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2021-09-02 30:38

【GMV450】無意識を軽く見ない

メリットのない言動などない
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
いちどのとひげこびますね。
これがあの、実はこの収録には大変良いという、私は暑いのが基本的に好きなんですけども、
暑すぎるとここで収録しているだけで熱中症になるんですよ。
なので、これ実はすげー暑すぎないというのは良いと思うんですね。
で、いろいろ思うんですが、やっぱりこういうもんだなと思います。
意味付けというのは、逆に言うと意味落としなんですよね。
部分的なところだけにやだらと着目するので、結果的には何かがすごい良いものだったり良くないものだったりするんですが、
トータルではやっぱりよく言われている、面白くもないことですが、
モーパスさんのセリフですよね。
人生というのは人が考えるほど良くも悪くもないものだというあれですね。
考えというのは極端なんだと思います。
で、先日ですね、あるオンラインセミナーで、
そうは言っても佐々木はアウトプットを毎日のようにしてるじゃないかと言われて、
ちょっとこう、あれ?と思ったんですよ。
何かやってたっけ?っていうのがまず第一にあったんですけど、
これのことを多分指していらっしゃったと思うんですね。
私はグッドモーニングバイブスって人に聞かれているイメージが湧いてないので、
毎日やっているじゃないかと誰かが言うっていうことに驚きを感じてしまうんですね。
そう指摘いただいて、そういえばそうだったなと思ったんですけど、
ここで僕がよく気にしているのがですね、意思力なんですよ。
意思力といえば弱いがセットじゃないですか。
意思力が強いっていうのってテーマとしてあんまり上がらない。
多分Google検索とかだったら意思力だったら次は弱いが出てくると思うんですよね。
強いは出てこないんじゃないかっていうぐらいセットになってないんですよ。
この段階で意思力の強さ弱さを云々するのは無意味なことなんじゃないかというのが一つ思うんですが、
もう一つはですね、私たちは自分の意思力を舐めていすぎます。
自分の意思力が弱いと思い込みすぎていて、その強さの恐ろしさについて、
恐ろしさというのはちょっと言い過ぎかもしれませんけど、
でも多少恐ろしさについて軽く考えすぎていると思いますね。
フロイトが失策行為と言った時、彼はどこかに書いてたんですよね。
自分が無意識についての責任を持っていると思えば、
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無意識のうちにやってしまったということについて、もっと人は真剣に考えるようになるみたいな、
これもしかするとフロイトじゃないかもしれませんが、
フロイトが書いたものの文脈の中にある発想です。
これはすごく大事で、どうしてもただこの話をすると、
自己責任の話になっていってしまうんですね。
私はそういう文脈で考えるのは、考えないほうがいいと思うんです。
この文脈から自己責任を持ち出してしまうと、
わけわかんないことになっていくんですよ。
そうじゃなくて、意思力の暴走みたいな、あるいは無意識の暴走、
結局ある意味精神分析とかカウンセリングって、
無意識の暴走をどう取り扱うかということですから、
無意識はかなり暴走する。
そこは言ってみれば意思力が暴走していると考えてもいいんだけど、
いいと思うんですよね。
力度という、すなわち力がそこで働くとか、
無意識のうちに何かをやってしまうというのは、
まさにある意思力が私を使って強引に動かしている。
それって肌から見ると私が意思力を発揮しているのと、
ほぼ同じになりますからね。
この場合、その無意識に責任がある云々というのが、
自己責任問題みたいな風にして取り上げられ始めると、
この手当てが雑になっちゃうと思うんです。
何かにつけてここで自己責任の話が出てきて、
全てが自己責任ということなのかみたいな話になって、
そうじゃなくて悪いな、社会だみたいな話になっていくんですけど、
あの議論を追っていくと、結局全然解決には至らないんですよね。
自分には責任があるんだ、ないんだという議論で終始してしまう。
そうじゃなくてですね、
無意識のうちに私たちがやってしまうということは、
言ってみれば意志力が増大だ、強大だという意味になるはずなんで、
