第8期の3ヶ月チャレンジ
働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1077回をお送りします。
10月25日金曜日、11時34分です。
今週はちょっと独特の状況が続いてますね。
まもなく、もう明後日には第8期の3ヶ月チャレンジをスタートさせますので、もう駆け込みになると思いますが、もしまだ迷っているという方がいらっしゃったら、今日のを聞いたりしてみて考えてみてください。
3ヶ月ですし、多分どうして迷われるのかとか、どうしてこういうものに興味を持つのかとか、またどうやって持って私がどういうアプローチをやっていくのかというのを最近はずっとお話ししておりますが、
どうしても、私からするとこのアプローチはごく常識的にありふれた考え方だと思うんですが、世の中一般からするとものすごく非常識なアプローチになってしまっているので、その辺も含めて時々お伝えはしておりますが、
今日もそんな感じにしていきたい。いずれにしても明後日始めます。4回お試しセッション、2万円プラス税のやつですね、今止めてますが、そちらもまた8期落ち着いて11月の初旬過ぎたあたりには必ず再開すると、もっと早く再開するかもしれませんけれども、
再開するので、それを体験してからでも遅くはないかもしれないですね。それで本題に入るわけですが、ちょっと最近三チャレで、もう僕頭がすごい三チャレ化しているんです。3ヶ月チャレンジね。さっき言った通り第8期が始まります。終わるのは2月の最初の週ということにしてありますが、
これのために本を買うわけですが、これらの本がまあ高いわけですね。お勧めしませんからね。本は一応引用する関係上多少とも正確にタイトルと著者名申し上げてますが、これホイホイ変わらないことをお勧めします。
というのは、まあ面白い本をただ面白く読むのであれば、もう別にそれは進めるも進めないもないんですが、何かの役に立つかというと、これはやっぱりね、なかなか簡単に役立てられるようなものじゃないような気もするんですよ。
まあこれは別に侮るわけではないんですけどね。私が特別読解力が高いぜっていうわけでは決してないんだけど、僕はやっぱりこういうことをなんだかんだ言って1997年からずっと考え続けてきたんですよ。ある意味では。
なぜ臨床心理系に行ってないんだお前っていうふうに自分でもちょっと思うんですが、1998年に買った本がこの私の考えの今やってる活動の結局ベースになっていることを考えますと、そういう人間なんですね。
思えばですね、私がその、なんか心理ハックだのマインドハックだの言って、それこそあれですよ、森正竹さん、私、教長でiPhone情報整理術を書いた方まで、聞きにいらしてたことが1回あったかな。
彼が来てくれるっていうのが非常に嬉しくて僕すごい頑張ってた時代があったんですよ。だいぶ前の話ですよ、これは。本当にだいぶ前。彼と教長を書いた頃の話ですから。今から20年ぐらい前になってしまうんではないでしょうか。
その頃に僕はもうパーソナリティ障害の軸に、あのセミナー、今思うととんでもなく無理があるんだけど、しかし、確かあの頃パーソナリティ障害の本が結構出ていて、ビジネス書斎会でですね、一体例がどういう現象だったのかを、今それを逐一分析している余裕はさすがにないのですけれども、そういう興味で動いてたわけですね。
だからやってたんだなぁと今思うと、それってつまり、どうだなぁ、2008年とか9年とか、一応単独でやってたセミナーなんでね、そういうものでもそういうことをやっていたと。
今思うと、よくあれで当時あんな風に頑張ってたもんだなと思うぐらいなんですけど、それぐらいある意味このアプローチが流行るようで知られていない。今はもう全く伝えつつありますからね。今人格障害の本だって多分ビジネス書斎は出せませんよね。
私が最近奮発して買ったというのは、ナンシー・マック・ウィリアムズの、なんかね、非常に学術的な本ですよ。お勧めしないんですけど、パーソナリティ障害の診断と治療。こういうタイトルですからね。
でもまぁタイブで、分厚くて大変良い本なんですが、なんていうのかなぁ、専門者向けですよね。6000円もしますし、そもそも6000円でこの本を一般の人が買ってもですね、何と言えばいいのか本当に困るんですが、
わけは分かるんだけど、こうも細かく書く必要がある意味いらないこと、いらなくはない。いらなくはないんだけど、一般の読者にとってはいらないことがいっぱい書いてあるわけですよ。これを読むなら絶対アメノヒノシン理学の方が断然優れてるなぁとは思うんですね。
ただ私はパーソナリティ障害の診断と治療で、結局歴史的にどう治されてきたかみたいな話に引っかかるものがあるんですね。フロイトの時代はこうやってました、アンナフロイトはこういう風にしてました、対照関係論ではここをこうやりますみたいなのを見ていくと、
なんでそういうズレ、ズレですよね結局それは。同じ病だと見なされているものに対して違うアプローチをとっているわけで、しかも微妙に違うアプローチを。ただ当然俗人性っていうのがあって、例えばこのナンシー・マック・ウィリアムズさんの書いてる書き方を読んでると、これちょっとビヨンが言うこととは違うんだなっていうのが出てくるわけですよ。
