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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月13日に、多分店頭にもう少し早く並ぶかもしれないところもあるかもしれないんですけど、わかんないです。
つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法という本を、技術評論者さんから出させていただきます。
買ってくださいということですけど、つい人の顔色を伺うというのは、この番組の隠れテーマ的な部分でもあるし、
毎回そうなわけじゃないですけどね、私がずっと考えてきたことでもあります。
昨日とかもずっと話してますけど、要はそれはイリュージョンなんですが、例によってイリュージョンはわかっているけどやめられませんというやつですね。
いろんな考え方を喋ってきたわけじゃないですか。
昨日は、たまたま嫉妬と煽謗ということについて人と話してたんですけど、それについてずっと考えているうちに、なぜか全然違う方向に頭が進行していって、
気がつくと、ユニコットのことを考えてたんですよ。
彼の発想の中でも、こういうことだった、こういうところがやっぱりすごかったんだなっていうのを見つけて、それについて僕は一生懸命喋ってたんだと思ったんですが、
空想って僕らは簡単にやるので、空想だけしてるつもりについになっちゃうんですよね。
特に私のような人間でそうで、現実とは関係ないこと、これがわりと今日のテーマの一つなんですけど、現実とはあまり関係ないことを空想しちゃうものだから、
空想をするということは、日常とあまり関係ないことをやっているつもりになっちゃってるんですね。そういうところがあると思うんです。
ユニコットがしつこく言ったのは、読んでいくうちにはたと気づいたってやつなんですが、
日常に僕たちは普通に生きているとき、知覚と空想をいっぺんにやってるっていうことを彼はすごく言っている感じがしたんですね。
考えてみると、それって、倉園圭造さんが渋谷のセミナーをやってたときに、東映という、実は哲学用語だったりしますけど、東映というお話になったんですよ。
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確か武道館だったかな。私は武道館ってたぶん行ったことがないんですけれども、東京ドームとかでもいいですけど、要するに人によって、そこで何かのライブをやるとか、そこで野球の試合をやるとかによっても、全然見え方が違うはずだっていう話をされていて、
そういうこと、その通りのことを、ミニゴッドは最初に幼児が身につけ始めるのはそれだって言ってたんですね。
いきなりその能力を持って生まれてくるわけじゃないってことを多分彼は言ってるんだと思うんです。
どういう言葉というと、現実の知覚と無関係の空想をいきなり始めるわけじゃない、そういう言い方はしてないような気もするんだけど、
多分そういうようなことが大事だったんだなって思うんですよ。
僕らは知覚と空想をいっぺんにやるんですね。オーバーラップさせてるんですよ。
何かを見たとき、東京ドームでもいいんですけど、知覚としての東京ドームを見ている部分と、空想としての東京ドームをそこに重ねて見ている部分があって、
このバランスとかタイミングとか、それの優勢度みたいな言い方をするんですけど、どっちが濃くなってるかとか、
そういうことが人によって当然違うわけですけれども、それをどういう風に重ねる能力をその人が持って発揮しているかで、
時々病理っぽくなったり、本人をすごく悩ませたりするんですよっていう話を、
多分ミニコットって人はしてるんですね。
ここのところがちょっとですね、クラインと違うんですよ。というかミニコットのかなり独特なところだと思うんですね。
でもこれで病理を説明していくと、そして結構今時の人たちの私たちの悩みのかなりの部分は、
こういう説明は確かにすごく使い勝手のいいものだと思います。
例えば、これも倉須野さんのお話で、現実はあなたを傷つけません。
あなたが何かを怖いとかつらいとか思うのは、
例えばどれほど外部の事件とか人間が攻撃してきているように思えたとしても、
やっぱり自分で自分を傷つけていたり、恐ろしがらせたりしているんだっていう話が、
これも渋谷で何回か伺った話なんですけど、
一番これがですね、分かりいいのも、やっぱりこのオーバーラップってことについて考えると、
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分かりやすいと思うんです。
お化け屋敷ってありますね。
あそこに行って子供が一生懸命、いや、あれは怖い。
