2021-09-09 34:20

【GMV 455】嫉妬と羨望

自分と相手とそれを見ている私
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
ここのところ、グッドモーニングバイブスがものすごく偏っていて、
グッドバイブスな話題がすげー少ないなと、最近起こった現象じゃないような気もするんですけどね。
でも、しばらくはここで頑張ろうと思ってます。
今しゃべっているようなことって、とかくわからないことだったので、
ずっと僕が一番わかりにくい世界だと思っていたところの一つなんですね、心理学の中でも。
他のはわかりやすかったんですよ。行動主義とか認知心理学とか社会心理学とか、
読んでわけわからんと思うことはほぼない。生理心理学とかも脳のここからこういうのが出てくるんです。
それはもう出てくるわけだし、別に難しくはないんですね。
私は一浪してからは英語学科に大学に行ったけど、現役時代はバリバリ理系だったんで、
別に心理学で出てくる程度の統計学とかイオン化傾向とかは容易だったんですね。
何ら難しいところはなかったんで、心理学全体を通して一番わけわからなかったのは、
このイギリスで主体となっている精神分析の話だったんですよ。
いまだに使う用語も独特だし、用語が独特な理由はようやくわかってきたけど独特だし、
わけわからなかったんですけど、これがわかると本当に色々といいなと思うようになりました。
これがわかるようになった要因にグッドワイブスがあるから、そういう意味で強い関係にあるんだけど、
この話を進めていくとグッドワイブスが随所に僕の意識では出てきているんですけど、
言及するとちょっとうまく説明できていないところがあります。
今はそういう感じですね。
先日、昨日ちょっとお話しした嫉妬度戦法って、これそのまんまのタイトルの本がメラニー・クラインが書いた、
嫉妬度戦法っていうのがありまして、一言でまず簡単に、簡単には絶対言えないんですけど、
簡単に言うと、それでも無理やり、し簡単に言うと嫉妬は戦法より良いんですよ。
もうまずこれがメインなんですね。
私でもこのことを学生時代に何かですね、感じてたんですね。
大学生1、2年の頃だと思いますね。
自分は嫉妬ができない、すごく未熟なところがあって、子供っぽすぎて嫉妬にならないっていうのがすごいコンプレックスになってたんですね。
これがクラインが説明してくれていることなんですよ。
03:03
こういうふうに役に立つんですね。
こういうのって行動科学とか認知心理学では、社会心理学が出ていてとしても全然わかんないんですよね。
なぜ人が嫉妬するのかとか全然説明になってないような気がするんです。
そういう意味で心理学って何なんだよって思うところがあったわけですよ。
好きでしたけどね。
嫉妬と戦亡っていうのは、要するに要せてないんですけどね。
戦亡というのは二者関係なんです。この世に二人しかいない世界。
本当はそういう世界ってないんですけどね。
それは世の中的にないっていうんじゃなくて、心理的に成立しないっていう意味なんですけど。
後ほど説明簡単にしますね。
嫉妬っていうのは三者なんです。これはわかりやすいですよね。
嫉妬って三角関係と常に関係がありますよね。
三者関係なんですよ。
これは私たちの人間の精神にとっては正常な心の状態なんですよ。
よしよしは別ですよ。ただ、正常なんですよ。
散々パラココロココのところミニコットとクラインみたいな。
だから今日はミニコットとクラインなんですけど結局。
ミニコットって人は最初人は一人だと、一人だって言うんじゃないですか。
一つなんだってことなんですよ。
母と子で一つなんだと。一体なんだと。
これはもうそういうイメージを持っていただきたいんですけど。
母と子がくっついていてワンユニットなんですよ。
そういうなんかカプセルみたいなもの。
なんかカプセルあるじゃないですか。
一方が黄色で反対側が赤くなってるやつ。
ああいう感じなんですよ。
母と子でワンカプセルなんですよ。
これがわかんないともうミニコットって読んでいても尻滅裂になっちゃうんですよ。
だからユニコットにとって子供が一人だけいるということはありえない。
このセリフは有名なんですけど。
ニュージーが一人だけいるってことはありえない。
それはもうカプセルが半分取れちゃってる状態なんで。
危険極まりないようなんですね。
