1. グッドモーニングボイス
  2. あるがままの自分でなければ愛..
2024-05-04 47:29

あるがままの自分でなければ愛される意味がない【GMV977】

強迫でもナルシシズムでも抑うつでも同じことかもしれない。
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月の4日土曜日、夜21時26分です。
グッドモーニングボイスというタイトルからしてですね、連休は厳しいなというのがあります。
私、連休は早起きしませんからね。
そして、朝これを撮るという余裕もないので、必ず夜に回るという形になっています。
今日、緑の日なんですね。
緑の日って昔は、4月の29日、昭和の日が緑の日だった時代があったと思いますね。
多分、これが国民の休日とかいう5月4日が、
私が子供の頃って5月4日って平日だった時があるんですよ。
3、4、5がきちんと休みにならないということがあったんですね。
そうすると、3休んで、4行って、5休みっていうね。
しかも土曜日が終わったから、
飛び石連休とかって言ったりするんですけど、調子狂うんですよね。
そうでなくても、新学期始まったばっかりで。
そういうことで、合理的に連休になるようになって、
これは良いんじゃないかと思いますけどね。
明日が子供の日ですね。
はい。
しつこくやらせていただきますが、
忘れそうになるんでね、これね。
やらない癖がつくと良くないので、
必ず、告知はするぞということにしておきまして、
19日に超セミナーをやります。
第1回ですね、タスクシュートで超セミナー。
14時から本田でやり、同時にオンラインでもあり、
当日いらっしゃらなければ、
アーカイブでも提供させていただきますというところです。
合わせて26日、倉園圭三さんとの
タスクシュート×GoodBIOSのセミナー。
これは私の方ではタスクシュートの最新の私の使い方など、
含めましてこの日のテーマはあれですね。
時間があるのにできないことをやろう。
やりたい上に時間があるのにやれない。
これはほとんどもう理由が何もないじゃないですか。
何が理由なのかという、
こういうところこそですね、
GoodBIOSの出番かなというふうに私は思いますので、
これがいい。時間があるのにやれない。
時間がないからやれないのはですね、
これが本当にそうだった場合は、
これはしょうがないですよ。
状況を一旦変わるのを待ってやるしかないと思うんですね。
時間がないわけだからね。
時間がないのに無理やりやっているというわけに
いかないから時間がないんで、
時間があるのにやれないのと、
時間がないのにやれないのは全然話が違いますからね。
その日は時間があるのにやれない話をしたいと思っています。
どっちだか分からないという問題が別にあるわけですけれどもね、
03:02
そこはちょっとセミナーに来ていただければと思います。
今日の本題ですけど、
毎日毎日よくしゃべることがあるなと
自分でも不思議に思うんですけれども、
今日はですね、
最近ちょっと僕が昔から困っている事故愛ってやつですね。
事故愛、事故愛、本当に分からないと思うんですよね。
何度も言っていますけど、
これ読んでつくづくそう思ったんですけど、
ナルシシストというかシズムという言葉の中に
事故と愛はないんでね、
ナルシシズムを事故愛と訳すから
勢いわけ分かんなくなってしまうんですね。
ナルシシズムに事故という言葉の意味はない。
ナルシスから来てるんで、
ナルシス人名なんで、
愛もない。
愛という意味ないですからね、ナルシスの中にね。
だからこう、
全然違うことを連想しなきゃいけないわけなんですよ。
で、最近たまたま読んだものの中にですね、
事故愛というのは、
だからこれは言葉が悪いですね。
自分を愛しすぎているとか、
自分大好きって話では全くないと。
そうじゃなくて、
自分が愛せないという話なんだというのを読んでですね、
それはもう全くその通りだと思うんだけど、
これでもですね、
こういう定義は、
それはそれでよろしくないのは、
実は精神分析でターゲットにしている、
いわゆるこう精神的な難しさを抱えていらっしゃる方は、
ほとんど全部自分を愛せないのが問題だったりするんで、
ナルシシズムだけの問題だったりするので、
それだけではなくなるんですよね。
ナルシシズムというのは実は、
何なんだっていう感じがむしろしちゃうわけですよ。
例えば、すごく極端な話、
脅迫神経症だって自分を愛せないっていうのが、
すごく関係あると思うんですね。
ババ・レイコさんの自我心理学の方ですけど、
ババ・レイコさんの方の中に、
やっぱり思春期の男の子が、
非常に脅迫神経症になりやすいというのが出てくるわけですよ。
なぜかというと彼は、
その人はですね、
インムってやつ、
夢見てるうちにG、
私あれ非常に気持ちいいものだと思うんで、
僕、経験がほぼないんですよ。
あれは実はね。
そういう夢を見ないってことなんですね。
これは非常に僕のある種、精神的な偏りを
表してると思っているんだけど、
とにかくそういう夢はほぼ無。
つまり夢の中でセックスなんかできないってことですよ。
で、でですね。
それをするのが恥ずかしいから、
脅迫神経症がここで起こるわけですよ。
どういうことだって思われるじゃないですか。
この辺はかなりフロイト近いと思うんですけどね。
要するにインムなどというものを見たくないわけですよ。
まあお父さんお母さんが、
特にお母さんがうるさいんでしょうね。
で、インム見ちゃったというのが恐ろしいので、
見ないようにするために、
06:01
例えば枕を四つ折りにするとインム見ないとかね。
子供の考え方だから。
あるいは夜寝る前に、