どこがどう違うっていうよりも、この人の個性だよね、こういうのはっていうのが出てくるんですよね。やっぱ藤山直樹さんのを読んでるとやっぱ違う感じがするよなっていう、何がどう違うっていうよりは違う感じがするっていう方が当たっていて、この本にはいろんな面白エピソードが出てくるんで、そっちも読むものの端休めとしては大変ありがたいですね。
こういう本が面白いエピソードすらなかったら、もう本当に辞典読んでるようなもんでしてね。しかもその辞典が世の中に受け入れられているとは言い切れない辞典を読むっていう、これって結構嫌な作業じゃないですか。辞書です。ただし世の中ではこれを正しくないとされている、データが大量に含まれている辞書ですみたいな、嫌ですよね。でもある意味あれですよね。
ウィキペディアってそういうところありますよね。だから僕はウィキペディアってすごい良いものだったなと思うんですよ。あの種のものを信頼しちゃダメだっていうことをあれは伝えてるじゃないですか。甲辞苑だろうと何だろうとそうですけどね。権威である、信じるべきべしって書いてあるものが実は信じられないみたいな。だけれどもそういうものって世の中にはたくさんあるわけですよ。
例えばお経本とかね。お経本ってまさにそういうものじゃないですか。ある種の人にとっては真理は全部ここに書いてあるしこれ以外は真理ではないって言うんだけど、丸々それを信じるかどうか。つまりこれは信じるかどうかって話になりますよね。そういう部分が臨床の世界にも心理臨床の世界にもあるっていうことになると僕は思うわけ。
なので、いろんな宗教を読む。でもいろんな宗教を読む人って宗教的信心薄いじゃないですか明らかに。いいところを取るとかっていいところ取れねえだろってよく思うんですよ。僕はいいとこ取りって簡単に言うんだけど、仏典と聖書を両方読んでいいところ取ってみろよって言いたくなるわけですよ。つまりそういうことじゃないよね宗教ってのは。
よくうつと人間の内面
同じようにいいところは取れないんですよ。そう簡単には。だから私はお勧めできないんですよ。お勧めすると対象関係論者の話ばっかりお勧めしたくなる。だって私が信じてるのはそれだから。でもそれは偏ってるわけですよ。間違いなくね。
でもどう偏ってるのかを了解していくのは容易なことではないので。だからこういう僕の仕事に多少はもう今価値を見出すとするとそこかなと。僕の能力の限界は当然あるにせよ。
20何年もやってきましたからね。その20何年もやってきたという背景がある関係で、これを読むならこういうバイアスを意識せねばならないみたいなのが、こういうことを臨床家の人はもっと確実にやれるはずだという僕は思い込みがあるわけです。強くあるわけです。
ただし弱くなってきた。昔はもっともっと強かったです。その思い込み。もうほとんど彼らは宗教学者ぐらいに思ってたんで、そういう意味では。でもそんなに話は簡単ではないんだなっていうのをだんだんだんだん思い知るようになってきて、実はこの世界は難しいっていうふうに思うんですよね。
だから高い本に手を出すのは極力控えた方がいいです。僕も結構、これはただし、よく昔私の指導教科の先生が言ってたんですよね。そういうミスを犯せって言うんですよね。それは学生向けの言葉だよなと思うんです。学生向け。学生もそういうミスを犯すべきなんでしょうね。やっぱりね。
つまり、これは絶対に役に立つよと思って2万円とかの本買ってしまって、2ページぐらいで、どこがどう役に立つのかさっぱりわかんねえみたいなふうになる。で、私の指導教科はそういう失敗をしろって言うんだけど、そういう失敗したくないですよね。でもそういう失敗をする経験っていうのは大事だよっていうのは、その後30年ぐらい経ち、この先生が亡くなった後ぐらいにはわかるようになりました。ギャグみたいな話ですけどね。
いや、まあまあ、つまり長生きをしてしまったなっていう話でもありますが、全然本題に入ってないんで本題に入りますね。
このナンシー・マックイエムさんのこの本に登場するエピソードで、非常にやっぱりこう、なんていうんだろうな、まあ6000円で失敗したかな、ギリギリだなって思ったんだけど失敗してなかった気がするんで話してるわけですね。
よくうつパーソナリティのところがやっぱり僕は非常にいい感じなんですよ。これやっぱり時点のようでいてエッセイなんですよね。ここってすごい無茶苦茶じゃないですか。時点のようなエッセイってなんだよって感じですが。
だからよくうつのところがやっぱり僕なんかにはこの人にとってはすごい読ませる部分なんじゃないかなと思うと同時に、やっぱり私はよくうつっていうのをまず一番3ヶ月チャレンジの参加者さんに見るわけですね。
僕はアセスメントしませんし、そこううつ病なのか、よくうつ性パーソナリティなのかとかも必ずしも追わないんですね。ただよくうつ的だなと、人間みんなよくうつ的になるんで、健常だろうと何だろうと、だから職場うつとか経営うつとかいろんな言葉が出てくるんですけど、経商うつとか季節性うつとかね、今季節性気分障害っていうんですかね。
でもよくうつにはなるんですよ。心の内と外を分けられる人にしてみると、心の外で起きていることはマトリックスですよ。近くできないんですよ直接的に。
こういうの話は何度も何度も何度もしておりますが、この番組ではもうスーパーおなじみですが、言うならカントなんですよ。デカルト・カントのカントですね。あるいは現象学なんですよ。フッサールとかメルロポンティとかあの辺の世界の人たちがすげー頑張った頃の話ですよ。
