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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
相変わらず寒いというか、実はこれ寒くないんですけど、
外では見ぞれが降ってたんですけど、見ぞれが降るってことは、
つまりあんまり寒くないってことかなと思うんですね。
寒けりゃ雪が降ってるんで。
それはともかくとしまして、先日ですね、
グッドバイブス勉強会シリーズ3の第2回を開催させていただいて、
それが先週の土曜だったんですけど、
これが入るとまた少しネタが蓄積される感が、
多分でもこの感は勘なんで、勘について説明しませんが、
要するにネタが蓄積されたと思っているということは、
多分前に喋ったことをもう一回喋る気になっているというだけの話なんですよね。
同じことを同じようには喋れないから少し変化はつくんですけど、
要するに少し変化がつくことをもう一回喋る気になったという。
多分一人で同じテーマでずっと喋っていると、
完全に同じ感じがしてきて、そこで枯渇していく感じがするんだと。
すべて漢字なんですよね。
最初からすでに枯渇はしているはずだから。
そういうことがあってでも、
グラゾンさんとセミナーをすると、
少なくともここで何かが充填される感じがするわけですね。
今日思ったことというのは、全然全く違うんですが、
教養という言葉が不意に上がりまして、
教養というやつってすごく今時の世の中では、
僕の漢字ですよこれは。
坂口安吾みたいなこと言っているなと思われるかもしれませんが、
坂口安吾だって今時は読まれませんよね。
マウント取っている感って出ちゃうんですよ。
つまり物を知っている方が偉いという。
これはもう完全に時代遅れになりつつあるんだけれども、
まだ残っているんですよね。
私、教養って今時の大学生というか、
私が今時の大学生だったのは25万円くらい前か、
全然今時でも何でもないんですけどね。
四半世紀過ぎちゃったんだけど、
あの頃の大学生というのは、
モラトリアムの後で、つまりポストモダンであって、
完全にポストモダンに入っていて、
うちの教授がよくプレイランド、つまり遊園地だって言っていたんだけれども、
そういうことなんですよね。
教養というものに興味を持っていない。
今の時代ってまたちょっと違うんですよね。
今の時代はもっとシビアなので、
つまり就職氷河期後のさらに後ですよね。
うちの時代は、私が大学に行っていた時代はまだですね、
03:00
私たちが就職氷河期第一世代なんですよ、多分。
直前までは低手余ったんですね。
何もしなくても就職ってできたんですよ。
僕の時代に入って、僕はハガキ出さなかったんだけど、
ハガキ100枚出して、
一社からも返事が来ないとかいう話がですね、
初めて来たんですよ。
あれすごい当時の人がいろいろ言われてたり、
苦労してたりしているのを見て、
大変気の毒だと思ったんですよね。
あれは本人たちの責任は全くないと思うんだけど、
あんな風に時代が急に仕込めが変わるってやつですから、
分かんないですよね。
変わるなどと誰も言ってなかった。
いや、言ってた人はいたんですよ、もちろんね。
いろんなこと言う人っていますから。
でも信じていた人は誰もいなかったんですよ。
オストラガウスみたいなもので、
本当にそんな感じだったんですよ。
だって黙ってても100社ぐらいから通知が来ていたっていう
先輩の話を聞いてたのに、
こっちから100社にカマキ出しても一社も返事来ない。
その変化にいきなり1年目でぶち当たったら、
それはびっくりしますよね。
私はやらなかったけれども、びっくりしました。
今思うと一つだけ、
今喋ってて初めて思い出した程度の話ですが、
後悔があって、
同時代の話を書けばよかったなと思いました。
みんな気の毒だなと思ってただけなんで、
真面目に見てすらいなかったんですね。
ちゃんと見て、あれを書いていたら、
一つ面白い本は書けそうな気がしましたね。
それもいいんですが、
で、教養という話なんですよ。
あの時、教養というものが
非常に虚しいものに見えていた時代だったと思うんです。
僕の目にはいまだに同じように見えるんだけれども、