本を1ページだけ読むとインム見ないとか
そういうことをやって、
脅迫的になっていくわけ。
つまり儀式をするわけですよ。
これは何を意味しているかというと、
自分で自分のことがまず信じられてないですよね。
そして周りの親が、
〇〇という人自分でなければ愛してくれない。
これが非常に脅迫的なものの考え方のベースにあげますよね。
つまり自分で自分のことを愛せないわけじゃないですか。
ある条件を満たした自分でなければ愛されないというのは、
要するに自分というのは、
本質的に愛されていないということを案に言ってますよね。
夢見てる間にどうなるか。
しょうがないじゃないですか。
ところが親がですね、
あなたそういう夢を見るようになったらもううちの子じゃないからねとか、
よくわからんことを言うから、
夢までコントロールしなきゃならなくなるわけですよ。
この出来もしない領域までコントロールしようという話が、
まさに脅迫的な態度ということが言えるんだと思うんですよね。
これがいろんなところに反映していくわけじゃないですか。
例えばついうっかり。
ついうっかりというのは非常に大事なわけですよね。
人はついうっかりを許せないという人ほど、
自分のついうっかりを絶対許せなくなってしまうわけですよ。
人はついうっかりなんかするわけじゃないですか。
僕なんかもう、何でしたっけね、
うっかりのぎべえとか、
倉園恵同さんにあだなされているぐらい、
うっかりしている人間なんで、
うっかりを許せないっていう話って、
脅迫的な人には必ずと言っていいほど付きまといますよね。
だからうっかりを許せないということは、
その人は自分で自分のことを愛せないんですよ。
つまりナルシシズムなんですよ、それは。
こういうふうに展開すると、
意外と簡単な話でもあるんだけれども、
もうこの辺からよくわからなくなりましたっていう方も
いらっしゃるかもしれない。
だからこれはフロイト的なものの見方なんですね。
優れてフロイト的なっていうのかな。
つまり人のうっかりが許せない。
うっかりであろうとなかろうと、
つまりその人が意図したものでなくても失敗は許せない。
これってある厳しい親が子供についてこれを言い出すと、
かなり問題があるなって人はわかるのに、
ついついこれを他の人に対してはやっちゃうんですよね。
自分自身についてもやってしまうと。
例えばうっかりミスをしたら、
なんかもううちに入れないからねっていう親がいるとすると、
その教育方針はかなり問題があるなって思うじゃないですか。
うっかりミスは一問でも許しませんみたいなね。
仙台の漢字書いてうっかり棒一本書き忘れられたら、
もう絶対許せなくなるって、
そういう話ってありますからね、現実にね。
非常に問題があるわけですよ。
だって絶対そういう親御さんだって、
どこかで漢字で棒一本間違えたりはするはずなんですよ。
09:02
しないと、あの昔なんだっけな、
スティーブン・キングの映画にあったんだよね。
なんかもう脅迫神経症なんですよ、完全に。
家中のガラスの、ガラスってところがまたミソだよね。
小さなマスコットみたいなのを並べるんですけど、
その向きがちょっとずれてるとすぐ気づくみたいなね。
非常に危険な心象のお持ち主で、
その女の人があの編小説家ってよくわかってますよね。
その女の人が自分が大好きな小説家を監禁してね、
手足を縛りつけて、
あなたにはもう手足はいらないのよ、
よくわかんないことを言い出して、
なぜなら自分で歩くと間違うから、
私が車椅子を押してあげるからとか言って監禁する。
もうこれ完全に母と子の、しかも病理のテーマですよね。
つまりうっかりミスは許されないわけですよ。
その小説家は、その小説家のことを心から愛しているから、
最高の小説がどういうものか私が知っているから、
だったらあんた書けよって話なんだけど、
つまりこうこうしなさい、こういう小説にしなさいと。
で、うっかり何か違うことをやったら、
もう何かその小説を燃やしてしまうわけですよ。
そっかにとってはたまんない話ですよね。
で、手ももういらない、私が小説引きしてあげる、
そういう話になってるんですね。
完全にこれは子供を完璧にコントロールしたいという親の、
その人が看護師さんであるというところが古ってるわけですね。
すごい看護師だけれど、ある意味看護師とはまさにそういうことを、
そういう病理を実現できかねない立場であるってことを、
スティーブン・キングが言ってるんだと思うんですよね。
全く自由にならない患者さんを、
ものすごく手厚くケアするっていうところと、
子供を外に一歩も出さないお母さんっていうのは、
非常に似たところがありますよね。全然違う。
つまり、同期次第だってことですよね。
相手のケアをとことん、
手も足も自由にならない人のケアをとことんしたいということなのか、
手足の自由を徹底的に奪ってでも自分がコントロールしたいということなのかは、
まとめではわからないケースがあるっていうのを、
この話は案に意味しているんだろうと思いました。
そういうちょっとホラーっぽい、スティーブン・キングらしい作品が映画で見たことがあるわけですけども、
これも非常に脅迫的な心理の表れです。
脅迫的な心象の人っていうのは、これをついついっていうのかな、
面白いんですよね。人のついついが許せないんだけど、
ついつい自分でやってしまうんですよ。
だから他人の間違いを自分の関係に置いてしまうわけですね。
お母さんが息子さんのケアリスミスが一つも許せないっていうのは、
本当に他人の自由ってものが許せないわけですよ。
だからものすごく、そういうふうに思われたくない人が多いんですけれども、
12:06
ものすごく他人に対して押しつけがましくなっていくところが出てくるわけです。