すぐ死んじゃうだろうってことですよね。
同時にこのことはこういうことを言ってるんですよね。
お母さん一人だけってこともありえないですよって言ってるんですよ。
現実にはありえますけども。
この母子っていう世界で見るとそういうものはないんですよ。
だからこの母子の心の中では
母の心とかこの心とかはないんですよ。
母子の心しかないんですよね。
これがすっごく大事なんです。
ワンなんですよね。
たった一つしかないと。
そこに幼児はいないって言い方をするんですよ。
言い回しは非常にドフドフですけどね。
幼児はいないんですよ。
外から目で見ればいますけど
主観性の中にはそういう存在はない。
ないと思うんですよね。
私とか私は子供とかあるはずがないですよね。
私がないんだから対象もないんですよね。
このことがすごい大事で
一者しかそこにはいないっていう。
06:01
これがどうやって三者になるかって話をしてるんですね。
ミニゴッドって人。
二者には絶対にならないんですね。
二者になるということが起こると
そこに病理が発生するっていう感じなんですよ。
二者というのは三者になり損ねた時に
何か非常に良くないことが起きているのが
二者関係なんですね。
ここが多分ミニゴッドって人と
クラインって人の大きな違いなんですね。
クラインは子供と母は二者だっていう。
そして二者っていうのは
ここのところはミニゴッドとクラインに似てるんですけど
二者っていうのはほとんど精神病と同じだと。
すいません。
つまり二者になっているということは
ほとんど精神病なんだよと。
クラインに言わせると乳児というのは
ほとんど精神病状態でずっと過ごしてるんだよ
っていう言い方になるんですね。
ミニゴッドはそうは考えない。
ほとんどの状態で乳児は正常だと。
一者しかいないんだと。
一者というのは子供一人っていう意味ではなくて
母子っていうカプセル一つなんだ
という言い方なんですね。
だからそこに二者なんていないと。
一者しかいない。
だから正常なんです。
ただ人じゃないんですよ。
彼はゴインゴンビイングっていう言い方をするんですけども
息づいているものみたいなね。
また分かりにくい表現なんですけど
要するにそこで息づいている。
で、正常なんですよね。
正気で息づいている。
ただ私たちの心のありようとは全く違う。
私たちは母と自分で一つ
それしか心があります。
あるとすればその心ですなってことはありえないですよね。
母と私で考えていることは違いますよね。
乳児と母は同じように考えているから一者なんですね。
で、これミニゴッドの方は正しい気がなんとなくします。
ただし正しいかどうかを調べる方法なんてないです。
ないですよね。
生後1日目の子供の心の状態を
客観的に証明する方法とかは別にないし。
あとこれ随分違うようなんだけど
結局精神分析を始めるときは
にだりよったりの状態になるんですね。
なぜなら乳児はみんな精神病状態ですと言ってみても
結局のところクライムのところにやってくる。
あるいは精神分析科のところにやってくる人たちは
みんな精神病を何らかの形で精神病的状態で来るわけだから
その人たちが正気であることを前提にしても
精神病であることを前提にしても
結局やることはあまり変わらなかったりもするような感じなんですね。
ただそれに彼らは別に児童心理学やってるわけじゃないんで
どっちの技術の方が子供の技術として正確かというのは
大した問題じゃないんですよ。
ここら辺が微妙なんですよね。
大した問題じゃないんだけど重要な問題なんですね。
私は一者は二者というのはないというのは非常に正しいと思うんです。
09:02
二者という風に私たちって考えられないんですよね。
正気の人間って一者か三者になってしまう。
特に三者になってしまいますよね。
私と乳児と母だったら二者じゃんって思うかもしれませんが
例えば自分のことで考えていただきたいんですけど
私と誰かって考えたら
その私と誰かっていうイメージを持っている私の心って絶対あるじゃないですか。
三者になってしまう。
この瞬間に私と私の母って考えたら
私がいて私の母がいるって思っている私がいますよね。
だからこの場合に二者ってことってよっぽどやばい状態なんですよ。
多分私と母が殺し合いを始めると二者になっちゃう。
余裕はなくなるからなんですね。
