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2020-12-07 36:16

【GMV 268】時間が足りないのは自分が「手一杯」だから

自分は弱いので人を信じるとつけこまれるので信じる人をしぼりこむ
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
この番組ではですね、
分かってないことについて喋っちゃうというのが一番、
チャレンジングでよろしいと思っているんですね。
私は、ややもすると一切チャレンジをしない人間になっていくので、
そうはなんないですけど、
とにかくこの番組のいいところはですね、
何ひとつ気にかけないというところだと
常々思っていて、
本当はブログもそうなんですけど、
見えるってことはいけないんだと思うんですよね。
これ見えないんで、
何にも見ないつもりでいけばですね、
喋って終わりなんですよね。
これを何かにしようという誘惑をとにかく
いっちょっちゅうやっぱりなるんですよ。
日々が増えてきたりするとですね、
1000とかもしいったら、
それなりの収益かってしようと思えばできるじゃないですか。
それなりですけどね。
だけども、それをこれはしないと。
それは儲けるのがダメとか、
そういう話ではなくてですね、
モラルとかでは全くなくて、
要するに分かってないことについて喋りたいからなんですね。
今日も多分分かってないことについて喋るんですけど、
分かっていることについて喋るっていうのは、
一言で言うとですね、
つまんないんですよ。
モチベーションがだんだんなくなっていくんですね。
ニュシアシなんですよ。
分かっていることについて書いたり喋ったりするほうが
いいわけじゃないですか。
例えば私はタスクシュートの操作については分かっているので、
タスクマの操作についてとか、
書くのが一番安全だし、
一番嘘はないわけですよね。
だから商業本とかにそういうものが集約されがちですが、
そうするとですね、
そればっかりやっていると、
どうしてもやっぱりそうじゃいけないのかもしれませんけど、
モチベーションがぐんぐん低下していって、
なぜならば自分にとっては、
説明する必要のないことを一生懸命説明、
説明するとなれば一生懸命やる必要があるんですよね。
グッドバイブスのプラザのケゾさんが言うならば、
これが愛なんだよなとは思うんですけども、
しかも見ず知らずの人に向かって頑張らなければいけないので、
せめて目の前にいる人に操作を説明するとかならですね、
だから私はやっぱり健全な生活というのは
そういうものなんだろうなって思います。
最近グッドバイブスの、
なんてことのないメリットなのか、
メリットなんだと思うんだけれども、
そのメリットがいささかはっきりしないことの一つとして、
やたら街で道を聞かれるようになったんですよ。
03:05
この間も聞かれたんですよ。
でもこれが健全なんだと思うんですよね。
健全な生活というのは、
健全な生活というのは、
健全な生活というのは、
健全な生活というのは、
でもこれが健全なんだと思うんですよね。
誰に向かって何を教えるというか、
伝えているかがすごくはっきりしてますよね。
本格とかはそうではないんですよね。
これとかが一番そうじゃないわけですよ。
誰に向かって何喋っているのかわけわかんないんですよ。
でもそうはないんですよ、これは。
ということなので、
これは僕の活動の中でも一番ポジションが明瞭でない、
目的も不明である、
何の判断も差し挟まれにくいものなんですよね。
だから一番グッドバイブス的だとも思うんだけど、
しかし一番オーナーはですね、
ということは結構続くんですよね。
これは大事な点だと思うんですよ。
だから私は目的をはっきりさせて、
モチベーションを高く保つとかはダメだなと思うんですよね。
習慣の力とかでもこれは全然ないんですよね。
報酬がないですからね、これといった。
報酬に向かってレバーを倒すのを繰り返すみたいなのは、
あれは強力なんですけど、
なんかやっぱり違うんですよね。
