2021-11-22 42:26

【GMV 499】生きづらさの原点

好き嫌いと良し悪しを混ぜこぜにする
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
明日ですね、私のオンラインセミナーの先送りをテーマにします。
明日、どんな話をするかというのは、現在の参加者がまだ2名なので、
グループセッションにしようかなという気持ちもなくはないんですけど、
人数次第ですよね。ただ、する話は必ず同じようなところに落ち着くとは思うんですよ。
要するに先送りということは、先送りしたくないって話ですよね。
これをどうするかといった問題だと思うんですけれども、
もともとこれって、タスクシュートでもだいぶほぼ問題ないという線までなくしていけるはずだと思うんですよ。
私はグッドワイブスという、この番組のテーマですけど、考え方を取り込んで、
先送りというものは事実上、私の中ではなくなったんですよ。
片目にはそういうものが私がしているようにも見ることはないでしょうから、
それを先送りというのではないかというのもあるとは思うんですけど、
私の中にはないんですよ、先送りは。するということもない。
その辺の話をお伝えしたいと。
要するに先送りというものが人生から消えちゃうということが実際に実現するんだという話をしたいと思いますので、
よろしければオンラインで当日参加も可能ですから、ご検討いただけますとありがたいです。
今日499回目なんですね、数が合っていればですが。
グッドモーニングワイブス。
明日は分からないですけどやるかどうか。500回目という感じになります。
いつもいつもいつも、基本的な線は変わっていないと思うんですけど、
今日は久しぶりに何回もいろんなところで喋って、
なかなかここじゃないと喋りにくい話なんで、ここで喋って、ここでならいいのかということもあるんですけどね。
起きますと、ヒステリーということなんですね。
昨日たまたま岐阜からいらした方と書き上げ塾でお話したんですけど、
03:00
彼がその人がフェアバーンの本を読んでいると聞いて、ちょっと衝撃を受けたんですよ。
あれを私は確かにブログで書いたりチェーン室で書いたり取り上げたりですね、
ここでも何度か喋りましたけど、フェアバーンって今読まれないですよ。
入手はまだ可能だからいいんですけど、
フェアバーン、ローゼンフェルト、
それよりは多分今でどっちがどっちって言えないんですけど、
それよりはまだ有名なウィニコット、ビヨンでしょ、
あとベラニー・プラインはもちろんとしてアウグデッド、
あってなきが如きと言ったら言い過ぎかもしれませんけど、
このサークルでは、それこそライファック界隈みたいな話になっちゃうんですけど、
このサークルでは超有名人ばっかりだけど、
普通知られていないものはなはだしいですよね、知られてなさすぎだと思いますけどね、
ライファックサークルよりは、
精神分析の特に対象関係論という世界だってずっとでかいわけだと思うんですけどね、
その実態的な規模とか僕には分かりませんが、
精神分析勝手になるの大変ですけど、大変ですから、
実際に精神分析勝手に絞っちゃうと、
もう日本ではタスクシュートユーザーよりはるかに少ないんですよ。
タスクシュートユーザーって極度にマニアックなもんじゃないと思うんですけどね、
別に資格もいらないし、そのぐらい少ないわけですね。
対象関係論でなくても少ないんですよ。
アメリカとかいっぱいいるんですけどね、精神分析家に、
私も何人かアメリカ側って話もしたこともありますし、
アメリカ側の精神分析家の中には、
精神分析家に私も何人かアメリカ側って話もしたこともありますし、
指導教官だって多分資格持っている人だったと思いますしね、
そういうことはあるにせよ、
フェアバーンですね、
彼はヒステリーに帰れってことを本の中に書いていて、
基本的には相当フロイト原理主義、
多分メラニークラインだってあんなフロイトだって、
みんな自分フロイト原理主義だと思っていて、
しかもお互いの言っていることは相当違うというのが、
この世界のややこしさなんですが、
ヒステリーに帰れっていうぐらいですから、
非常にフロイト原理主義的、
なんといってもフロイトが最初に取り上げた患者さんたちは、
みんなヒステリーと言っていいぐらいでしたからね、
一番最初の患者さんがそもそもヒステリーですから、
しかもそのヒステリーが今では少なくとも公式のDSM、
06:03
診断基準マニュアル、精神障害の診断基準マニュアルにないという、
接触障害とかが普通にあって、
介入ももちろんあって、
自己愛もあるのにヒステリーはないという、