私と私の母が殺し合っている様子を眺めている私とかいなくなるんですよ。
でもこれがいなくなるってことは大変なことで
いないときには大体ろくなことが起こってないわけですよ。
だから二者っていうのはクラインが言うところのほとんど正気を欠いている状態。
エニコットに言わせてもやっぱり女ですね。精神病状態。
これが二者。
二者というのはつまり心としては三者を成立させたいんだけど
それがうまくいかないときに二者になってしまう。
で、羨望、つまり羨ましい、羨むということは二者なんですよ。
で、嫉妬は三者なんです。
だから嫉妬が正常。
私が学生時代に女の子と付き合いたいとか思ったとき
どうしても羨みしか出てこないんですよね。
嫉妬が出てこないんです。
その女の子が他の男と付き合っているとかいうことに
何の関係もわからない。
二者関係しか私は意識できなかったんですよ、当時。
三者関係というものがわからなくて
三国関係というのは私の心の中にはその件に関してはなかったんですね。
私はこれがどう考えても子供っぽすぎるって思ったんですよ。
嫉妬だって十分成熟しているとは言えないかもしれないんだけど
なんとなく嫉妬ってすごく大人っぽいことだなって思ってたんですね。
なんでなんだろうとは思いましたけど
そういう感じがしたんですね。
どうしても羨みになってしまう。
羨みになってしまうというのはどういうことかというと
その子とただくっつきたいなんですよ。
これしかないんですね。
なんでくっつきたいのかというと
私にはひどく欠けていてダメなところがいっぱいあるんだけど
あの子とくっつくと良くなるからっていう感じを抱くんですよ。
これしかないんですね。
その子が他の誰かと付き合ってるとかいうことには興味が湧かない。
なぜならばそれは要するにどうでもいいことなんですね。
こういう考え方って普通はしないじゃないですか。
つまり欲しいのはその子の愛だという発想だと恋愛関係だと
その子の愛をもらっている男が羨ましい。
12:02
そいつになりたいですよね。
私はそういう感情が湧かないんですよ。
つまりその子の愛が欲しいんじゃなくてその子になりたいんですね。
これが二者関係。
この方がやばい感じがやっぱりするんですよね。
自分でもそう感じたんですよ。
二者しかいないんですよ。
だからその子が何人と付き合ってても全然構わないんですよ。
これって子供の発想じゃないかなって思ったんですよね。
極端に言うとその子が女の人と付き合ってても構わないんですよ。
嫉妬が湧かないんですね。
嫉妬も湧かないしどういう状態が正常っていうのも私にはわからなくて
とにかくその人がどうであるかは関係ないんですよね。
だけどその人はいいものをいっぱい持っている。
この感じがあるんですよ。
いいものをいっぱい持っている人は外にいる。
自分はそのいいものから隔てられている。
この感じが非常に
これをチェンジ図で何らかの形で描きたいんですけど
要するに戦亡ってそういう状態なんです。
戦亡の対象とかって言うじゃないですか。
一番僕はこれのイメージとしてワイちゃんはアイドルとかなんですけど
でもある意味ではある国の王様みたいなのはそういう感じかな。
とにかく戦亡の対象。
戦亡の対象というのは
その人に愛してほしいってことじゃないですよね。
その人が持っているものが羨ましいんですよね。
属性として持っているもの。
嫉妬っていう言い方をすると
例えばその女の人が付き合っている男を持ってて羨ましいのかというと
そんなことは全然ないですよね。
だから絶対三角関係にならないんですよね。
何かに愛されているとかいう状態を羨むんであれば
それは嫉妬になるわけですよ。
羨むって言っちゃったから混ざっちゃったんですけどね。
誰かに愛されている状態が欲しいんであれば
その人の状態になることはできますよね。
誰かに愛されることはできるから。
でもその人になることはできないですよね。
ここが羨みの厳しいところなんですよ。
羨ましいというのがあまりにも深刻になると
その人にとって変わるしかなくなるんだけど
それはできないことなので
できないことを望むことになってしまう。
でも二者関係には常にそういうところがあります。
抜き差しならなくなってしまうんですね。
例えば大体の場合そうなると思うんですけど
夫婦喧嘩って
誰か友達とかに
相手がいかに間違ってたかを訴えるじゃないですか。
あれがいいとは言いませんけど
