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2024-05-03 47:29

「申し訳ない」「いえこちらこそ」【GMV976】

『恥と「自己愛トラウマ」』を読みました。

サマリー

今回のエピソードでは、手帳セミナーやタスクシュート仕事術の話題や、日本人の無限連鎖や別れ際に関する考察が行われます。 岡野さんの本「恥と自己愛トラウマ」では、自己愛が傷つくことによって怒りが生まれ、それが恥と自己愛トラウマとなることを探求しています。過度な期待やプライドが傷つくことで、人は怒りを覚える傾向があり、これは自己愛的な反応と関連しています。 ナルシシズムの傷つきというのは人間関係の中だけで起こるものなので、回復するためにはコミュニティに受け入れられることが必要です。 ナルシシズムの傷つきについて考察し、感情が揺さぶられる状況について検討します。 彼/彼女は世界に勝手に期待しており、主観的世界、客観的世界、太陽、関係。

手帳セミナーやタスクシュート仕事術
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月3日、祝日ですね。金曜日、憲法記念日で20時23分です。
別におはよくもなんともありませんが、グッドナイト的な時間ですけどね。
どうしようかな。一応というのも変ですが、お知らせはしておきましょう。
5月の何日だっけ。5月の19日、手帳セミナー、タスクシュート手帳セミナーやります。
これですね、私自身のタスクシュート話もしようと思っていて、そのうち、
どっちかというと手帳というよりは、タスクシュート仕事術セミナーみたいに、
でも手帳メインといった感じのものにしようかなというのを考えております。
タスクシュート初心者セミナーみたいな感じかな。
今回はそうしませんけど、告知しちゃいましたから。
昔、東京ライフ発見協会では異業種交流会っぽさって出てたんですよね。
あれはすごくいいなと思ったんですよ。
いろんな職種の方がいらっしゃるじゃないですか。割と意外な方もいらっしゃるんで。
そういうのも結局ある意味仕事術って仕事を横断することができますよね。
僕よくライフハックに思想はないっていうのはそういう意味で話すんですけれども、
学校の先生にだけ役に立って、
例えば大工さんには役に立たないライフハックとかそういうものはないわけですね。
だからライフハックというのは当然必然的に異業種交流会的な
会を催せばそういう意味が出てきて、そこをちょっと失いつつあるのは残念な気もするんですね。
異業種交流会と言わなくても異業種交流会ができる。
僕はやっぱりこの次でにっていうのが昔からしょっちゅう口にしますけど、
とても大事なことだと思ってるんですね。
3ヶ月チャレンジも結局異業種交流会的な雰囲気が必然的に帯びてくるわけですよ。
そこまで規模大きくないにしてもですね。
なので3ヶ月チャレンジも今はグループセッションというのをもっと、
それが最大の前面に出すってわけにいかないけれども、
やっぱりそれは前面に出していっていいんじゃないかなと思って明日やるんですけどね。
もし来期第7期にご参加いただける方は週に1回のグループセッションタイムっていうのがあって、
これ結構大事ですよということをだいぶ先の話になりますけれども、
こちらでもお伝えしておきたいかなと思います。
併せてですね、今月の26日日曜日に、
倉田の平蔵さんとタスクシュート×グッドバイブスというセミナーやります。
これはもう完全に私の現状のタスクシュートというものを、
1時間近くかけてがっちりとお伝えしていきたいと思いますので、
よろしければこちらもご覧になっていただければと思います。
はい、今日は憲法記念日ですが、私は憲法の話はできませんので、
相変わらずこう、タスクシュートじゃない、精神分析系の、
ちょっと新しくですね、本買って読んでるんですよ。
相変わらず岩崎さんの本とか、岩崎学術出版ってやつですね。
岡野健一郎さんという、私この方の本読むのは実は初めてなんですけど、
もっと読んでてよかったなと思っているんですが、
字と自己愛トラウマ。
これはですね、私がわりと知りたいことがどんぴしゃで書かれていて、
ただ、精神分析に関しては書き方がさらっとしてるんですよね。
精神分析の人ってなんだかんだ言ってねじっこいんですよ。
やっぱり患者さんの話をぐいぐいね、どこまでもどこまでも。
だって最初は週に5回やってたわけじゃないですか。
それ聞くほど聞き尽くしちゃうじゃないですか。
それでもこうあって、掘っていくと。
その作業そのものがなんかちょっと独特ですけれども、
だから本書く人も必然的にというわけではないんでしょうけれども、
わりとねじっこくなる感じなんですけど、
すごいウェイって読むのかな。
しめっぽくなるっていうのかな。
割と岡野健一郎さんの本は、わりとさらっとしてるという、
そういう意味では精神科医でもあるので、
精神科医としての顔の方が前に出てきやすい人なのかなみたいな、
今のところざっくりとしたことを考えているんですけどね。
非常にビジネス書になっててもおかしくないぐらい、
さらっとしていてでも私がわりと読みたいことが書いてある。
恥と自己愛トラウマってこのタイトルの中のやっぱり自己愛ですよね。
何と言ってもこの自己愛という単語が、
本当に困る言葉だよなといつも思い知るわけですよ。
元の意味はナルシシズムなんだけど、
だいぶ前にね、これも藤尧直樹さんの本に書かれていたやつの引用なんですけど、
ナルシシズムという言葉のどこにも自己も愛もないっていう、
これは非常にですね、考えさせられるわけですよね。
ナルシストって言っちゃうじゃないですか。