言葉の問題ということになるんだと思うんですけど、
このヒステリーというのは、
そこらかしこでも結構見かけるもので、
もちろんそこら中で見るというのはさすがに言い過ぎですけど、
でも2、3年会社にいれば、
僕なんか派遣で2年でしたけれども、
2年半でしたけれども、
やっぱりそういうふうに判定するのが一番確実だという方が、
少なくとも2人すでにその間いらっしゃっていたから、
そんなに珍しくもないし、
概念として正しく用いていると非常にいろいろな意味で、
物の見方が分かりやすくなっていいと思うんですよね。
この種の言葉は全くなくて、
例えばHSPとかADHDとかだけはやたらと見るというのは、
バランスがおかしいと思うし、
もちろんそれらだって、
組織の中で働く上で問題となることはあると思うんですよ、たくさん。
でも同じぐらいひっせりだって、
組織の中で混乱を引き起こすことはしょっちゅうあるのに、
そこは全くそういう観点では見ないというのも、
ちょっとなんか奇妙な感じがしなくもないという、
こんなにはっきりしたものが目の前にあって、
なんか全然違う話が、
やっぱり詳しい人っているわけじゃないですか、職場には。
大きな職場ではね。
ボーダーラインってやっぱり言われてましたからね。
ボーダーラインじゃ厳しすぎるという感じなんですよ。
この人はちょっと前足気味でっていう人を捕まえて、
いつ肺炎になるかわからないからねっていう話になっちゃっているような、
そういうちょっとですね、
飛躍というか、
無理が感じられて、
しかもボーダーだって、
僕が特に詰めていた頃なんて、
その言葉自体をほぼほぼ誰も知らないんですよ。
そうするともう、
なんだかわけわかんない感じになるじゃないですか。
その人を精神病院に連れて行けばいいのかといえば、
そういう感じではないわけですからね。
で、なぜこれが大事だと、
フェアバーンもひっせりに帰れってわざわざ言ったぐらいに、
大事なのかというと、
それを言葉で15分ぐらいでババッと喋るっていうことに、
そもそも無理があるけれども、
僕らはつまり分けるんですよ。
基本戦略、原始的な戦略として、
まず分けるってことをするんですよね。
つまりそれは、
良いものと悪いものを分けちゃうんですよ。
で、当たり前のことですけど、
09:02
自分の周りには良いものだけを分けて、
自分の周りには良いものだけを置きたいのが、
人間というものじゃないですか。
悪いものは全て遠ざけておきたいと。
いくらグッドファイブスを頑張っていてもですね、
この感情にとらわれそうになることは、
多々ありますよね。
むしろ僕らは特に何もないんですよね。
やっぱり人間社会に生きているからには、
例えば勝敗というものを作ってしまったら、
それは勝ちたいじゃないですか。
お金というものを作ってしまったら、
お金持ちになりたいし、
清潔不潔というものを、
この辺からいろいろなかなか抜き差しならなくなってくるんですけど、
清潔不潔とか、
衛生的不衛生という概念を発生させたら、
それは身の回りはきれいにしておきたいし、
汚いものは家から外に流していきたいと、
いうふうになっていきますよね。
それは当然だと思います。
冬になればあったかく部屋をしたいし、
夏になれば涼しくしたいし、
最近だと夏は特に命に関わるとか言われていて、
私がクーラーを使わない派ですとか言うのも、
あんまり現実的でなくなってきつつあると。
こういうふうになってくると、
良いものと悪いものを分離し、
そして良いものを身の回りに置き、
嫌なものは遠ざけていくという、
これは基本中の基本であり、
子どもがうんと幼い子どもでも、
まず価値観というものを身につけつつあるときに、
始めるやり方なわけですよね。
そこにある意味、全原因があるわけですね。
良いおっぱいと悪いおっぱいを分けるということですね。
訳わからぬうちは、
良いおっぱいと悪いおっぱいが別物だと考えることはないでしょうけれども、
そうは言っても、赤ちゃんってそこまでは
訳わかっていないわけではないので、
でもやっぱり良いものと悪いものは、
別物じゃないと考える。
この基本信念に沿っていくと、
良い人と悪い人を分けたくなるわけですよね。
話の最初はこのように至って単純でして、
タスクシュートでもライフハックでも、
コミュニティとかもあるじゃないですか。
そしてライフハックをする人は、
ライフハックの話をしたいわけだから、
そういう意味では良いわけですよね。
だから自分はライフハックが好きだから、
ライフハックコミュニティに行くと。
これが良いものを自分に引き付けるという、
一つのやり方ですよね。
これは今シリーズやってますけども、
