2020-12-14 32:59

【GMV 273】スッキリしたい!?

人は、負担が増えても負担感が減ったと感じることはできる!
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
最近、立て続けに本2冊、KDPから出していまして、
佐々木さん、自分の時間がないんですという、確かにこれよく考えてみると疑問系じゃないんですよね。
相談っぽいタイトルなんですけど、相談にはなってない。
ある意味、現状を言ってるっていうのに対して私が受けるっていう形になっている。
でも、現実のカウンセリングって実はこういう切り出される方が多いんですよね。
これこれ、こういう悩みがあって何とかしてくださいっていう、そんなに単刀直入というのかストレートなのは実は滅多に聞かなくて、
重くというか難しくなればなるほど、ほとんど何も発さない人みたいなのがいらっしゃっているらしくて、私そこまではないですけど、
例えば1時間なら1時間の59分くらいになって、いきなり死にたいんですみたいなことを言うみたいな話、よく読むんですよ。
だから時間の区切りは大事っていう話もあったりします。
話がすっとびましたが、という本が出てますので、よろしかったら。
多分ですね、今こういう事態が進行してるんですよ。
ちょっとコロナがすごく猛威を振るったために、すごくひっかき回された感じはあるんですけど、
やっぱり全体的傾向として、神の本離れっていうのはもうとどめようもない勢いで進行してきてるんですね。
ちょっと何年もの間。
ここ1,2年は極端なんですよ。
その反動みたいなのもちょっとあって、少し回復気調も感じられるんだけど、とにかく凄まじいんですよね、全体で見れば。
一方で電子書籍っていうのが普通に伸びてきて、これもかなり顕著に伸びているんですよ。
多分ですね、このKDPというのは月額1,000円くらい払うと、アンリミテッド対象のものが無料で読めると。
これはですね、言ってみれば、月額制の図書館を電子で持ったみたいな感じで、多分これが一軸になるような気がするんですよね、著者にとっては。
これだけで食べられる人はかなり一握りに限られるんでしょうけど、これが連載での収益の代わりになるとかね、そういうのがあると思うんですよ。
あと有料の電子書籍、これは多分今後出版社さんが出してくる本の電子書籍がほぼ紙と同額で、同額の8掛けくらいかなって出てるのが主流になる気がします。
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それと紙の本みたいな、この3軸でやっていくっていうのが多分、もの書きのかなり多くの人が占める。
その中でも紙を出すのは多くの人にとって難しくなり、私にとっても難しくなってるんですけど、難しくなっていく一方な気がするんですね。
なぜなら紙は今となってはもう贅沢品なので、電子で出せるし、ネットで読めるので、
つまり紙の本をわざわざ、しかもAmazonじゃなくて本屋さんに行ってまで買ってくださる方は、
当然そんなにたくさんっていうことは、昔みたいにたくさんいるってことは他の手段がいっぱいあるわけですからね。
考えられないので、あえて買ってくださるという形になっていくと思うんですね。
しかも紙でなければ嫌だ。例えばうちの父がそうなんですけど、紙でなければ嫌だ。
うちの母にだって紙じゃないと読めないという人なんで、そういう世代ってどうしてもだんだん減っていかざるを得ませんよね。
だから確実にこの流れは進んでいき、紙だけでやっていくっていう人はほぼいなくなるという。
今でも明らかに紙以外での媒体では読めないなど言えるのはですね、
亡くなってしまったような方を除けば、現役でバリバリにやっていらっしゃる方でそうだと言えるのは
浦沢直樹さんしか私には考えつかない20世紀少年とか、あれは電子媒体では読めないはずです。
今で言えばビリーバットも紙じゃなきゃ読めないはずです。
じゃないのは、たぶん昔の、昔じゃないな、私たちの言葉で言う自炊をしている人だけでしょう。
ということがあるので、アンリミテッドで読んでくださるという読者さんはすごく新しい読者さんで、この方々には大変ありがたいなと私なんかはすごく思っております。
なかなか月額1000円って払わなきゃならないですしね。
もっともっとラインナップの8割はアンリミ太陽だというのならまだしもそうではないんですよね、現状ね。
やっぱりここが一つのハードルになるんだろうなという感じはしております。
いずれにしても、なんだかんだ言ってですね、インターネットというのは無料のワールドじゃないですか。
お金を払うというのもようやく最近ある程度出てきているんだけれども、無料のワールドなので無料の時続きの中で読めるということは大切なんだよなとは思うんです。