ナルシシストなんだけど、
ナルシストってなんかもうすごくね、自分…
なんていうのかな…
要するに分かってないってことなんだけど、
この分かってないっていうところのニュアンスだけは何となく近いけど、
俗に言うナルシシストっていうのは要するに、
なんか訳わからんうぬぼれ屋っていう雰囲気ですよね。
で、そういう意味は多分元の意味にはかなり少ないと思うんですね。
第一にうぬぼれてないだろっていうのが問題なんですよね。
自己愛っていうのは、
多くの場合自己愛が傷ついてるっていうそのニュアンスが
うぬぼれてるのかもしれないんだけど、
そこはあんまり大事なポイントではないですね。
単なるうぬぼれ屋みたいな、
そのなんかね、なんだろうなあれはな、
細松区に出てくる嫌味みたいな、そういうんではないってことですね。
日本人の無限連鎖
この話、この本いろんな意味で面白い本なんですけど、
私がやっぱり非常に感心させられたのはですね、
日本人の何て言ったかな、無限連鎖。
あれですね、昔漫画でも読んだぐらいなんですけど、
日本人はみんなそれ分かっててやってるんですけど、
例えば褒められたときに、
そのまんま受け止めませんよね。
この人も岡野さんもアメリカの体験してるから、
そのことすごい実感したらしいんですよ。
いや素晴らしかったですねって例えば言ったとすると、
絶対ありがとうございますってあんまり言わないんですよね。
普通我々は、いやとんでもないですって言いますよね。
このとんでもないですって言ったのに対して、
いや実際とんでもないですよみたいに言う人は誰もいない。
たまに変わった人いるけど、
まあそうは言わないですよね。
そうするとまたそれに対して否定が入りますよね。
こうやっていつまでもこれを続ける人はあんまりいないんだけど、
どこかで日本人はよくやってるんで、
これはどっかのタイミングで切り上げるんですけど、
無限にやりますよね。
なんでこれを無限にやるんだろうってことなんですよね。
サンキューって言うんで、
ここで一旦終了できるというふうに書いてるんですよ。
このほうが楽ですよね、明らかに。
もうそんなことはないですって言って、
相手の言を否定すると、
相手はそこに肯定をかぶせてきて、
さらにそれを否定するという形で続くわけですね。
この無限連鎖が日本人のやりとりにはですね、
実は褒められた場合だけでなく、
いろんなケースで出てくるんですよ。
お会計の時にありますよね。
ここは私が、いや私がってやつね。
あれもどこで決着をつければいいのか、
よくわからなくなる時があるんだけど、
とりあえず日本であれをやるものになってるケースで、
なかなかやらないってわけにもいかないわけだと思うんですよね。
だからあれも無限に続く。
一歩間違うと。
何回かしかも読んだことがあるんで、
よっぽど日本人ってのはこれが、
お互いやりにくいし滑稽だと思ってても、
やめられないってところがあるんだろうと。
そういうことが書いてあるわけですね。
私はこれを読んでですね、
非常に精神分析的だと。
一つには罪悪感がはっきりと絡んでますよね。
申し訳ないと言ってるわけですよね。
何に謝るんでしょうね。
っていう話を岡野さんは展開しているわけですね。
何かに謝ってるわけですよね。
アメリカであなたのスピーチは素晴らしかったですよって言われて、
アイムソーリーって言ったらすっごい変ですよね。
多分全く、
最近はアメリカ人も日本人慣れしてきたんで、
笑ってくれるかもしれませんけど、
事実上ジョークになってしまうわけですよ。
そこで返すのは非常に難しいと思うんですよね。
英語的には。
アイムソーリーってそういう意味じゃないだろうって感じがするんでね。
日本人はすみませんのつもりでアイムソーリー言ってて、
ありがとうのつもりでもアイムソーリー吹き走ることは、
僕もしょっちゅうあったんですけれども、
英語と日本語の逆のやつで、
イエスとノーが逆転するのもとっさに出ないんですよね。
どうしても否定形で問われたものに対してイエスって言ってしまって、
よくわかんない気持ちになってしまうことが多いんですけれども、
しょうがないんですよね、これはね。
で、
この無限連鎖の中にですね、
さすがにカウンセラーだけあって実に面白いのがあったんですけれども、
日本人は別れ際というのも、
無限連鎖してしまいやすいところがあって、
しかもこれを医療ではすごく困る。
実際あれですよね、
どんどん患者さんを回していかなきゃならない。
日本の病院って混んでますから、
特にそれなりに人気がある。
おそらく岡野さんって人気がありそうなんで、
次々にやってくるので、できれば即座に帰ってほしいわけじゃないですか。
でも何回もお辞儀しちゃうじゃないですか。
私たちはその週刊管理上、
じゃあこれでとか言って、
それからまた戸口で失礼しましたとか言って、
そういう風にして、やってほしくないと思っているとき、
つまり急いでいるときは、
これをやってしまうというのを避けがたい自分たちに、
少しイライラするわけですよ。
無限連鎖だから、やろうと思えば永遠に続けられるわけですよね。
別れ際における無限連鎖の問題
じゃあまたお題しにとか言って、
一生懸命ここで、
心療の時間と同じくらいの時間が頭を下げ合うということで、
時間を費やしてしまいかねないところがあるわけで、
何かに誤っているわけじゃないですか。
そして、私もこの番組でもね、
時々思うところがあるんですよ。
打ち切るということが意外に難しい。
だから最近ばっさり打ち切るようにしているんですけれども、
打ち切るというのが意外と難しいというのは、
やっぱり精神分析の言葉で言うところの、
物作業を数節に思い出させられますよね。
集結の難しさってことですよね。
