定しちゃダメだって言いたいんですよ。本当はですね。甘えを否定しちゃダメだっていうのがやっぱり一番良いと思うんですよね。僕の感じとしてはこれなら伝わるんだと思うんですよ。で、なんでってなるかもしれないじゃないですか。
このなんでってなった時にその方の正しさ、長寿がと言いたいところなんですけど、とにかく正しさ。正しさがですね、グッとその人を動かしてあげる。これが力動ってことだと僕は、力動はこれが力動の全てじゃないですけど、力動ってそういうことだと思うんですよね。
なんか、ただただ概念があるんではないし、ただただそういうイメージが脳内に浮かぶんじゃなくて、グッとね、怒れ!みたいな感じでムカッと来るとかって言うじゃないですか。そういうものが上がってきちゃって、割とどうにもできなくなる。
ただ甘えは許されないから怒るべきでしょうというだけだったらば、なんてことはないんですよ。別に、その時イメージされている怒るべき甘えっていうのは、子供がダダこねているアイス買ってとか言ってるのはたまにはビシッと怒れみたいなイメージでいらっしゃると思うんですよね。
それが別にいいんですよ、はっきり言って。グッドファイブス的に言うとそれもちょっとあれなんだけど、まあでもそれはいいんですよ。そうじゃないんですよね。この甘えに対して怒れますかってことなんですよ。イメージしている例が、自分が怒りやすい例をイメージすると、なんでって思われると思うんですよ。
ところが、甘えているのがあなたのことを一発でどうにでもできるほど権力を持ったような上司の人でも、同じような態度を取れないでしょうってことが問題になるんですよ。その時に、ことを簡単に言ってはいけないと僕なんか思っちゃうんですよね。
だってそれで僕は結構痛い目を見てきたんで、例えばヤンキーみたいな先輩がいたわけですよ。男子校だったしね。要するに甘えてるんですけど、そういう人って下級生をいびるとかやるわけですよ。距離を取れとかって簡単に言うけど、距離なんか取らせないように向こうはしてきてるわけじゃないですか。
要因なことではですね、部活を辞めると学校の裏に連れて行って芝生みたいな、本当にそういうことが行われてた時代だから、そんな距離を取れって、どうやれば距離を取れるのか、こっちが聞きたいよっていうような話だったわけですよ。
距離を早く取らないと手遅れになるんだから、距離を取らないで甘えうんぬんとか言ってる暇はないんだとか言うんだけど、そうではなかったんですよ、僕の記憶では。そもそも距離取れなかったよなっていうのがまずあるわけですよね。
それでだんだん話が過激になっていくじゃないですか。そういうやつはもう訴えてなんとかかんとかしてって。だけどですね、僕当時中学1年だった記憶があるんですけど、そんな訴えるとか考えつかなかったし、先生とかに安易に訴えてもですね、そんなのは当然、そういうのはこの中学で当たり前のことなんだみたいなことを言われて逆に怒られて、割とひどい目に合うみたいなことも起こったわけですよ。
甘えを否定せずに受け入れる
普通に怒ったわけですよ。私が言いたいのは、そういうのは理不尽だから良くないから変えようみたいな話もあると思うんですけれども、僕が言いたいのはですね、とりあえずその場においてできることはそういうことじゃないよなと。ソーシャルムーブメントを起こすこととかではなかったんですよね。考えつきもしなかったしね。
昭和ですから、まだ。昭和64年で平成元年の頃なんだけど、昭和ですからね。もうちょっと前か、昭和62年ぐらいかな。最後の昭和なんですけどね。今、令和じゃないですか。やっぱり違うんですよ、いろいろと。
でも先日のね、宝塚さんのとか見てると、なんだか変わってないところもあるなぁとかって思うんですけど、ああいう時にやっぱりね、簡単に平成な時というのかな、その状態に巻き込まれていないところで考えるようなことが考えられるかどうかっていうことはあるんですよね。
僕は考えるために、考える力を失わないために、やっぱりこの一時ナルシシズムを肯定するとまでは言わないまでも否定しない。で、やっぱり自分の万能感というものをなんとか維持していくっていう、僕はここはドナルド・ミニコットって人に近い考えを持ってるんだと思ってるんですけどね、勝手にね。
若ちゃんは静かにしているって、あれが僕はやっぱりね、フィットするんですよ、自分の感じに。自分も静かにしていた気がするし、自分の娘も静かにすやすやとしてるわけですよ。目を覚ましててもそんなに騒がしくないんですよね。