これをですね、もっと慎重に取り扱わないと、
ある意味自分が望みもしなかった、この場合の自分というのは多分、
かなり意識的、表層的な自分なんですが、
自分としてはかなり不本意な結果を、
強烈な意志力で引き起こすという結末になりかねないというか、
しょっちゅうなっていると思うんですね。
昨日、妻が、
あ、そうじゃなかった。すみません。
話題にするっていうことがまず、そもそもの問題だと思うんです。
疲れとかっていう、だから妻って出てきたのか、
疲れっていうものを常に口にされている方がいらっしゃるんですよね。
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私たちがやることというのは、やることなすこと、どんなことでも、
メリットのないことってないんですよ。
疲れということをしょっちゅう口にすると、
これが多分グッドワイプスでクラゾノフェードさんが、
言葉に注意的な話をするんですが、
でも、あんまり頻繁にはしませんね。
やっぱり一つはこれがスピっぽく感じられるっていう文脈にあることと、
もう一つはやっぱりこの話はすぐ自己責任論に結びついてしまうんで、
扱いとして慎重にしたくなるのは、
決め打なんですよ。
これはどうしてもその話になぜか持っていかれるんですよね。
言葉を使うということをしているとですね、
まずその言葉を使うメリットというものが必ず発生します。
これはですね、ある行為をしておきながら、
その行為にまつわるメリットを生じさせないということはできないんですよ。
私たちはいつも、私がよくこの番組で言う言い方ならば、
人格がABCDEFGZまで、
もっと100通りも1000通りも人格ってものがあると考えるのが自然と言っていいぐらいなので、
1000が大げさならば10ぐらいでもいいですよ。
10だとしても、10人格全部にとってデメリットだなんて出来事ってないんですよ。
あらゆることならば、メリット・デメリットは立場によって変わってくるので、
自分がいろんな立場にいるという事実はあるので、
父親としての私と、誰かの息子としての私、私はどっちもありますよ。
いまだに親生きてますから。
かつ、作家としての私と、ゲームをやる私、
いろんな立場があるわけで、
何かを一つやったり言ったりしてしまったら、
もう誰かにとってのメリットは即座に発生するんです。
暑いと言えば暑いと言った事が、
どの人格かにとってのメリットになる。
もちろんデメリットにもなります。
寒いと言えば寒いと言ったで、何かのメリットが発生します。
これが何で問題を生み出すかというとですね、
繰り返しそういう事を言わせたいという人格が潜んでいると思うべきなんですよ。
つまり病気になれば病気になったで、
メリットをこむる人格が必ずいて、
健康になればなったでもちろんいますが、
お腹が痛くなればなったでそういうのがいる。
だから繰り返しある種の発言をするなり、
繰り返し何らかの出来事に注目するという事は、
その出来事を頻繁に繰り返させる動機づけを必ず強く生み出すという風に考えるべきなんですね。
フロイドが反復強迫と言っていたのはまさにそういう事だし、
カンセリングでこの問題に直面していない人は誰もいません。
だって、ある種の問題が繰り返し発生しないんだったら、
それは問題でも何でもないじゃないですか。
僕たまーにメガネを見つけられなくなりますなんて事は問題じゃないんですよ。
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問題になるとすればそれが頻繁に起こる。
もう今までに1000個も買い直しました。これが問題って事ですよね。
つまりそういう繰り返しは起こってる訳ですよ。
起こってるという事は起こしてる訳なんですよ結局。
起こす事にメリットがあるんです。
こうやって言ってみると自己責任論になっちゃうじゃないですか。
でもこれ自己責任論といった時の事故って誰なんだって事はあるはずなんで、
そこは大体全く議論されないんですけどね。
事故は1人だって事になってるから。
1人だって事はありえないと思うんですよ。
少なくったって3人はいるでしょ。どんな人だってね。
で、自己責任といった時の責任を追求されるべき事故というのは、
でも1人になっちゃうんですよ。
だからすごく議論は粗雑にされていくんだと思うんですね。
で、私たちはそうやって繰り返し繰り返し何かをするのは、
繰り返し繰り返しするだけのメリットがあるからね。
つまりメリットがある事を引き起こしている人格がいるという事はですね、