独画論に陥りかねないわけ。世界は私が見ているもので全てだよね。つまり俺だけが生きてるのかもしれないじゃんみたいな、そういうやつですよ。なんでこれが大事かというと、カントはすごい大事なことを指摘したんですね。だけどお前見てるものに時空間ない?って言ったわけですよ。
例えば目の前にこうなんです。よくこういう時にリンゴ出てくるんですよ。聖書のせいなんですかね。リンゴがないから。なんかあるものがいいと思う。目の前に、僕の目の前に黄色いコップがあるんですけどね。その黄色いコップは本当にあるのかないのかやってるわけですよ。夢見てるのかもしれないじゃんとか。VRかもしれないじゃないですか。最近で言えばね。
偏見とバイアス
なんでもいいんですけれども。だけどそのコップお前が心の中で作り出した言うけど、そのコップって空間持ってないって言うんですよ。そこには空間があるでしょうと。で、そのコップっていついつに登場したっていうのをあなた知ってますよね。つまり時間がありますよね。永遠にそこにあるわけじゃないし、60億年前からあったわけじゃないよねっていう。そういうこと知ってるよね君はっていう話を。
すごい僕はカントなんてほぼ読んだこともないので、超ざっくり言ってますけど、でも僕はこのソフィーの世界とかで読んだのかもしれませんが、ざっくり言ってこういうことはすごい確かに大事だと。つまりすべて知ってるものに関しては時空間っていうものがあって、時空間というものが無縁で眼前に現れてるものはないはずだっていう。だから我々はそういうバイアスを持ってるんだぞっていうことですよね。
あのトカゲさんとかから見た世界みたいなのを見ると、あれ空間とはもはや言い難いよなって感じがするんですよね。それに時間の観念は多分ないなって感じなんですよ。
で、彼らは注意が動いてるものにしか向かないから、だから動いてるハエとかをキャッチするのは天才的に上手いんだけど、基本的に止まってる空間はほぼ無視してる感じなんですよね。ああいう映像を見ると。そんな感じが。脳がちっちゃいし、処理できるものが限られてる上にどう処理するかっていうのも決まりきってるんで、こういうことになるわけですよね。
つまりバイアスじゃないですか。トカゲはバイアスかかってるけど人間様はバイアスかかってませんとかいうのは、それは無理があるじゃないですか。どう考えたって。我々は本当にそっくりさんなものですらも、それは食べられるかどうかでめちゃくちゃ分けてますからね。
食べられるものだとしてもめちゃくちゃ分けてますからね。もうチキンとカエルだったら、チキンは絶対食べ物だがカエルはそうではないって、我々は簡単に思うじゃないですか。で、これでバイアスかかってないつもりでいるじゃないですか。いや、我々人間はものを客観的に見ているんだみたいに思ってるじゃないですか。
そんなこう、チキンはね、もうほとんどケンタッキーと結びつけて考えてるくせに。で、カエルは食用になると鶏肉とよく似た味がするっていうのを読んだことがあるんで今この話したんだけど。めちゃくちゃバイアスじゃないですか、これって。こんなに偏りをかけているくせに、ものをニュートラルに見ているつもりでどっかでいますよね。
いろんなものはすべてバイアスをかけているということは、どうしてもこれは練り込みって言っちゃうんですよね。なんならこう、スパイスみたいな感じもするんですよ。見ているものに対してもう容赦なく投影をかけるっていうことなんですよ。容赦なくかける。
だから私はやっぱり人のお話を伺うときも、率直に言ってる通りに聞くべきだっていう、だから耳へんのじゃなくてただの聞く、門構えの聞く技術って、戸畑カエルさんが書いたやつですね。聞く技術、ただ聞けと。裏読みすんなと。他読みもやめろと。そういうことですよね、あれはね。
それはそうだと思うんです。だから私の上司が私をこういうふうにやるべきでないことをやってきますっていうのは、そのまんま聞かなきゃいけないんだけど、でも僕らは投影を容赦なくかけるんですよ。もう一度でもそう思った相手は極悪人の投影をバンバン振りかけるわけです。だってそうしないと鳥なんか食べられないじゃないですか。やっぱり。
コオロギの話が何かというとコオロギを推奨している政治家を落とせみたいなキャンペーンが起きちゃうぐらい、我々はこういうバイアスにうるさいんですよ。非常にね。これは人間の食べるものではないとか食べるものだとか、宗派によっても違うし、無駄なんか人間の食べるものじゃないっていう宗教の人は世の中にいっぱいいるわけですよね。
もしかすると日本人より多かったりするわけですよね。それでも僕らはみんな、そしてあのあれですよね。徳川時代には豚食ってはいけなかったわけですよね。あれはいけなくはないですよね。徳川義務で十五大将軍ですよね。あの人は豚食って頭から角入るわけねえだろうと言って豚料理を作ろうとしたら、家来はみんな、家来というか女中さんがみんなそれを拒否したんで、結局自分で料理をしてくって豚将軍とか言われてすごい罵られたという。
こういうもんですからね。あんなに偉くなってもバイアスから逃れられないし、あっさり差別されてしまうわけですよね。
心の内と外
で、僕らはそういうバイアスいっぱいな世界に生きておりますんで、特にこの抑鬱的になるっていうことからは多分絶対逃れようがないと思うんですよ。
心の内と外を作ってしまって、基本的に心の内で起きていることが我々の人生の全部で、ほぼ全部と言ってしまっていいと思うんですよ。