同じことを繰り返している感じは全くないんですよ。
毎朝新しいことを喋っている感じが結構あるんですよね。
そうするんですね。
今もそうなんですけど、何もないですからね、スクリプトがね。
だから新しいことをここに作り出していかないとできないんですよね。
これは続いていると。
全然続く要素ないじゃないですか。
続けるための方法に書いてあることの、
どれともマッチしないんですよ。
報酬ないし、
同じことの繰り返しとは言えないですしね、私の中では。
しかも、
することもはっきりしていないし、目的もはっきりしていないんですよ。
CMもこれに差し挟むようにはしていますけれども、
それも今もできていないように努力をしないとできないんですよね。
この種の努力って何かこうですね、
寄り合わないんですよ。
何かCMをしようと今思ったんですけど、
喋り終わった時に忘れなければします。
こういうのも書いておかないんですよ、これに関してはね。
とことん自分の中ではですね、
本来こうしないと続かないよと言っているやつを
全部無視してやっているのが続くんですよね。
先日あたりから、
昨日ですよね、前回か。
06:01
たくさんの対談を入れました。
あれ自体が一つのCM番組とも言えるんですけど、
実はですね、
あれ自分の時間というのもですね、
私はあの文脈で喋ればああなりますけれども、
自分の時間問題というのも自分の中では
本来的には決着しているので、
あまりグッドモーニングバイブス向きではないんですよね。
単独であればこれをもう今から喋りたいとは
あまり思わないわけですね。
というのは自分の時間がゼロでいいのは、
もうグッドバイブス以前からの決着事項であって、
さっきのあれなんですよ、
タスクマの操作を一生懸命喋る感じがある。
それポッドキャストで僕絶対喋らないと思うんですよ。
目の前にタスクマの操作で困っている人がいないのに、
ここはこうして走ってって喋るのは結構大変なわけですよ。
で、はっきり分かっていないことだから喋る気になるのであって、
はっきり分かっていることについて喋るっていうのはね、
やっぱり目の前に説明すべき人がいてこそやる気になる。
目の前に説明すべき人がいてこそやる気になる作業なんですね。
あれはたくさんと対談だったからその気になれるテーマであって、
自分一人で一生懸命自分の時間はゼロでも大丈夫的な話する気しないんですよね。
私の中ではそれはもう明らかな話なんで、
しかもそれはタスクシュート時代から明らかだったんで、
すごく今更感というのかな、
10年ぐらい昔の話を一生懸命喋る感じにはなってしまうんですよ。
だから人によって違いますよね。
例えば今私の娘とかが自分の時間が欲しいって言い出したとすれば、
それはもうそうあるべきだと思うんですよ。
時間の形成プロセスっていうのかな。
それに対して正しいも間違いもない。
そもそもあれ正しいも間違いもない話ですからね。
あれ認識の問題だと思うんですよね。
この空間は私のものです。
それはあるじゃないですか。
パーソナルスペースとかって言うじゃないですか。
でもその空間自分のものではないじゃないですか。
どう考えても。
満員電車とかでパーソナルスペースを犯されますよね。
今ちょっと違う問題になってきてますけどね。
しかしそうそう、こういうふうに今はまた違う問題になりますよね。
私のスペースみたいな。
こういうものって認識の問題であって、
自分の時間があるとかないとかいうのは、
あるいはなきゃいけないとか、なくても大丈夫とかいうのは、
全部認識の問題なんですよね。
ただ、これを考えたんですけど、
自分の時間だけではなく、
いろんなものが絡んできますが、
これがどうしてもないとまずいと思う時というのは、
一つ重要な認識があって、
自分が弱いっていう認識なんですよね。
これは僕がグッドバイブスで学んだことです。
必ずしも哲学的に出てくるテーマではないし、
09:04
タスクシュートで出てくるテーマでもないんですね。
自分が弱いという認識は、
これはもう私がグッドバイブスで知った中でもとても大事なこと。
これも真相心理とかではちゃんと出てきてるんですけどね。