無料じゃないんですけどね、アンリミは。
でも本の8割がもし無料で読めるようになったらそれはもう無料に限りなく近いですよね。
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あとはそれでどれだけの人がやっていけるのかという話だと思うんです。
すでに6分経過しているので、商業出版からのものは私のコントロールではないので無理ですが、なるべく自分で出すものはアンリミで、というかほぼ全部アンリミで行こうと思っています。
商業出版社さんとの契約があるケースでもなるべくお願いしてアンリミに対応してねという話はしています。
特に時間が経ったものはそうじゃないと読まれなくなっていくとしか思えないので、そうしたからといって出版社さんの方にもメリットが、当然ないとは言うことはありえないんだけどすごく薄くなってしまう場合ですよね。
わざわざやってくださるケースは、そう多くは望めないにしても今後こういう流れになるはずなので、いくら紙がある程度回復したとしても、私の本でも巷で見かけなくなったものがわざわざ書店さんに置き直してもらえる理由はありませんから、
そういう意味で他の著者さんもそういう風な流れになった方が多分出版でやっている人全体にとってはその方がやっていきやすいんじゃないかなという風に思ったりしています。
これで7分。
いつも通り、喋るって時間がかかることなんだなということを考えさせられますね。
本題に入りますと、先日ブログでツイッターで出回ってきたもので、要は離婚した話を読んだんですよ。結構長かったんですけど、大変面白い話だなと思いました。
この種の話を取り上げるとどうしても性別的な話から何かを批判しているみたいに聞こえてしまうかもなんですけど、そういう意図は全然ないんです。
何と言ったって他の人のことですからね。
プラス、夫婦のどちらの言い分もよくわかる気がするんですよ。一応子育てをしてきているし。
子供がある程度より大きくなっちゃうと、これは過去にあった自分の話として読める。
気楽なんですよね。もう一回やるとなったらそんなに気楽じゃないかもしれないけど、とりあえず終わってしまったことって、しかも昔の苦労話みたいなのは気楽っちゃ気楽なんですよ。
どっちからの立場で見るとかいうことを特にしなければ。
これ、離婚されているんですけれども、要はですね、いろいろなお話があって、やっぱり個別の事案、個別のケースっていうんですかね。個別は個別なんですよね。
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夫は育児に強力的で、誰もが羨む素敵な夫だったんだけど離婚したという。円満にしかも離婚したかのような。
かのようなというのは、つまり文章だけじゃ分からないですからね、という話だったんですけど。
私がこれを見て最後に非常に感銘を受けたというか、やっぱりそうだよなと思ったのがですね、離婚して夫の人は物分かりがいいのか分かりませんけれども、
すごい近所に住んで、今後も育児には協力するし、他にはちょっとね、はっきり書かれてなかった気がするんですけど、そういう形にして、別居なのかなあれはな、離婚なんだったと。
でもやっぱり離婚したって書いてあったから離婚なんでしょうね。離婚したということになっているわけなんですけれども、でも夫は協力をしていくと。
それで夫も子供に会える形にするという、これ現在の取り決めがどうであれ今後どうなるかはちょっと微妙なところかもなと思いはしましたが、
それよりもその後ですごい奥様の開放感がありまして、いや本当に良かったって感じなんですよね。
これを読んでつくづく人間というのはこういうものなんだと思ったんですよ。
50-50ではないから、特に書いてあったのが夫の当事者意識。
この何かですね、会社で使われそうな言葉が家庭に持ち込まれるのが最近の特徴ですよね。
当事者意識とか、役割分担という言葉は昔からあったけど、責任分担とか、配分率とかね、すごく何か、
僕あんまり会社で勤めたことないですけど、貢献度とか、全部会社で使われそうな言葉だなと思うんですよね。
それは良いんですが、要は50%-50%じゃないじゃないかっていうことが奥様を苛立たせる。
旦那よくやってくれているように見えるけれども、私の負担の方が遥かに大きいということが問題になっているわけですよ。
しかも夫は酒と煙草をやっていて、両方辞めると言っているのに効かないとかそういう話が書いてきて、この辺が個別事案だなと思うんですよね。
まずやってない人、今いっぱいいますし、酒と煙草をやるのが全部男とは限りませんからね。