これはよく人の顔色を伺うっていう人は、
実はものすごく内心では傲慢なところがあるっていう指摘をする、
そういう言い方はあんまり精神分析はしませんけどね、
そういう心理的な部分を指摘する話にはよく現れてきます。
だって常に人の機嫌を良くしようっていうことっていうのは、
一方間違うとお前ら全員私の前では機嫌良くしとけよってことになっちゃうじゃないですか。
先日話をした総書記みたいになっていくわけですよ。
周りの人はみんなニコニコしている状態を目指すと。
これは自分の方が強い立場かそれとも弱い立場かによって、
話が大きく違うようではありますけれども、
結局は人の機嫌をコントロールしようとしているという部分がある。
私は人の顔色を伺っているかわいそうな努力をしているんですっていうのは、
一方間違うと相手の機嫌は私次第で決まりますって言っているのに、
等しいところがあるわけですよね。
相手の機嫌がその人の機嫌を取る人次第ではなくて、
相手の機嫌というのは自分のコントロールの外にあるということを
どうしても認め切ることができないっていうのかな。
これが人のミスも許せないみたいなことになりかねないわけですね。
私がここで訳のわからんこと。
だから昔共感性周知って言葉があったんですけど、
恥ずかしいことを言っているやつがいると自分まで恥ずかしくなるっていうのは、
この脅迫症的な心象の表れなんですよ。
人が恥ずかしいことをやるのはその人の自由なんですけれども、
それが認められないんですね。
つまり他人の自由っていうものを奪いたくなっていく心象っていうのがあるわけです。
これはその人の心の中で言うと、
無意識の領域は無意識の自由にさせておこうっていうことができないわけですね。
コントロールしたくなってしまうわけです。
コントロールした方がいいんだからっていうのは、
いかにもおかしいわけですよ。
自分の関係に全部を収めないと気が済まないっていうのは、
土台無理があるじゃないですか。
宇宙の運行までその人を決めなきゃならなくなるじゃないですか。
非常に極端なことを言えばね。
だから小説家の小説も私が書くし、
息子のテストも私がやるしっていう話にだんだんなっていってしまうわけですね。
これはつまりその人が自分を愛せないわけですよ。
結局のところそれは、
こうであるからこそ人は愛してくれるとか、
こうであるからこそ人は評価してくれるとか、
いうことがもうその人の中では全部決定されてしまっているので、
他人が好きなようにして好きなように評価される人生を好きなように歩むってことが、
納得できなくなってしまうわけです。
ここにその反転している倒作的な病理ってものが多分あるわけですよね。
だからナルシシズムってことにその人の心象状態はなると思うんですよ。
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だから私ナルシシズムの人が自分を愛せないって言うんだったら、
強迫症の人だって明らかに自分を愛せないわけだから、
同じような話になっていくじゃんっていう気がする。
当然重度の抑鬱の人とかは例えばやっぱり自分を愛せないわけですよ。
だからやっぱりこういうのって被っていくだろうなって思うんですよね。
ナルシシズムと強迫症と抑鬱というのは被っていくだろうと。
やっぱりだんだんだんだん強迫的に生きている人は、
だんだんだんだん無気力になっていくと思うんですよ。
だって結局それ嫌じゃないですか。
人のことまで全部面倒を見て、自分のことまで全部面倒を見て、
やりたいと思っていることは何もやってないっていうのは、
明らかに何かがおかしくなっているわけですよね。
少なくともそれが楽しい人生であるとは思えないじゃないですか。
一番いいのが自分が一番やりたいと思うことを好きにやって、
それによって周りの人もそれで納得してくれたり、
称えてくれるっていうのがいいわけで、
称えてくれるというのがいいわけで、
称えてもらうのが目的になってしまうと、
やっぱり自分がやりたくもないことをやる羽目になるわけですよね。
これは自分と他人双方に愛情と信頼が事実上欠損しているはずなわけですよ。
自分がやりたいことをやったのでは人は認めてくれないとか、
人は称えてくれないというのは、
つまり人は嘘が好きだっていうふうに案に言ってるわけですよ。
そして同時に自分も嘘が好きだっていうふうに、
結局はそうやって無理矢理称えさせているということは、
自分の本当のところは称えられないって言ってるわけだから、
結局のところその称賛っていうのは真実ではないですよね。
つまり自分も嘘が好きだってことを言っちゃってるようなものなんですよ。
で、すべてが表面的なものになってきますよね。
嘘の私を出しておけば、
それに騙された人たちが称賛してくれるっていうことを、
これは意味があるわけですよ。
騙された人たちが称賛してくれるっていうことを、
これは意味しているわけだから、
完全に嘘の自分を出せば、
それに引っかかる愚かな人たちが称賛をくれると。
その結果が私は好きですって言ってるわけだから、
創作的なことになっているわけです。
その一番の根底には、
本質的には自分は愛されないっていう、
非常に物悲しい信念が漂っているんだろう。
で、私はもうこれをやっていると、
これを長年やっているとですね、
だんだん欲望的になるんですよね、やっぱりね。
だからもうこれを徹底的にやっちゃうんだけれども、
機会があることにこれに気づいたらやめると。
これに気づいたらやめるっていうのは、
やっぱり究極的には、
これ本当はそうじゃないと思うんですけれども、
究極的にはアドラーの本になっていくわけですよ。
嫌われる勇気になっちゃうわけですよ。
初手ではねってことなんですけどね。