あれが正気の心なんですよ。
相手がいかに間違ってたかを訴えるということは
第三者というものがそこに登場すれば
客観的に私の方が正しいとか
相手は間違っているんだということを判断できる。
こういう判断基準って
第三者が必要なんですよね。
二者で本当にこの世に二者しかいなかったら
絶対そういうことはできませんよね。
15:01
簡単に言うと相手を殺すしかなくなる。
ここが二者関係の危ないところなんだと思うんです。
三者に持ち込みたいというのは
正気であって
よしよしは別として正気であって
私たちの心は
一者でなければ三者に向かう。
私相手というふうに見える視点。
これが多分人間の心の
誰にでもインストールされている
みたいな言い方をするんだけど
誰にでも備わっている人間の
ごく平均的な在り方だから
裁判とかもこうなっているんですよ。
弁護する人、攻撃する人、判断する人
三者なんですよ。
二者だったらたまったもんじゃないじゃないですか。
二者だと戦争になっちゃう。
だから戦争でも一生懸命
それを紛争と呼ぶようにしたくなっていて
国際司法なんとかを作ろうとする。
これが人間の心のありようなんでしょうね。
1、2、3なんですよね。
1、2で終わると
永遠にどっちかを破壊し尽くすまで
頑張るしかなくなるので
それを避けるための仕組みなのか
分かんないんですけど
昔、ウィリアム・ジェームズという
これはアメリカで非常に
アメリカだよな。
心理学の父と言われている人ですけど
彼が非常に早い段階で指摘したんですよね。
愛と美がいると
愛と美がいると優がいるんですよね。
愛と美がいなくなってしまうと
優もいなくなってしまうはずなんです。
だからエニコットはそのことを書いたんですよね。
母と子というのは一つになっていると
そこには愛も優もいないんだと。
もちろん美もいないわけです。
誰もいないんですよ。
誰もいないって書いてありますからね。
誰もいないって面白いですよね。
外から見れば2人いるんだけど
誰もいないんですよ。
外から見ることができないから
誰もいないんですね。
この状態だと
1で、これはこれで正常なんですね。
それがいずれ子供が発達することによって
3になる。
1が3になるわけですよ。
3みたいですけどね。
1が3になるわけです。
ところが3になろうとしたところで
なんかやばいことが起きると
2になっちゃう。
2になるというのが
そこに何かの病理の影を落とすみたいな
そういうことになるんですね。
私の漢字ではそれが
人間関係でよく現れてくるのが
戦亡という形の2ですね。
相手になりたいと。
私、漢字ない男という名前忘れた
そういう本があったんです。
ある哲学者の人が
自分の性的な性癖を
かなりセキュララに書いた本で
非常に興味深いなと思ったのが
完全に相手になってしまい
18:00
内側から性的な関係を楽しみたいという願望が
男にもあるみたいな書き方があって
それはあなたにあるんだって思ったんですけど
これは2者関係なんですよ。
2者関係がどこにもない。
現にそこに3者が出てこなかったんですよ。
2者しかない。
私が女子高生になりたいって話でしたけど
なりたいですよね。
なりたいというのは2者ですよね。
自分がそれになりたい。
本当はと思っている私がいるんですよね。
その人は哲学者ですから
それを記述している段階で
すでに3者がいて
超正気なんですけどね。
こういうのって記述しにくい。
書きにくいですよね。
社会的に問題があって言うのは
多分僕は後から出てくるんだと思います。
こういうことを考えているときは
心理的にいっぱいいっぱいになってしまうので
それについて書くというのは
大変疲れるんですよ。
こういう言い方になりますけど。
1、2、3の話は書きやすいんですよね。
それが平安であれば。
要するにこれは欲打つポジションですからね。
2者というのは妄想分裂ポジションなんですよ。
要するにウィニコットが言っているのは
人間は妄想分裂ポジションになって
普通ならないんだって言っているんですね。
なるとしても極一時的なんだと。
クライムはそうじゃないんですよ。
欲打つポジションが出来上がるまでは
人間はずっと妄想分裂ポジションなんだ
ぐらいの勢いがあるので
ある意味幼児の狂気感が長いんですね。
ウィニコットに寄せると幼児が狂気になるのは
瞬間瞬間はあるだろうけど
まずそれが永続するなんてことはない。