例えばオリックスファンとリアクルドファンが
別れた席に座るじゃないですか。
このようにするわけですね。
どっちが良いっていうのは、
例えばロッテの応援している私から見れば、
どっちも原因もないですが、
もちろん自分のファンの方に行くのが自然ですよね。
ここまでは別に何も問題ないんですけど、
12:00
問題ないわけですよ。
でもこの観点に沿っていけば、
やがて問題は発生しますよね。
例えばオリックスのファンがオリックスの席に行くと、
オリックスのファンなら全員全員なのか、
みたいな話になると。
そう簡単な話ではなくなると。
当然そこには自分と気の合わない人もいて、
ただオリックスのファンだけじゃなくて、
別にオリックスに何か思うところはないんですけど、
たまたま話の行きがかり上出てきていますが、
中でも自分と気の合う人のグループと、
会社にも派閥みたいなのってあるじゃないですか。
こういうふうに良いものの中でも、
良い悪いを分けていくわけですよ。
より良い方向へ良い方向へと抽出していくということを、
人は別に普通にやりますよ。
グッドバイオスでこれを分離と言いますけれども、
はっきり言って分離はしますよね。
この種の分離の中でも、
とびきりややこしい問題を引き起こすのが、
良いオッパイ、悪いオッパイなわけです。
つまり、同一のものなのに、
良いところと悪いところに、
その同一のものの中に良い悪いを分けて、
悪いものだけを排除しようとすると、
ここに多分ヒステリーというものの、
病院というんですかね、原点みたいなものがあって、
でもヒステリーの人というのは別に精神病なんじゃないんですよ。
現実の検討ができてないわけでは決してない。
だからそういう意味では、ボーダーとか相打つとか、
自己愛とかいきなりそういう話に、
まして乖離とかいう話にはならなくて、
やっぱりですね、分かってやってるってことなんですね。
良いオッパイも悪いオッパイも、
同じオッパイなんだということは、
分かってるってことなんですよ。
良いお母さんも悪いお母さんも、
同じなんですが、
ただ、その人にとっては、
この悪い方が出てきた時の苦しみがでかい。
これ恋愛してると分かると思うんですよね。
さっきまで、この人はあんなにいい人だと思ってたのに、
こんなにひどい人だったんだって言うじゃないですか。
それは、そう言っている人にしてみれば、
この言い方はものすごく、
まさにその通りじゃないですか。
つまり客観的な事実って感じがする。
でも、畳から見れば、
明らかにそれはその人の主観が作り出している、
良い悪いですよね。
私にとってあれほど都合が良かったこの男が、
こんなに都合の悪い部分を、
持っていたんだって事ですよね、本当は。
そうは絶対認められないという心情が、
つまりヒステリーな訳ですよ。
そうは絶対認められないという真理ですね。
これは私にとっての都合の良し悪しではなく、
こいつは本当に善人面をした、
15:01
実は悪人だったんだと、
そういう風に見る見方以外の見方は、
到底認めたくないぞって、
言ってる訳ですよね。
同質人物の中に、
良い部分と悪い部分があり、
悪い部分だけを適室排除できるような事って、
ありえないと思う。
ありえないじゃないですか。
性格ですからね、それはその人の。
この人はすごく優しくて良い人だと思ってたんだけど、
実はタバコを吸うとんでもない人だったんだっていう人は、
現に私は知ってるんですよ。
これが私にとっての良い部分であって、
だって喫煙者から見れば、
それはとんだ言いがかりじゃないですか。
この人にはタバコを吸うという、
とてつもない悪な部分があったということを、
ひた隠しにしていた訳じゃないんですよ。
だけれども、ある種の視点を取ると、
そう見えちゃうわけですよね。
タバコを吸うというのは性格ではないから、
つまりパーソナリティではないから、
これはやっぱり行動ですからね。
パーソナリティだった場合、
余計こういう傾向が実は見え隠れすると。
例えば、
自分と付き合う前は、
結婚する前はすごく気前よく何でも買ってくれたのに、
結婚した途端に急にめちゃくちゃケチになったと、
いう風に言う人もいる訳じゃないですか。
これは客観的な事実だと。
現に何も買ってもらってないと。
実際には結婚前は、
結構収入の状態が良かったのかもしれないし、
結婚してから急に貧乏になったのかも分からないじゃないですか。
性格の問題ではなくて、
ただたまたまタイミングの問題で、
そういう風に見えるということもありますよ。
結局、客観的に善悪を決める訳にはいかないんですが、
この行動が酷くなってくると、
例えば、結婚後に殴り出したとか、
そういう風になってくると、