嫌われる勇気っていうのは、
つまり本質的に世の中はそうはできてないだろうっていうのが
18:00
どっかにないとやれないと思うんですよね、
本当のところ。
やっぱり自分はあるがままで愛されるはずだっていう、
こういうふうに世の中なってないとおかしいよなっていう感じがするんですよ。
花とか見ていて、そう思うんですよね、ある程度は。
花を愛し得るものだって思うときに、
花っていうのは表面的に愛されるために
飾っておいて、実は内実は空っぽですなどとは思わないと思うんですよ、
我々も、自然物。
これを疑うのは人だけだと思うんですよね。
だけど人というのは自然物の一種で、
人だけがそんなにものすごく特殊な状態になっているとは
ちょっと考えにくいと思うんですよ。
だから花が好きになれるという人、
あるいは動物なら好きになれるという人は、
多分本質的には人間になって好きになれるんじゃないかなと。
私は幸い、うちでメダカ飼ってますけど、
メダカだったら好きになれるっていうところがもともとあるんで、
あとはもうその延長線だと思うんですよね。
延長線上に、そこから先は横の無理をしなくても、
本当のところはいけると思うんですよ。
で、この脅迫症、僕は脅迫症というのは、
普通に神経症水準で割とそこかしこで、
自分自身もしょっちゅうなってしまいましたし、
そこかしこで見られると思うんですね。
で、脅迫症というのは結局多くの場合、
あれですよ、バカだと思われたくないとか、
SNSでついうっかりつまんないこと言って炎上するのが怖いとかね、
怖いはずはないと思うんですよね、炎上などというものが。
で、うっかり我々は何かをするわけじゃないですか。
うっかり何かをするなどということはいくらでもあるわけですよね。
そのうっかりミスをうっかり帳消しにしようとして、
うっかり余計なことを言って、
うっかり炎上の火に油を注ぐことも多々あると思うんですよ、普通の人は。
これを一切やめて生きていこうというようなことを考えるというのは、
やっぱりすぐにイコールにはならないんだけれども、
枕を四つ折りにする少年になっていくと思うんですね。
枕を四つ折りにする少年もすぐにそうはならないと思うんだけど、
やっぱり家中のマスコットを同じ方向に並べたい看護師になっていく気がするんですね。
これがつまり、人の手足を縛っておけば安心だということですよね。
人の手足を縛っておけば安心だと思うから、
つまり絶対にうかつなことは言えないっていう、
つまり人の手足を縛っておかないと、
人は勝手に一致させておくと何をしでかすかわかんない。
自分はそうはしないけど他人はそういうもんだっていうのは、
結局すべて一周してさっきの話に戻っていくしかなくなるんだろうと思います。
これがつまりナルシシズムってことだろうと。
だから脅迫症であろうと、抑鬱症であろうと、
それこそローゼンフェルノみたいな病理構造語であろうとも、
総的防衛であろうとも言ってることは全部同じなんで、
21:02
総的防衛ってのは要するに、
そんなことを言うあなただったらもう知らないって言って、
家を結局飛び出していくっていうような感じじゃないですか。
私の感じではそういう感じなんですね。
いろんな言い方があると思うんだけど、
俺は平気だからなって言って平気ぶるわけですよ。
そしてそんな関係を続ける、
あんたみたいなめんどくさいことを言う人の関係を続けるぐらいだったら、
この場を飛び出してしまってOKなんだぜって言って、
奥さん簡単に振るんだけど自分じゃ実は何もできないとかね。
こういうのって結局自分を愛せないってことだと思うんですよ。
この人って一見したところあるがままの自分はこうだから、
これでダメなら別れてやるって言ってるんだけど、
何か先手を打ってる感じがするじゃないですか。
先行していや俺は平気だから別れるって言ってるのって、
やっぱりこうあるがままでは愛されないっていうことを
アンに言ってる気がするんですよね。
喧嘩別れ上等みたいな感じ。
そういうふうにして先手先手を打って人と関係を切っていくっていうね。
この態度も非常に自分を愛せないってものをやっぱり感じさせるんですよね。
結局自分は本質的に愛される存在ではない。
だからここで無理して頑張る。
なんかここでよくあるんですよね。
そういうのを自分を押し殺して関係を続けるぐらいなら
切ってしまった方が健全だっていう。
私あれに同意できないんですよ。
これをやっていると大抵の場合あらゆる人間関係を
ただただ切っていくってことになりかねないなって気がするんです。
もちろん言うまでもなく、
これは恋愛や結婚関係で出てくる話ではありますけれども、
言うまでもなくというか言うまでもあるんですけれども、
これはカウンセリングの話ですからね。
こうやってカウンセラーをどんどんズバズバ切っていく人がいるってことですよ。
病理構造体の話では伝統的にはフロイトのドーラさんですね。
少齢ドーラ。あれは転移解釈の失敗だと思うんだけれども、
でもドーラさんももう二度と来ませんと言って来なくなっちゃったわけじゃないですか。
あれはフロイトの失敗だけれども、
やっぱりそれを患者さんがやるときっていうのは妙に相的になっていくんだろうと思うんですね。
これはあれですよ。だからずっとカウンセラーにひっついていくのがいいですよっていう話ではないですよ。
だから集結の問題って別にあって、モノサーキュというのが別にあって難しいんだけれども、
やっぱり腹元気出して怒りをある意味ぶつけるのをやめにして、
あなたがそうだったらもういいからみたいな感じで結局怒ってるんだけど、
そういうことを言う人っているじゃないですか、いっぱい。
だからこれをやることによって自分の精神の健康を保つっていうのはやっぱり僕は非常に、