そういうことが起こるんだとすると
何かよっぽどまずいことが起きているっていう
そういうニュアンスがあります。
当然、当然じゃないけど
当然、相手になりたいという気持ちには
当然とへ同一かというものが現れるんですよ。
私は思うに裏闇、扇望というものに
とへ同一かはほぼセットだと思います。
だってとへ同一かって
要するに例えば自分が母親になっちゃうとか
あるいは母親に怒られた時の子供になっちゃうとか
子供時代の自分になっちゃうとか
そういう話ですから
つまり相手になっちゃうんですよね。
この二者関係だと。
だって二者関係って
はっきりとした自分っていないじゃないですか。
はっきりとした自分がいると
どうしたって私たちは
例えば私は自分の体を見て
自分の手を見て
これは私の手だって言っていきますよね。
誰にも教わったわけではないですよね。
証明とかされたわけでもないですよね。
これは私なんだっていうのって
証明不可能ですよね。
じゃあその私なんだって言ってる私は
誰なんだよとかどこにいるんだよっていうのは
すごく哲学的になってくるじゃないですか。
21:01
一者、二者、三者が同時に発生しちゃいますよね。
人を対象として見れば
私が誰かを見れば
当然その状態を認識している私っていうのが
別に出てくるの。
だから三者になってしまうんですよね。
三者にならないということは
私が不安定なんですよ。
ものすごく。
誰になるのかわかったもんじゃないわけです。
だって認識している対象は
どれであってもいいわけですよ。
母親になってしまうこともあるわけだし
父親になってしまうこともあるわけだし
その時に怒られている自分になってしまうこともあるわけです。
脳にはセンターがないので
ここが間違いなく軸ですよと
言ってくれるようなものはないので
見てるものだったら何が出られるんですよ。
極端に言うとですね。
そういうことで本当に困ってるという人もいるわけです。
その感じない男の人もそうですけれども
女子高生になりたいって書いてあったのは
これはなった気分になったことがある人しか言えないと思うんですよ。
だってそんなことわざわざしないじゃないですか。
女子高生になったところで
私なんか別に女子高生になりたいなんて思ったことは全くないので
ここがまた不思議なんですけれども
私の性癖の中には
少なくとも女子高生に専望する部分は全くないんですよ。
だからなりたいと思わないんだったら
わざわざなろうとしません。
なろうとするということは
そうするとすごく性的に興奮するということですよね。
興奮するということは
そこにいくエネルギーというものが
十分自分の中で有効活用できるっていう話です。
できるかできないかはめちゃめちゃ大きいと思うんですよ。
好き嫌いで言うと一番簡単だと思うんですけど
例えば好き嫌いがバリッと分かれるやつがいいんですよね。
納豆とか。
納豆とかに食欲が湧くという人は
食欲を納豆に対して有効活用できるわけですよね。
強烈に。
で、見ただけでも匂い嗅ぐだけでもダメだっていう人は
その場合食欲は全然成立しないということになりますよね。
女子高生も同じなんですよ。
成りたいっていうからには
成った自分というものをイメージすると
非常にいろんなものが
これがリビドウって言うんでしょうけど
活用できるわけですよね。
私はそんなものできないから
成りたいとそもそも全く思わないわけですね。
だから成れないわけですよ。
という意味から考えると
二者関係で相手になるという時には
必ず同一化が起きる。
そもそもだって女子高生に同一化するわけじゃないですか。
同一化できるわけですよね。
同一化が起こるということは
大概良いことは起きないわけです。
遠江同一化が起きるというのは
普通はその状態を恐れているから
遠江同一化なんですね。
この話は先日したんですけど
怒った母親に同一化するというのは
24:02
母親が怒るというのがすごく嫌だったから
自分から分けてあるんですよね。
その怒った母親と怒られた自分という
そのセットを自分から分けてあるわけです。
普通そういう状態に入りたくないんですよ。
だけれども
すっごい嫌なことが起きると
そっちをむしろ逆に活用したくなる。
これを死兵器って言うんでしょうけど
怒ったお母さんと怒られた自分みたいな関係を
誰かに投げかけて
そいつをめちゃくちゃ怒りたくなるわけですよ。