これを最近グッドバイブスで自分の中で結びつけられてきたというのが、
非常に新しい発見なんですよ。
昔から読んではいたんだけど、なんか軽く考えてたんですね。
自分が弱いという思い込みは、
現代人にとってはすごくいろんな意味で、
基本ベースの考え方になっちゃっていて、
しかもそれが当人に応用している外のかなり重要なファクターなんだけど、
軽くスルーされてるんですよね。
一つには、社会問題との兼ね合いがあるんですよ。
リベラルであればあるほど、弱者をベースに考えようというのがあるじゃないですか。
だから自分が強者だというのは、たまたま運がいいだけであって、
強者をベースに考えちゃいけない。
これはですね、社会問題を取り扱う上においては大事な考えだと思うんですよ。
でもこれは、だからといって自分も弱者だと思ってはいけない。
というかね、弱者ってやっぱり表現はいけないんですよね。
弱者という表現は、社会問題を一周とする場合だけにとどめておいて、
自分について考えるときは弱い強いで考えたほうがいいと思うんですよ。
この場合、弱いということには常に疑問の目を向けておく必要があると思うんですね。
恵まれない環境にあるってならまだいいんですよ。
自分が弱いって話になってくると、
そのように思うか思わないかでどっちになるかが猛烈に影響されちゃうんで、
私はこのことはよく知ってるんですよ。
なぜなら40年に及んで、特に27年に及んでたんですよね。
これには正確な理由があるんですけど、自分は弱い。
27年ではないか、25年くらいだな。
25年間くらい自分は弱いって思い込み続けていたんですよ。
この思い込みの影響は極めて大きくて、
ずっとその理由で自分が弱くなっちゃうんですよ。
肉体的に、健康的にという意味で。
これ本当に良くないんですよ。
だってそんな風に思う必要がないわけですから。
だけれども、社会的弱者の問題とか、強いと思っている人は
病気の人に共感できないとか同情できないとか、
その話が新自由主義みたいになっていくって話になるわけじゃないですか。
だから自分が弱いと思うのは、社会的に良いことだっていう、
そういう政治思想みたいなものがあるんですよ。
だからついつい自分は恵まれなくて弱いっていう立場に
いるように思っていると、安心感ができちゃうんですよね。
12:02
この安心感はですね、
付け入られないとか、騙されないとか、
搾取されないということとも関係して、
一層ややこしくなってるんですよ。
この文脈の中に自分の時間がないっていうのが入ってくるんですよ。
自分の時間を必死に守っておかないと、
弱い自分はどんどん自分の時間を削られていって、
破滅だみたいな。
破滅までのプロセスをもっと詳しく説明する必要が
本当あると思うんですけどね。
しかしその前に、自分が弱くなければ
そんなに自分の時間いらないんですよね。
自分が弱いからあれですよ。
二通り出てきたと思うんですね、自分の時間のテーマにしたときは。
一つは自分のケアのための時間。
さらに自分の精神、精神活動を充実させるための時間。
この二つをしっかりとっておかないと、
自分は弱く、弱くなっていって、
自分は弱く滅びるみたいなのがあるんですよね。
しかもこの時間を二つがっちり取ろうとすると、
日銭を稼ぐ時間もなくなるんですよ。
こうして時間不足問題が切実なものになっていって、
タスクシュートなりにみんな期待するということになるんだと思うんですね。
この一番のベースに実はですね、
タスクシュートに期待している段階では全然意識されてこないんだけど、
自分は弱いという前提があるんですよね。
だから自分の肉体をちゃんとケアする膨大な時間、
睡眠時間を含めてと、自分の精神活動を充実させる時間。
これがいらないんですけどね。
つまりこれがあってもなくても自分の強さには変動がないという意味で、
これは一番どっちでもいいものなんですけど、
この件に多くの人が全然賛同できないと思うんですよね。
自分の精神活動を充実させるための時間を
膨大に取らないと自分は保てないという
この発想がすごい強いんですよね。
だけどここで無理をすることによって
自分の身体のケアはできなくなるわ、