日本人っていうのは、
それが良い悪いじゃないですよ。
すんごいケアしてるんだなってのがわかりますよね。
つまり、別れないようにする。
別れの痛みを最小限度に食い止めるっていうために、
これを間違いなくやってるんでしょう。
結局、時代がシビアであればあるほど、
別れが永遠の別れになりかねないわけですから、
つまり名残を惜しむわけですよね。
簡単に、割と僕もアメリカ行ったとき思ったんですよ。
なんかさっきまですごい感動的に、
あなたに会えて本当に素晴らしかったとか言ってる割にはですね、
サクッと帰ってしまうんですよ。
グッバイとか言ってね。
あれすごいびっくりするんですよね、日本人的には。
ああいう風に切ってしまう人は、
日本であれば少し何かちょっと独特の文化圏なのかなぐらいには思うと思いますね。
で、欧米の人は多分ああだと思うんですよ。
あそこまで感動的な再会をしておきながら、
自己愛の傷つき
別れ際がこうもすっぱりっていうのってすごいなっていう。
だから引きずらないといえば、
そういう意味でいいのかもしれない。
だからといってアメリカに移がないわけじゃないですよね。
物作業との兼ね合いを考えると、
やっぱり移ってのすごく感慨させられる話なんですね。
で、岡野さんのこの本の恥と自己愛トラウマという話の中でですね、
冒頭にすごい例が出てくるんですよ。
北朝鮮のナンバー2がいきなり処刑されたって話。
これは韓国からの共同通信みたいなやつの記事なんですけどね。
で、このナンバー2がいきなり処刑できてしまう国っていうのもすごいけれども、
なんでナンバー2は処刑されたのかっていう話で、
これは所詮説なんですけど、
推測の域を出ない部分ってあるんで、
あの国はいろいろ秘密ですからね。
どうやら、要するに第一初期ですよね。
勤務総書記っていうのかな、分かんないけれども、
彼が傷つけられた。
これはまずいだろうなって感じがやっぱりするんですよね。
ナンバー2に傷つけられたと。
この理由が日本人的には古ってて、
要するにどこかに回っている利権を、
軍に回すようにという命令を即座に実行しなかったって話みたいなんですね。
で、ナンバー2の誰それ、
張吾とか書いてあったかな、
さんに相談しますって、
これが非常に総書記の自己愛を傷つけたっていう話なんですよ。
で、やっぱりこれはですね、
自己愛じゃないなって感じがするんですよね。
こういうのをナルシシズムってやっぱり表現してたんだと思うんですよね。
フロイト的にはですね。
めっちゃ、じゃあ、
総書記的にはですね、迫害妄想を覚えたと思うんですよ。
要するにプライドを痛く傷つけられる。
人前で恥をかかされるってやつですよね。
人前で恥をかかされたことに逆上するというのは、
確かにナルシシズムなのかもしれないけど、
ナルシストのそれというのとは考え方が違いますよね。
ナルシストってある意味もっとご機嫌じゃないですか。
そこにはものすごく深刻で、
非常にこう、なんていうのかな、
恩恵的なものがあるじゃないですか。
ある意味では。
つまり、この恥をかかされたということに、
えーと、
僕よく思うことなんですけど、
これはどいたけおさんがよく書くことだったと思うんですけど、
プラスはあんまりそれほど、
効果を発揮しないですよね。
俺自分大好きだわ、みたいなんじゃないですよね。
空気のように思っているものが、
不意に傷つけられたときだけに、
猛烈に何かを感じてしまう。
まあネガティブなものね。
その辺がすごくだから、
邪魔されるとかそういう表現と似てる。
邪魔っていうのは相手は意図してないじゃないですか。
特にあの、なんていうのかな、
それが人為的でない場合。
例えば、あの、
昨日台風があって、
木が邪魔で道が通りにくかった、
みたいな表現したとき、
恥と自己愛トラウマ
木って別に俺邪魔してやるぜ、
みたいに思って倒れるわけではないですよね。
邪魔されるっていうのは完全に、
そういう意味では、
自己愛トラウマ的なんですよ、
邪魔されたという感じ方っていうのはね。
これが私は思うにやっぱり、
自己愛ってものだと思うんです。
世の中は自分に、
自分にとって最適であるようには、
そもそも設計されてない。
これは当然なんだけど、
既に総書記ともなってくれば、
やっぱり国家は自分の都合のために、
完璧に整備されていて、
当然なんですよ。
だから、それが円滑に進まないなんてことは、
あり得るのかって感じがするんだと思うんですよね。
あり得るとすれば、
やっぱりその一族はみんな、
これで少なく見積もっても8人が、
速攻で銃殺されたみたいな、
話のようなんで、
それで私は驚いたんだけど、
そういうことになってしまうわけですよ。
これは自己愛の傷つきっていうのに、
非常に直結すると思うんです。
だから、自己愛っていうのは、
それをうぬぼれてるって言えば、
そうなのかもしれないけど、
我々はそうは感じないと思うんですよ。
例えば赤ちゃんが、
お腹が空いたのに、
ミルクもらえないというので、
大泣きすると。
それはもう、
非常に子どもっぽいっちゃ、
当然子どもっぽいんだけど、
いつでもお母さんが、
最適な時間にミルクは出せないわけじゃん、
っていうのはそうなんですけど、
でも赤ちゃんうぬぼれてんなとは、
思わないと思うんですよね。
思い上がってるとかね。
我々はそうは思わないと思うんですよ。
普通に考えれば赤ちゃんは、
うぬぼれても思い上がってもいなくて、
それが当然だと、
ただ純粋にそう思ってる。
そしてそれをナルシシズムって、
言ったんだと思うんですね。
そういう意味では我々も、
だから岡野健一郎さんは、
そこをすごく書くんですよ。
おそらく全ての怒りというもの、
全てのではないんだけれども、