客観的にもどうなの?という風に
その人が言いたくなる気持ちがより強くなっていく。
そうすると、実際には私はそれは、
依然としてその人への都合にとっての善悪であって、
客観的な善悪じゃないと思うんですけれども、
ヒステリーな善悪を分けたいという人は、
自分の判定に不審なくらい、
ある種の自信を失っているんですよ。
これは親子関係に起因すると思うんですけれども、
どうしてもその同意を求めないと、
自分で判断しきれないというところがあるんですね。
ここに表裏感があるんですよ。
自分の判断力に自信がないので、
ある意味自信がないのは自然なんですよ。
だって自分の判断で変わるじゃないですか。
ここであれなんですよね。
18:00
私は好きか嫌いかは自分で決めたいと
主張するんですよね。
この種の人はいつもこのことを言っています。
特にひどい人はひどい、ひどいものはひどいと言いたいと、
ひどいかひどくないかが曖昧にするような人になりたくない
ということを強く言うわけですよ。
なぜそう言いたくなるかというと、
実は自分の判断が曖昧になっているということに
コンプレックスがあるんですね。
私だってそうだけど、みんなそうなんですけれども、
ひどいかひどくないかを客観的に判定することは不可能なんですよ。
なぜならそれは客観ではないですからね。
だからここが曖昧になっちゃうのはしょうがないんですよね。
この人にはこういうところもあったが、そういうところもあると。
それがどんなにひどくてどうこしているように見えても、
それは私の視点を取るからそういう極端な見え方をするのであって、
タバコがいい例だと思うんですよ。
タバコというのは人によってすっごい捉え方が違うから、
別に喫煙しても構わないと、そもそも喫煙自分もするという人から、
喫煙するのはもはや人間としてはどうかと思うという人まで、
少なくともこのぐらいの幅があるわけで、
その人にとってどう見えるかが全てですよね。
自分の判断に自信が持てないとよく言う方、
客観的判断でも存在するという意識が強すぎるんですね。
客観的判断がこの世にあると思うから、
それと自分の合っているのか合っていないのかが気になるんですが、
当然客観的判断というものはこの世にもしかするとあるかもしれませんが、
それはほぼほぼ普通の状態では不可能なので、
だって私たちの判断でほぼ全部日頃は主観的ですからね。
このご飯が美味しいとか、あのお蕎麦屋が美味しいとか、
全て主観的ですから、
この主観的な判断が客観的に正しいのだろうかと気にすればですね、
当然自信がないですよね、誰だって。
だけれども客観的判断があるという思いが強ければ強いほど、
自信が失われていくはずなんです。
なぜならばそれは多分到底手に入れ難いものだから、
だから好きか嫌いかというのは自分の判断なんですよ。
自分の判断だということはつまり正しくないかもしれないという含みは
常にそこにつきまとうわけです。
でもそれを私は嫌なんだと、
ひどいものはひどいんだと言いたいんだという人は、
実は客観的判断というものがこの世にあるというのを
堅くなに信じているところがあって、
したがって自分の判断によって、
ひどいものはひどいということに決定したいわけですよね。
自分だけでなくこの人のことは誰もがひどいと思って欲しいと。
ここにヒステリーというものが現れてくる。
多分僕はそういうふうに見えるんですね。
作者関係をここに持ち込むと。
つまり評価というものがその人の何点ですかね、
21:00
評価というものがその人の評価によって
いつもとらわれている感じがあると。
だから組織でよく現れるわけですよ。
このヒステリー的な心象というのは、
最初は好きか嫌いかという話なんですよ。
それがいいか悪いかに切り替わり、
その善悪は第三者の客観的に判断できるものであると。
ついでに言うならば、自分はその人のことをもう
みんなで悪だとみなしてもらいたいという、
ここまであるわけですよね。
善だとみなすということについてはですね、
ここに非対称性が実はあるんですよね。
ひどいものはひどいんだと思いたいというのは、
良いものは良いと言いたいというのも主張したいんですけれども、
良いものが良いかどうかって大した問題じゃないというか、
その人にとって実は独占できるから都合が良いので、
みんなが良いと思う必要ってさほどないんですね。
これ恋人の関係で考えると、
ごく自然なわけであって、
この人はとても素晴らしい人だ、私にとって、
というのが括弧で入るんだけれども、
万人にとって素晴らしいと、むしろ競争相手が増えて面倒くさいですよね。
自分が独占している状態であるからには、