あれは一生懸命、いや、あれは人間が中に入っているんだからとか、
あれはプラスチックに過ぎないんだからとかって一生懸命言う子がいるわけですよ。
昔僕も実はそういうことを一生懸命言ってたんですよ。
あれは怖いから言うわけですよ。
つまり子供はですね、自分の空想が自分を怖がらせるってことを知ってるんですね。
もちろん、お化けがそういうような動きとか形とかをするから怖いんですが、
それがプラスチックなら怖くないとか、そこに人が入っているなら怖くないっていうことは、
後の部分は想像力で補っている、空想力で補っているわけじゃないですか。
つまり本当は怖くないというのは、プラスチックなら怖くないっていうことならば、
プラスチックであることは事実なので、中に人が入っていることも事実なので、
本当にそう思えれば怖くないということは、
じゃあ怖い部分は何が作り出しているのかというと、自分の空想力なんですよね。
これをオーバーラップさせるから怖いわけですよ。
もちろんオーバーラップさせやすくはできてますけどね。
でもとにかくオーバーラップさせるから怖い。
ということはそのオーバーラップさせている部分は自分がやっているわけですよね。
空想で上書きしている部分がある。
つまりさっきの東京ドームのやつで言うと、
知覚としてプラスチックのお化けを見ている。
お化けに似た人形を知覚として捉えている部分と、
それと同じものを空想として重ね合わせて見ている部分と両方同時にあって、
怖いのは空想している方なんですよ。
そいつをやめれば怖くないということは、このもんですらわかっているわけですよね。
これをやめましょうと、怖いんだったらやめましょうという話を
グッドバイオスでもしているわけだし、
これをやめようと子供でもするわけですよ。
これあらゆることに通じているはずなんですよ。
上司が怒ると怖いというのも、
上司が怒っているという物理的な現実の部分と、
それを怖いものとして空想しているんですよ、きっと。
怖いものとして重ね合わせて見るという空想があって、
こっちが自分を怖がらせている。
こっちは自分がやっていることなので、実は止めることができる。
子供がお化けのことをあれは本当はうんだって言って、
自分を怖がらせないようにするというのと同じように止めることができるはずだと。
09:00
このウィニコットの表現を使うならば、
現実優勢と空想優勢というケースがあるわけですよね。
この能力は大人になるまでには、
少なくともこの二つを分離しようと思えばできるようになるはずなんですよ。
重ね合わせて見ることもできるし、止めることもできる。
全くできないんだったら、それはかなり病理として働いてしまうということを、
彼はやっぱり示していると思います。
どういうふうに示しているかというと、
まず空想が圧倒的優勢になってしまうと、空想が原図になります。
これを私はなかなか理解できていなかったんですけど、
何かよく分かる気がしてきたんですね。
現実の側は無視されているわけではないんですけど、
うんと後退していて、空想の方が圧倒的に優勢になっていく。
そうすると何が起こるかというと、さっきのおばけの例で言えば、
おばけが現実になるんですよ。
プラスチックであるとか、人が入っているという方面は見えなくなっていく。
ぐーんと後退していって、前面に出てくるのは自分の空想が圧倒的に近くにとって変わる。
でもこの場合の空想は本人の中ではほとんど近くと全く同じものなので、めちゃくちゃ怖いんですね。
これが多分精神病的な妄想と言われているものであって、
だからこうなってしまうと、この怖さというものは本人にとってはものすごく現実的であり、
それがどれほど理にかなっていないとか合理的でないとか、
まして科学的でないということは問題にもならなくなっちゃう。
そういうことなんだと思うんですね。
これはこういうことがなぜ起こるのかについても、
耳ごとかなり追っているんですけど、今日はその話はしませんが、
この空想が現実と化すというやつ、しばしば私たちは恋愛とかで、
あるいはものすごい怖い時にやっちゃうんですよね。
最近で言うとそうですね、でもいろいろありますよね。
例えば昔子供の頃に注射が怖かったみたいな話、あれがそうだと思うんですよ。
本当に針ちょっとチクッと刺すだけじゃないかっていう話を大人はしますよね。
これがさっきのお化けの中には人が入っているだけだっていうのと同じ理屈なんですよ。
そうなんだけれども、そこに重ね合わせている空想の部分があって、
12:03
しかもそっちのほうが現実なんですよね、子供にとっては。
子供はよくわかっているわけですよ。
この空想をのさばらせてでかくすると、自分は本当に恐ろしくなって手も足も出なくなる。
だから一生懸命布に過ぎないとかビニールに過ぎないとか頑張るわけですよね。