見えるものってすでに脳の中に入ったものなんて、だから見えてるって。だから視界の行き届かないところは見えないじゃないですか。
それらの世界もあるだろうと思ってるけど、ないことにして生きてても何ら差し支えはないですよね。
ということをする以上、外はどうなってるんだろうっていう話になってきますよね。
そして我々は生きていく上で自分に有利に生きていこうとしますから、まして仕事なんかをしておりますとですね、
心の外で起きていることが心配で心配で仕方がなくなるっていう事態を招くわけじゃないですか。
本を出したら出したでめでたいことでもありますけれども、私の目の行き届かないところで、この本を書いた著者に対して嫌がらせをしてやろうと腰担々と狙っている人がいるかもしれないとかって思い始めるわけですよ。
生存上不利なことが起きることを懸念するもんだから、これは心の内と外を作った瞬間にもう原理的に発生する事態だと思うんですね。
特に仕事をするっていう人はもうここから完全に逃れることはできないと思うんですよ。
ナンシー・マック・ユディアムズさんは、だから抑鬱性のパーソナリティーの人っていうのは、つまり面白いエピソード、だから面白いエピソードね。
さすが物書きは面白いことで、ミザリーとかを書いた人が言ったのかな。
僕は自分がやってもいないことで人に責められても、なんで自分はそれを忘れていたんだろうと言って自分を責めちゃうんだって、これは本当に上手いなって思ったんですよね。
抑鬱神聖をきったりと言い表している。
まあジョークなんですけど、完全にこれはジョークとして言ってるんだけれども、そうだよなと。
だから私がやってないことなんでもいいんですけど、車でちょっと自転車擦っちゃいましたみたいな、お前自転車擦っただろうって言われても、言いがかりじゃないですかそれは、単なる。
だけれども抑鬱神聖が酷くなってくると、そうは思わない。
私は自転車をぶつけてしまったのに、それを今の今まで忘れていた、なんて自分は悪いやつなんだろうって考えるってわけじゃないですか。
何を言われたとしても自分の責任にしてしまうわけですよね。
これが心の内と外を作った我々の一つのちょっと悲惨な宿命ですよね。
抑鬱ポジションというものにはこれがついて回りがちだと。
絶対じゃないけれども、一歩間違うとこうなるっていうことですよ。
心の内と外があります?
私は心の中のことしか知りません。
しかし現実というものは心の外にあるはずなんです。
そして一番問題にするべきはその心の外で起こっている私に責任があり、私の未来を左右しかねない出来事を私は感知しておりません。
申し訳ないです。これですよね。
こういうことが私たちが恐れることなんですよ。
一番神経症水準から健常者の人たちが正常で誠実でちゃんとしている。
抑鬱性の理解
少なくともちゃんとしようと思っていると、どうしてもこの問題に囚われやすい。
この種の人に対する自我心理学だと思うんですけど、アプローチとして精神分析、カウンセリング一般ですよね。
まず誰でも考えつくことをやるわけですよ。
ここからでいいんですよ、やっぱりね。
いやいや、あなた責任ないから、もっと自信持っていいよっていう。
全然効果ないですよね。全然効果ないですよ、そんなこと言ったって。
もっと安心していいよ、世の中はもっといいところだから。
もう全然効果ないですよね。
でもここから始めますよね、カウンセリングというものは。
フットファイブスでクラザノケドさんもよくおっしゃるじゃないですか。
現実なら何とかなるよと。世界は愛に満ちている。
でも欲打つポジション、つまり極めて正常な人の極めて正常な神経ですでにこれを跳ねつけてしまうわけです。
まして精神病水準とかボーダー水準の人はこれを言われてこのまま受け止めるっていう人はそうはいらっしゃらないでしょう。
とにかく欲打つポジションでさえもこれを事実であろうと何であろうと平然とねじ曲げてしまうわけですよ。
しかもそれは極めて善意というか、真っ当な気持ちから。
だって心の中と心の外があります。心の中のことしか基本関与できていませんってなったら、
真っ当な人ほどでも心の外で起きたこうこうこういうこと、つまり2つありますよね。
自分の生存に不利なこと、結局両方同じなんだけど。
そして他人にしてしまった悪さのことを私は忘れてしまったり、気づいてないんじゃないだろうかという不安に苛まれるわけですよ。
で、これも言ってみればなんだ。
作手ってのはこういうところに出てくるんですよね。
こういう心に助いるということを知らす人も、世の中はいろんな人がいるからね、あんまりないんだけれども、
思われていることはないんだけど、当然あり得ることではありますよね。
いや、なんか、だからさっき言ったようなやつですよね。お前はそれを忘れていたけど、実はこれを言ったのはお前だし、
これもお前忘れてたようだけど、これを言ったのもお前だし、
お前が言った昨日おはようって言ったので、私は心がものすごく傷ついたから、
賄賞金として1億円払いみたいな人が出てくるかもしれないじゃないですか。
で、抑鬱心声があまりにも強烈だと、つまり精神病性の鬱って言われるレベルまで行ってしまうと、
ですけども、あ、じゃあ1億円払わなきゃみたいになるわけですよ。
現実見当がもはやつ、混乱するレベルまで行けばですね、
おはようって昨日言っちゃった、確かに言った。