普段は使いたくないほど
嫌なものだからこそ使い勝手がいいんですね。
そういう時には。
一つ私が今しがた
だいぶ前に思い出したんですけど
ある、これも学生時代だったと思いますね。
遠江同一化が
あれは遠江同一化だったんだということを
今思い出したような事例があるんですけれども
その人はですね
その人と話していると
めちゃくちゃ怒られるんですよ。
私が怒られるというか
パージされるというのが一番いいんですけれども
なんかですね
留学中か
留学中とかって
暇だからトランプとかもするんですよね。
するとですね
なんか怒られるんですよね。
配り方とか
そういうことで
何なんだろうと思ったんですよ。
何だこいつって思ったんですよね。
今思うとなんですけど
その人と喋ると
たまにもないことを喋るんですけど
他の人と喋りたくなるんですよね。
猛烈になるんですよ。
だいだい他の人と喋っちゃうんですよ。
その人と小一時間喋ると
すっげー他の人と喋りたいっていう
要求が出てくるんですよ。
で、気がつくと
その人がいなくなってから
電話してるんですよね。
あれが遠江同一化なんですね。
これと戦亡をどう結びつけるかという説明は
ものすごく長くなりそうなんで
今日はカットしますが
二者関係になっちゃうんですね。
その人と喋ってると
二者関係になっちゃうんですよ、完全に。
三者目がいない。
この人と私がいる
私みたいなのが
漠然とにせよいるじゃないですか。
そういう第三の視点みたいな。
いなくなってしまうんですね。
そしてフワーってなって
とにかく他の人と喋りたいな
っていう感じになるんですね。
それも後から気がつくんですよ。
この二者関係って
三人目の自分がいなくなるから
その時他の要求があるとか
そういう認識がゼロになってしまう。
ゼロにはならないな。
でも激減してしまう。
つまり目の前の人の話が退屈だ
っていうのがめちゃくちゃ正常なんですよ。
この人と喋ってると
三者いるじゃないですか。
27:01
相手、話している私
退屈を自覚している私
そういうんじゃないですよ。
これなら正常なんです。退屈だから。
そうじゃなくて
二者になってる。
相手、なんかこう
トランプの配り方とかで
怒られてすげー嫌な気分になってる
俺みたいな。しかもそのこと
認識できてないんですよ。認識できてなくはないんだけど
そういう自分がいるな
みたいな余裕はどこにもないんで
なんかこう
なんとも言えない気分になっていく。
トエロいつかが起きると大体そうです。
先日この番組でお話しした
タスクカフェの
ずーっと断続的に
割り込まれるときもそうでした。
なんかまた割り込まれるんだ
みたいな。まさにそれじゃないですか。
割り込みについて
私は聞かれてるわけですよね。
割り込みってそんなに嫌なもんなんだぞ
ということですよね。
気上の空論で喋ってんじゃねーよ
ってことですよね。
それと同じ何かが
トランプとかしていたり
なんかこう話をしているときに
感じさせられてくるわけです。
何を訴えられてきてるのか
さっぱりわかんないんですよ。そのときは。
その後になって
電話してる自分がいる。
つまり他の人と話したい自分がいる
っていうことに気づくんですね。
わかったんですが
要するに何が
言いたいかというとですね
めちゃくちゃ寂しいんですよ。
だから他の人と電話をしたくなるんですね。
その方と
話しているとめちゃくちゃ寂しい。
その人とトランプをしたりしてると
めちゃくちゃ寂しい。
だから他の人と
つながって
その寂しさをなんとかしなきゃいけなくなるんですね。
私の方が。
つまりそのときに二者関係の中に
あったところの東映ドイツ課は
ものすごく寂しい
っていうことが訴えられてきてたんです。
ものすごい寂しいっていうのは
今思うとよくわかります。
だって
そんなトランプの仕方をして
相手をする人はいないじゃないですか。
そんな話をしていて
ちゃんと話を聞く人いなくなりますよね。
その人はとても寂しい。
で私は
それを訴えられてきて
すっかりそれに
母と子のユニットみたいに
二者なんだけど一者みたいになっている
その不思議な状態。
三者でも一者でもない状態。
そこで寂しさというものを
叩き込まれるんですよ。
割り込みを叩き込まれるように。
だからその寂しさを早く解消したくて
電話とかするわけ。
今思い出してもそうなんですけど
ほとんどいつ電話したか