そういうふうにどうしても書かれてしまうのは、そういう感覚が、そういう一種のステレオタイプが、
根強くあるからなんだと思いますね。
酒と煙草にしてもそうなんだけど、別に辞めるのは実は簡単なことなんで、辞めればそれで済む話にも思うんだけれども、
辞めてくんないと、辞めると言うけれども辞めてくんないとか、この話をよく読んでいると、つまり、
育児の時に、子供の時に、子供の時に、子供の時に、子供の時に、
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つまり、育児の負担の話ではなくなるわけですよ。
どこかでこういう話ってねじれる気がするんですよね。
タバコは百歩譲って、子供の健康を害するということを、
僕はこれも疑わしい話だとちょっと思うようになってきたんですけれども、
あるとしてもですね、酒はもうこれはですね、よほど飲みまくるとかじゃない限り、
子供の影響とかいうのは難しいと思うんですよね。
でもなんかこう話が繋がっていっちゃうわけですよね。
お酒を飲めば家計に負担がっていうような話になって、今奥さんも働いてますし、
もしかすると奥さんの方が収入も大きいのかもしれない。
でもですね、面白いなと思ったのは、離婚するわけじゃないですか、したわけじゃないですか。
そうすることによって奥様の育児の負担は一向に減らないんですよ。
増えたと私は思いますが、あえてそこは置かない奥としても減ってはいないと思うんですね。
で、家計の小収入も奥様の方がたとえ収入が多かったとしても増えはしてないはずなんですよね。
今言うと支出がぼっとぶん減るかもしれませんけれども、
全体でトータルで見て、しかも今後生きていくことを考えていくとですね、
負担も収入も明らかに上向いたとは思えないわけですよね。
負担が離婚することで減り、収入が離婚することで増えるっていうことは起こらないじゃないですか。
しかもそれが今後の年月のことを考えてみるとですね、
夫がいなくなることによる家事、育児、家計の総メリット、トータルメリットというものは、
よほど夫があれですよ、むちゃくちゃだったというなら別ですが、
育児にも協力的な素敵な、そう書かれてたんでね、
人も裏屋も素敵な旦那だったとするならば、夫だったとするならば、
トータルで全てが上向きになるというふうに考えることは、
数字の上ではできないと思うんですよね。
でも素晴らしい開放感があって、子供をぎゅっと抱きしめて充実感があったというふうに書いてあって、
この文章も面白いと思ったんですよ。
夫がいると子供を抱きしめるのは禁じられていたんだろうか。
いやわかんないですよね、これもね。
もしかすると夫はそれを禁じていたのかもしれないんだけど、
それは僕にはちょっとやや理解しがたいので、
育児に対して何か否定的な夫だと言うならわからないではないんですけど、
肯定的だとなるとちょっとやっぱりそれもわかりにくい話ですよね。
つまり、要するに読んで僕が感じたのはですね、
これは負担の問題では全然ないんだということなんですよ。
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疲労感が取れたとは書いてなかったかもしれないけど、
文章のインパクトとしてはそういう感じなんですよね。
疲労感が取れた。
でも疲労感は取れないじゃないですか。
別に離婚したからと言って、本当はね。
疲労感が取れたということは、負担が増えておそらく増えるんだと思うんですね。
支出は減るから収支はわかんないですけど、負担は絶対増えると思うんですよ。
少しでもやる人が減るってことは負担は絶対増えると思うんですが、
減った感じがするんだと思うんですね、負担も。
これはつまり、私たちが作業とか仕事とか用事とか、
同じこと言ってるんですけどね、全部。
タスクとかいうものに対して全てを感じていることと同じだと思うんですね。
自分の疲労とか体力とか、それこそ気力が削られるっていうのもいいですよ。
全部イフュージョンなんですよ、きっとね。
だって、文章の発端は、離婚の発端は負担率の問題だったんですよ。
負担が自分にとって多すぎる。
少なくともそれはあったわけですね。重要なファクターとしてあったわけですよ。
ところが、離婚の結果によって得たものは負担の増大なんですよ。
ところが、この文章全体から読み取られることは、負担感の大幅な減少なんですよ。
これは負担感と負担というものが決して比例するわけではなく、
比例どころか、相関によるプラスの相関ですらなく、なぜかマイナスの相関になっているということですよね。
矛盾ではないですよ。負担と負担感は違うものですからね。
ポイントは、負担が仮に増えたとしても、負担感が減るということは起こるということだと思うんですね。