非常に恐縮な言い方ではあるんですが、
私はその指導の先生にフロイト全集をもらった口なんで、
もはや悪口は一切言えないような立場でもあるんですが、
あの先生のお話を伺っていて、
いつも思っていたことは、
この人の友達になりたくないっていうのが
今の大学生の本音なんじゃないだろうかって
ずっと思ってたんですよ。
私はその教授の部屋にほぼ入り浸りだった人間なんですが、
そういう人間になりたくないっていうのが
今の人たちの本音なんじゃないのかなと。
そんなことは先方も逆も承知だとは思うんだけれども、
どうしてもやっぱり話が合わないっていうところが
最終的なところに来ちゃうと思ってたんですね。
話が合うわけないじゃんっていう、
もちろんそんなことはそれこそ教授も逆も承知なんだけど、
でも結局話が合わないって話に最後は行き着いてるような気がしたんです。
話の合う学生が、
例えば自分のところのゼミに来るっていうだけでも、
4学年合わせて、4学年合わせられないね。
2年、2学年プラス1合わせて十数年、
06:01
その十数年の誰とも話が合わないというこの状態が、
やっぱりなんだかんだ言って教えてる側ですから、
面白くないわけですよ。
なんだかんだ言えばですよ。
表面的には完全にそんなものは突っ切ってる。
年齢が全然違いますからね。
おじいちゃんと孫か、もう一歩間違うと、
おじいちゃんと非孫かぐらいのノリの状態なのに、
話が合うわけないわけですよ。
子守りになっちゃうのは当たり前なんですよね。
ましてその先生は教養が異常なほどあったんで、
私から見れば。
別に専門家でもないのに、
フロイト全部読んでるわけですからね。
ただそういう人と話していて、
私は要するに、
私の中では話が合ってたんだけど、
そういう人は1年に1人もいないわけですよ。
3年に1人いるかいないかみたいになってしまってても、
そんなのは当たり前だよなと思ってたんですね。
一つ何が嫌かと。
これも当たり前なんだけど、
土曜日にセミナーでお話し、
クラゾンさんから伺ってた時に、
人は結局上下関係ができるのが嫌なんだなって思ったんですね。
他人との関係の中で上下関係ができちゃう。
もっと深刻な問題も起こり得るんだけれども、
よく考えてみるとですね、
人との関係の中で結局、
何を失うとか奪われるとか、
いう話してますよね。
恐れや不安って話をした時も、
恐れや不安ということはつまり、
何かを傷つけられるから、
それに対する守りに入らなきゃならないということなんだけど、
何を守ってるんだろうという問いがまず必要なんですよ。
この問いについて、
この問いそのものが人に苛立ちを与えるんですね。
何をあなたは守ってるんですかというのは、
それなりの関係にない問えない問いだと思うんですよ。
これを下手に問うと、
すでにそれは自明なのに、
それすらわかってもらえないのかという怒りを生むはずなんですね。
だけれども自明じゃないんですよね。
これは精神分析では、
さらに気をつけなければいけないケースが多く見られますが、
これを問うた瞬間に殺意を抱きかねない人が普通に来るんで、
だけれどもやっぱり同じなんですよね。
何もそれによって失われていない、あるんですよ。
お金とか時間とか、
自尊心とかですらないものを失われるんだけど、
失われるわけじゃないんですよね。
そういう極めて微妙なものは失われないという話を
グッドバイブスではするんですね。
だけれども私たちの日常生活はもう少しですね、
微妙で、
これが自明であるケースはほぼないと思うんですね。
これがお金ですとか、
あからさまに時間を奪われましたという場合は
多分欠陥になるんですよ。
よっぽどここを気をつけるつもりでいないと、
09:00
ここで簡単に喧嘩しちゃうんですね。
それによって失うもののほうが大きいんだけれども、
そうは人は考えないので、
ここで喧嘩するはずなんですよ。
しないけどもやもやするというのは、
もやもやするというのは、
もやもやしどうしですという人もいらっしゃいますが、
もやもやするというのは、
もっと失われているものは遥かに微妙なんですね。
そういうわけでマウントを取るという、
チンパンジー学者が使いそうな用語を使うしかなくなるんですよ。
つまりそれをはっきりしないということを
よくよく示しているんですね。