クラインの幼児っていう言葉が藤山直樹さんの本とかに出てくるんですけど、時々違う方の本にも出てくるんですけど、クラインの幼児はっていう表現を使って、それクラインの子供かみたいな感じがするんだけど、そういう意味ではなくて、クラインがイメージする幼児っていうのと、ウィニコットが想像している幼児っていう、要するに幼児って世の中にいっぱいいるから、でも幼児の中にも騒がしい子もいれば、やっぱり勘の強い子とかって言うんですよね。
騒がしい子もいれば、すやすやしてる子もいて、僕はどっちかっていうと結構子供というのは穏やかにすやすやしている。これを言うとまた怒られるんですよね。お前の子供は育てやすかったんだ、みたいに言われるんだけど。
でもね、自分自身のことを考えてみても、友達のことを考えてみても、覚えてる限りの幼児時代の友達のことを考えてみても、そんなに子供って理不尽ではないなっていうふうに私は思うんですよ、自分の友達のことを思ってみても。
そんなにわけもなく騒ぐのにはそれなりにわけがあるのであって、クラインの幼児的になるのはヒステリックな感じがするときには相応のわけがあるのであって、大人の目にはただうるさいだけかもしれませんけれども、やっぱりもうちょっと穏やかな感じがするんですよね、子供というのは。
本質的にっていうか本来的にというか、何にもなければ割とすぐ寝ちゃいますし、穏やかにスヤスヤしているというその本来的な在り方は、やっぱり僕はそこに一時ナルシシズムってものは絶対あると思っているんですね。
私はこれでいいんだというか、私はないんだけどたぶんね、これでいいんだみたいな感じ、going on being っていうのはそういう意味なんだと思ってるんですよ。これでいいんだと思いながら生きている。ただ、この万能感は完成しないんですよ、絶対に。
常に変化し続けるじゃないですか。going on being だから、常に動いてる、生きてるってそういうことだから、変化し続けるわけじゃないですか。だから情勢はどんどんどんどん変わっていく。その変化する中でちょっとこうね、万能感が危うくなって怪しくなって。
なんか雲行きが怪しいって言いますが、怪しくなった時に移行対象というものがここに現れるはずなんですよ。それを使ってまたこう移行空間というところに移行していって、だから移行空間とか移行対象とか言うと、ライナスの毛布なんですけど、まるでそういう対象がある、安定フェーズ、移行フェーズみたいになってる感じですけど、そうではないと思うんですよね。
普通に考えるとずーっと移行しているはずだと。その中で僕らはちょっと危機的な状況を迎えるわけですよ。PSポジションに入るわけですよね。妄想分裂的になるわけですよ。クラインの幼児的になるというのか。騒がしく、かしましく、激しくやり合うっていうこともあるんだけど、原則としては大丈夫で、やっぱりそういうところも何とかちゃんと切り抜けていってですね。
子供は多分、よくわかんないですけど、一生にかとか行くとわかるんですよね。都度都度大きく変わるんですよね。急にPS的になるんですよ。うわーって言い始めて。でも何とか何とかやって、ずーっとやってるとピタッと静かになって、なんかニコニコして席に座ると。またうわーってなるっていう。
このタイミングが非常に、もう分単位以下、秒単位くらいで来る人も子供もいるんですよ。あれ見てて僕はものすごい興味深いって毎度思うんですよ。クラインとウィニコットが繰り返し工作しているような。クラインとウィニコットってやり合ったんだけど、結局こういうようなところで意見がぶつかってて。やり合った。やり合ってはいないと思うんですけど。
結局ウィニコットは最後はクライン派じゃなくなってるんで、そういう結局直接やり合ったかどうかは別としてやり合いはしたと思うんですけどね。
それが一人の子供の中に見え隠れするような気がするんですね。小児科育児だから僕はいつもあんまりじっと見てるとあれなんで、とりあえずチラッチラッと見てるんですよね。なんか急に叫び出すんですよ。そしてまた急に静かになる。
この時に一時なるシズムが甘えがって言えばいいのかな。満たされる、満たされない、満たされる、満たされないっていう。それがまたここらへんはちょっと倉園恵都さん入りますけど。入りますけどっておかしいですけどね。