しかもこれは夫が憎かったとか、この番組で何度か紹介させていただいてしまった女優さんのお話とかとは違うんですよ。
夫に対して悪意を覚えたとか、悪意は覚えたかもしれないけど、少なくともそんなに強い憎悪感情は入ってきてなかったんですよ、文章を読む限りでは。
つまり、夫が肯定的に捉えられていても、なお結婚している場合における負担よりも、離婚した時の負担増の状態の方が受け入れやすいというほどに不公平感というものが問題だったわけですよね。
ということだと思うんですよ。それ以外、合理的に解釈できなくなっちゃうんで。
本人もその問題なのは離婚後の話なんですけど、もしこれで結婚しか続いていれば、50-50じゃない、キーッとなっていたと書いてたんですね。
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でも今はそうじゃなくて、とても解放感があるみたいな感じなんですよ。
これは、つまり負担が減らなくたっていいんだと、公平でありさえすればいいんだということだと思うんですね。
もう一つありますよね。もう一つあるのは、不公平だからやはり罰さなければいけないというのはあると思うんですよ。
これは離婚が一つの罰に、離婚を両者が円満に納得して、それが罰として機能しただろうかというのもあるにせよ、
一つの罰に近いものだとペナルティみたいなものなのかなとは思うんですね。
そういう意味でのすっきり感というのがあったと思うんです。
私はこれを読んで、これが理不尽だとか、この考え方おかしいと言いたいわけではないんですよ。
そうではないんですよ。私が言いたいのは、人はこんなにこの種のすっきり感を大事にするんだと言いたいんですよ。
ことが離婚だから、こういうことって何かここまで考えて、ここまで検討して分析する、値するみたいな感じで言ってますけれど、
私たちはこればっかりやってる気がするんですね。
みんなのみんなではないかもしれませんけど、夫婦喧嘩っていうのは100%これだと思うんですね。
すっきりしたいという、何とかして釣り合いをとってですね。
釣り合いをとってというのは、一番極端に言えば、私が全く悪くない事例、何でもいいんですけどね。
例えば、まもなくクリスマスですが、クリスマスケーキを私は食べないんですよね。食べれないから。
で、奥さんがケーキを焼くしようとしたら売り切れていたと。で、キーッと鳴るわけですよ。買えなかったからね。
お前が食わないから、食わないとか言うからこんなに遅くなってしまって遅れたんだって言われたら、カチンと来るじゃないですか。
カチンと来るじゃないですか。そういうことはかつてあったわけですね。
で、ここで私が考えることはすっきりしたいということなんですよ。すっきりするために言い返すわけですよ。
で、ここで黙っていると、そやきさんが一方的に損するじゃないですかって言ってくださる方は大勢いらっしゃるんですね。
でも私はこの損をするという感覚と、さっきの離婚をして解放感を得るという感覚が全く同じものだと思うんですね。
つまり私が理不尽なことを言われて言い返すことによってバランスが取れるというのはおかしいんですよ。絶対に。
何のバランスが取れるのかと。で、それを考え始めると何のバランスも取れないんですよ。
バランスというのは重さの話ですからね。基本的には。
お互いが言いたいことを言い合ってすっきりし合うことでバランスが取れるというのは一つのはっきりイリュージョンで、
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これを私たちは離婚であろうと負担であろうと何であろうと適用して、適用可能だと、しかも適用可能だという現実の方がはるかに客観的だと
みんなで信じているところがあるんだと思うんですね。だから一方的に言われているだけでは佐々木さんが一方的に損をしていると言ってくださるんですよ。
少なからぬ方は。人によってはあくまでも男女の関係である女性の肩を持つという方もいらっしゃると思うんですよ。
でもそうだとしてもですね、やっぱりこの話バランスの問題になっちゃってるんですよ。
奥様は日頃大変なんだからそこで旦那さんは優しくしてあげて初めて釣り合いが取れるみたいな言い方をするじゃないですか。
どっちにしても話が釣り合いになってるんですよね。私は釣り合うことはあり得ないし、
もともと釣り合いが傾いたという観念を持つこと自体が多分この種の問題を一層ややこしくしていると。
もともと誤解か行き違いかおかしな行動なのでややこしさはあるんですよね、そこには。
でもこれを釣り合いとかバランスとか50%とかいう話に持ってったところでちょっともほどけやしないんですよね。