お金を稼ぐ仕事の時間も減らしたくなるわで、
実は自分はよっぽどそっちの方が大変な目に合うって話を
本で喋ったんですけども、そこが問題になるわけです。
その提示って大事なポイントが一番最初に設定されてるじゃないですか。
自分は弱いという。
ここが逆転していたらですね、
この問題は途中からは全くいらなくなるんですよ。
自分が強いんであれば身体ケアのために
そんなに莫大な時間いらないし、
精神活動を充実させるための時間を
ほんのちょっとあれば済む。
その1日5分とかで良くなっちゃうんですよ。
そうなれば時間管理にしなきゃならないかもしれませんけど、
仕事がたくさんあればね、
そこまで急々とせずに済むんですよ。
って話をしたわけですね。
で、これね、
だんだん自分の中で非常に分かってない部分って言ったら
15:04
あれなんですけどね、
自分が弱いという思い込みがいけないというのは分かったんですよ。
なぜならばそう思うのをやめたら健康になったから、
で、あとそう思うのをやめたら弱くなくなったからですね。
これすごいんですよ。
なんていうのかな。
思い込みなんで、基本的には。
弱いということを思い込むのをやめることによってですね、
強くなるんですよ。
強くなるとか弱くなるっていうのは客観視できないじゃないですか。
例えば僕たち強くなったからって悪力元々あるんですけど、
40キロだった悪力が80キロになったわけじゃないんですよ。
そういうことは起こらないんですよ。
だから私が強くなったっていうのは私がただ言ってるだけなんですよ。
実にくだらない話じゃないですか。
私は弱かったんですけど強くなりました。
以上って書いてあるんですよ。
それ何の意味があるんだって思われるでしょう。
でもじゃあですね、
私とても弱いんですって言ってる人がいますよね。
結構いますよね。
そうなんですか、大変ですねって言うじゃないですか。
でもそれ何の意味があるんですかね。
弱いんですよって言って、
ほら今風邪引き始めたでしょって言う人いませんよね。
これ私強いとか弱いっていうのはただ言ってるだけのような気もするんですよ結構。
私は強くなったんですよ。
でも強くなったってことはですね、
殴られても全然平気になったとかそういうことじゃないじゃないですか。
じゃあ今まで弱かった時は殴られたらどうなってたのかって、
それも実は滅多にそれを実証する場はなかったわけですよ。
殴られたことないわけじゃないですけどね。
でも大人になってからそんなにホイホイ殴られないですよね。
だから強いとか弱いっていうのはただ言ってるだけのところがあるんですよ。
ただ言ってるだけってことはただそう思ってるだけってところもあるんですよ。
私の前アトピーとかがあったから客観的にも一応示せるんですけど、
でも私のアトピー全史で見たことある人ほとんど誰もいないじゃないですか。
この話面白いのがあって、
ひもての品格とかいうすごいいい加減なタイトルなのに
大深刻な本があるんですけど、
あの本の中で自分はずっとアトピーだったと。
でもそのことを恋人は実は全然気づいてなかったと。
男の人の話ですよ。
アトピーで多分エキスの嫌だとかそう思われてたと思ってたと思うんですよね。
ところが相手のな人は気づいてなかったと。
そんなもんですよね、他人の病気なんてことは。
全身見たことがある人だって気づきゃしないんですよ。
で、私の場合のアトピーなんて自分が言わなきゃ多分誰も気づかないと思うんですね。
てことは、私が弱いとか強いとか言ってることには何の意味もないんですよ、実は。
私にしかそれ意味持たないんですよね。
だとすると、弱いという思っておくことのメリットというか何なのかなと。
これはですね、あのやっぱり一つの意味があるんですよね。
18:00
これはですね、あのやっぱりさっきのやつなんですよね。
何かを失わないため、あるいは何かで損をしたという認識を持つためなんですね。
実は自分の時間が足りないというのはそういうことなんです。
何かで自分が損をしているという認識を新たにするためなんです。
新たにするということは、これをしないと自分が損をしたという認識ができないってことなんですよ。