同じことは起きないんですよね。同じようなことが起きますよ。もうほとんど同じことの繰り返しじゃねっていう人もいると思うんだけど、やっぱりね、よーく見てると決して同じことは起きてないんですよね。なんか違う要求があり、なんか違う供給があり、なんか違う要求があって、なんか違う満足がある。
こうやってPSとDが入れ替わっていく感じっていうのが、Dは要するに抑鬱ポジションですけど、このまま抑鬱的になっちゃうこともありますよ。親がここで一時なるシズムの否定が出るわけですよ。甘えを否定されるわけですよ。
自己愛を肯定する
もういい加減にしなさいって言うじゃないですか。あれって別に何も言ってないですよね。いい加減にしなさい。つまりそれは非常にちょうどいい言葉だと思うんですよね。そこまでは肯定されませんよっていう丁寧な言葉に直すと。
だから僕は実はあれを言いたくなる瞬間って、やっぱり昔は特に子供に対してあったんですよ。今はないけど。いい加減にしろってやつね。そうするとここでグッと止めるんですよ。自分の力度を。長寿が出てくるわけですよ。この長寿が絶対うちの母親のものだと思うんだけど。いい加減にしろと言えって言われてるわけですよね。母に。僕の中にインストールされた母にいい加減にしろと言えと。
で、僕はそれを言いたくないわけですよ。だって別にいい加減にすることのことはしてないと思うんで。どうしても言いたくなった時は丁寧な言葉に直すってのをやるんですよね。そこまではダメ。そこまでは現実では許されてないですみたいな言い方。もうちょっとわかりやすく言いますけど、でもこれに限らなく近いんですよ。
で、子供は納得しますよ。僕はそれで大体納得させられるんだということを学んだんですよ。なんかそっかーみたいな感じになるんですよ。少しはシュンとしますよ当然。自分の要求が入れられなかったわけだから。でもそこまでひどい欲打つを迎えずに済むんですよね。
僕はこの方がわかんないですけど、まどろっこしくてダメだっていうのとは甘えすぎていると言われるかもしれませんが、だからここには攻め合いはあるんだけど、攻め合いはあって当然じゃないですか。だってさっき言った通り毎度毎度要求は変わってるわけですよ。毎度毎度満足させるべき気持ちも変わってるんだから、本当の意味で規範はないはずなんですよ。
規範が本当の意味であるというのは、数学みたいになってるじゃないですか。その場合はいい加減にさせなければいけないみたいな。どのような条件であれとかって数学ではよく言うじゃないですか。任意の点をみたいな。任意の点は取れないわけですよ。やっぱり得意の点を常に取ってるわけだから、対応の仕方もつどつど変えるべきだと思うんですよね。同じことは起きてないわけですからね。
昔、カミュが本の中で、あれは違法人か、得権者しか言わしないっていうまた変な表現を使ってましたけど、そういうことですよね。一語一例なわけだから、本当はやることはやっぱり変えるしかないと思うんですよね。さっきと違う要求が来たのに、判定をしたようにいい加減にしなさい、いい加減にしなさいって言う。これだったらレコードでも回してる。いい加減にしなさいレコードとかを回しといた方がいいと思うんですよね。
私はそういう意味では作業効率を考えてしまうんで、子育てなどというのは人間がやるんだったらですね、やっぱり最大限カスタマイズするのが一番いいような気がするんですよ。だって親子なわけですからね。ここでカスタマイズしないんだったら、カスタマイズなんてしないほうがいいぐらいじゃないですか。カスタマイズってのはお客さん向けってことだと思うんだけれども。
だから、いい加減にしたさいっていう、うちの母が散々から少なくとも1万回ぐらいは僕に言ったであろうこの言葉をですね、1回も僕は使ったことはないつもりなんですよね。必ず言い換える。何らかの形で言い換える。しかもできれば毎回違うことを言いたい。
だから、現実ではそこまでは認められないとか、この家ではそこまではその要求は通らないとか、そういう感じ。ほとんど言い換えてないんだけど、ちょっとは言い換える。そういう感じにしておくとですね、納得されるんですよね。結構かしばしいというか騒がしくされることもあったんだけど。
断固として拒絶されるというケースはそれもあったんですけど、少なかった気がしますね。何としてもこの要求は通すぞみたいな形で要求が来たことはうちの娘からだったですね。滅多になかった気がします。物添えりがケースだったような僕の経験ではね、妻の意見は違うかもしれません。