そいつは意思力が絶大に強いんですよ。
で、私たちの人格というのは基本そういうものであって、
自分が意思した事をするんですね。
だから意思力が弱いと思っている事ごと危険な事はなくて、
意思力が弱いんだから何言っても何やっても、
実際にそれは実現しないだろうと思っちゃうんですけど、
そんな事はなくて、繰り返し熱いと言ってりゃ繰り返し熱いという事になるし、
なぜなら言った途端に発生するメリットを自覚する自分というのがどっかにいて、
てか自分の中にいて、その自分が繰り返し熱いという事によって、
自分はこのメリットを確実に享受できるという事になるんだから繰り返しますよね。
何ならば、なるべく熱いと感じるようにもなりますよね。
その上にもっと手っ取り早い事を言えば、熱い地域に引っ越そうとまでしますよね。
アンデルセンの影とか、かわいはやおさんが影という概念で
この事をかなり徹底的に論じている本があるんですけれども、
こういう事はごく実は頻繁に私たちの周りで起きている事で、
だから言葉遣いに注意なんですよ。
これ、ごくごく単純に言ってしまうとスキナーと変わらないんですよ、
言っている事自体はですね。
スキナーがレバーを倒せばネズミはチーズをゲットできます。
こいつがメリットですよね。だから繰り返しレバーを倒すようになるわけですね。
ランダム強化というものまであるんで、たまにしか出ないとより一層倒すようになる。
たまにしかメリットが享受できなかった場合は、
むしろそういう反復は増える可能性すらあるわけですよ。
とにかくメリットというものを発生させないでおく事は不可能なんですね。
だってお腹痛くなったら会社休めるじゃないですか。
会社を休む事がメリットに感じる部分って自分の中に絶対あるでしょう。
12:02
一つや二つは。
そうするとお腹さえ痛くすれば必ず会社休むというメリットが享受できるわけですよね。
そうするとお腹を痛くするありとあらゆる手段を尽くしてでも会社に行くのが嫌ならば、
そして自分はお腹が悪いとこういう人が自分が思うのは当然ですよね。
だってしょっちゅうお腹痛くなるんですからね。
これを自己責任論で語るべきじゃないと思うし、でも自分で非常に気をつけるべきだとも思うんですよ。
だってこれを気をつけないでいるということは、
たぶん何らかの人格にとっては全く不本意な結末を何度も何度も自分でこむらなければならない。
お腹が弱いということ、お腹を悪くするということ、お腹を悪くしようとする勢力みたいなやつ。
全部潔白。
だから精神分析ではこの凶暴とか潔白という表現が出てくるんですよ。
そういう凶暴したり潔白している人格の夢を見ると、大変奇妙な夢なんだけれども、
だいたい本人には心当たりがあるはずなんですよ。
だから夢分析なんですね。
こういうことってあるので、
私は思うわけですね。
私も先日ワクチン打ちましたけど、
これについてあだこだ言うと非常にややこしいことになるんですけど、
ただ忘れちゃいけないのはですね、
痛めば痛んだでメリットをこむる。
熱が出れば出たで。
会社休めるというばかりじゃないですよ。
いろんなメリットがあり得るはずなんです。
立場によるんですよ。
立場が一つという人は世の中にいないはずなので、
立場って絶対様々なものなんで、
配分者にとっての誰である。
子供にとっての何である。
仕事ではこういう役割、ああいう役割。
いろんなものがあるじゃないですか。
熱が出ればメリットをこむる人は絶対にいるんですよ。
そうすると熱を出したいじゃないですか。
その人にとってはね。
チーズが出るように熱が出るんですよ。
熱だと。
ラッキーだと。
ラッキーなんですよね。残念ながら。
もちろんアンラッキーだという面もありますよ。
だからそういうところから葛藤と分裂という問題が生まれるにせよ、
つまり熱が出ること自体は注射が引き起こすんですけれども、
熱を出すとかそれを高めるということは可能なレベルでは工夫の余地があるわけですね。
その工夫をしているのは何らかの意味で自分なので、
つまりその工夫をするほどの意志力があるわけですよ。
この意志力を弱いと思うことは私はナンセンスだと思うんですよね。
危険極まりないじゃないですか。
自分が反逆しているということのままに任せる。
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その結果がうまくいくということもあり得ないわけじゃないんで、
この辺がややこしいんですけれども、こういう話になっていくと。
ただやっぱりあまり望まないことであるならば、