ものすごく、かなりの比率を占める、
怒りというものは、
自己愛の傷つきであると。
要するに自己愛が傷ついて、
特に恥をかかされた、
というふうになった時に、
だから恥と自己愛トラウマなんですけど、
トラウマのようになるほど、
人は怒りを覚え、
怒りと自己愛
それはそのこと自体が、
非常に深刻なことなのか、
どうでもいいようなことなのかというのは、
問わないんだというふうに、
彼はそこをすごく強調していて、
なるほどなぁと思ったというか、
まさにその通りだなと。
そしてそのものの見方は、
実に精神分析的だなというふうに、
思ったんですね。
つまり精神分析家っていうのは、
この自己愛が傷つきやすい患者さん、
非常によくいらっしゃるはずなのでね。
そういう人が来た時に、
自分のごくわずかな、
すごく話題になるやつですね。
だから時間の変更は許されないと。
時間の変更は許されないんですよ、
って言っておいて、
そういう、
契約みたいなのをかわすんですよ。
多分、
多分というかかわすんですよ。
治療の最初の頃に、
初期設定みたいな言い方をするんですけどね。
初回面接設定だったか、
とにかく設定があるんですよ。
にもかかわらず、
こういう人は絶対出てくるんだけど、
お金の事情で30分遅れたんだから、
例えば、
時間を変更するか、
金額半分にしてくださいと。
これでダメですって言われると、
激怒するっていう形を取るんだけど、
これは設定なんですね。
つまりそこの激怒を、
ある意味誘発するための、
これは構造だということになるわけですよ。
これで激怒するというのは、
非常に自己愛的なものがあるわけですね。
で、傷つきやすい人と、
当然、あほど傷つかない人と、
別れるわけだから、
そういう設定をあえて用意しておいて、
で、そこに定食する日がやってくる。
また定食する日がですね、
非常に簡単にやってくるんですね。
傷つきやすい人というのはなぜか。
割と簡単にそれを、
多分無意識のうちに
それを破りたいという気持ちが、
あると考えるでしょうね。
精神分析であればね。
いずれにしても、
そういうカウンセリングの設定を
必ず破る日がやってきて、
何分負けろみたいなことを言いたくなってしまう。
これは非常にさっきの、
創出期的なところが出てくるわけです。
これが病理だって話じゃないですよ。
必ずしも多分。
これがすぐに病気だっていう風には
言えないと思うんですよ。
問題なのは、大事なのは、
ある地雷というものを
その固有のものを追ってて、
それを刺激されると、
その人は怒ってしまうってことなんですね。
で、その怒ってしまうというのは、
ただネガティブな時にしか
現れないから、
その人本人も、
通常自分がある変な設定を
世界に持っちゃってるということ。
気づきにくいし、
もちろん周りの人も気づかない。
つまり、いや俺超イケてるからみたいな
PRをしてるわけじゃないんで、
ごく普通の顔をして、
ごく普通に電車に乗って、
ごく普通に会社に行って、
ごく普通に挨拶をして、
何事もなければごく普通に仕事をして、
普通に家に帰っていく人でしかないんだけど、
あるタイミングで、
ある事態が発生すると、
その人にとっての何かが、
世界に期待している。
そしてその期待は、
赤ちゃんがミルクを期待するように、
ごく当然の期待を持っている、
その期待が破られることによって、
その人自身がパニックに陥ってしまう。
これが恥と自己愛トラウマ。
それが特に自分の
プライドと恥に関わるような
事柄であると、
トラウマみたくなってしまうというのが、
この岡野さんの
本の趣旨なんですね。
はい。
一気に喋って
20分ですね。
ありますよね、これは本当に。
私も非常に
しばしばですね、
恥ずかしいから
喋りたくはないですけど、
非常に考えさせられるわけですよ。
例えば電車に乗って、うるさいなーみたいに
思うということが、
急に起きてしまう。
自分のために他の人が静かにしなければいけない
という方はどこにもないわけですよね。
これは、
私が一見世の中をニュートラルに
眺めていて、世の中に
特別な期待をしていないつもりでいても、
実は特別な期待をして
しまっていて、やはり赤ちゃんが
お腹が空いたらいつでも
ミルクちょうだいよと思っても
いないんですよね。そのように考えてさえいない
赤ちゃんがそうならないと
大泣きすると。
これが一時ナルシシズムですね。
これは非常に健全な本能だけれども、
でもやっぱりナルシシズムであることに
違いはないわけです。
大事なことは、ナルシシズムというものは
こういうふうに見える
ってことなんですよ。周りに。
つまり、ナルシシズムってのは
客観的な事態ではない
ってことですよね。
これが観主観的っていうことだと
僕は思うんですよね。つまりその大泣きが
お母さんにはすごい響くわけじゃないですか。
ネガティブな意味で。
この響き方が、ナルシシズム
というものの表れの特徴だと
思うんですね。
激怒する。
掃除機もそうだけども、
激凛に触れるみたいな
その出来事自体は
ニュートラルに
見ているつもりでいるっていうのが一つと
それは周りにある種の
見え方。たぶん
そういうふうに言うことは
決してないでしょうけども、その掃除機の
振る舞いを見ていて、赤ちゃんみたいだ
って思ってる人。ただし非常に
ビビりながら赤ちゃんを
怒らせると非常に怖いわけですよ。
この関係の中に現れるもの
だってことなんですよ。だから
ナルシシズムの傷つきと人間関係
ナルシストって人はいないわけですよ。
ある関係のある
こじれの中で、その
ナルシシズムというものがどんと現れて
その現れというものを
被らなければいけない人ってのが
たぶんすぐ身近に
いるわけですね。