でもこの人はおはようって言われると、なんかこう、昔の出来事を思い出して、
父親に殴られたことを思い出して、トラウマになるっていう風に、そういえば聞いた気がするみたいなことになるわけですよ。
これは僕が作っている話ですけどね。
何でも自分のせいなんだから、ていうか、何でも自分のせいであり得るわけですよ。
分からないことだから、心の内と外で起きていること。
これはですね、私たちはニコロからずっとやっているにも関わらず、
こういう話しか出来ていないからね、私がですね。
これも私の抑鬱心声なんだけど、こういうことしか言えていないので、
まだまだですね、通りが悪いなとは思っているんですよ。
いろんな病理の名称が出てきます。
本当に季節性とか、軽症とか、職場とか、それこそ潜在であるとか、
発達の問題であるとか、記憶の問題であるとか、注意の問題であるとか、
全て一面から見ればですけれども、一面から見れば心の内と外の話をしています。
外で起きていることが感知できていないっていう恐れなんですよ。
一番単純なところで脅迫症として現れるわけですよ。
あらゆる情報をチェックする。
少なくとも私に関する悪口は全部チェックする。
これは非常に脅迫的じゃないですか。
脅迫症と抑鬱の原因
心の外で起きていることは感知できないから、
何とかして感知するために情報というものを使うわけじゃないですか。
でもこれは、要するに脅迫症というのは無限の病なので、
そうですよね。出かけました、あ、鍵。戻る。
1回ならいいんだけど、離れる。また鍵って言って戻る。
永遠に終わりませんよね、これがね、基本的には。
だって心の外に出ちゃったものは感知できないんだから、
その間に誰かが開けたかもしれない。ピッキングの人が出たかもしれない。
そもそもさっき私が閉めたと思ったのは自分の夢かもしれない。
疑おうと思えば永久に疑い続けられるので、
したがって、心の外にあることは感知できないから、
不安は永遠に消え去ることがないわけです。
で、これの、すぐ横にも抑鬱ってあるじゃないですか。
だから脅迫性は廃止しようと松木カニロさんが書いてたりするんだと思うんですけど、
あらゆる病気と脅迫性はある意味関わってきやすいですよね。
さっき私が閉めたんだけど、私は不注意な人間だから閉め忘れたかもしれない。
閉めたという記憶を改ざんしたのかもしれない。
全部自分のせいにできるんですよ。
脅迫という偶然はすごく近いところに私はあるんだなということを、
自分のこの仕事を通じてすごく学んだんですね。
これはサンチャレって意味ではないです。
タスク管理術とか仕事術って言ってるところに、脅迫という偶然は本当に近い関係があるんだと。
やっぱり落ち込みますよね。
全部何かミスる。
そのうちのいくつかは。
で、詰めように言ったら全て。
なぜなら心の外は感知できないから。
失敗は全て心の内で起きたことにされてしまうんですよ。
だって失敗を認識したときはもう心の中に入ってきてるから。
つまり世界というものを弁別しないのであればですね。
弁別してるんですけどよく申請の人は。
よくポジションの人は。
弁別はしてるんですけれども。
結局のところ外のことが究極的には分かり得ないということ。
そしてそのことで未来というものが悪くなっていくっていう不安に
苛まれるだけの理由が大抵の人はその理由ありますが。
持っている人にしてみればですね。
何が起きても悪いことが起き得る。
悪い結末になり得るわけだから。
例えばよく言うじゃないですか。
調子に乗ってると痛い目にある。
つまり良いことが起きてすらその結末は悪いことが待っているっていうことを
言い出すんであれば何でもできるわけですよ。
心の中のことだから。
何が起きてもおかしくはない。
心の中の未来のできることですからね。
心の中にだけ時空が走って。
まあそうではないんだな。
とにかく時空というものがそこにあり。
それかもその外に感知できない世界。
そしてその私の結末というものが最終的なコントロール外にあるならば
だって心の中だけで世界はできてないから。
というか世界というものは心とは別個に動いてますからね。
ここが怖いところなんですよね。
いいまあいいことが起きていると。
本も飛ぶように売れていると。
でもそうやって足元を救われるんだよと。
これはその人の心の中の不安が作り出している映像であって
現実と関係がある必要はないんですよ。
だからこの問題に対してカウンセラーが精神分析がごく普通に慰めても
何の効果も上がらなかったり
一方が違うとそれによってカウンセリングは終了してしまうわけですよ。
つまり欲打つの人にしてみるとですね
自分のことを受け入れてくれるとか褒めてくれるというのは
非常に信用のならない事態というものを引き起こしてしまうわけですね。
心の中の出来事ですね。
大概の場合自分のせいだと思っていらっしゃるわけだから
カウンセラーとか精神分析家はリスペクトされているんですよ。
これ理想化なんだけど
いわゆるボーダーの話に出てきがちな理想化とか
送局の話に出てきがちな理想化とは違うんですよね。
単純にいいおっぱいだと思っているだけではないんですよ。
やっぱりこうなんて言えばいいんですかね。
外のことは本当はわからないわけだから
自分がそして自分の未来とか自分の心性とか自分の不安とかが
全部全責任は自分から来ている。
極論すればそうなんですよね。
なぜならば捨てげるっていう風に考えてしまうからなんですね。