そういう意志力の暴走を何か他人物のように傍観しているのは考えものだと思うんですよね。
なんかやっぱりここには奇妙な発想があると思うんですよ。
自分の意志力がただ弱いとだけ思っておく。
そして自分というのは常に一個の人格だと思っておき、
かつ自己責任という範囲は非常に狭めておく。
そうするとどうしても無意識が暴走したときには、
対応のしようがなくなりますよね。
自分の責任ではないし、自分の意志力が弱いわけだし、
しかもそれは害にしかなっていないのに、
なぜか反復的に繰り返されるっていうんだと、
非常に苦しいじゃないですか。悩ましいですし。
そんなに悩ましいだけっていうことは考えられないと思うんですね。
全部自分に起きてることですからね。
ただ悩んでいればいいってものでもないと思うんですよ。
もともとそんなことにならずに済む部分があるならば。
メリットがない出来事もあるっていうのは、
私はちょっと賛成できないですね。
メリットがない出来事は多分その日からまず絶対繰り返さないと思います。
動物ってそういうふうには作られていません。
やっぱりメリットのあることを繰り返すんですよ。
私がこのアウトプットなりと言われているものをしているのは、
当然メリットがあるからに決まってるんですよ。
このメリットが金銭的だとかなんとか見えにくいと、
人はメリットだと見なさないようにしちゃうらしいんですけど、
そういう問題じゃないんですよ。
病気だってメリットがあるっていうのは、病気で金が儲かるって話では全くないですよ。
まあ儲かることもありますよ。
そうすると癖になることもあり得ますけどね。
ただそんな風である必要は別に全くなくて、
熱いということをただ口にして繰り返すというだけでもメリットがあるんですね。
だからうかつにいろんなことを言及したり口実したりツイートしてみたりするというのには、
慎重になる理由はあると思うんです。
この番組そのもののメリットというものは私にはあるから、
この番組は続くんですよ。
言えば必ず、あえて私がこういうメリットがあるなどとか、
PV画とかを考えずとも、必ずメリットをつかむ人格というものが発生して、
そいつがメリットを確信するので、
私が少々つらくても歯が痛かろうと、なんだろうとやらせるんですよ、私の体を使って。
これがメリットを享受するときの意志力なんですね。
逆も当然あり得ると思うんですよ。
18:00
ポッドキャストをやるのはこうだとかああだとかいろいろ言ってみたり、
伸びないとかPVが伸びないとか、クレームが来たとかいろいろ言ってみたりすると、
それをメリットだと捉える人格が別に出てくるわけですよ。
出てくるというかいるんですよ、そいつは最初からある意味。
そのメリットを享受する私にしてみれば、ポッドキャストをやめさせようと。
やめさせる処方がいっぱいありますよね。
いろんな理由がやめる理由になりますよね。
ちょっとツイートでこういうことを言われたとか、奥さんが邪魔をするとか。
事実無根であったら構わないんですよ、そんなものは。
意味付けをすればいくらでも、例えば今8時40分ですけど、今撮ってるこれでは。
8時41分になって奥さんが起きてきた。
あれはわざとやめさせるためにやってるんだ、
そういうことを言う人いっぱいいるんじゃないですか。
実に簡単ですよ、そういうことを。
そういうふうに決めてしまうのはですね。
だからすいません、ポッドキャストは私はやりたいんですけどって言うじゃないですか、人はね。
これはそういうことを言ってやめさせたい人格にとって大きなメリットになるんですよ。
これを自己責任というべきかどうかは微妙だなと思うんですよね。
本人は明らかに分かってないですからね、そういうことを言ってるとき。
間違いなく奥さんに邪悪されたと思ってますからね。
後で奥さんに聞いたりすると、私そういうつもりは全くないって絶対言うんですよ。
でもここでは確証バイアスが働くでしょう。
奥さんはそう言うけれども実際にはやってほしくないんだ、私にはわかるって言うじゃないですか、人は。
そういうものなんですよね。
つまり、ある種の人格にとっては全てが、全てが本当は全くないんだけど、
全てが整合していて、現実に見えるだけの十分な証拠もあり、
間違いなくそう確信できるだけの合理的な展開がそこには見えているわけです。
全部自分で作ってるか、少なくとも99%くらいは自分で作ってるんですよ。
決して病気じゃないですよ、これは。
普通の人がみんなやってます。