だから私が
例えば電車の中で
喋ってる人にうるさいぞって
言ってしまったらそれはすごい
ナルシシズムが現れていると
その人たちが被ることになるわけです。
大体僕はそういうこと絶対できない
タイプの人間ですけど。逆も
あり得る。だから
逆もあり得るってところが
客観性がないってことなんですね。
例えば私が
先月の話ですけれども
一生懸命
電車の中でも原稿書かなきゃならないから
必死で書くと。こういう時に
私のナルシシズムが
別の形でまた現れているわけですね。
電車に乗って
タイプ音うるさいなと思う
せいに
自分がものすごく急いで原稿書いて
いる時というのはこの音を
うるさがる人がいてほしくは
ないわけですよ。だって
やむにやまれる事情があるから。でも
私のやむにやまれる事情なんて周りの人の知ったこと
じゃないじゃないですか。というところが
見えなくなりやすいわけですね。
こういう時代になると。これも
隣の車両に
乗ってる人にとってはほぼどうでもいい
出来事なんですよ。隣に座ってる
人とかにとってのみ
自体がある種の形を
持っておびて
雰囲気をおびて
何かを感じなきゃいけない。
つまり私の
日本語で言うところの
傍若無人なね。うるまいみたいなものを
相手は
私にある種の
当然の期待を私にするんだけど
その期待に私が絶対答えなければならない
という言われはないわけですよね。
これを回避するために
岡野さんが考えるところの
日本人の
やたら謝るという。つまり
日本人ってのはこの
自己愛の傷つきってものに
ほんのすごいケアをして
生きてきている。多分これがですね
雰囲気を読まなければならないとか
同調圧力とか
息づらさとか言われているものなんだと思うんですよね。
むやみやたらにすみませんを
言うのは多分これなんですよ。
なんで
褒められたときまで謝らなければならないのか
というと褒めてくれたという
ものを受け止めてしまうとですね
大概の場合そこに
ふっと上下関係ができてしまうわけですね。
あの
あなたのスピーチが素晴らしいというのが
本当だということになると
いやありがとうございますということになると
ちょっと上位に立ってしまうじゃないですか。そうすると
相手の自己愛が傷つく
わけですよ。褒めてるんだからいいと思うん
だけれども、つまり
あなたのスピーチは素晴らしいってことは
私のスピーチはその分ダメってことかっていう
ちょっと格外妄想的なんだけど
これを避けるために
否定すると
この否定を
相手は受け取っちゃってもダメなんですね。
私のスピーチは大したことはないですと
日本人ってこの時の
日本語だな。この時の減り下り方は
ひどいレベルに入るじゃないですか。
いやもう本当に
お粗末なものでしてとか
わかんないことを言い出しますよね。
そこまで粗末なものを
やるのもどうかって話なんだけど
言われると相手はこれを受け止めるわけにいかないですよ。
いや実はそう思ってました
みたいなことを言うと本当に相手を
貶めることになってしまうんで、ここにまた
上下関係ができますよね。これを否定すると
これをお互いがずっと
否定し合うということは
つまり自己愛の傷つきを
徹底的に防ぐと
総書記がパニックに陥ったみたいなことになると
大変ですからね。
相手を絶対パニックに陥らせないためにも
相手を常に
こう自分を下げ
お互いが下げ合うということを
することによって
どっちかが上に立ってしまうという事態を防ぐ
わけです。
これは別れ際に一生懸命
別れまい
別れまいとするというのと
非常に似てですね、精神分析の
世界だなって思うんですよ。
つまり精神分析の世界というのは
極力自己愛の傷つきが
このままでは発生しないように
発生しないように頑張るわけですよ。
なぜなら傷つきやすい人が来ているから。
ここで傷つかない世界があるんですよ
あるんですよって伝えていく。
でも、それでも傷つけてしまう
時代が来るというのが
ミニコットの言ったことなんだけど
つまりそこを持ちこたえられるように
訓練するというのも
このプログラムの中に入っているんだけど
同じように物作業というのもやるわけですよね。
別れるということを
すっごくケアし合う。
トラウマになるので
いきなり終わってしまいましたというのは
いきなりお父さんが亡くなってしまいました
というのと同じで
別れというのは急にやってくるものなんですけれども
精神分析の世界では別れというものを
すっごくケアするんですよね。
相手の気持ちを尊重する。
でもここにはもう一つ別の
裏の意味もあってですね
別れをケアするということは
治療が長引くということを
反面で意味するわけですね。
早く終わりたいと患者が思っているかもしれないのに
引っ張られると。
これは当然のことだからお金をぼったくられている
という意識にもつながるので
ここでもまた自己愛が傷つくわけですよ。
こういうややこしいことを一生懸命やるのが
多分精神分析なんですよ。
このことが日本人のやり取りの中には
最初から組み込まれているわけですよ。
つまり
例えば褒められたところを
簡単に受け取らないというのもそうですし
謝罪というのもですね
エンドレスなわけですね
これはルース・ベネリクトという
キクト刀で書いてありましたよね
あの申し訳ございません
本当にすみませんでしたみたいな
つまりこれはすまないと言っているわけで
すまないというのは
このように口で言ったからと言って
それで済むとは思っていません
これだとつまり終わらないってことになるじゃないですか
気が済まないの世界の話と
脅迫神経症のすまないというのは
気が済まないんですけれども
だからずっと手洗ってなきゃならないんですけど
済まないわけですよ
済まないということはエンドレスだってことになってくるわけです