僕なんかよくやりがちだったんですけど、盗作的だなっていうのが自分ではわかってると思うんですよ。
私なんかああいうのをやってるとき、実に自分盗作的だって思ってるんですよ。
24:04
なぜならば関係を切った後に相手に罰を与えられるってでも思っているんですよ。
例えば何でもいいんですけれども、
例えばですけれども娘との関係みたいな、
お前がそういうんだったらもういいからみたいな、
俺出ていくからとか言って、なんだかんだ言って、
それは娘が例えば経済的に困るのが非常に小気味よく感じるとかね、
これ完全に心理的に盗作ですよね。
関係自分で切っておきながら関係性というものを権力的に振りかざして、
自分の気分を満足させているわけですよ。
やったことはさすがに親子関係ではないですけれども、
私だったらやりかねないなってところがあるわけですね。
やっぱり別れて相手が困るのが気分いいぜっていうのは本当は明らかにおかしいんですよ。
別れた段階でその相手との関係は終わっているんだから、
そこから先その人が私のかつてはあったであろう影響力を使って
苦しめさせるのが気分いいっていうのは盗作だと思うんですよね、完全に。
やっぱり相手のことが好きなんですよ。
相手が心を入れ替えて、
何かこう謝ってきたら関係を戻してやろうぐらいな気分がそこになければ、
そんなことは考えないはずだと思うんですよね。
これを考えるっていうだけでも、
もう非常にこう本質的には別れたくはないって言ってるようなもんだろうと思う私は。
そういう意味で何かが逆転してるんですよね。
別れたくないのに別れ話を強烈に持ち出すっていうことは盗作だと思うんですよ。
返答しちゃって、
だから私あれなんですよね、
売りを終わるの一環よく持ち出すのはそういうことを僕は言いたくて、
あれですよ、名前忘れちゃったけど、
なんかこうモンスターみたいになっちゃってる、
ちょっとオツボネさんぽく言われている女の人が、
マコトさんっていう男の人と、
あんたの年収なんか低いんだからっていう男女がね、
だいぶ昭和と同じ年齢になっちゃってるんですよね。
あんたの年収なんか低いんだからっていう男女がね、
だいぶ昭和と逆転している感じなんだけど、
あんたの年収なんか低いんだからってガーって言ったら、
マコトさんが荷物全部持って出て行っちゃって、
非常に相手の女の人が抑鬱的になるという、
あれ完全に妄想分裂ポジションから抑鬱ポジションの例として私出すんですけど、
それよりもマコトさん、想的防衛だなと思うんですよね。
この男ひどいなって私は思うんですよ。
いや、言われたことはひどいですよ。
だから別れてしまいたくなるのもわかるし、
いなくなってますけど、あの男の人って非常にずるい感じがするんですよね。
あの後タイで見つけられた後でですね、
マコトさんが、いやいいんだよ別に怒ったっていいんだからとか、
お前怒ったらまた絶対いなくなるよなって感じが私はするんですよ。
ああいう男を追いかけるべきではないと思うんですけどね。
つまりひどいことをされたからって、
あれ絶対やり返してると僕なんかは思うんですね。
27:00
黙ってそういうこと言われたら嫌だから別れるって言って別れるんだな、
話はわかるんですけど、何にも言わずに全て持って帰ってパッと消えれば、
絶対相手は苦しむだろうって思ってると思うんですよね。
あれは僕は想的防衛だと思う。
あの別れ方をいろんな作品とかコミックとかで、
ほらあなた、パートナー大事にしないからそういうことになるんですよみたいな、
非常に小気味よく書いている作品があるんですけど、
私はいつもこの想的防衛やってる人は、やってる人が不幸になるとしか思えないと思うんですよね。
なんて言えばいいんですかね。スッキリはするでしょ、確かにね。
でもこのスッキリはですね、多分長続きしないんですよね。
その後茫然と寂しくなると思うんですよ。
その寂しさを関係を取り戻すことによっては、
多分回復させるのは相当困難な別れ方をしちゃってるんで、
タイマーで追っかけてきたらくれないですかね。
追っかけてきたって、ああいう漫画みたいには出会えませんからね、普通の場合。
で、こういうふうにして何を引き起こすかというと、
これってつまり自分の価値というものを、
別れることによってしか示せないっていう課題をその人は抱えてるんですよ。
だから自分の価値を信じるためには、関係を作ってはわざわざ壊すってことをしなきゃならないんですよ。
これをですね、恋愛だけで考えない方がいいんですよ。
これを例えば会社とかでやる。
私がいなくなったら会社困るでしょうという、
言わんばかりにしてバンバン会社を辞めていくと、
最終的に困るのはだいたい辞めている方の人だと思うんですよね。
でもまあこれだと例ですよ、例のあれですよ。
ブラック企業と搾取の問題が含まれるから、
次に何で考えるべきかというと、医者との関係で考えるべきだと思うんですよね。
医者って患者さんが去ったからといって早々困る医者っていないんですよ。
この心理状態で私が去ると困るでしょうと言わんばかりに、
バンバン医者を変えていってですね、
患者さんの方にメリットが残る可能性って僕はほぼないんじゃないかな。
だからこれをカウンセリングとの関係の中で、
頑張って考えていく必要があると思うんですよね。
一般的に言っても、多分カウンセリングにおいて、
創的防衛を振りかざす人っていうのは、
なかなかこの精神的なところからの回復が困難になる。
だってどんどんどんどんカウンセラーを変えていかなきゃならないじゃないですか。
現実にそういうことをやるんだと思うんだけど、
そうするとこれでカウンセリングのお医者さんはもう30件目です。
非常に厳しいですよね、この状態は。