頑張らないと、つまりそれだけ空想というものがパワーを持ち寄るということですね。
それは僕、空想の暴走って漢字を偉大に読んだけれども、
現実というものがその二つは同時にあって、しかも無意識に働くじゃないですか、当然。
私たちは例えば、最近話題にしているので言うと人形劇みたいなものでもいつしか引き込まれていますよね。
あの時って、知覚としての人形を見ているというのと、そこに意味付けなんですけれども、
意味を与えているというのが同時に起こっていて、しかも同時に必ずしも自覚的にやらないから、
気がつくとそれが本当にそういうふうに見え始めるんですよね。
それを多分、四六時中やっているんですよ。
どっちが優勢なのかは時々だと思うんですね。
ただ怖い時は決まって空想優勢になっているはずなんですよね。
多分空想が優勢になっていなかったりすれば怖くないんですよね。
もし空想がまるで働かなければ全く怖くないんだときっと思いますね。
こういうのが逆の方の病理で、つまりさっきのお化けが怖い、あまりにも怖いので、
全部現実しか見ないようにする、こういうこともできちゃうんですよね、人間ってのは。
こっちがいわゆる自閉的な方面なんですよ、きっと。
人形劇を見に行っても劇は全く頭に入ってこない。
意味付けしないと意味はないですから、ひたすら人形が動いているだけになっちゃうので、
つまりひたすら棒と布切れだけが動いている世界になる。
こういう世界が自閉的世界というものだと思うんですね。
精神分析の考えるところの自閉的世界ですね。
全てが植物的ということになるんだと思うんです。
奥行きがないといったりもしますね。
さっきと逆なんですよね。空想優勢だとものすごく怖いわけですよ。
空想が現実になってしまうのが最悪、ある意味最悪ですよね。
専門性というようなふうに言われるケースだったりしますよね。
逆は空想がまるでないんですよね。
そこには物質しかないということになるわけです。
人を見てもそうなんですよね。
だからこういう人にとってはコミュニケーションというものはほとんど意味をなさない。
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言葉が何か意味を持つというのは
そこに意味を与えているからなので
与えないんだったら言葉というのは全部ただの音ですよね。
これは相当極端なケースだとは思うんですけど
そういう一方の極端は自分の空想が全部現実になる。
これは大変怖いですよね。
特に怖いときはシャレにならないと思うんですよ。
どんなに馬鹿げていたってそれは知覚になっちゃうわけですからね。
全くの逆がそういうものが一切ない世界。
ひたすらひたすら物の世界っていう感じ。
非常に現実の機能が高いケースがあるわけですよ。
現実を見てますから。
絶対に騙されないという面もあるわけですからね。
手品を見ているときに種に非常に気づきやすいというような
自閉系のケースの話があるんですけど
そういうことが起こるわけですよね。
騙されにくいわけですね。
非常に。
この二つが両方の極端だとして
私たちは普通に間にいて
てかこれはどんな人でもこの間にいることに違いはないはずなんですけど
いて、これが様々な働きを多分して
例えばですけれども
どちらかというと
かぶせ方にもよるんですけど
基本的には恐れと不安が問題になってくるわけですが
例えば
これをぴったりかぶせないと気が済まないという
これは気が済まない系なんですが
つまりそれがオブセッションというやつなんだと思うんですね。
ぴったり合わせておきたいという風に考えちゃうんですね。
現実と空想を重ねてみるわけですけど
ずれるわけですよね、多少は。
このずれがあってはならないようなものに感じられる。
それは自分の空想について
強すぎる思いがあるんだと思うんですけど
ぴったり合ってないと嫌だという考え方というのかな
それはすごく空想重視な感じなんですよね。
一気に空想を重視しないと
空想重視な感じなんですよね。
一見現実的に見えるんですけどそうではないんですね。
こういう人は自分の空想の万能感が大好きなので
やっぱり大好きた限りないとか
非常にこれが合ってないときに
嫌な思いをしがちなので
ぴったり合わせたい。
なぜ嫌な思いをするかというと
現実的に自分が機能するにあたっては
もし空想を完全に自閉の人みたいに
排除するのではない場合は
空想を使って現実と格闘していくことになるからなんだと思うんです。
ずっと今までの喋ってるのが抽象的でわけわかんなかったら
家計簿というものを思い浮かべていただくと
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一発だと思うんですが
あれはですね