パッとやるとそれが自明になってしまうから、ここがポイントなんですけど、
パッとやるとそれが自明になるので、自分が損をしたことは明らかになる感じがするんですけど、
ということはしなければその損害はそもそも認識できなくて、発生もしてないんですね。
ここに難しさがあるんですよ。
例えば、もう極端にしましょう。
どこかにデートで待ち合わせたとか、仕事の打ち合わせで待ち合わせたとか、
2時間待ってこなかったとか。
これ、たぶんですね、全く腹を立てない場合、何時間待ったかは計測できないと思います。
計測しないので。
そうするとその人は損をしていると私たちは社会的認識のもとに考えるんですね。
自分が損をしたと考えるために、2時間待たされたというふうに考え、
しかもその2時間があれば仕事ができたかもしれないし、好きな映画を見ることができたかもしれないというイリュージョンですよね。
イリュージョンを作り出すことで、ようやく自分が損をしたという認識を新たにすることができるんですよ。
この心理操作をしない限り、自分が損をしたという事実は発生しないんですね。
これ、たぶん聞いていて納得がいかないはずなんですよ。
これに聞いて納得がいくようだったら、ウッドワイブスだろうかと思うんですね。
これ、聞いていて納得いかないと思います。
納得いかないということは、損は事実である、客観的な事実である。
でもその損を客観的に証明するために、やっぱり時間という数字を持ち出す必要があるでしょう。
ないはずはないと思うんですね。
何か持ち出さなかったら損をしているということが証明できないと思うんですね。
証明できたとしますよね。2時間分の損がここにあると。
なんならタスクシュートで2時間待った記録をつけてもいい。
こうして他の人にも証明できる。
で、どうするんでしょうね。
そこだと思うんですよね。
この損害が実態であるということをあらゆる人にとって現実のものとして、
そうすると何が起こるのか。何が良いことが起こるのか。
一つしかないと思うんですよね。
この人に心を許してはいけないという結論が出ますよね。
この人を信用してはいけないと。
こうして私たちは多分、信用できる存在、信頼できる人というのを一人一人減らしていくんだと思うんですね。
21:01
これにメリットがあるかどうかはもう各自で決めるしかないと私は思うんですよ。
誰にも騙されない人生を歩むために、
ごくごく信用できる人間を絞って生きていく。
これはある意味では現代人の一つの生き方にすでになっていると思います。
今のプロセスをもって自分は弱いというベースを作り、
少なくとも自分は一杯一杯であるという現実の認識からスタートして、
少しでも損害をこむらせた相手のことを忘れないようにするために、
その人が信用できないということを数値化して実証し、
そして信用できる人間を少しずつ絞っていくということは、
現に私たちのライフスタイルの一つになっていると思います。
私はこれをやってきたんですよ、それなりの期間。
良いことは何にもないと思ったんですね。
一つ、グッドバイオス以前に明らかにこれをやめるようになったきっかけの一つに、
娘が生まれたことがあります。
これ、娘に適応していたら、極力娘との距離を取ることになるんですよ、絶対に。
だって娘は代償をしてくれるわけじゃないですからね。
つい最近もそういうブログ、3本立て続けに読みました。
子供は何も代わりにくれない。私の時間を奪うだけだ。
そういう子供を作るわけにはいかない。
すごい発想だとも思うんだけど、これはライフスタイルになっているんですよ、すでに。
まだ生まれてない人を信頼できないって話をしてますよね、ここではね。
愛することができないでも同じことなんていいんですけどね。
愛することができるとするじゃないですか。
私が例えば子供のために何かをすると、この時間を計測しない限り、
娘のために何かをしたという判断をしない限り、私は何の損害も感じないですね。
何の損害も私が感じなければ損は発生していませんよね。
この話にすら釈然としないという人は、そこで娘に使った時間を測れと言ってるんですよ。