養育歴も絶対あって
親が必要以上に罵るとか必要以上にバッシングする
つまりそれは長時間が悪いっていう面が非常に強いと思うんだけれども
でもとにかく一度欲打つポジションを設立させてしまうと
悪いおっぱいをかじったから
このお母さんはもうやってきてくれないじゃないですか。
これは見捨てられ不安が入ってきている。
つまり愛着障害的な部分が
だからそういう説明が入ってくるわけですよね。
愛着障害じゃないと僕は思うんですよ。
あくまでもそれは見捨てられ不安ではなくて欲打つ不安。
見捨てられるのは未来じゃないですか。
心の外の不安
でもその人にしてみると
本当の私、本当の私ってつまり原初の私
良いおっぱいと悪いおっぱいが同じだということすら分からずに
それにかじってしまったような私
あれが出てくると私はひどい目に遭う。
お母さんに見捨てられてひどい目に遭うっていう
こういう説明なんですよね。
クラインがやった説明っていうのは。
私たちはこういうことを
だから調子に乗るとひどい目に遭うって話になってしまうんですよ。
一時ナルシシズムに対する恐れなんだと思うんですね。
あれはね。
もうちょっと単純に言うと原始的な自分への恐れなんですよ。
要するに自分が欲求というものを自然に出すと
何を言われるか分かったもんじゃないというか
嫌われてしまうに違いないという
そういう割と子供心に持ってしまった
だからやっぱり欲打つポジション成立時における恐れなんだと思うんですよ。
身を抜いてこれは虚勢不安という言い方もできると思う。
だからこの辺のことやっぱり言ってるんだと思うんですよね。
2歳3歳4歳の頃にちょうど大人になる言葉を覚える
第三者というものの存在を意識するよう
意識することができるようになってきたときに
お母さんにちんちんおったててんじゃねーよということで
ちょんぎられる恐れってのは
やっぱり調子に乗ってるとひどい目に遭うって感じがするじゃないですか。
いろんな意味でこの頃に他者の目が気になるとか
自己存在というものの危険性を知るみたいな
そういう真理、発達ですよねこれはね。成長でもあります。
お母さんと私は一体みたいに思っていた
幸せな時代からやっぱり切り離されるんですよ。
失楽園ですよね。つまりリンゴ食ってんじゃねーということで
神様に追放される。急にそういうことになるわけですよ。
何かに気づかされるわけですね。
私が知っていない世界から私は迫害されてしまうんだ
でもそれは私のせいなんだってわけですよ。
そこにカウンセラーとかセラピストとか
フロイトとか分析家とかやってくるわけだから
それはもうね、精神分析受けに行くような人は
もうほとんど最初から過剰なリスペクトがありますから
神様の再降臨だから
お前は昔リンゴ食って罪で追放されたようだけど
俺のところに来てくれれば面倒見てやるからって
あーはーみたいになっちゃうんじゃないですか
ついに神様がまた私を許してくれたみたいな
今度こそ絶対嫌われないようにしようみたいになるじゃないですか
これが抑鬱神聖の人に起こる転移と逆転移の話だと思うんですよね
だからやっぱりエディプスで説明しても
女性不安で説明してもいいのだろうと思いますし
何不安で説明してもいいんですよね
悪いおっぱい噛んじゃった不安
お母さんを破壊しちゃった不安
これはウィニコットのいう不安ですよね
自己肯定感とその影響
やあ大将僕は君を破壊したよって
わけわかんない役になってるやつですね
ああいう風にして
だけど本当のお母さんは外にいましたみたいな
そういう話
どういう話でもこの話は出てくるなって感じがするんですよ
やっぱりすっごい多くのカウンセラーがここ経験してきているだろうと
それはよくわかります
私も仕事実やってて
ここはもう滅多やたらに経験するんですよね
多分だから投影が起こるので
やっぱり見捨てられ不安
愛着障害
虚勢不安
エチジナルシズムとか
自己自身への不安とか
原始的な自分への不安
もっと単純に言いますと
あるがままのあなたでいいですよって言葉
信用できないってことですよ
あるがままの私だったら
あるがままの私なんかを出したら
みんなに嫌われるじゃないかっての
これが失落園の恐怖なんですよ
最初にそれをやられたのは
多分やっぱりお父さんかお母さんだと思うっていう
この仮説はおかしくはないと思うんですよね
今まであるがままでよかったわけじゃないですか
垂れ流しでおしっこしてうんこしても
いいんだよって言って取り替えてくれたのに
急にトイレ行けみたいなことを言い出すと
失落園ですよこれは
子供にとってはこれは極めてでかい出来事ですからね
トイレ行けって言われるのが
真夜中で薄暗い廊下だったら
どうすんだよって話ですよね
あの先にお化けがいるとか言っても
お母さんも起きてくんないわけですよね
見捨てられるという恐怖があるわけです
こういう恐怖にどこかで
すっごい余り込んでしまうケースも
あるわけですよね
何か起こるんじゃないですかね
幼稚園の時になんとかちゃんの
おもちゃを取ったとか言われて
先生に怒られて
なんか廊下に立たされて
なんかお弁当も食べられなかった
みたいなことが起きるわけじゃないですか
これも失落園ですよね
いっぱいそういうことがある可能性はあるわけです
その時に最後にこう
そういう経験をいっぱいしてくると
16、7、8
20とかになってきた時
どういう言葉になってそれが登場するかというと
自己肯定感とかいう言葉になる