お金がそろそろ空想的ですけど
お金は現実だとしましょう。
お金の出入りという現実に
それを把握しているという空想を
ぴったり重ね合わせる作業なんです。
ずれが許せないというのは
ぴったり重なるはずだという
過剰な思い入れがあるわけですよね。
本当はぴったり重なるはずはないわけですよ。
だって毎瞬毎瞬で考えてみれば
そんなことをやればですね
毎秒毎秒ぴったり合わせなければならなくなる。
もう一本間違うと
今のような時代ですからね
コンマ何秒で合わせなければならなくなる。
ということはずっと家計簿を見ていなければならなくなるはずなんですね。
これがオブセッションだと僕は思うんですね。
現実と空想はぴったり重なることは決してないのに
ぴったり重なるという風に考えると
自分の空想が客観だという感じを抱えちゃってるんですよね。
多分それは恐怖感から
ずれが発生すると何か困ったことになるという恐怖感が強いので
現実というものと自分の空想
空想は主観ですからね
ぴったり重なっていてほしいと
このずれに不安を感じるというのが
オブセッションだったと思うんです。
ここでよく出てくるのが確率的な感覚なんですね。
言葉としては確率的なんだけど
その人の問題は確率じゃないんですよ。
ずれる可能性がゼロにならなければ
ゼロにはならないんですけど
ダメだという感じ
だから手を洗うのがやめられないんですね。
きれいであるというのは意味付けですよね。
手がきれいになりました。
で、実際に手はどうなっているのかというのは
それとはまた別ですよね。
つまり近く、現実としての手の状態と
きれいになっているという意味付けとが
ぴったり重なることはありえないですよね。
だからずっと手を洗うことになってしまいますよね。
これは確かに私もしばしばやっぱりはまるんですよ。
でも、実際に手はどうなっているのかというのは
それとはまた別ですよね。
私もしばしばやっぱりはまるんですよ。
自分がやっぱりこう
空想が客観だという思い込み
これにやられてしまうんですよね。
例えば、鍵は絶対にかけたはずなのに戻りたくなると
鍵をかけるというのは現実なんだけど
その状態がどうなっているかは空想の側にあるんですよね。
私たちはこうやって実は生きているはずなんですね。
現実に空想を調整させながら生きていると。
普通は健全に育てば育つほど
これはある程度のところしかやれないんだという風に
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なんとなく感覚的に気づくんだけれども
なぜかここを詰めちゃうというケースがあるわけです。
何かそこが嫌だからなんですね。
この空想を客観的にしようとしている人は優秀なので
多くの場合、よほど困ったことが起きない限り
この種の人は病理とみなされることはないはずです。
ただ本人の中で
一体全体この人は何が楽しくてこんなことをしているんだろうという
本末転倒ぶりは現れますよね。
ぴったり合うはずないものを
ぴったり合わせることが
一生目指すべきところみたいになる。
つまりこの現実機能の高さというのは
よくよく考えるべきことだなと最近本当に思います。
ウッドバイブスを知るようになって
一番僕が気をつけるようになったのは
トータルで見ればそれですね。
攻撃しないとかいろいろあるんですけど
トータルで見るとこの現実機能の高さ
現実機能を高めるということ
お金を稼ぐとか時間を節約するとか
手を洗うとかそういうことですね。
全て現実機能を高めるということを
現実の側が良しとしてくれるのは当然ですよね。
特に社会とか。
本人は何のためにそんなことをしているんだろうということになりやすいと思うんですよ。
ところがこれは自分の空想を
客観的にすればするほど現実がうまくいくから
パターンにははまりやすいんですよね。
タスクシュートなんてそれのいい例なんですよ。
やろうと思えばどこまでもやれてしまうわけです。
現実と合っているはずはないんですよ。
だって開始終了が完璧に合うはずはないし
行動の切り替えといったって
どこかに隙はできるというのか
測る必要があるのかないのかという問題は絶対出ますよね。
例えば窓を閉めるというのは
開始終了時刻を入れるのかと。
1個なら入れませんよね。窓1枚なら。
でも窓10枚なら入れてもいいかもしれない。
食事というのは開始終了を入れるけど
実は甘いんじゃないかと。
箸を上げました。開始。
下げました。終了というのも入れるべきじゃないかと
言い始めることができる。
非常にオブジェクション的になっていきますね。
絶対にこのようなものが
現実そのものを記述することはありえないのに
どこかでそこを目指してしまう。
つまり自分の主観は客観になるはずだという思いを