ほどけた気がするかもしれないけれども、いわゆるすっきりするということによって。
ということをこのブログ記事で読んでつくづく納得したんですよね。
そうかな、そうかなと思ったんですよ。
つまり負担感というものが問題であって、負担は問題じゃない。
倉須野啓祖さんの言う通りだなと思ったわけですね。
私たちは疲れを問題にしているわけじゃないんですよ。
疲れる疲れる言うけれど、疲れる育児は疲れる。
でももっと疲れる道を選んで、しかもそのことに多大な喜びを感じているわけじゃないですか。
元の問題は疲れることだったはずですが、実は疲れることは少しも問題じゃないんですよね。
疲れを分かち合っていないところが問題なんですよ。
分かち合わないぐらいだったら、より自分が100%疲れたほうがいいわけじゃないですか。
本当にいいかどうか分からないですよ。
でも本当にいいかどうかなんて分からないんですよね、結局。
だって元々の問題が問題だったわけじゃないわけですから。
多分、当事者意識という言葉もそうですし、多分元々あったのは、
言ってみれば自分だけ不公平感を背負わされるような関係を持とうとしたわけではないということだったと思うんですよね、結婚生活において。
実質的な負担そのものは問題になってなかったんだと思うんですよ、最初から。
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もちろん育児は疲れますから、それは事実そうなんですけれども、
でもですね、多分測定できないものを無理やり測定するから、いくらこの話をしても無駄な感じはするんですが、
疲れることが問題ではないんでしょうね。
まして私たちのタスクとか作業とか用事とかは、多分全く疲れが問題になってない気がします。
最近思うんですよ、これ何度か話したかもしれませんが、娘がだんだん用事を言いつけてすぐ動かなくなってきたんですよ。
これを僕は成長と呼ぶんですよ。だから私は成長という概念がポジティブでも善でもないと思うんですよね。
ただ成長は必要だとは思いますけどね。
3歳とか4歳の頃、5歳、6歳、7歳になってもうちの子は随分親好きだったから、
パッと飛んでいって何でもしてくれたんですよ。
2階に行って取ってきてとか言っても大概大人はやがるじゃないですか。
走って2階に行ってすぐ取ってきてくれたわけですよ。
さすがに最近動かなくなってきたんですよね。
これを僕は成長と呼ぶんですよ。呼びたいわけですね。
人は自我が成長するとこうなりますよね。
親が言った通りに手足のように動く病は自我が未発達だからできることであって、
自我が発達すると動かなくなってくるわけです。
思春期の頃って一番疲れてるじゃないですか。
親の50倍ぐらい、50倍は言い過ぎだな。
5倍から8倍ぐらい体力あるんですけどね、実際には。
疲れてますよね、思春期の頃って。
うぜえうぜえって言ってました、私も当時の言葉でですね。
何をやるにも鬱陶しいんですよ。
あれ非常に面白いんですよね。自分が急成長している頃ってああなんだなと思うんですね。
何とか自己中心というものを確立しなければいけないと急いでいるので、
急ぐ理由は全くないんだけど急ぐんですよね。
急いでいるので、とにかく自分のためにちょっとでもならない可能性のあることを排除したくなるっていうのが、
もう強烈に働くんですよね。
これがうちの子にも働いてきて、親としては大変喜ぶべきところなんですけど、
というのは、こういう文明社会の中において自我が発達しないということは不可能なので、
よっぽど徳島育て方をすれば可能かもしれませんが、
うちはありきたりな学校に行かせてありきたりな割と人生を歩ませているので、
当然自我の発達というものは学校生活において必須なんですよね。
絶対に避けて通れない。
避けて通れない。
だから、これが発達すれば当然億劫になる。
その神経が育って来ざるを得ない。
これをできないようでは、自分のために何とかするだろう。
自分のためにこうこうするという観念自体が発生しないので、
27:01
私たちはこれを育ててあげく大人になってそれで苦労することになるわけですよね。
要するにバランスバランス言い始めるわけですよ。
私の領域はこれで、あなたの領域はこうでしょうと。
あなたがこれを自発的にしてくれないならば、大変腹立たしい。
大変腹立たしいということになる。
この腹立たしさを抑制しなければならないということから、
離婚という行為によって解放されるんですよね。
その解放感が絶大なので、この解放感があれば何だってやれるという気がすると思うんですよ。
ここが大事だと思うんですね。
だから私たちはタスクができないんだと思うんですよ。
タスクをするということは、果たして自分のためになっているんだろうかと。