だからやっぱりここも個性と役割が、妻だったら絶対私みたいなめんどくさいことはしないと思うんですよ。やる意味を認められないでしょうから。私はこれをやらない意味が認められないから、ここは意見が合ってないわけですよね。で、これもまた甘えじゃないですか。僕も甘えていて、妻も甘えている。だからこれをですね、否定できないと思うんですよね、結局。
ここを否定してしまうということは、他人の甘えだけを否定して、自分の甘えはいいんだってことになってしまう。だからここに正しさが必要になってくるわけですよ。君たちの甘えは全部間違ってるが、俺の甘えは正しいからいいんだって、これしかないですよね。
もし、この自他の甘えをラブルスタンダードするというのであれば、もう正義一辺倒になるしかないと思うんですよ。それも要するにちょっとエディプスっぽいんですけど、パターナリズムですよね、事実上のね。一番正しいことが分かっている人が全部決めるというやつなんだけど、これは先日から申し上げている通り、ものすごく疑わしいと思うので。
むしろ僕がやっていることというのはどっちかというと正しさじゃなくて、気持ちの問題だと思うんですよ。この自分の甘えだけは通したいという、人の甘えは通したくないという、これだったら分かるじゃないですか。僕はこれ正しさよりよっぽど分かりやすいと思うんですよね。要するに自己愛なんだけど、これはもうみんなそうですよね。赤ちゃんが叫ぶのも、要はそういうふうに見えます。見えるだけかもしれないけど。
これを肯定しましょうまで言うのは言い過ぎなのかもしれない。クラインは多分そうではないんだという話を、昨日ちょっと話をしている方の中で伺ってて、そうなんだろうなと思うんですよね。多分フロイトはちょっと分からないんだけど、でもこれを否定するのはヨーロッパ文化的にも当然かなみたいに思うんですよ。
でも否定するのは、肯定しないのはかな。
でもマイケル・バリントーの一時愛くらいになってくると、肯定的に見えるんですよね。やっぱりね、どう呼んでもですね、分かんないところもあるんですよ。本音のところではどうなのかとか、臨床の現場ではどうするのかとか、臨床の現場でものすごくナルシスティックな人がものすごく自己愛の病理を持ってきたときには、どんなふうに対応するのか。
コフートの曖昧な存在
少なくとも転移は起きますよね。怒りも起きると思うんですよ。怒りも湧いてくると。で、思わず怒っちゃうみたいなね、そういう何かが破れてしまうみたいなシチュエーションも当然、バリントーみたいにできたような人でもなかったかどうかはまた別の問題。
そのときにこのコフートっていう人の名前が出てきたんですよね。コフートはものすごくねじれて曖昧な感じなんですよ。私でもなんでコフートのことをすごく意識するかというと、意識してるんですけど、和田秀樹さんがコフートのことをよく書いてたんですよね。で、結構売れてたんですよ。
今ではあんまり話題になってないんですけれども、あの方が書くものはそうなんですけど、数学暗記だとかね、一線を風靡するんですよね。コフートでも、あの一時やっぱアドラーぐらいに日本で有名になった気がする。これが惜しいですよね。忘れ去られてしまうという。
で、コフートっていうのはアメリカの自我心理学協会の会長をやってたぐらいの人で、でもその後多分自己心理学とか言い出して結構ソース感を食らったような気がするんですけれども、結構でもねアメリカの心理学では密かに隠れコフート派だみたいなことを言い出す人ってパーティーとかではいるんですよね。
僕がアジア人で半分ぐらいしか英語わかってないと思って、実は私をコフート好きなのよみたいなことをね、酔っ払って半分言って来ちゃったりしてるんですよ。コフート結構アメリカでは密かな人気があって、藤山直樹さんが書いてる漢字ではコフートはいかにも藤山さんは好きにはなれんっていう漢字があってですね、面白いんですけれども、フィニコットとコフートは違うんだみたいな。
アメリカで習ったコフート像から考えると確かに違うだろうなって、そもそも自我心理学ですしね。なんか今日はもう全然何の説明も入れずに、しかも専門家ぶって喋ってるけど僕は全然専門家じゃないから、これらの話は全部真逸話で聞いていてください。