その前に自信って言葉になると
思うんですけどね
だから私は自己肯定感が低いみたいな
ちなみにこれには遺伝的要素すら
あるので
確かに高い低いみたいな
話が最初からつきまといやすいんだ
と思うんですけど
でも私はこの言い方をしてみたとしても
カウンセラーには打つ手がないので
この言葉を
この誤字熟語も私は苦手なんですよ
心理的安全性とか
そんなこと一回言ったって
この話の
大元にあるのは
自己肯定感の難しさ
心の原理にまつわる話だと
思うんで
心の外は見えない
そこが怖いって言ってるのに
だけど心はあるんだから
そして私たちは外があることを
知っちゃったから
怖いっていう話に対して安全ですとか
心理的に大丈夫なんですとか
誰も
ドリームキラーな話はしませんとか
言ったってある意味無駄だろうと
思うんですよね
だってドリームキラーな話はしないかもしれないけど
あいつあんなんで夢叶えられると思ってるぜって
っていう恐怖って抜けないじゃないですか
外のことは見えないから
心理的安全性であろうと
肯定感が高い
いくら肯定感が
レベリストのように高くしてみたって
やっぱり足元救われる
懸念ってものがゼロになるはずない
わけですよね
カウンセリングのアプローチ
何かをやらかしてしまって
誰かが失笑したり
お母さんを見捨ててしまうという恐怖は
結局は残ってる
しながって
精神分析とかフロイトの人たちは
自我指示的で
あればいいっていうのを
諦めたんですよね
この人に頑張れ頑張れ大丈夫大丈夫って
いくら言っても無駄だなと
多分治療中断するよねってことですよね
このカウンセラーは
素晴らしい人だと
神様みたいだと
こんなダメな私を助けてくれるって
言ってくれている
だから優しいからこういうことを言うんだってことで
結局のところ否定されるわけじゃないですか
3歩間違うと
よくある話なんですけど
こんなに優しいから私に騙されちゃったんだ
ってことになっちゃうわけですよ
本当の私はダメ人間だから
本当の私をこの人に見せれば
きっとこの人も
もう来ないでくださいって言うに違いないと
そんなこと言われると
心が傷ついてどうしようもなくなるから
その前に治療やめますと
先生の話は素晴らしくて
もうあまりにも素晴らしすぎて
このお値段ではとても
これをやっていくのが申し訳なさすぎるので
今日でやめさせてくださいと
そうしてフロイターは貧乏になって
欲打つが置いていかれるわけですよ
これがとえどいつかですね
ついでにそういう話をするなら
だからどうやってもダメなんですよ
この方法ではね
いくら自我指示的に
いやあなた大丈夫ですよ
それだけの能力があれば
容姿もいいしみたいなことを言って
感じもいいしもっと自信持ってくださいとか言う
要するに極めて自我指示的で
これをラフォールっていうのは
僕は誤解だと思うんですけどね
自我指示的で優しいカウンセラー
悪い方法じゃないと思うんですよ
別に悪い方法じゃないと思うんだけど
それはどういう風に解釈されるか
わかったもんではないという話が
出てくる
出てきている
しょっちゅう出てきている
ナンシー・マック・ウィリアン・マズさんは
このまんまのことをかなりのページを裂いて書いている
まあもうこういう話は
カウンセリングの本読めば
そこにでも多少は載ってますよね
だってこういう目にカウンセラー絶対会ってきた
常識的に考えて
そんなに
人の良さそうな人が来て
カウンセラーの話を
はいはいと聞いてくれる
絶対カウンセラーにとっては
いい患者さんなわけじゃないですか
中にはね
お前なんでこれやってんだとか言い出すやつも
いるわけですよ
そういう人もいっぱいいたに違いないんですよ
いきなり殴ってやるみたいなことを
言うとかいきなり恋愛して
俺と付き合いみたいなことを言うとか
そういう患者さんもいっぱいいる中で
いや先生のような
素晴らしいお話をって言ってくれる人は
嬉しいに決まってますよね
だからどうしても
いわゆるこう
転移的には好転ですよね
いい方向に
良性の転移が起きて
いやもう大丈夫だから心配いらないからみたいに
で懸命に善意で
カウンセリングをするじゃないですか
そうすると次に来なくなるってことが
起きるわけですよね
あるいはなんかこう丁寧に平常な言葉でやめてしまう
なんでこういうことが起きるんだろうって
思いますよね
絶対フロイトは思ったと思う
だからこういう
言説は結構積み上がっては
来たわけですよ
アプローチは簡単ではないというのも
ありますが
僕らが知っておくことは
僕らはだからカウンセリングをやるとは限らないし
僕も別にそれをやってるという
意味ではないつもりでいるんで
僕らが知っておくべきことは
この人生はなぜ自分に生まれるんだろう
ってことですね
なぜこのようなある意味では
理不尽な出来事が発生してしまうんだろう
ということを我々はやっぱり
意識するといいと思うんですよ
結局
繊細だとかいう話もそうですけど
仕事してればこの問題が
ネックになってくるとは確実ですよね
だって自分が
やってもいないことで責められても
自分がそれを忘れていたんだろうと
自分を責めてしまうというような
心理状態が
仕事をする上で
有利に働くとはとても思われない
当然これは
仕事をする上では不利に働く
タスクシュート使っててさえそうなんですよね
タスクシュートが自分に合いませんって
人はいっぱいいらっしゃいますけれども