エンドがあるということは
どっちかに確定してしまう
決着がついてしまうので
決着がつくとつまり
あなたのは優れていたということか
では私のは優れていないということだなってことで
決着がつくので
そうするとその人の自己愛が傷つくので
決着がついちゃダメなんですね
永久に決着がつかないという状態に
置き留めておくことによって
自己愛の傷つきが回避される
永久に別れるということを
やらないということによって
日本人の別れ際というのは
別れないということをやることによって
別れの傷つきというものを
回避することができる
例えば支払いもそうで
全部そうなわけですね
何か上下関係ができてしまうとか
別れと傷つきの回避
別れてしまうと
つまり心が傷つくという事態を
定的にお互いが回避するということ
つまりお互いなんですね
ここに寛主寛政というものがあるわけです
一人だけだったらないものなんですよ
だからここに客観はないんですね
二人になって初めて上下というものがある
二人になって初めて別れというものが
あるわけですね
この日本人が
このエンドレスでやるときには
常に二者というものが
そこに想定されていて
三者ではないし一者でもないわけです
客観ではないってことなんですよ
つまりこれは
自己愛トラウマっていうのは
客観ではないってことを
安理言ってますよね
安理というか
半分以上あからさまに言っているわけです
ナルシシズムの傷つきというのは
一者だけならないものなんですよ
その人は
賃に優秀なのかどうかということは
ここでは全く問題になっていないんです
誰かよりも上か下かってことだけが
問題になっていて
下に置かれるから
トラウマになったり
少なくとも傷つき
勤務総所費の下に並んだことは
あり得てはいけないわけですよ
それを下に置き
つまりナンバー2より下になったんではないか
っていう疑いを一瞬でも抱かせたから
処刑されてしまったわけですよね
そういうことなんですね
この多分
ナルシシズムの傷つきという
問題は
確かに
ある種の
私自身もそうですけれども
結局
ナルシシズムの傷つきというのは
人間関係の中だけで起こるものなので
多くの場合
それが起きたら
人間関係の中で
回復していくしかないんですよね
一番やっぱり必要なのは
コミュニティに受け入れられる
だからここでそういうのが出てくるんですよ
コミュニティに受け入れられると
私はでもコミュニティに
受け入れられるかどうかっていうのは
すごく受動的じゃないですか
受け入れてくださいって言って
分かりました受け入れてあげましょうでは
ないよねだから
どんな場合でもそうなんだけれども
私は特に
カウンセリングの場面では
そういうことが起こるはずだとは思って
いるんだけれども受け入れて
あげるってことをやる必要が
あるんですよね
グッドバイブスでクラウド・ソノ・ケイゾーさんが
許すって盛んに言ってるのは
これなんだと許すと自分が
傷つきから回復できる
はずなんですよこのカラクリ
では受け入れても
受け入れられても結果は同じですよね
2者なんてここを
勘違いしてはいけないんですよ
私はもともと
そういう風に言ってしまうんだけど
客観的に良くない
人間なんだとか客観的に
みんなから抜け物にされる
並行がある人間なんだって
傷ついた人は必ずそういう風に
発想しちゃうんだけどそうじゃないんですよ
必ずこの種のこと
っていうのは2者関係
ないし集合と
自分っていう関係の中だけで
起きてるんですね
気に邪魔されるのと同じで
邪魔された時だけに実は現れる
事態なんですよ
ネガティブなものが意識された時
だけに現れる事態なんですよ
赤ちゃんは
ミルクがもらえないと誤解している
もらえないわけじゃないんだけど
お母さん今たまたま忙しいだけ
なんですよ2者関係の中で
そういうことが必ず起きるんだけれども
そうは考える
私は客観的に見て
嫌われているから客観的に
お母さんは
意識的に私を
飢えさせているんだっていう
そういう無茶な解釈をする
ナルシシズムの傷つき
でも大体そうじゃないですか
そこに実態のない被害を
我々が考えるときって
大体そうじゃないですかこういうからくりになって
ますよね本当は別に
誰も自分のことを嫌ってないんだけど
嫌っているという想定の
下で動くみたいなそういう世界って
ありますよね私が実際
そうだったわけですよこの番組では
何回か喋っているように
モテないというときに私は生理的に
受け入れられない
男なんだっていう風に考えていたから
あの
それが客観的事実の
ように考えてしまうわけですよね
人からバカにされるとか
人に笑われるって大体そういう風にでき
ていて客観的事実で
あったことはないんであくまでも
この2者関係の中で
起こる現象であってしかも
その時その場で起きる現象なんだけど
だから
その場で謝りまくり謝り続け
永遠にそれをやめられない
というだってそれはその
人と一緒にいる間中ずっと
続くことになるのでどっちが上か問題
っていうのはねだから
どっかで施で切り上げますけどね
現実には
やめられなくなるっていうことがあるんです
けれども逆に言うとそれは別れて
しまったらもう存在しない問題な
わけですよねこの場で
別れてしまったら別れで傷つくってことは
ないわけじゃないですか本当はね
だからそういう意味で
2者が一緒にいる
時にのみ起こる現象であって
一緒にいなくなったら
もうなくなってしまう現象だと
そういう風に捉えるとですね
捉えることができれば
この自己愛トラウマって問題は
そもそもなくなるんですが
そのためにやっぱり
私が思うに受け入れてもらう
っていう事態が必要で
そのためには受け入れるっていう
事態が何よりも