測った上で、例えば娘に勉強を教えてあげました。
30分使いました。その30分を測れと。
この30分の代わりに、あなたはお金を稼ぐことや漫画を読むことができたでしょうと、
そういう話をするわけじゃないですか。
それが自分の時間にすることができたでしょうと、そういう話にしますよね。
その場合、30分という数値に関して初めて損害が発生したことを心に新たにすることができるわけですよ。
そうすることによって、娘に無闇に気を許してはいけない。
愛情を無闇に注いではいけない。
愛情を注がないわけじゃないにせよ、愛情を30分分減らすところがいい。
と考える人にしてみれば、私のやっていることは損害が発生しているんですよ。
ただ、それは証明はできませんよ。
なぜならば、私はそう感じていないからですね。
だから、これはライフスタイルの問題になってくると思うんですね。
つまり、こういうことだと思うんですよ。
24:01
愛情を注いで何にもならない。
勉強を教えてあげて何かになるわけじゃない。
将来の投資になるというのは理由付けじゃないですか。
なんないかもしれませんからね。
ずっと勉強を教えていたけど、結局バカ野郎になっちゃいましたってことは、それはあり得ますよね。
しかし、その前にずっと勉強を教えていましたけど、途中で死んじゃいましたってことは、怒りますよね。
だから、ここに何の保証もありませんよね。
そのようなことに没頭するのは恐ろしい。
代わりに一生懸命私が30分を使った方が、何かこう出世できたり、
ノーベル賞を取ったりするのに役立ったかもしれないとか、そういう話ですよね。
そういう話じゃなかったらおかしいと思うんですよね。
つまり、それより価値のある時間の使い方ができたって話ですよね。
さっきの話で、これが一番に対しては本当に分かりやすいと思います。
そういう話じゃなかったらおかしいと思うんですよね。
つまり、それより価値のある時間の使い方ができたって話ですよね。
さっきの2時間待たされた話もそうじゃないですか。
それより価値のあることができたって話でしょ。
だから、
できなきゃいけないわけですよね。別の言い方をすれば。
で、ただ一番ポイントになるのは、
さっきの場合もそうですけど、その編集さんなりなんなりは、信用できないというレッテルが晴れるということです。
娘にもそうです。
内情をそこまで注いじゃいけないというレッテルを晴れるということです。
それができるようになるということが、たぶんこの考え方の最大のポイントであって、
それは出発点として自分が弱いということ、
自分は恵まれてはいないということ、少なくとも十分満たされてはいないという設定から出発し、
最後には、従って気を許してはいけない相手には気を許さないように決めるということ、これが到達点ですよ。
私はこれを脱したいと思ったんですよ。これを脱する方がよっぽど楽なんで、楽だと思うんですよ、何よりも。
健康になれなかったとしても、損をこむったとしても、楽になるほどは間違いないです。
いちいち覚えておかなくていいですからね、余計なこと。
絶対にこれを覚えておく必要があるんですよ、誰それに損害をこむらされた、別にタスク集団に書いてもエヴァの方に書いてもいいんですけど、
とにかく覚えておかなかったら意味ないですよね。
こういうことですよね。
目の前に誰かがいました。いきなりそいつが唾を吐いてきました。
その人のことを忘れてしまったら、その人にまた近づいていくじゃないですか。
男女関係でそういうことをやる人っていっぱいいますよね。
で、忘れる奴はバカだってみんな言うわけじゃないですか。
また損をこむらせるって。
でも忘れる奴はバカなのかな。
そうすると全部覚えておいて、誰にも近づかない人が一番利口だってことになるんですよね。
それをやったのがハワードヒューズだよね。
誰も信用できないって、彼はどこにいるんだか最後は誰にもわからなくなって
行くという話があるんですけど、そういう話ですよね。
27:02
ハワードヒューズじゃなかったかな。大金持ちの人です。
とにかくそういうことになっていくと思うんですけれども、逆をやると楽になれるわけですよ。