あんなに記録をたくさん取るのは
これを抑鬱人生の人の手にかかると
私はまた
タスクシュートに記録をつけるのを
やめさせていただきました
これを使うには私のような人間では
とてもじゃないけどね
開発者の人に申し訳なさすぎるので
お金は1年分払いますけど
もう二度と使うのをやめさせていただきます
申し訳ないです
これは懺悔の気持ちですみたいなことが起こるわけです
全然不思議なようで
そんなに不思議じゃないですよ
こういうことってあり得ることなんです
こういう風に物を解釈するってのは
だってあれですよね
これ先日論文で読んだんですけれども
ガザ地区でまだ爆撃が続いている
それは私のせいだ
っていう患者さんがいらっしゃるわけ
だからそういう話を
私が直接見聞きしたわけじゃないですけど
心の中で起きていることの
全責任は私にあるの
っていうのはですね
心の内と外を分けたら
やっぱあり得る
解釈の仕様によっては
出てくるわけですよ
出てこないんだったら100回も200回も
閉じまりを確認しには来ないじゃないですか
その人は
記憶の上では
絶対閉じまりした
覚えてるんだけど
内面的な葛藤とその影響
どうしても不安に抗うことが
できないわけですよ
それこそさっきのタスクシュートで言うと
タスクシュートのことを悪く言ってるやつは
いないだろうかと
全世界でポリスをかけても
不思議はないわけですよ
それは
ある日いるに決まってるじゃないですか
そんなことを言い出したらですね
例えば
AIに検索をかけさせるとか
やれることはいくらでも出てくるわけですよ
外のことはわからないわけですから
究極的に
外は無限に広いし
外には無限に近い人がいるし
無限に近い言葉が取り交わされているし
だからこそ僕らは
心の中での
2つに分けた
瞬間に現れる
抑鬱的な可能性
これをグッドバイブスでは
罪悪感と言うんですけど
必ず喧嘩両成敗
じゃないですけど
自罰と他罰は両方同時に多少はあるんです
抑鬱不安の人はみんな
自罰だけやってるつもりでいるんだけど
だってフロイトさんは
私に騙された
これは私が悪いんだけれども
フロイトを罰するじゃない
必ずこの抑鬱不安からは
自他両罰が
両方同時に多少はある
本当に微妙な場合は
気づきませんけれども相手は
多少は必ず相手も罰すると
いう風になるはずなんです
ここに僕は
そういう理論が
まんまあるよっていうことよりも
経験的に繰り返し
これを感じるんですよね
立地だ両罰されるということは
罰してるのは何者かと
罰してるのは超自我だろうって思うわけですよ
こっちが
アプローチするポイントだろうなって思うんですよね
自我支持的とか
法定感を高めるっていうのは
誰がどんな手を尽くしても
かなり難しい
よっぽど上手い言い方を
よっぽどいいタイミングで
ある種の人にのみできる可能性があるけれども
このアプローチには
私だったら
あんまり期待しないですね
心理的安全性
自我支持的
自己心理学的な
僕の知ってるコフートの考え方
あるんですよ
自分の知ってる言葉もそうだ
あるんだけど
僕はこれがやっぱり
どうしてもそれを
解釈上歪曲されてしまうんで
あなたの悪口言ってる人なんていないから
いるじゃないですか
はっきり言ってそれって
ことはそういうことじゃないと思うんですよ
自分の外にある
出来事が私の未来を脅かす
それは自己愛とも
また違いますし
自己愛的なところも当然あるんですけど
多分
自己愛とも違いますし
未来は
未来がこのままでは
良くないものになっていくっていう
心の中というものを
作り出したことによる
結末というのかな
これを壊してしまうわけにいかないので
これを壊してしまえば
一時過程つまり現実と
心の区別がつかない世界に
行ってしまうので
そこは全然ユートピアではないので
ユートピアではないわけですよ
良いオッパイと悪いオッパイの世界ってのは
絶対欲打つポジションの世界に
僕ら踏みとどまるしか
特に仕事する人は
ここに踏みとどまる力を
貯めていくよりもかなると思うんですけど
それを非常に苦しいものにする
この欲打つ不安というもの
そしておそらくは
脅迫症的なものを
生み出してしまうということ
この両方が
セットになるのを
警戒して
この二つがセットで
登場したら
それに沿って自分を
借り立てて動かしていくのをやめる
というすぐやってしまうんで
脅迫的になって
自己肯定感の取り組み
私のやり方と
自分の真理を
一から叩き直すために
朝5時に起きて何々をして
何々をしてっていう
その間に全ての仕事が片付くように
これタスク集の敵とかでは
出せないですからね
これは何なんだろう
僕はただ脅迫的なだけだと思ってるんですけど
こういう風に自分を完全なものにして
完全な仕事をしていく人間に
作り変えなければいけないみたいな
そういう神聖に切り替わる
こういう風なものを生み出すんですよね
その欲打つと脅迫の掛け合わせみたいなものが
それが仕事術みたいなものと
結びついて
全てみたいなものですけれども
こういうのはただ
みんな一人一人
すごい笑われ方をして
なぜそうなっていて
どういう欲打つ的な不安があり
どんな万能空想で
それを賄おうとして
苦しんでいらっしゃるのかは
人それぞれで分かんないので
ここに個別セッションというものが
必要で
それが1回じゃ済まないから
1回5000円でかける4で2万円っていうのは
私はギリギリのラインだと思ってやってます