有効に作用するだろうな
多分そういう意味が
私は最近ユニコットの
失敗というものには含まれてるん
ではないかなっていう風に
案に指し示してるんじゃないかなと
つまり多くの場合
ほとんど確実に言えるそうなのは
あのちょっとした
ことでね精神分析
かカウンセラーでカウンセラーの人が
ちょっとしたことで
次の患者さんを優先したように
見えたと傷つきやすい人にしてみれば
それはもう事実と
なっちゃう客観的事実になっちゃう
わけですよ
主観的な話なんだけど客観的な事実
になってしまうわけですよ
いつもはあのもうちょっと優しく
引き止めてくれたのになんか冷たかったと
実は私のことは最初からどうでもいい
と思っていたのはもう確かなことだ
ここの確かなことだが問題なんですよね
少なくとも
そう思ってる方が気が楽だみたいな
だからそういうことにして
次回からもう私は来ませんみたいな
急にそういう風になってしまう
こういうことはどこの教科書にも
必ず典型的な実例として
サンプルとしてですね
出てくるんですけれども
そういう風に僕らも
あるタイミングで突然思うことってありますよね
特に恋愛とかやってるとしょっちゅう
なんですけどね
ある種の仕草が問題になったり
ある種の目線を合わせなかったり
スマホ見てたとかそういうことが
いちいち問題になるわけです
解釈が過剰とも言えるし
放映が大量になされてると言ってもいいんですけど
とにかくそういうことはあるわけですよね
でその時に
もう二度と会うことはないだろう
みたいな
深刻なモードに入っていってしまうんだけれども
実際それは
ナルシシズムの傷つきというか
なんて言えばいいの
まあでもナルシシズムの傷つきなんですよね
現実がナルシシズムにセットになってきて
いらなかったと言って抗議しているわけです
こうなってしまうともう相手が
いやいやそんなことはないですとか
私は歓迎していますとかいくら言っても
もう二度とそこに入っていくことは
できないわけです
このコミュニティではあなたを大歓迎ですよと言っても
もう信用できないわけですよ
それによって入っていってしまったら
傷つきっぱなしになってしまうからですね
私はこう
相手のお情けによって
別にここに許可されたに過ぎないんだ
という状態になっているわけだから
永遠にそこでは
傷つき解消されないじゃないですか
だからそのような相手を許すんですよ
そうすることによって
二者関係というものの中には
なんて言えばいいんですかね
相手を自分が受け入れたわけだから
これが
わざとらしく
自分を受けようとしている
相手だったとしても
つまりここに
これはね
信頼するって話が出てくるわけですよね
条件をつけず
これができないっていうのはつまり
ナルシズムが傷つけられた
状態なわけですよ
これができるようになるっていうためには
やっぱり一度は
カウンセラーの方が
失敗してあげる必要があると
だからそれは一生懸命頑張っても
どうせ必ず起こることだけどね
っていうような話なんだと思うんですよね
なぜ絶対起こるかというと
おそらく親にやられたことがある
っていう話であって
その親がそういう風に自分を傷つけて
我が子であるにもかかわらず
存在に扱う親というものを
カウンセラーに見るから
転移が起こるってことですね
転移が起きてしまうので
そういう事態は必ずどうせ発生すると
そしてやっぱり
ブルータスよお前もかですよね
お前もやっぱり私のことを
そうやって雑に扱ってポイするんだね
っていう
どんな人でも受け入れますって言ってる
カウンセラーだけどやっぱりポイするんだね
これは逆に言うと
そんなお金を払ってまで
関係を持っていこうとしていて
何を言ってもいいと言ってる
カウンセラーですら捨てられてしまう
自分なんだというのの裏返しなんですよね
非常に
だからナルシズムの傷つき
っていうのは
その人その
いろんな人をですけどね
いろんな形で
傷つけると
それってでも考えてみると
別にそのように
安い人傷つきにくい人という話をしなくても
例えばですけど
コンビニのレジで並んでるときに
誰かが入られても
そういう気持ちになるケースって
あり得るじゃないですか
ただこうやって喋ってると
いくらなんでも
独裁者の命令を即座に
感情が揺さぶられる状況
実行しなかった話に比べて
あまりにもレベルの
差が大きいじゃないですか
同じような心理状態になるのって
どうかって感じもするんだけど
よくよく自分がその目にあってみると
わかる気がする気がするんですよ
コンビニで長蛇の列でした
並んでました
いきなりこいつ入ってきましたみたいな
怒るじゃないですか
大抵の人はかなりの確率で
怒りそうな気がするんですよね
パッと平気で入ってきたみたいな
なんかわけわかんない感じで
いいでしょみたいな感じで入ってきたら
その程度と総書記の怒りの程度って
あんま変わんないんじゃないか
自分に絶対権力があったら
結構その人ひどい目に合わせたり
国連人権団体が
ナンバー2の人が処刑の前に
拷問したんじゃないかみたいな
疑いがあって
十分疑われることではありますけど
問い合わせは入れたみたいなのがあったんですけど
そんなことにもなりかねないですよね
そんなことにはならないと思うんだけど
コンビニの横入りぐらいでは
でも傷つくってのはそういうことなんですよね
そんなことは起きないだろうと
でもそんなことは起こりうるじゃないですか
しばしば現に起きたことが
起きたりするじゃないですか
列に横入りされるなっていうレベルのことで
あればですね
これがつまり私たちが世界に
勝手に期待している
世界に期待することって
大体どんなことでも勝手に期待するわけですよ
前回私
先月述べたと思うんですけれども
今書いている本