これをよくよく突き詰めて考えると、自分のためになる行為というのは本当にわずかなものなので、
自分のためにしかならない行為というのは本当にわずかなもの。
何をやっても他人のために多少役に立っちゃうんでね。
私が昔悩んだのはこのことだったんですよ、実に。
実にアホみたいな話ですが、このことだったんですね。
とことん自分のために何かをしようって一度、
私は自分の時間がないんです。
冒頭でCMさせていただいたんですけど、
あの本の中でついになかなか理解されないだろうなと思っていることの一つとして、
でも皆さんは考えたことは1度や2度や50度くらいはきっとあると思うんですよね。
本当に純粋に自分のためだけになる行為をしたい。
私はそれくらいエゴイストだったんで、
本当に純粋に自分のため、自分のため以外のことにちょっとでもなったら
その行為は認められないって時期があったんですよ。
真剣にこんなバカみたいなことで悩んでたんですよ。
一つもないんですよ。どうしても他人の役に多少は立っちゃう。
これが許せなかった時代があったんですよ。
それが20代のほんと前半、
もしかしたら20代ジャストくらいだったかもしれませんね。
本当にこのことで悩んだんですよ。
絶対に他人を喜ばせてはダメだ。
一つでも見つかったら素晴らしい、すごいことだと思う。
一つも見つからないと思いました、私は。
何千と考えたつもりです。
一つも見つからない。
何か他人の役に、何か外部の役に立っちゃうんですよ。
面白いことに。
まず日本のエゴイストは、
まず日本語で物書くのは絶対ダメですね。
誰かが喜ぶ可能性。可能性でもダメですからね。
否定できないので。
人間の言語で書いちゃダメですね、と私は当時思ったものなんですよ。
音楽作るとかも全然ダメですよね。
聴いて喜ぶ奴が絶対いるから。
聴いて誰も喜ばないような音楽じゃないとダメです。
しかもそれを聴いて自分は喜べるようじゃないとダメです。
そうだと思うんですよ、定義上。
これは無理なんですよね。
人間の活動としてはですね。
呼吸とかも基本ダメですね。
30:00
植物とか喜ぶ可能性があるから。
こういう考え方になるんですよ。
でも私は純粋に自分のためっていうのは、
そういうようなところまでいかないと、
何て言うんですかね。
中途半端に承認欲求を満たしちゃうと思ったんですよね、当時。
それがすごく自分で自分に腹立たしかったわけです。
話は少し飛んでるんですけど、
でもこれは私は究極的にはバランスとか貢献の問題と深く絡んでると思うんですよ。
結局のところは分けられないんですよね。
自分の時間がないんですね。
議論になってる部分だと思うんですけど、
分けようがない部分ってあるわけですよね。
ご主人が皿を片付けました。
自分の分だけ片付けて。
自分の分だけ片付けて。
エゴイスティックだっていう話に当然なるけれど、
自分の分だけ片付けたとしても、
得するのは自分だけではないんですよね。
この辺を全部加味して50-50というのを完全に線引きするのは、
それは無理っていうものですよ。
何したって50-50にはならない。
だからスッキリしないんですよね。
50-50を目指すという点では。
やりようがないって。
お金だけ50-50にしても50-50にはならない。
負担感っていうものは感じることなので、
負担そのものと関係ないことなので、
そのことをあの記事はよく教えてくれたんですよ。
負担は増したって負担感が減るってことは、
現実にはあることなんですよね。
そして、それに対してスッキリしたいという気持ちが、
私たちはこんなにも強い。
グッドバイオス的に言うと、
このスッキリは何も言えることがないっていう話になっていくんですよね。
それはグッドバイオスのぶっちゃけ相談というやつの、
今日あたりで言えば一番新しいところの話でしてます。
怒ってスッキリするというのは、
何がそれで得られるのかって話をしてるんですけれども、
これが私はまだなお難しいと感じているんですよ。
つまり、得るものは何もないのは、
どう考えても、どういう経験を掘っていっても明瞭なんです。
得るものは何もないんですよね。
失うものしかないんですよ。
でも、スッキリしたいっていう気持ちにとらわれちゃうんですよね。
しかも、これを後押ししてくれる人々の存在すら確かにあるわけですよね。
そこで黙ってちゃダメだみたいな話ですよね。
あれですね、本当にすごいことだと思うんですよ。
何の得にもならないことをしないと、
ものすごく大きな損だと思い込むという何かなんですよね。
まあ、イリュージョンなんですけれども。
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