私それに準ずるような人をやっぱり昔見聞きしたことがあるんですけど、
本当に本人大変そうだなって感じ。
言ってることはいつも言ってるんですけど、
30:00
だってもう身近にいるお医者さんは全て試したみたいなことになっちゃってるわけですよ。
創的防衛の、なんていうのかな、創的防衛依存みたいになっていくんですよね。
だから病理構造体ってうまいこと言うなと思うんだけど、
心の中にそういう構造みたいなものができてしまって、
明らかにその人の話を伺っていると、伺ったわけですけれどもね、
伺っていると思うのも、
この人は結局のところ、関係というものに価値を見出すことが非常に困難なわけですよ。
まあ私、コラボってものをやってるんでよくわかるんですよ。
一人でやっていけばうまくいくのに私はっていう、
言いながらなぜかコラボるんですよね。
だってカウンセリングってコラボじゃないですか。
ここがすごい大事なポイントなんだけど、
カウンセリングというのは、
コラボなわけですよ。
二人で一つの価値を作っていくってところ。
だからこれが結婚というものに例えられるのはよくあるパターンなんですけど、
今の時代にはしばしばこのSNSなんかでもそうですけど、
逆のことをすっごく言うんですよね。
言わんとすることはわかりますよ。
一人でやったほうがうまくいくんだ私はとかね。
我慢して、人の顔色を伺って我慢し続けて、
っていうのはつまらないことだと。
あなたの価値は十分あるんだから、
そんな人とはどんどん縁を切りなさいみたいに言うんだけど、
縁を切るってことはコラボの逆じゃないですか。
基本的には。
だから二人で一つのものを作ろう。
3人でも4人でもいいんですけどね。
こういう経験というものを、
なんていうんですかね。
体験しながら、
自分自身を愛しておくっていうことを、
やっぱり一つ目を成功させるっていうのが、
この種の人にとっての最大の課題になる。
多分なかなか一つも成果が出るまでは我慢しきれないと思うんですよ。
で、それはその人がわがままだって言ってるのでは全くないですよ。
その人は自分自身を愛せないという問題を抱えていらっしゃる。
ただこれは脅迫症でも抑鬱症でもおそらく同じだと思うんですね。
それこそジゾイドであったとしても。
悪害妄想なんか思いっきりそういうところは当然あるわけですけれども、
そういうことなんだ。
自分で自分の中にある価値みたいなの。
本当はそれも難しいんだよね。
だから正確に言うとコラボしかないと思うんですよね。
一人っきりでできる仕事なんてないと私は思うので、
やっぱりコラボるしかないと思うんですよ。
私であれば私の編集さんで作り上げるっていう。
ここに価値観を認めるしかない。
これってですね、また突拍子もなく聞こえるかもしれないけど、
歴史と伝統なんですよ。
だってそうですよね。
今まで絵塚治虫さんであれ、藤子富次夫さんであれ、
みんなコラボで頑張ってきたわけですよ。
藤子富次夫なんてそもそも二人で一組ですからね。
33:02
そしてやっぱりジャンプじゃないですけど、コロコロコミックとかね。
そういうところと共同して何か創作物とか、
つまりこれは結婚に例えられるわけですよ。
もちろんあれですよ、ここで、
いやあの人たちは良かったけれども、
私はそういうふうにジャンプのいいなりになっていううちにね、
ジャンプに搾取されるんだみたいな、
それが許せないんだっていうのはありますよ。
忘れちゃいけないのは、絶対そういうことがあり得ないということはないんですよ。
あり得るんですよ。
こういう夫とずっと一緒にいたのでは、
搾取される一方だっていう関係はあり得るんですよ。
だけれども、絶対あり得ないんだったら答え簡単じゃないですか。
円を切るだけ損ですよね。
そうではないんですよ。
ここで信用して進むべきなのか、
引いてしまうべきなのかの判断はいつも迫られてると思うんですよ。
そこで、なんていうのかな、頑張って結果を出せたら、
つまりいいわけじゃないです。
ここに、なんていうのかな、
ギャンブルの要素って絶対あるはずなんですよ。
ギャンブルの要素がないんだったら答え決まってるんだから、
誰も悩まないわけですよ。
搾取されるのかもしれないし、
自分が一方的に利用されるのかもしれないという疑いの中で、
なお信じるから価値があるわけであって、
信じれば絶対うまくいくんだったら、
別に何もいらないわけですよね。
判断力とか一切いらないことになるじゃないですか。
こうは難しいってのは当然当たり前のことなのであって、
ただ、どっちかというと、
私の今までの人生経験からすると、
拙い経験ではありますが、
信じといたほうが得だなというのが圧倒してるんですよね。
7割だとしても信じといたほうが得じゃないですか。
でも実際の数字を、
僕が今までの経験でいくと、
97%から99.7%くらい信じといたほうが得なんですよ。
いちいち疑って、
いちいち切って、
得している感じっていうのは、
ほぼないなっていう、
私結構切ってきたほうですからね。
30代より以前。
30代より以前には、
まともに何事も成し遂げることができなかったんですよ。
どんなしょうもない仕事でも、
やっぱり人と組まないとできない。
30代以前は、
私は切るほうが優勢の人間だったんで、
全く二と同然だったんですよ。
これが曲がりなりにもうまくいくようになって、
大橋一夫さんとの関係以降なんですよね。
これで学んだんですよ。
彼は私に非常に優しかったからね、
っていうことはあるんですけどね。
だからこれ以降なんですよ。
私が一定の結果が出せるようになったのは。
結局これは、
一人じゃ何もできないってことを、
よくよく物語ってる感じなんですよね。
うまく何事もできたってわけじゃないですよ。
私はそういう人間だったから。