すごいこの番組ってある意味、僕の甘えが露呈してるじゃないですか。聞いてる人にしてみれば、専門家どうかもわからない専門的な話をただただ聞いてしまうっていう、この時間の無駄感があるじゃないですか。僕はそれがいいと思うんですけれども、つまり素人談義ってこういうもんだと思うんですよね。
いるじゃないですか。ほら、なんかこう、やたらと野球の専門家ぶって酒の席で喋ってるけど、本人野球できもしないみたいな。でもそれが楽しいじゃないですか。ある意味人間というものはですね、これ無駄だと思うと自分専門家になるまで何も言えないか、本当に素人の話は狭まっていく一方だと思うんですよ。
だから私はそんな世界が来てほしいとは全く思わないので、私はですね、昔橘さんが、橘たけしさん、たかしさん、橘たかしさん、あのあれですよ、ノーセカンドライフの人ではなくて、方ではなくて、あれは橘さんですけど、橘さんと言わない方、橘たかしさん。
あの偉い人が、新橋のサラリーマンを何とも無駄なことをしている連中だみたいなことを書いてたんですけど、そうかなって思ったんですよね。立花さんぐらいの方から見るとそうなんだというのはよくわかりますけど、僕は人生で一番幸せなのはああいう人たちだっていつも思うんですよね。
あれでなんであれじゃいけないのかがよくわからないんですよ。あそこで課長の悪口とか言って、別に全然それでいいんじゃないかなってよく思ってたんですよね、子供の時から。今になってもですね、僕はああいう人生から脱却したいとか別に思わないので。
ただ、今やあれをするのも容易じゃなくてきつつあるという、というか実はあれをしてられるのっていうのはすごい幸せなことなんだよなっていうのをやっぱりですね、世界情勢とか見ると痛感させられますよね。だからあれいいだろうって思うんですよ。
私もあれやってる余裕はまだ全然ないですよ。あれずっとやってたら多分家結構ひどいことになってしまいますから。難しいんですよ。そんなに簡単なことじゃない気がする。あれもやっぱり僕はすごい甘えの世界だと思うんですよね。
肯定されるべきだとまでは言いませんけれども、というか時々言っちゃうけど、まあでも要は攻め合いにあるんですよ。でもここを少し強く肯定しようという意識でいた方が、これを聞いている方はいいっていうのが僕の信念に近いんですね。
甘えの許容
これを否定しちゃダメっていうのは結構大事だと思うんですよ。やっぱりライフハックの人とかもみんなそうなんだけれども、ここは本当にここで攻めに合うんですよ、僕らみんな。どんな人も。でも確かに自己愛の病理みたいな人に甘えOKみたいな話を強くするっていうのはどうかと思うんですけど、それもまたいろいろですからね。
人によって全然違うんで、自己愛もなんか昨日もそういう話を伺いましたし、松木さんの本読んで発見して、こういう分け方やっぱするんだなと厚皮のナルシシズムと薄皮のナルシシズムって言葉が出てくるんですけど、だけどこういう分け方をしなきゃならないってことはやっぱりこのグラデーションも厚皮というか、結局のところ概念って限界があるよねっていう感じが非常にします。
だって僕らはある程度ナルシシズムじゃなきゃむしろ危険だと思うんですし、そうならざるを得ないと思うんですよね。
例えば包丁で手刺しちゃったって言った時に、やっぱり痛むのは自分の手じゃないですか。
この痛みを奥さんも持ちますとか、僕はあの種のオカルトがあんまり好きじゃないんですよね。いや、持ってほしくないしって思うんですよ。
刺しても自分なんだから、自分の体だけ痛ければいい。だから我々はある程度ナルシシズムなんだと思うんですよ。
フラガノさんのGood Vibesのお話で僕が一つの発見なんだと思っているのが、つまり過酷な世界でお釈迦様みたいにならなくったって、過酷でない世界では平穏でいるっていうのは普通の能力でできるじゃないかっていうニュアンスが強くあるんですよね。
僕はこれと甘えが現代の社会で言う甘えですね。これ江戸時代の甘えとかやっぱりもっときつかったと思うんですよね。
だから現代の社会で言う甘えはほぼ一致させられるんじゃないかと思ってるんですよ。だから特に具体的なところ、具体的なところで僕はこれを使うようにしているんですね。
例えばミーティングの時とかに甘えた方の意見の肩を持つっていうのをすごく僕はやっぱり意識するんですよ。それで本当にまずいことになったら考え直せばいいんだけど、だいたい全然まずいことにもならないんですよ。
だったら甘くない方の意見に加担する方がリスキーなんですよ、本当に考えてみれば。甘くない方の意見に加担するということはストイシズムをみんなに強いることになるじゃないですか。