病気の人はこれを99.99%くらい自分で作ってる程度のように私には見えます。
それくらい人は現実をほとんど無視するか、かなりの部分を股間して、
自分に都合のいいストーリーをネッチ上げて、
すっごく納得がいくよねっていうことにして人に喋りますよね。
相手は大体において、そうかなと思いながら黙って聞いてるしかないんですよ。
関係をあんまりぐちゃぐちゃさせたくなければ、相手の長々とした、大体この人の説明は長くなるんです。
私の感じでは何かを説得しようとして1分以上話が続いたら、
大体そこには半分くらいは嘘が混じってる。本人は嘘をついてるけど全くないです。
ただ本当らしくない話がどうしてもそこで、
倉殿さんがCut Vibesのワークの中で意味付けを指摘するっていうのをやってたんですけど、
21:05
鎌倉かな、鎌倉で私はやった時、
すぐにいくらでも見つかるなみたいな印象がありました。
でもあれは私はある意味いつもやってることだなと。
性格悪いように感じられるかもしれませんけれども、
でも意味付けというのは危険なものなので、
やめればやめるほど自分にとって本当はいいのことなので、
なんでかっていうと、現実じゃないものをデッチ上げて、
何らかのメリットを享受するということは、そのメリット自体がイリュージョンですから、
とっても最高に良くて何も手に入らないんですよ。
私はこれは何が正しいかわからないという言い方をしても、
本当のことはわからないと言ってもいいんですけど、
多分これは本当だろうと思うことの中に、
意味付けをデッチ上げて現実を捏造した上で得たメリットは、
最大級得ることができたとしてゼロということです。
ほとんどの場合はほぼ間違いなくマイナスになる。
私がそういう方法を使ってこのポッドキャストを続けてもマイナスだし、
そういう方法を使ってこのポッドキャストをやめてもマイナスになると思います。
だからやめたほうがいいと思うんですよね。
要するにそこは真実じゃないものを根拠にして、
何らかの行動を自分に続けさせることによって、
何らかのイリュージョンを継続するという、
なんかすっごいおかしなことをやってるんですよ。
こういう時におかしなことを言うのは正しいだろうなと思います。
正しさは手放すんですけどね。
このポッドキャスト、アウトプットと呼ばれましたけど、
やるにせよ、やめるにせよ、続けるにせよ、続けられないにせよ、続けられるにせよ、
全部意識力ですよ。
習慣の力とか、そういうわけわかんないものではないです。
歯を磨かないと気持ち悪いように気持ち悪いからとかでは全然全くないです。
そういうもので続けられるはずはないと思う。
だいたいシートベルトの話と言い歯ブラシの話と言い、おかしいと思うんですよね。
やらないと気持ち悪いからやるんだろうか。
そんなはずはないんですよね。
シートベルトをやるのはやるんですよ。
やらないと気がつくかもしれないけど、それはやらなかったときの話じゃないですか。
やるんですよ。気持ちが悪いからやるんじゃない。
やらないと気持ち悪いけど、やるときにはその気持ち悪さとかは全然出てこないんで、
あれは習慣の力ではないと思うんですよね。
習慣の力はやらなかったときに気づかせる力でしかなくて、やる力にはならないと思うんですね。
やるんですよ、これは。
やるのはメリットがあるからなんですよ。
それを人は習慣と名付けたんですね。
24:01
メリットのあることを繰り返す。
でもそれは私はある人格の意思力の発動だと思うんです。
それを習慣かというならば、そういうことになるでしょうけれども、
一般に留守している以上仕方がないですけど、
何かここには自動的に進むっていうニュアンスがあるけど、
そういうものではないと思います。
私は本の原稿を書くとき、絶対にそういう感じでは全く進まないと思います。
いつも自分がやっているのはそうじゃないなと思うんですよ。
ある人格の意思力の発動なんですよね。
自動的になって書けるものではないです。
自動的にこのポッドキャストでしゃべれるものではないんですよね。
このポッドキャストをしゃべれないといろんなネタを集めるんだけども、
アウトプットができないとそういう表現をほぼ毎日ツイートとかで目にしますが、
それはアウトプットさせない意思力の勢力が極めて大事なんですね。
現状のところ、アウトプットをさせないということに大きなメリットが感じられていて、
そのメリットは意味づけとイリュージョンにまみれていると思いますがあって、
それが決してポッドキャストなんかでしゃべらせないぞと。