この人はとても素晴らしい私にとってというのが良いんですよ。
この人は最悪の人間だ、私だけには、
というのはダメなんですよ。
それだと自信が持てなくなってしまうので、
この人は最悪の人間だ、
私だって自分の主観に過ぎないかもしれないと思うけど、
ここまで酷い人は誰が見ても酷いはずだと、
言ってもらいたいということなんですね。
そうしないと、
安心して酷いと思い切れないというところがどこかにある。
それは、多分、
良いおっぱいと悪いおっぱいが同一だということを
少し懸念しているからなんですね。
ここに僕は、要するに最初、良いと思うと、
実際それは悪いと思うと、
悪いということになった。
その時、過去の自分をどうしたってある程度は裏切るか、
少なくとも過去の自分には見る目がなかったと思うか、
する、
そういう可能性が出てきてしまいますよね。
やっぱり恋愛関係が一番良いんですけれども、
過去、私はこの人が素晴らしいと思ったと。
で、
この判断にもそうなんですけれども、
良いと悪いを大きく触れる方は、
自分のことを知っていますから、
どうしても自信が欲しいわけですよ、本当は。
だから、どうしても第三者というものの評価というものを
ものすごく気にかけざるを得ないんですね。
素晴らしいと
みんなが思って欲しいし、
だからみんなが素晴らしいと思う人と付き合いたいし、
みんなが素晴らしいと思うものが欲しい、
という意識がどこかにあるので、
私は私が決めるという自分でありたいという意識を
持たないわけにはいかない。
特にこの人がタバコを吸う悪人だということが
24:02
判明した場合、
タバコって最悪だよねって思って欲しいわけですよ。
やっぱり、かつて自分が良いと思った人だけに
最悪だという
そういう判定に切り替えるんですけれども、
その時に絶対的確信を持つのは
本来無理な話ですよね。
かつて自分が良いと思ってしまったんだから。
非常に気になるんですね。
この人は誰が見ても良い人であって欲しいし、
この人は誰が見ても最悪であって欲しいわけですよ。
そうすると、あらゆるものにそれを適用しようとすると、
非常に困ったことが起きるわけです。
会社とか、
この会社は誰が見ても素晴らしい会社だ、
そういうふうにはならないですよね。
まして、よく起こることなんですけれども、
先輩の女性社員が欲しいというのは、
精神分析の用語を使うならば、
父親が欲しいということになってしまうので、
上司はみんな父親になっちゃうんですよ。
よく見るのが、私が知る限り、
先輩の女性社員というのも父親なんですよ。
これは分かりにくいですよね。性別が逆ですし。
でも私が勤めていた派遣の会社で起きた現象では、
常にそうでした。
新しい新人さんとして入ってきますよね。
新入社員さんとして。後輩ですよね。
自分は娘なわけですよ。
先輩社員は父親なわけですよ。
女の先輩ね。
ちょっと良くしてもらうと、ものすごくいい人になるわけですよ。
そうすると、今言った通りの流れで、
みんなに、あの先輩って素晴らしいですね、
って言うんですよ。
私の頃はヒステリーという言葉を、
言葉は知ってましたけどもちろん、
概念を正確に意識していなかったので、
そういう風には考えませんでしたけど、
なんか不安にさせられたという記憶は猛烈に残っているんですよ。
良い先輩なのは分かるけど、
そんなに言うってどういうことなんだろうっていうのは、
やっぱり気になっちゃうんですよね。
私は会社には当時、極めて地沿いで敵で、
なるべく関わらないようにして速攻帰るみたいな、
大して関わったわけじゃないんですけど、
僕にまで言ってくるわけですよね。
素晴らしい先輩ですっていう話をしてたんですよ。
それから3日後、3日後ですよ。
もう口も聞きたくないわけですよ。
でもこれは私は、その人の心理からすると、
至って自然だなって思うんですね。
どうしてかというと、
お父さんなわけですよ。女の先輩なんだけど。
お父さんなわけです。お父さんに近づいていくと。
近づけば近づくほど、
その人のいろんな面が見えて来ざるを得ないですよね。
またそういう方は急速に接近するので、
ほとんど意識の中では家族同然になってしまうので、
すぐに急速に接近すると。
27:02
で、何か判明するわけじゃないですか。
何が判明するかは分からないですけど、
怒られるかもしれませんよね。新人ですからね。
そしたら悪いお父さんになるわけですよ。
いいお父さんから悪いお父さんに逆転する。
これは非常に恐ろしいですよね。
素晴らしいと思っていた人に
自分がダメ出しをされるということほど
恐ろしいことはない。もうその状態では
仕事はちゃんとやりますよ。結構ちゃんとやる方だったんで。