抱くことが人はあるということですね。
なぜそういうことになるのかというと
ずれていることによってトラブルが起きうるから
例えば人は渡ってないなと思って
車を発進させたら人は実は渡っていました。
これが主観と客観のずれなんだけど
こういうことが起きないように起きないように
やっぱりするじゃないですか。
例えばセンサーが鳴るとかね。
24:02
そういうふうになっているわけですよね。
だから気をつけなければいけないって思う人は
つまり客観と主観が一致してなければいけない
って思うはずで
つまりそれは近くとオーバーラップさせている空想が
ぴったり合ってないと困るんだっていう考え方。
しかしぴったり合うことはないので
ここであまりそこにこだわると
OCD的になっていくと
逆神経症的になっていくっていうことですね。
この時に必ずよく出てくるワードとして
確率なんですよね。
その確率はどのくらいあるのかっていう話。
だけどこれはおかしな話なんですよ。
というかそのことは問題に
本当はその人の心の中ではなってないんですよね。
問題なのは0%か0.0001%かは
全然違うということであって
ところが0%になることはないので
鍵は絶対に閉めたのか100%なのか
絶対そういうことは言えないですよね。
ガスコンロの火は絶対点かないのか
というやつですよね。
藤本茂さんが書いてました。
ビデオに撮りました。
消したのは確認しました。
でも小人がやってきて火を点けたのかもしれない。
0にはできないんですよね。
これがオーバーラップのズレが問題になるケース。
オーバーラップの中で空想優勢になりすぎるのが
面もありますけれども
あとは現実優勢になりすぎると
自閉的になっていくという。
もう一つがですね、僕は
乖離っていうやつだと思うんですよね。
なるべくオーバーラップさせずに
なるべく全然違う空想をやり出す。
私はこれが自閉スペクトラムになぜかあるんですけれども
後半戦発達障害と呼ばれているものに近いかな
という気がちょっと最近してます。
わかんないですけどね。
つまり集中できないとか
あるいは過剰に集中してしまうとか
物忘れが激しいとか
なんとなくですね、いろんなことをするんだけど
現実機能は高まっていかないみたいな
さっきと逆なんですよ。
OCDというのはほどほどのところで思えば
現実機能は極めて高いと思うんです。
タスクシュートはやる。
ゲームはきっちりつける。
とにかく手もきっちり洗う。
このズレが少ないようにしている人の場合の問題ってのは
現実の機能しないってことじゃないですよね。
行き過ぎると機能しなくなりますけど
手洗うのが止まらなくなるから。
だけれどもほどほどのところならば
現実機能は極めて高くなる。
問題なんかは何のために生きてるんだ問題が
発生しやすいということがあるってだけなんです。
逆にADDとかADHDって呼ばれている方々の問題ってのは
逆なんですよね。
ラップさせようという気が
とても気迫だという問題だと思うんです。
27:02
ライフハックはこの両方がいて
すっごくきっちりやるぞって。
だからそういう人にはある意味
ライフハックってのはとても向いてるとも言えるし
必要ないとも言えるんですよね。
最近AppleでAirTagっていうのが出たのかな。
忘れ物につけてセンサーになります。
いかにもライフハック的だけど
多分脅迫症気味の人にあれいらないと思うんですよ。
そうそう物をなくしたりしないと思うんですね。
認識と現実が一致するように一致するように努力してるから。
逆の人がああいう物を必要とするんですよ。
現実と認識をずらすようにずらすようにしてるから。
僕は後者なんですよ。ずらすようにしてるんです。
僕は一見OCD的に見えると思うんですけど
気質はそうじゃないんですよね。
気質は僕はずらすようにしてるんです。
何が起こるかというと
なぜこうしたのか。
これもやっぱり何かが不安だったからなんだと思うんですけどね。
散歩中に僕はやっぱりつい散歩空間から
違うところに行ってしまうわけです。
シャワー浴びていてもそう。
何をしていてもそうです。
ある意味そういうことができるから
このポッドキャストもこんなに熱入れて
喋ってられるんだと思うんですね。
現実を無視しがちなんですよ。
現実と空想をぴったり合わせるというようなことは
ない。
現実の中で全く違うことをついつい考え始めると
乖離してしまうわけです。
この乖離をさせてしまうと
例えば学校の教室とかで
勉強できるできないは別なんですよ。
不注意だと言われます。
当然なんですよね。
だって違うことを考えてるんですから
人の話を聞いてないわけですよ。
人の話というものは
非常にこれがよく現れるんですけれども
話は知覚ですよね。
耳で知覚する。
でもそれに意味付けをしなければ