だからしゃべろうという自意識からすると意思力が弱いことになるのかもしれませんが、
そういうことでは全然ないと思います。
そうじゃなくて意思力がとても強いんですよ。
だからそんなことはさせないぞということが行われているんですね。
私読むセラピーの1だったかな、1だったかと思います。
脅迫神経症の患者さんの例を出しましたけれども、
彼のあの無意識のパワーですよね。
真夜中に事故ったかもしれないという恐怖に襲われて、
何キロも先までドライブをして現場を確かめに行く。
必要は全くないじゃないですか。
多分何にも起こっていないということを確認するパワーですよ。
これが意思力ですよね。
確認させずには動かないんですよね、こういう意思力は。
あの人の場合もそうですが、自分が非常に弱いと思っているので、
こういう意思力の暴走を許してしまうんですよね。
もちろんイリュージョンですし、もちろん意味付けなんですけれども、
要はそれをさせる、そのように繰り返し繰り返し何かを心配させ、
他のことに心を奪わせておくだけのメリットがいっぱいあるんですよ、
ああいう方の場合には。
例えば家庭内不安から不安に意識を向けさせないとか、
つらいですからね。
子供が自分をバカにしていることから目を反らさせるとか、
つらいですからね。
27:00
仕事が本当はできないということから目を反らさせるとか、
理由になりますよね。
夜中に2時間もそんな意味不明のドライブをしていたら、
仕事にならなくなるじゃないですか。
仕事ができないというのは非常に理にかなったことですよね。
こういうふうに私たちはある程度はなっていると思うんですよね。
でもこの話も絶対自己責任論に持ってかれそうじゃないですか。
だからこの話ってやりにくいところもあるし、
嫌な話なんですよ、大々により。
本人は秘密の中でこういうある程度ね、
周囲に隠した中で治療をするというのは賢明だと思います。
そうじゃないと差別みたいなものにつながって
生きかねないところばっかりの話なので、
これは本人非常につらいんですよ。
ほとんど意識できないところの自分の力なので。
ただそれが弱いと思ったりするものではないと思うんですね。
どう考えたってこれ相当強いですよ。
同じことで違うことができたら、
同じ力で違うことができたら、
かなりのことがやりそうですよ。
ドライブで何の意味もないところに車で飛ばしていって、
全く何も起きてなかったことを確認して帰ってくるんですから、
こういうことができるならある意味何でもできそうですよね。
少なくとも奥さんにプレゼント買ってくるという程度のことは容易にできそうです。
でもそっちはできないんですよね。不思議なことですよね。
こういうことがあるので、
何かツイートするとか、何かつぶやくとか、
少なくとも一つ確実に意識しておいた方がいいことは、
これをつぶやくことによって、
これを何回も繰り返しつぶやくことになる可能性は結構高まるということですね。
なんだか調子悪いと言った瞬間に、
なんだか調子が悪いことによるメリットを本人が享受するので、
何度も何度もなんだか調子悪いということをつぶやくということを
しなければならなくなる可能性が上がるんですね。
ということはなんだか調子悪くなるということも、
繰り返し繰り返し襲ってくるという事態を自分が準備するような、
少なくともそういう風になっていく可能性については、
検討しておいていいと僕は思うんですよ。
これをもうちょっと拡張して言うと、
私もつぶやいちゃってますし、つぶやきはしないけど、
ここで言っちゃったりしてますけど、
クレームをもらいますなどということをむやみにしゃべらないことだと、
言及したり何かしたりしないことだと思うんですよ。
なぜならクレームをもらうということは多大なメリットがありかねない。
そのメリットを得るためだったら、
クレームを何度ももらいに行きかねない、
そういうところが私たちは間違いなくあるんですよね。
アルコール依存症のお父さんをもって大変な目にあったという、
30:05
体験コミックを読んだことがあります。
その女の人はお父さんを本当に苦しめられるんですよ。
朝っ端に酔っ払って帰ってきて、家中にゲロしたりするわけですよ。
その女の人がお父さんを何とかしてお父さんと距離を置くようになった頃に、
ちょうど付き合い始めた男がアルコール依存症っぽいんですよ。
こういうことも引き起こしかねないんですよ、私たちの意志力というのは。
30:38

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