要するに忘れればいいんだけど、一番私がポイントになるとよく思ったのが、ここが私がわからないところなんですけど、
わかんないというか、完全にはわかってない気がするところなんですが、他人が必要だってことなんです。
これ、自分だけではできない気がするんですよ。
なぜなら、他人を信用するって話になってくるんで。
最初に気づいたのは娘の存在からでしたね。
次に、奥さんと倉園さんの合作みたいなの。合作はおかしいんですけどね。
奥さんとの関係が非常にこじれていたとき、グッドバイブスを知ったから。
合作なんですよ、ある意味。私の中ではね。
先方で何か合同作業はしてませんけどね。
つまり、奥さんとの関係がこじれているときっていうのは、結局奥さんを信用しないように私がなるわけですね。
多くの場合、よく自己啓発とかにあるのは、自分でそれを何とかする方法なんですよ。
でも自己啓発を読んでいる段階では自分じゃないんですけどね。
でも自分一人で何とかする方法なんですよね。信用するようにしようと。
グッドバイブスっていうのはちょっとそれが違う感じがあって、
結局いいようになるみたいなところがあるんですよ。
自分が弱いと思い込みさえしなければ、
例えば、自分が仕事をしているにもかかわらず朝の食事を用意させられている。
この件についてセミナーで突っ込まれたことがあるんですよね。
佐々木さんは損をしていないかと、端的に言うとそういうことなんですよね。
お金も稼いでいて、家事を一部とはいえやるのは不公平なのではないかって話ですよね。
これもまた同じ構造をとっているわけです。
つまり、自分が損をしているという形状、計測は後からやってきてますよね。
だって、食事の支度している段階で損をしていると感じていないならば、
何の損もそこには発生していないんだけど、
お金を稼いでいるのがどっちの方が多いかを計算しない。
計算しないとわからないですからね。
その上で家事の公平時間分担を計測して、
何時間以上やっているという計測がいるじゃないですか。
こうして初めて損害というのが客観視されるわけですよね。
自分も心新たに損害が発生したと認識できるってわけじゃないですか。
この上でやるべきことというのは、
そこまで奥さんに愛情を注いではいけないという結論を出すということですよね。
そこまでしないんだったら、別にどうでもいいわけですよね。
今のような計算をする方がめんどくさいので、
30:01
その方が無駄だという話になります。
これを自然と私たちはできるライフスタイルを築き上げているんですよ。
でもそこにベースにあるのは、
その間寝ているなり、自分の身体のケアをするなり、
さっきのですよ、精神活動を活性化させるなり、
もっとお金を稼ぐなり、
それはお金が足りなくなるという恐怖感ですよ。
何かあるわけですよ。
私自身も、
自分自身が何をしているのか、
自分自身が何をしているのか、
自分自身が何をしているのか、
自分自身が何をしているのか、
私それをやめるきっかけは、
つまりそういう出来事から、
そういういろんな出来事ですよ。
今のはただのお話であって、
どうってことないですが、
もうちょっとどうってことある、
いろんな話があって、
初めてですね、
実はそれを全く何にも変えることなく、
ここが大事なんですよ。
実はそれを全く何にも変えることなく、
自分が損をするのを損をしなくなればいい、
ということができるようになるんですね。
そのために他人との、
そういう何かが必要じゃないですか。
今まで損だと認識していたものが、
結局何が変わったかというと、
認識が変わっただけなんですけど、
それは結果なんですよね。
認識を変えましょうということだけでは、
済まされないものがここにはある。
どっちかというと、
何かを始めなきゃいいわけですよ。
一番簡単に言うと、
判断をしなきゃいいわけですよ。
判断すると判断をしたわけですよね。
判断、計測、比較、
そして損失の認識という風になっているわけです。
でもそこに損失が認識しようとしないと、
あるじゃないかという話を、
多くの人はするわけです。
納得いかないから。
ところが私はそうじゃないんです。