でも仕事がどんなにちゃんとやろうと、
情緒的には幼児に限りなく近づいているので、
部分対抗ですよね。お父さんにぐっと近づいて、
お父さんに褒めてもらうためには何でもする。
そういうわけですよ。だから仕事もバリバリやるし、
残業もするし、至ってちゃんとやる。
でもそれはお父さんに褒められるためなわけだから、
第三者による評価が全てですから、
そういう状態の中にあって、
最悪の何か失敗をしたとか、
ダメ出しをされるということになってしまうと、
家から出て行けって言われているような気持ちになりますよね。
僕はこれが聖書の楽園追放なんだと思うんですけれども、
何でもいいんですよ。
火を盗んだんでも構わないし、
禁心相関しちゃったんでも構わないし、
とにかく虚勢恐怖がある。
ここで、虚勢って女性に使うのはどうかと思うんですけど、
やっぱり虚勢恐怖があるんですよ。
切り離されるという不安が強烈に働く。
この罪悪感を自分が持つのは、
ほぼ不可能ですよね。
泣き喚くとかしかないですよね、ここまで来ると。
でも、社会人なので会社で泣き喚くというわけにはいかない。
このものすごい強烈な罪悪感を、
例えば書類で一つミスしたとか、
だからこのヒステリーの方の完璧主義というのは
セットでよく見られるんですけれども、
お父さんの期待に応えられなかったという恐怖を、
相手に投げ返すのが一番手っ取り早いです。
そういう状況で、
お父さんの期待に応えられなかったという恐怖を、
相手に投げ返すのが一番手っ取り早いです。
どんなに怒るという、
そういう酷いお父さんだったということを、
お母さんでも全く構わないように見えるんですけれども、
会社ではですね、
会社は、
言ってみれば、
ウィニフッドの言ったところで言う、おままごとじゃないですか。
つまり会社というものの評価とか、
査定とか仕事といったものは、
人工物ですよね。
おままごとってそういう意味なんですよ。
おままごとって人工物そのものじゃないですか。
人工物を使ってそこで、
人々がある種のルールに則って、
つまり野球をやっているのと同じなわけですよ。
母子関係というのはもっと自然そのものですよね。
おっぱい飲むとか、
30:00
トイレトレーニングするとか、
もっと遥かにリアルに近いものなのです。
そういう意味で言うと、
三者関係みたいなものが常に働く評価ですよね。
お母さんが子供を甘えさせるという世界とはちょっと違って、
評価する、丸抜きをつけるみたいな、
そういう世界なので、
ここで機能しているのはお父さん的なものだと思うんですね。
非常に。
ここを男女関係的な話、
男女社会三角なんとかみたいな話に取られてほしいですよね。
お父さんといったのは、
一体でないという意味なんですよ。
母子二人しかいない世界に評価はないんですよ。
しかも母子が一体できてますからね。
評価するというのは三人目がいるということなんですよ。
だからやっぱりお父さん的な世界っていうものが
ここには働いていて、
どっちかというとお父さんに褒めてほしいような、
自分の作業みたいなもの。
一体でないのは間違いないと思うんです。
こういうふうに一体でないものの世界で、
お父さんに接近する。
接近するというのは一体でないから接近できるわけですからね。
評価してほしい、褒めてほしい、全力を尽くすんだけれども、
ミスはありますよね。
怖いお父さんが登場し、自分に罪悪感を抱くと、
この辺はエニプスそのものだと思うんですよね。
お父さんはリンゴを食うなと言ってたのに、
あれほど食べちゃったと。
だからお父さんが怒ったと。
このお父さんを悪人にするしかないんですよ。
悪人を作るためには、
このお父さんがいちゃ困るわけじゃないですか。
この楽園を追い出されたわけだから、
やっぱり人間が考えそうなことというのは、
新しい自分のための楽園を、もともと自分のためなんですけどね、
楽園を作るわけです。
事態が一転するわけですよね。
最高のお父さんだと思ってた女性の先輩の社員は、
最悪のお父さんであることが分かりましたと。
こいつ排除しましょうと。
唯一残っているというか、
いくつか残っている選択のうちの一つが、
過去は一切存在しなかったことにする。
これ、あんまり極端になると、多分乖離ということになるんだと思うんですよ。
そんなことは私はしてない。
あの先輩最初から嫌いだったということになると、
もはや記憶喪失感が出てくるから、乖離って言うんですけど、
ヒステリーと乖離は非常によくセットで語られてたんですよ、昔は。
でもこれがあるんだと思うんですね。
でもそこまでは大体の人は行かないので、
前はそう思ってたけど、実はひどい人だったんだということを、