話聞いてることにならないですよね。
この意味付けがどっか違うところに
中空を漂っちゃうわけですね。
例えば壁にかかっている模様から
企画図形で勝手にピタゴラスを始めると
つまり注意は目で見てるものの方に向かっていって
話は耳で聞いてるわけですよ。
一致しないんですね。
これがバラバラになる。
そういうのはフェティだという風に
ミニコットは言ってます。
この言葉遣いも独特だなと
フェテシズムですね。
独特だなと思うんですけど
なるほどなと思います。
でも今日はそこをずっと言うのではなくて
まずこの後半生発達生涯の話にして
おしまいにしたいんですけど
要するにこれは
人の話をまず聞かないですよね。
乖離してしまってるので。
そしてある意味
ある意味っていうのが
さっきのOCDとはまた違った意味で
すごく自分の空想を大事にするんですよ。
ある意味それがやりたいからこそ
30:02
自覚を無視してるようなところがあるわけですね。
空想だということに気づいてないわけでは
もちろんないですが
オーバーラップを
なんて言うんですかね。
させてないわけではないんですけれども
非常に弱いオーバーラップしか
させないようにしている。
ある意味何かが怖いんでしょうね。
そういう意味では
自閉スペクトラムと言われるのも
わかる気がします。
オバケがオバケだと思うのが怖いんで
結局のところ
オバケから意味を剥奪するわけじゃないですか。
私たちも自覚からの意味を剥奪し
しかも
その意味はですね
薄く関係しそうなものに
例えば教室でも
完全に教室から
どっか行っちゃうわけではないんですよ。
自閉の人が完全にやるみたいに
教室以外の何者でもないところに
いるわけではないんですよ。
自閉の人というのはそういうことなんですよね。
要するに
空想を封じ込めるという言い方をするんです。
でも後半を支配した障害の人は多分
空想を漂わせてるんですよね。
全く現実とは関係なわけじゃないんだけど
はっきり言って相当関係がない。
だから
不注意だし
物忘れも激しい
自覚が発達してこなかったと
そういう意味で
発達障害だったと思うんですけれども
えーと
なんて言いますかね
その
どうでもいいことばっかり考えていると言いますか
よく
ADHDの人が
アイデアマンだというのは
そういう意味だと思うんですよ。
ある意味アイデアというのは
その場の現実と関係ないことを考えるわけじゃないですか。
会議室にいて
会議室から一歩も頭が出なければ
考えられないですよね。
なんか将来の企画とか
楽しそうなことを考える
そういうことが得意と言えば得意なわけですよ。
現実の知覚と
空想とか現実に対する空想が
乖離してしまっているので
なんでも思いつくわけですよね。
万能的に。
で、これを割とご所を大事に
エヴァノートとかに書きまくったりするわけですよ。
収集がつかなくなる。
それは当然ですよね。
だってそんなものに収集がつく理由は
別に全くないわけですよね。
現実との猛烈な乖離があって
現実検討能力というものが
必ずしも高くなっていかない。
でもこれに全く無自覚というわけではないので
何とかしてこの空想を
現実に合わせられないだろうかと思って
私みたいにですね
一生懸命タスク集といったり
一生懸命賭けをつけたりはすると
ただそれは多分ですね
本当にそういうものを使いこなす人からすると
花々使い方が甘くなるんですよね。
そして本当のところ
それをしたいというわけではない人間なので
本当にしたいのは
漂わせているアイディアを
エヴァノートにいい感じに入れて
空想ワールドを完成させて
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ついでにそれが物語になって
ベストセラーになったら嬉しいみたいな
非常にですね、ふわふわしているんですよね。
この種の感覚って。
自分はそういう方面だなと思うので
これを何とか
収めようとしている部分があります。
つまり
これをいっぱいやることによって
何かが解決するってことはまずないので
これもまた面白いことに
これをクリエイティブだっていう風に
言われていたりするんですけど
これはそうかもしれないという風には
言っておきますけど
僕はあまりそれを信じられなくはなっています。
これはですね
これについて別に水をさしたり
したいというわけではないので
気にしないで欲しいんですけれども
これに困るということならばですね
多分僕はライフワークに頼るよりは
なるべく現実に空想を寄せるっていう
努力を必要なところではすると
結局これは自在なんですよね。
子供がお化けが怖くなくなるように
なるべく中に入っている人を見抜くっていう
子供ですらそれをやらないように
空想は勝手に生じるものじゃないんですよ。