まことさんとよく似てましたからね。
土崎だけは、
もちろん、
物語の良さそうなことを言っておいて、
いいんだよ、怒られたって、
人間だからしょうがないよとか言っておいて、
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火災毒全部持って、
どっか消えちゃうような人間なんですよ、私は。
はいとかね。
それをやってると、
何にもできないんですよ。
多分。
これは、
やっぱり私自身がよく分かるんだけれども、
やってたって、
やってると分かるんですよ。
30代以前は、
何にも自分の中にはなかったんですよ。
何にもできないっていうのが私は、
私はもう本当に、
マスタベーションしかないような人間でしたから。
体に刺激を与えて、
その刺激で、
だって私それを目的で、
留学したぐらいなんですから。
自分の体をいじって、
その快感だけで生きていこうというぐらい、
中身がない人間だったんですよ。
だから、この中身の無さというものを、
よくよく知ってるんで、
知ってるんで、
人が私のことを好きになってくれても、
そういう人を信用できないわけですよね。
だから、切れてしまう。
どんな人でもやっぱり、
観音様みたいなのではないって、
私が自分のことを全く信じないっていう状態を、
ずっと続けていると、
いろんな理由で喧嘩になるわけですよ。
すぐ喧嘩になっちゃう。
そのために私は、
一回でも喧嘩をすると、
スッと引いてしまうタイプの人間なんで、
その割につけてくれてる人が、
いたのが不思議なんですけれども、
これ結局何を意味してるかというと、
これは、
あれなんですよね。
こういうふうに言うと、
今流行りのあれみたいになってしまうんで、
いつも同じ話になってしまうんだけれども、
やっぱり結局は、
私の場合もそうなんですけれども、
条件次第で愛されるっていう感覚に、
なりきってしまったのが、
いけないわけですよ。
で、あれのままの自分であったらいけない、
っていう話を、
今は割と、
平気でされるようになっていて、
これはもう、
時代の数勢でやむを得ないと思うんですけど、
私、これに、
あり方とやり方とかそういうのを含めて、
全部、
基本的には、
受け入れないようにしてるんですよ。
それは、
どんな人でもあるがままでいい、
っていうふうに思うべきだっていうのは、
私の中では結構ですね、
何種のかな、
妥協をしえない話なんですよね。
そうは言っても、
論を認めてしまうと、
自分に対して、
穴を開けることに、
やっぱりなってしまうと思うんですよ。
価値マックスとは言わないまでもですね、
自分の価値というか、
自分が愛されるという点において、
自分を愛し得る存在だという点において、
条件付けちゃダメだと思うんですよね。
条件付けてしまったら、
もうそれは、
自分を愛し得ない存在だって言ってるのと、
同じことになってしまう。
愛するのは条件だってことになるじゃないですか。
そして僕はこれは、
すっごい信用ならないんですよ。
だって全然他人の条件なんて
愛し得ないものなんで。
これは、
子供を持てばすぐある程度は
わかることだと思うんですけど、
そもそも人の百点なんて
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愛せますかね。
この人の、
多分ね、それは我々がそういう感覚に
相当慣らされてきてるから、
難しいテストとか、
難しい大学を合格するってことは、
すっごい価値があることだって、
ある程度わかりますけれども、
実際のところは東大に受かってるっていう、
ただそれだけで人を愛せるだろうかっていうか、
人じゃないですよね。
東大合格という事実そのものを
そんなに愛せるだろうか。
だって毎年何百人というわけじゃないですか、
結局のところそれは。
東大生なら愛せるかって話ですよね。
というか、
東大なら愛せるかって話に近いですよね。
私それは全然できないなって感じは
やっぱするんですよ。
お金ならまだね、
わからなくはないですよ。
でもやっぱ人は1億円を愛せるかって言うと
微妙じゃないですか。
1億円なんか愛せますかね。
物欲っていう意味でもそうですけど、
私昭和のお父さんたち、
車大好きですよね。
なんかレクサスだの、
ベンズだの。
ベンズなんか愛せますか。
私ベンズなんか全然愛せる気がしないんですよ。
結局そういうことになっていくじゃないですか。
条件を愛するっていうのは。
僕はもうなんかですね、
昔テトリスでカウンターストップって言って、
999万9999点みたいなのを取ると、
カウンターがそこから上までいかなくなるんですけど、
カウンターストップなんて愛せないじゃないですか。
テトリスの900万点なんて
別に全然愛せないじゃないですか。
ゲームセンターらしいじゃないんだから。
つまり、条件愛するってのは
そういうことになると思うんですよ。
僕はそれは完全に陶作だと思うんですよね。
人は条件なんて愛してないと思うんです。
結局のところ条件を満たしている人を愛するんですよ。
人は条件になって愛してないと思うんです。
人は条件になって愛してないと思うんです。
条件を満たしている人を愛するんです それだったら
それは人を愛するっていうことにしといた方が遥かに 楽だと思うんですよね
で 人ってのは愛されたがりなので非常に愛されたがりなのでまあこの言い方もよくないんだ
けども 欲打つ的な人は当然愛されたがって欲打つになるんで誰も愛してくれないって言って欲打つ
になるわけです 誰も愛してくれないと言ってしょんぼりするわけですから
で全てはそうなんですよ脅迫的であるということはつまり 人はインムなんか見るやつ愛してくれない