みんなに同調・同意を求めるという形をとるわけです。
みんなに同意を求めるというのは、やっぱり不安になるわけですよね。
自分の判断が180度逆転するわけだから、
それは不安になりますよね。
そこで客観というものを、客観はないんだけれども、
33:00
客観的に実はひどいんではないんだろうかということを訴えていくという形になるわけです。
これ明らかに全て自分の判断ですよね。
それでいいわけじゃないですか。
私たちは自分で判断するより他はないわけだから、
いい悪いも好き嫌いも。
だけれども、そこに強い不安が残っているので、
周りの人、つまり第三者というものを、
どんどん客観があるという過程の下、動くわけです。
その時に同一のものが、良いのが急に悪いに触れると、
もう少し行くと会社を現に、
もう一人の方はそういう流れの中で、割と短期間で辞めたんですけれども、
これをいろんなところで繰り返していくより他はないわけですよね。
これをやり方を続ける限りにおいては、
つまり客観というものが存在しないということを認めない限りは、
いずれはこれをやめていく。
やめていく以外、客観的に悪い女の先輩のもので働くのは、
ものすごい辛いことではないですか。
ここのところで多分、この種の意見には賛成できないという話が、
当然出てくるんだと思うんです。
いやいや、客観的にひどい人はいるんだって話、
ここから出てくるわけですよね。
私は、ただそういうことがないという話をしたいわけではなくて、
むしろ逆で、主観一変等であっても、
こういうこともあり得るという話をむしろしたいんですよ。
ヒステリーに帰れとベアバウンが言ったのは、
結局かなりの部分の精神的な難しさとか、
適応の難しさといったものは、
このとっても基本的な人間の戦略、
良い悪いというものと好き嫌いというものを完全に混同した上で、
それを客観視したいという心理状態が強烈に働いている。
つまりお父さんがいる世界ですから、客観。
第三者がいる世界。
つまりそこで評価というものが、やたらと猛威を奮い始めるわけですよ。
最初は好きか嫌いかだけだったのが、良し悪しになり、
しかもそれが客観的評価になっていくと、
しかもそれを我々は組織的、社会的に現にやっているじゃないですか。
重打開評価とかでやっていますよね。
そこはいつも第三者が客観的に評価しているということに勝手にしてしまっている。
常にそこには主観が付きまとっているはずなのに、
好き嫌いが付きまとっているはずなのに、客観的な評価をしている。
そして極めて象徴的な意味ですけど、虚勢もしますよね。
このグループからその点が取れないものは排除するとか、
資格を剥奪するとか、すべて切り落とすという意味ですよね。
そういう意味では象徴的な形でしかないですけど、
本当に虚勢するなんてことはあり得ないので、
でも必ず楽園からあなたを追放します、楽天からあなたを追放しますという恐怖を振りかざして、
36:05
しかもそこに評価を織り混ぜていくということをやるから、
我々は評価を非常に恐れますよね。
そして評価者というものに対して、自分に良い評価をくれるときは大好きだけど、
悪い評価をくれるときは最悪のものと見なそうという気持ちが働くので、
私たちは結構みんなヒステリーみたいになりやすい世界に生きているんだと思うんですよ。
私たちだってすぐそうなりますよね。
自分の本を出してAmazonが星5をくれました。
Amazon大好きみたいになるわけじゃないですか。
さっきの女性社員と僕と何もやっていることが変わらないですよね。
Amazonお父さんが大好きになるわけですよ。
Amazonどう考えてもお父さんですから。
最初からAmazonと私が一体だった時代なんてないですからね。
そもそもAmazonは後から私より、私より後から出てきました。
後から出てくるというのも父親の特徴ですよね。
母親は最初から一体だけど、お父さんの登場って後からじゃないですか。
本当はそういうことはないですけどね。
まあ僕よりAmazonは後から生まれたわけですよ。
Amazonお父さんが大好きになる。
つまり権利というものを少し連想させますよね。
評価ですね。
そして客観という顔をしていますね。
5をくれる時だけは楽園にいる感じがするんですけど、
1とかでいきなり楽園を追放されるわけですよ。
この瞬間に私は知恵の実を食べているわけですよね。
現実っていうものを知るわけですよ。
そして1がついたと。
Amazonはとても嫌いだと。
でもそうすると、
かつてAmazonが素晴らしいって言っちゃった自分に対する
何かしらの疎後を感じるじゃないですか。
自分の中で。
そのためにまずやることが