何かを怖がら、何かにあまりにも怖いとかいうときに
必ずそれは空想の側から来ていることなんで
来ている感情的な要因があるはずなので
そっちを止める。
近くそのものがそんなに恐ろしい結果になることって
多分ないと思うんですよ。
そういう意味で現実は何とかできるはずなんですよ。
これをですね、乖離した空想で何とかするっていうのは
めちゃくちゃ遠回りですよね。
多分うまくいかないとしか思います。
私のこれまでの長い間の
無駄に溜まったメモって言いますかね。
ああいうものを全部僕は今それを
ほとんど放置してますが
それによって困っていることは何もないですからね。
エヴァーノートのメモを
メモノートブックみたいなのには
一番何千とかありますけども
ほとんど全く見ることはないけど
それで困っていることは何にも起こっていないんで
本当にある意味ではですね
少なくていいんですよ。
少なくていいっていうのはどういうことかというと
空想と現実をオーバーラップさせさえすれば
メモって多分ほとんどいらなくなるんだなっていうのを
最近感じるんですね。
そういう空想を
オーバーラップさせるということですね。
そういうことが多分あって
後半生発達障害と自閉っていうのは
相当区別につながっていくのかなと
でもそういう言い方をしてしまうと
資源もつながってくるし
何でもつながってきちゃうんですけど
要はこの空想をどうオーバーラップさせるかということと
もっと自由に使えるということなんだと思うんですよね。
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このどの事例をとってもそうですが
空想も現実だと思うからいけないんですよ。
これはどの事例をとってもそうですね。
OCDのケースでも
万が一って言ってるのは
もう全然万が一じゃないんですよ。
もっと遥かに低い可能性でも
いくらでも言えちゃうことを言ってるだけで
つまりそういうことじゃないってことですよね。
主観は客観じゃないってことですよね。
自閉みたいな私のような人間もそうなんですけど
恐れすぎているんですよ。
オーバーラップさせるということをですね。
確かにケースによっては非常に怖いですよ。
何かとっても怖い人に
とっても怖いという意味付けをしていく。
とっても怖いですよねそれはね。
近くになっちゃうわけですから。
まさにお化けに本当に襲われるってことになる。
これだったら本当に怖いですよ。
この怪異をだからといって
させるという必要
怪異によって
いろんな問題を解決すると思うのは
全くイリュージョンですよね。
最終的に一番厳しい問題は
やっぱり象徴的同化性とか
って言ったりするんですけど
その空想そのものが現実化するのを
止められなくなると。
これは多分僕はですね。
単に意志力という話では
もはや済まなくなっていくので
お化けに関しては
お医者さんに通う必要が
何らかの意味であるんだろうなと
思うんです。
それやっぱり怖かったんですよね。
非常に恐ろしいことが起きてしまったから
そういうことになったんだと思うんです。
インピンジン
侵入ですね。
侵入ということが真に起きた
ということなんだと思うんですね。
これだけはもう
本当にそうであるならば
しょうがないんですけれども
多くの人が
知る限り
まず聞こえてくる
ありもしない音が聞こえてくる
ということから始まるのかなと。
これもですね。
聞こえないと言われる
ということは
ありえない世界に入ってしまうんですよね。
私が知る限り
これもそうなんですけど
ある種の妄想を
確信しながら
自分の中で
自分の中で
ある種の妄想を確信した人にとって
妄想は現実そのものです。
だから妄想というのは
その言い方をするというのが
すでに第三者である
と言っているようなものであって
現実そのものになってしまう
ということが起こるんですよ。
それだけに私たちは
空想の扱いに扱いかねて
乖離させてみたり
封じ込めてみたりするんだけど
やっぱり一番根本的な原因は
怖いということなんで
怖いっちゃ怖いというのは
そうですからね。
そうなったと思うんです。
ここはある意味
しょうがないかなと
怖くないという話は
みんながするけども
39:01
怖いんですよ。
本当に襲ってきたらね
他人事だったら別ですけど
自分事となってくると
そうはいかない。
ビニールのお化けだって怖いんですよ。
ただし怖いという時には
絶対空想なんだ
ということは
ずっとずっと読んでて
自分のこれまでの
40年以上の人生経験からして
怖いもの全部空想なんだ
ということだけは
間違いないかなというふうに思います。
これは怖くなくなるというよりは
救いがあるぐらいに
思っておいていただければ
いいのかなと思いますね。