わかんないレベルなんですね。
不意にしちゃうんですよ。
なんで電話をそのときしたくなるかも
もうわかんないんですね。
好きじゃないからしませんからね。
電話できないときには
どっか行くんですよ。人と会いに。
それぐらい寂しくなる。
これも今思えば
なんですがその方はさぞ
30:00
お母さんといて寂しかったんだろうな
と思いますね。
そういう幼児経験はきっと
あったんだと思うんですよ。
これが東映ドイツカなんです。
東映ドイツカってコミュニケーションなんだ
と思うんですね。あえて言うならば
共感させられること。
タスクカフェの
割り込みがもういい例ですよね。
共感させられるんですよ。
お前の共感の仕方がぬるいってことですよね。
もっとちゃんと共感しろと。
思い知れってことですよね。
思い知らされるんですよ。
それでもタスクシュートにちゃんと
記録できるのっていうことを言われている
わけですよね。
ガンガン割り込みが来ると
そのときの
はなはなうんざりする感じというものを
叩き込まれる。これが
人と人間関係だと僕は思うんですよ。
そういうときって
自分が割り込まれているんだ。
思い知らされているんだっていう
認識はできてない。
それができるようになったらある意味最近なんですよね。
その人もそんなつもりはない。
ただ質問しに来ている。
こうやって
コミュニケーションの
意図みたいなもの。
象徴って言うんでしょうね。
意味みたいなものが
どっちも認識できなくなってしまう。
私、相手、
そしてそれを認識している
私みたいな
構図が壊れてしまっていて
二者になっちゃっている。
羨ましいというのはまさにそういうことなんですけどね。
二者になっちゃうんですよ。
羨ましいときというのは。
なんかこう
二者関係の中だけに起こることじゃないですか。
私は全てを持っていて。
逆なんですけどね。だいたい逆だ。
悩んでいる方が感じることだから。
あの人は全てを持っていて
私は何も持っていない。
これっていうのは相手と私の
対比の中だけで見えていることですよね。
もっと言ってしまいますと
母親と私
しかもみじめな自分というときの感覚ですよね。
母は
何でも持っている。
ミルク付きおっぱいまで持っている。
そして体も大きくて
とにかく何でも持っている。
自分にはもう何もない。
すごくみじめだと。
だいたいお腹空いてるんでしょうね。
要するに
母とこの東映ドイツ家を
投げ込むんですよね。
付き合いたい子と彼に。
だからその人を見るときは
自分はものすごいみじめになるんですよ。
最近これが
日モテの本の中に
女神家と書かれていたんですけど
そういうことですよね。
女神家はキモいと。
そういうことじゃないんですけれども
一般には気持ちが悪いぐらいになっちゃうかな
という感じなんですよ。
子供すか
お腹空かせて寒くて
一切なるかならないか
ですからね。
何でも持っているお母さんの
ところに行きたいと思うのは
当然じゃないですか。
そういう経験を何度か
繰り返してしまうと
それを大人になったとき
何らかのときに
気持ちの上で舞い戻ってくるんですよ。
33:00
そういうときに
東映ドイツ家が起きると
僕ごく自然に
起きることですよね。
だからある意味では
愛されたいということではないんですよね。
嫉妬には
全然ならないわけです。
だって相手が強く思っているんだから
第三者を嫉妬してもしょうがないですよね。
そしてだいたいそういうときは余裕が全くないので
第三者という認識がない。
0、1歳時に
第三者という認識は無理です。
このお母さんが
最近おっぱいくれなくて
酷いからお父さんに訴えて
発想がない。
この発想ができるというのは
もっとずっと後でしょう。
だから私たちは
1、2、3になるというのは
正常な心理状態であって
何か酷いことをされるとすぐ
外部に訴え出すんですよ。
よくあるじゃないですか。
ツイッターとかに
あれが正常ってものなんです。
感じ悪いかもしれない。
でも正常なんですよ。
つまり
三者目がいるという意識が
強く働いている証拠ですからね。
二者関係に
あれがなってしまうと
家の中で三児にはならないかもしれないけど
三児まがいのことになりかねないと。
そういうことですね。
34:20

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