みんなを味方につけたくなるわけですよ。
Amazonって最低だよねっていうことを言いふらして
みんなの同意を求めると。
つまり自分の主観を客観に変えていきたい。
この心理は猛烈に働きます。
今じゃ全然働かないですけど。
最初は働きましたよやっぱり。
6、7年、8年前とかそういう時代には。
そして僕がここまで行ったことは絶対ないですけど
実はAmazonが好きだった自分はいませんみたいな
そういうことを言う
乖離が起こるわけですよ。
そうすると他の人の目には
あいつ二重人格なんじゃないのって感じがするじゃないですか。
他重人格と乖離とシステリーっていうのは
よくセットで語られています。
今のは冗談みたいな話ですけれども
人間関係、家族関係となってくればですね
こういうことがあっても
何にも別におかしなことはありません。
なるべくならかつて褒めたたえた自分のことなんて
忘れてしまいたいじゃないですか。
そういうことって起こるわけですよね。
ここから意外と生きていくのが大変になっていくと。
なぜなのかというと
人間関係、家族関係というのは
生きていくのが大変になっていくと。
なぜならば
一旦嫌いなものであったものは
よく振り子のようにって表現を使うんですけど
振り子じゃないんですよね。
好きから始まり、嫌いに触れる。
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ここで終わるんですよ。
また好きになることはないわけじゃないと思うんですけど
滅多にあることではないと。
反復と言っているのは違うところであるんですよ。
Amazonは大嫌いになった。
次は楽天にしようっていう話ですよ。
こうやって転職している人って
いっぱいいるじゃないですか。
ヒステリーだなんて指摘すると
怒られると思いますけれども
こうやって転職している人って
山のようにいると思いますよ。
でも元の会社には戻りませんよね。
つまりこれは反復なんだけれども
形式としての反復であって
同じことを繰り返しているとも
言い切れないんですよね。
新しいところ、新しいところと
点々としていくということです。
これを現に
世の男性に対して
見られやすい傾向
多分逆もあると思いますけどね。
世の男性に対して
どんどん新しい男性に向かっていくと
これをやっていらっしゃる
ヒステリーの女性の方というのも
多分相当それなりに
いらっしゃるはずです。
そういう
フィクションみたいな作品も
あるいはノンフィクションみたいな作品も
結構見受けられます。
その中には
乖離ではないですけれども
好きになったものが
セットで必ずと言っていいくらい
登場するの。
忘れたくなりますよね。
かつて自分が大好きだったものが
嫌いになったのってことは。
やればやるほど
嫌いなものが増えていくっていうのは
よくグッドマイブスで
倉澤さんがおっしゃる通りで
嫌いになったものが好きになるのは
難しいので
転職先を繰り返すうちに
だんだん嫌な世界が広がっていき
嫌な体験が増えていくわけですね。
そうなんですよ。
ヒステリーという
この線に沿って生きるっていうのは
結構辛いことなんです。
だからある意味では
乖離とか
二重、多重みたいな
人格みたいなことを
引き起こすとしても
なんて言うんですかね
その人の気持ちになってみれば
そんなに違和感はないというか
忘れてしまいたいよねっていう
話ではあるんですよね。
これを二歳児下の子供は
みんな健忘しているというところに
ある程度何か求めていたような
フロイトの発想は
非常に奇妙だと思うんですけれども
それは当時の話なので
ただ健忘というものを考えた時に
嫌なことは忘れてしまいたいというのは
私たちにとっては
ごくごく自然のことなので
そういう流れの中で
ヒステリーで依存で乖離みたいな
そして善悪をはっきり分けて
好き嫌いをはっきり分けて
ここを一致させようとするという話
こういうふうに見てみるとですね
多分この現象そのものには
それほど分からないですけど
腹は立たなくなってくると思うし
実際自分もよくやりますよね
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そしてこれを何とかするのが
実はそう難しいんですよね
自分の中で
自分の中で
何とかするのが
実はそう難しいことではないと思うんですよ
世の中に客観はないんだな
というふうに思えればいいし
ある意味振り子を元に戻せれば
もうだいぶ違ってくるんですよね
また好きになれればということですね
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