そうじゃないと思うんです。
認識して初めて損失感というものが出るんですよ。
これは自分が弱いと思って、
全て私がアトピーを出すのと同じなんですよ。
それを言いたいんですよ。
だからこれはアトピーが認識しようとしないと、
アトピーはそこにあるじゃないか、
それはないんですよ。
原理なくなってますから、私の肌からは。
ここが大事なんですよ。
肌とは違うから損失感は、
見えなくてもあるじゃないかって思われるかもしれないんですが、
これは私の中でははっきり言えるんですよ。
ないんですよ。見えなければ。
こういうものが世の中にはあるので難しいんですよ。
目をつぶったらなくなるものは、目を開けたらありますよ。
それは認識の問題だけではないですね。
しかし、思い込むことによって発生することは、
思い込まなければなくなるんですよ。
これは、もともとあるとかないとかいう議論とかに
ふさわしくない話なんですね。
33:01
プラシーボ効果とよく似てます。
あれですよね。
お医者さんが薬をくれたら効かない薬が効いてしまうと。
これは薬効はないんですよ、もともと。
薬効を作り出しているにすぎない。
アトピーもそうなんです、私の場合はね。
全てのじゃないですよ。
損失感もそうなんです。
これも私の場合です。
全てのではないです。
ただ損失感多くの場合、こうだとは思います。
この損失感を支えている強力な土台として、
自分はすでに手一杯であるということ、
これ以上誰にも時間を割けないという確信がなかったら、
この実は損失感はもともと発生しないので、
存在しようがないんですよ。
ってことを本の中で喋ったんですよ。
本の中で喋ったらおかしいですね。
佐々木さん自分の時間がないんです、という本では。
そういうことを言ったつもりなんですよ。
でもこういうことは言えてなかったですよね、結局。
自分が聞かれていることに答えているかどうかで、
やっぱり喋る内容は変わってこざるを得ないから。
私は今何の制約もないので、
自分の中でもはっきりはしていないことについて喋れる。
要するにこの種のことを確信するために娘が必要だったし、
奥さんとのイザコザが必要だったし、
フットバイブスはもちろん必要だった。
だから蔵童さんがいないと無理だったというのが言えるんですよね。
で、それはどういうところに結局行き着いたかというと、
自分が弱いという思い込みなんですよね。
これが事実じゃないということが大事だったという話ですね。
はい、なんかそういう感じでですね。
あの、ということをむしろ書いたのは、
読むセラピーの1の方だと僕は思うんで、
あ、CMに繋がった。
こっちをもしよければ読んでほしいと思うんです。
あれイリュージョンについて、これはイリュージョンについてなんですよ。
イリュージョンというのはつまり、
単に幻想だって言いたいんじゃないんですよ。
イリュージョンを信じようとすればするほど、
それは現実になっていくということが大事なんですよ。
逆もできるんですよ。
イリュージョンがないと思えれば思えるほど、
それはなくなっていくんですよ。
脅迫神経症はそれの非常に分かりやすい病気、
手を洗うのをやめられないやつ。
汚いという思い込みが汚くするんですよ。
汚いという思い込みが取れれば、
洗う必要はなくなるんですよ。
他人のだと分かりやすいじゃないですか。
私はこれが自分の時間も全く同じだと、
本当に全く同じだと思っているんですよ。
手を洗うのがやめられないのと全く変わらないと思うんですよ。
だからアトピーがそうだったんですからね、私の場合は。
これは信じてほしいわけじゃないんですけどね、別に。
人が信じても信じなくても、はっきり言えば同じなので。
出す出さないを自在にできるわけではないですよ、私が。
前よりは自在にできる気がしますけどね。
出す出さないを自在にできるわけではないです。
36:02
ただ強いとか弱いというのは自在にできます。
弱いと思い込めば弱くなります。
それに何の意味があるのかということですね。
36:16

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