今企画になっている本は
ほぼ1ヶ月いただけなかったわけですよね
これに対して私が
もっとくださいと
ニュートラルに言えればいいんでしょうけれども
なくなからず
私は動揺したわけです
動揺するってことはつまり
知らず知らずのうちに
60日から90日ぐらいは
当然くれるでしょうと
まさか25日で書くとは言わないよね
という期待を勝手にしてるんですよね
常識でそうでしょうって話は
私は意味がないと思う
そうしてはいけないという立法があるとか
そういうわけではないのね
実際には
だからやっぱり何が起きても別に
それでいきなり殴られるとかは
ちょっと問題なんだけど
そういうんではないわけだから
断ればいいっていう話でもあるわけだから
書きたくないんであればですね
ここで問題なのは
感情が揺さぶられるかどうか
っていうところが全てだと思うんですよね
交渉の話はまた別ですよね
感情が揺さぶられようと揺さぶられるかどうか
感情が揺さぶられようと揺さぶられないと
交渉することはできるし
交渉する必要があるならば
そうすればいいわけですから
情緒が揺さぶられるということは
ナルシズムが傷ついた以外の説明は
できないと思うんですよ
これはコンビニの横入りをどう捉えるかの
問題だと思うんです
損をしているじゃないかっていうのも
理由に僕はなってないと思うんですよ
現実を言って損をしたかどうか
っていうのは意外にここでは
まだ判別するのが難しいところですし
コンビニの横入りぐらいでね
問題なのは
多分損をしたっていうことではないと思う
自分が雑に扱われたとか
低く見られたとか
そういうことの方が問題で
もう少し言うと
自分が期待しているような
世の中ではないっていう主張をしているんだと
やっぱり思うんですよね
私ここのところ
岡野さんが
岡野さん自身も岡野健一郎さんがですね
自分の怒りをいちいち検討してみると
いつも何に起こっているのかが
意外にその時
自明だと思えるほど自明ではない
っていうことを書いていて
そしてほとんど全ての場合
ナルシシズムが傷つけられているんだ
というのを発見したみたいに書いていて
これが一番この本で言いたかったことでしょうね
私も全く今のところそうだな
この本読んで
1週間ぐらいになるんですけれども
全面的にと言っていいぐらい
そうですね
常にナルシシズムが傷つけられている
ナルシシズムというのはつまり
主観的世界と客観的世界
私が世界に勝手に期待している
私の主観的世界なんですよ
客観的世界と一致していない
一致しているはずがない
主観だからね
客観的世界は
そのような私の事情と
私の気持ちというものに
こうするべき理由を持っていませんから
私はこうしてほしいと思っても
太陽は東からすぐ上るみたいな話で
私の希望とかとは
関係なく動いているわけですから
これが納得できないというのは
やっぱりどっかおかしいわけですよ
その瞬間瞬間ではってことですよ
つまり私が
未熟な人間かどうかということは
ここでは問題になっていないということです
問題になっているのは
二者関係において勝手に期待してしまう
何かがあるんだけど
それに相手は必ずしも答えることが
できるはずがないという話だ
その瞬間にだけ起きるんですよ
だから
その瞬間に行為しないんだったら
もうそのことは忘れたほうがいい
わけですよね
それは二者関係の中だけで起きていることだから
赤ちゃんがお母さんにだけ伝えられれば
二者関係における期待
それで十分な泣き声
なのだから
そして私たちがその怒りとか
泣き声というものを聞いたというときには
ある二者関係に
入っていて
そのとき私たちはナルシシズムの
世界というものに
二人で目撃するっていう
これがナルシシズムの
現象と実態なんですね
この二人以外の目には
触れてもほとんど意味を出さない
出来事なんですよ
コンビニで誰かが横入りされるなんてことは
今も起きてるかもしれませんけど
我々監視するところでも関与するところでも
興味を持つ治安ですら
ほぼないじゃないですか
うーんって感じじゃないですか
つまり二者関係の中だけで
一瞬起こる出来事のはず
なんですよね
これにポリコレみたいな話が
加わってくると一段とややこしく
なるんですけどだいたいポリコレとか
正義の手っついて言葉が
いい意味ではほとんど語られていないように
そういう言葉には
多分意味はないなぜならばそれは
三者間以上の客観的
事象として取り扱うのは
ほぼ不可能な出来事だからだろう
と思います
裁判が難しいのはここですよね
本来はおそらくそういうものを
客観的事象として
極力扱おうとするために
ものすごい手間暇がかかるわけですよね
こう見たらどうだろう
ああ見たらどうだろう
一番だから弁護的に見るのと
検察的に見るのと全然真逆な
少なくともかなり真逆に近い
見方があって
その他にもさらにいろんな人の
Yシーンみたいなね
いろんな人のものの見方を
総合的に検討してさらに
過去の事例みたいなのも全部見て
この辺かなみたいなのを
結論付ける
あれほど手間がかかるということを
考えてみても
多分この事実をですね
事実がそもそもあるかどうかも
疑わしいので
意味がないんですよね
それを回避するために
すみませんお互いが
言いまくるっていうのは
まあ一つの生活の知恵だった
ぐらいの意味だったと思いますね
これがまあ
息苦しいといえば息苦しいというのは
つまりそれだけ
そういうものがしょっちゅう傷つけられる
安いものであって
これに全部いちいち細かく細かく
ケアしようとしていると
結構息苦しいよっていうことでも
あるんだろう
47:29

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