それを会議の場とかでやってしまうと、その組織全体がストイックな方向に少し向かいますよね。
それが本当にそうでなければ会社が破綻するって言うならそうする方がいいと思うんだけど、そうする必要もないのにストイックな方を何か余剰とか保険とかのためにやってしまうと、みんなで無駄なエネルギーをそこで使うことになって、そこに一つのコストがかかってくると思うんですよね。
甘えのリスクと建設性
ギリギリのラインまで甘えるっていうのが甘えのあるべき姿だと思うんですね。
僕らは例えば自立の支援みたいな言い方をして送らせるわけじゃないですか。
よくよく子供は手厚く教育すると。これは甘えなんですよ。
甘えたことは言ってないで早く自立させようってことになるから、親は刃を握らせてみたいな話になっていくわけじゃないですか。
なるべく早く独り立ちさせて、なろうことならば刀を持たせて自分で自分の身を守れるみたいな。
これをやるってことは、自立だけ早まるかもしれませんけど、いっぱい取り逃すことがそこの前にできたはずのことをどんどんどんどん削っていくことになりますよね。
これを組織でストイックな方向を向くときには、わずかですよ。わずかだけどやることになるはずだと思うんですよ。
そして組織なんで、全ての人員にそれをある意味周知することになるじゃないですか。徹底はするかどうか知りませんけど。
だから、うちの子が今言ってる女子校ですけど、言い出ても思いますもん。
やっぱりどうしても学校っていうのは好んでストイックな方向に向かわせようとするんだけど、そうすると全体的にコストを払うことになりますよね。
朝5時台に起きなきゃならないとか、寒くなってもコート着ちゃダメとか、いろんなストイックな方向を向かせたがる力っていうのはやっぱり働くわけですよ。
だけどそれをやると、150人とか300人とかに一斉にコート着ない冬に歩く、朝暗いうちから起きるみたいなことをやるわけですよ。
そうすると何が起きるかというと、当然起きられませんという人が出てみたり、インフルエンザが流行りましたってことが起こるわけですよ。リスク取ってるんですよ、これは結局。
そこは逆だと思うんですよね。学校に文句は言いませんけども、ギリギリのラインまで甘えというものを許容する方向に向かわないと、こういうことになるしかなくなる気がして、そしてそのコストをみんなで何のために払ってんだかもよくわかんなくなってくるわけですよ。
現代みたいに、やろうと思えばもっと甘えられる社会でわざわざそれをやるということの意義ってのはよっぽどはっきり問わないと、ただただ我慢大会で寒風大会やってますみたいなことに、今日も何か言ってたんですけれども、そういうことが本当に起きちゃうわけですよね。
特に意味はないけど風邪を引きましたみたいな、こういうことになるんで、いいことないという感じがするんですよ、感じとしてですね。だから特にそうでなくてもライフハックとかやってる人はすぐ長時間の方に傾くから、すぐ脅迫的な方向に向かっていくから、すぐ多くのチェックリストを作り出して、いつしかお辞儀の角度は45度みたいなチェックリストができちゃうんで、
そういうことになりやすい、ちゃんと育てられたっていうことなんだと思うんですけれども、逆に行くとですね、そうしないと自分の生活がダメになっていく恐怖っていうものを持ちやすいんだと僕は思うんですよね、心理的傾向として。
だから、極力具体的に甘えていかないと、観念だけで一時ナルシシズム知ってますというのではちょっと不十分かなって感じがするんですよ。どうせ、厚皮のナルシシストみたいな行動を取れないと思うんですよ。我々は、タスクシュートとかチェックリストとかやってる人たちは、せいぜい薄皮の、しかも入口付近に立つ程度であって、
そんな脚を机の上に乗っけて、誰か入ってきたらお茶を持ってこいみたいなことを言うようには、僕らは慣れない気がするんですね。しかもそれをやっていて、それが当然だと確信できるほどひたすら甘えに突っ走れるっていうタイプの人は、私のこの話を聞いてる人にはいないんじゃないかって気すらするんですよ。
だから、そっちの心配をするよりはですね、甘えられなくなっている心配の方をした方が、はるかに建設的であるんじゃないかなっていう。これは価値観間違いなく入ってますけどね、私もね。これで価値観が入ってないというつもりはないですけれども、入ってますが、そう思うわけです。