お母さんはインムなんて見る自分のことを汚いと思うみたいな考え方でしょ あれってだから閉じまりをできない自分を愛してもらえないとか
えっと火を消せない自分を愛してもらえないとかそういうことで条件つけていくんだ けれどもこれだったらやっぱりですね
愛されたいっていうふうによこと言ってしまえる ここが素直になれないって話なんですけどね
愛されたいって言ってしまえればすぐ話なんですよ 愛されたければやっぱ愛するに限ると思うんですよね
自分で自分のことをもそうですし特に他人のことですよね だから条件
つけずに愛せるということをやれればですね 恐らく愛されるんですよそれだけでここがすごい難しいというのは
やっぱり自分というものがいかに愛せないかっていう話になってるんだと思うんですよ いかに自分はあらゆる条件をできればね
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満たさなければならないと だからまあうっかりミスをしないうっかりつまんないことを言わない
うっかりつまんないことを書かないっていう話にどんどんなっていくんですよ あの
最初のデートで絶対コーヒーのシンピオスズボンにつけてはいけない男の子ですよ ああいうふうに生きるのが辛いのはやってみてみんな知ってるはずじゃないですか
あれをちょっと先まで進めるといざという時たたない男の子っていう話になっていく 僕がそうなんだけどつまりそういうふうになりたくなかったらもう
あるがままで ok なんだっていうふうに思っとくしかないと思うんですよね そのために一番いいのは人のことをあるがままで愛するってことしかない
という最終的な結論になると思うんですよ だから欲望的でも脅迫的でも8
自己愛的でもボーダー的でもですねやっぱりそれはどのことをあるがままでは許せない っていう話から話と密接に関係があるだろうなって思います
人はうっかり自分を傷つけることがあるそれでいいじゃんって言うんですよ うっかり自分を傷つけるような奴は許せないって話を始めれば多分
絶対その人はまず脅迫的なところからスタートしなければならなくなる 自分のうっかりを全部やめなきゃなんなくなるわけですから
チェックリストをするにせよ何にせよですね チェックリストを使うのもリマインダーを使うのも閉じまりをするための鍵を自動化するの
全部結構なことなんですよ ただそれは全部に失敗してもいいんだって思える限りにおいてなんだ
もちろんこれは8こうやって言うと簡単そうでも全然簡単ではないですよ これはある考え方によるとうっかりコンビニのドアをアクセルを踏みまくってぶち破っ
る人でも愛せるって話にどこかで多少はならないとアレですからね 気をつけるべきだけれどもでも8
うっかりミスを許すってのはそういうことじゃないですか 80歳ぐらいになってくればそういうことはうっかりやり売り
売りますからあのうちの向井のおばあさんも多分それぐらいの年齢でうっかりこの人なら やり売るでもすっごいいいおばあちゃんですよ
金もあるし療養も豊かっぽいしねしょうがないんですよ だってこの辺でこれだけの坂道があっておじいさんが先におじいさんに先立たれて
息子さんスースも近くに住んでいらっしゃらなくて 経営の経営の経営のなんかも自分の等等身大みたいな車をあの年でですね
交差点を曲がるのにも3秒から8秒ぐらいかかるというおばあちゃんが運転しなければ ならないという状況そのものにやっぱ問題があるんだけど問題がある状況って
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の一瞬で改善されないから あの運転しなきゃいかないわけですよ
でもこの人がうっかりなぁみたいなそしてなぜか なぜか不思議なことにこういう高齢者がいっぱいの街には8
低学年の小学生とかもいっぱい歩いているもんなんですよね いっぱいではないんだけどねほんとはねショーン少子化で子供の人口多くないんだけどでも
やっぱり道をいっぱい歩いているのは結構ちっちゃな子供だったりするわけですよ この組み合わせてなーって思うんだけれどもそういう社会にとりあえずなっちゃってるんですよ
今 で坂が多いんですよこの街はっきりしてだからどう考えてもこのおばあちゃんが下の
スーパーの頃まで歩いていって8水1本持って戻ってくるのも難しいかもな っていう人が結局は車の運転をしなきゃならないっていうことが起きちゃっている
わけですよね うっかりミスってのは起こると思うんですよ
ピリッ でもそれが自分の子が惹かれた場合どうかなっていうのは考えちゃいますよね
だからこういう話があるから勢いあるがままを愛するとか許すってのが勢い難しく 感じられるんだけれどもこれをみんなでやめてしまうと
まりみんながそういうのは許さないで作種も許すっていうのを始めてしまうと ものすっこい多くの人が現実にそうなりだってる面があると思うんですけどものすごく多くの
人が少なくとも脅迫的なところから人生始めなければならなくなると思うんですよ そっからはもう
欲打つまでは非常に近いと思うんですよね 非常に無気力になっていきかねないと思うんですよ
それぐらい人っていうのはあの 愛されずに生きていくっていうのは困難なんですよ
あるがままではないものを愛されても少しも愛されたことにはならないので結局のところ それは
8私は愛するに値する大学を出ましたとか私は愛するに値するうっかりが少ない人間ですとか いっぱい張りボテを張っていかなきゃなんなくて
その張りボテを愛してくれる人たちは愛されるべき存在にはならないんですよね 私たちは本質ってものを知って生きているので
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