先日、YouTubeですね、ねふたさんとべっくさんがフォトキャストの対談をなさってたんですね。その時に僕の名前がしらっと出てきて、要するに僕は準備もしないでイベントの時ばーっと喋って、あれは怖いっておっしゃるんだけど、怖いっていうのはつまり甘えられないってことじゃないですか。
私はここはギリギリまで甘えるっていう、これで批判されたことがないってわけじゃないんですよ。でも批判というのはオッケーなわけですよ。だって批判してる人の甘えなんでね、ここを嫌だって思うってことは批判するなってことになっちゃうんですよ。
そうすると、さっきの星1じゃないですけど、星5つけろってことになるじゃないですか。つまりそれがナルシシズムの世界だと思うんですよ。で、当然じゃないですか。そういうふうに我々が思うのはね。
我々が世界を自分にとって都合のいいように、都合のいいようにしたいのは当然ですよね。できれば夏も冬も国書とか国歌をやめて、15度から28度の間に収まっててくれると幸せですよね。そしてみんな自分にはいつもいい顔をしてくれていて、僕が本を出したら飛ぶように売れて星5がつきまくると。
それがいいに決まってるじゃないですか。でもこれをどこまでも突き進めようとするとですね、やっぱり脅迫的になるかどことん自己愛的になるか、どっちにしても孤独になっちゃうと思うんですよね。この世界を実現するために、やっぱり僕が一番先を行ってるのが総書記だと思うんですよね。知らんけど。将軍なのか総書記なのか知りませんけど。
彼はやっぱり孤独ですよね。僕が見る限りすごい孤独に見えるんですよ。だって本当に笑ってるかどうかが決してわからない世界に住んじゃってますから。つまりあそこまでやってもですね、結局は本当に笑ってるかどうかわからないところに人は行き着くしかないわけですね。僕はあの権力の1000分の1も1億分の1もないから何をするかというと、家に引きこもることになるんですよ。
もっとわかりやすい孤独がやってくるわけですね。Amazonで物を買い、お金をしこたま貯めて、笑ってくれない人と会わないと。
だから、バーチャルで笑ってくれておっぱいも見せてくれる女の子に囲まれる。人はそこにいないわけですからね。めっちゃ孤独じゃないですか。僕はその途中ちょろっと言いましたけれども、結局非常に甘えてくる相手。
昔僕をいびった先輩みたいにですね。家で面白くないことが起きるとか、いい成績が取れないとか、つまり甘えが満たされないから下級生を逃げられないようにして詰めていくみたいなことをやるんだけれども、だからめっちゃ甘えてるんだけど、
甘えを肯定できなくても否定しない【GMV 878】
ああいう人と距離を取るっていう発想だけでいくとですね、僕らみんな孤独になるしかないような気がするんですよ。だから、ここで甘えは許されないっていうのは避けたほうがいい気がするんですよね。それによってどうするのかっていうのは、個々人でその都度その都度考えて、いわゆる善処するしかないんだと思うんですよ。
結局僕も何らかの形で善処したから死んじゃったりしなかったわけじゃないですか。どう善処したのかはもう覚えてもいないし、どうせ無様な切り抜け方だったに違いはないんだけど、無様でいいわけですよ。そこでスマートに切り抜けたり、距離をきちんと置いたり、何ならいろいろソーシャルムーブメントを起こしたりしなくても、とりあえず切り抜ければいいわけですよ。
そして向こうの人も、そういう甘えをしたにも関わらずというか、それはそれとして普通にそのまま生きていければ十分だと思うんですよね。あとはしんばしで飲んだりしてればいいと思うんですよ。こういうふうに言うと、何とも言えなく残念な世界のように思われると思うんですけれども、私はここが逆だと思うんですよね。
一見したところちゃんとしたストイシズムに走ると、みんなでインフルエンザになったり、起きられなくてカウンセリングの塔を叩いたりする以外の方法がだんだんなくなっていって、みんなでコストを払っていて、残念じゃなさそうに見えるだけの世界を作るっていうことになっちゃう気がする。これもイリュージョンですけどね、今の僕の全部空想なんでね。
ただ、そんな気がするので、肯定とまでは言わないまでも否定次第。結局それはゆるくというのかよくわからない形でにせよ肯定されるってことになるんじゃないかなって感じがしますけどね。