例えばさっきの教授と喋ったりしないのは、
教授にマウントを取られるのが嫌だからなんですよね、結局。
マウントを取るも取る取らないを話題にするには、
あまりにも知識がかけ離れているから、
そんなことは話題にもならないんだけど、
でもやっぱり嫌なわけですよ。
まず第一になぜ嫌かというと、
そうまでして仲良くするメリットは何もないと学生は思っているわけです。
だって知っていることが所詮フロイトのことじゃないですか。
フロイトのことなんかどうでもいいわけですから、学生にしてみれば。
その時に一番興味を引いていることと、
フロイトはほぼ何にも関係がないと考えられているのに、
相手が知っていることは知っているんでしょうけど、
膨大な知識があるんでしょうけど、
一般の学生から見れば、
くだらないことばっかり知っているわけですよ。
なのにマウントは取られると。
これが一番腹が立つってことは、
つまりやっぱり上下関係なんですよね、問題は。
で、つくづく思ったんですよね、私も。
妻との関係で、何が嫌と言ったって、
罪と罰と言ったって、
罰されると言ってもですね、
怒られるだけじゃないですか。
私の場合は幸い殴られすらしないんですね。
本当に怒られるだけなんですよ。
怒られるだけなのか、何で嫌なのか、
私実はこれ子供の時も考えたことがありました。
母に怒られるのがとても嫌だったんだけど、
考えてみると母に怒られるの、何が嫌なんだろうと。
母は幸いというか、母はですね、
祖父に当たりますね、私から。
DVに近い状態だったらしいので、
人に手を挙げるということを非常に嫌ってたんですね。
たぶん僕にはこれがインストールされちゃってるんだけど。
だから母は手を挙げないということに
徹してたんですよ。
徹してればできるというのは偉いもんなんですけどね。
でもその徹していた代わりにの副作用として、
殴りさえしなければ何を言ってもいいと母は思ってたんですね。
だからものすごいんですよ、その調子が。
だけれどもよく考えてみると、
特に19、18くらいかなあたりから、
なぜこの怒られるということを自分が怖がっているのかが不思議だというふうに
一面で見るようにはなったんですね。
怖がっているんだけど、怖がる理由がよくわからんと。
例えば昨日私、歯医者行きましたけど、
歯医者を怖がる理由はよくわかるわけですよ。
そこには実態があるから。
だけれども人に怒られるというのは、
12:01
すごい嫌な上司であろうと、
すごく怒りだすと厳しい仕事仲間であろうと、
嫌なはずはないと思うんですよね。
嫌だというのは、結局何かが作り出されている。
実際、雰囲気が変わるって言うじゃないですか。
でも雰囲気とは何なんだと。
空気っていう言い方をする人もいるけど、
じゃあ空気って何なんだと。
酸素濃度が下がるとかではないんですよ。
全て心理的なものであり、
結局その心理的なものというのは、
どれほどそれがリアルであるように思えても、
リアルではないはずなんですよね。
夢で同じ気持ちになる。
この話は僕よくしますが、
なんで夢で同じ気持ちになるってことを
繰り返し言いたくなるかというと、
夢はリアルではないはずだからです。
つまり夢で同じようにドヨーンとなるということは、
ドヨーンとなったということを
信じちゃいけないという話なんですよね。
まず一つ考えていいことは、
これは100%夢ではないという確信を持っていたとしても、
これは夢かもしれないと、
一度疑ってみるべきだと。
実際にそうであるならば、
怖がる理由は何にもないんですよ。
目を覚ませば一発。
これが本当に夢でなくてもできるはずだというのが、
たぶん私は一つのグッドバイオスで言っていること。
グッドバイオスだけがこれを言っているわけではないけど、
グッドバイオスで言われていることの
一つがこれだと思うんですね。
このマウントを取るという、
無理やり作り出したような表現で言われていることは、
要は上下関係に入ると。
上下関係がそこでできてしまうと、
上下関係がそこでできてしまうということなんです。
うちの奥さんにはないですけど、
例えば反省文とかを書かされたらさぞ嫌だろうと。
でもよく考えてみると、
この反省文書かされましたみたいな話って、
ツイッターでやったら、
夫が反省文書かせるんですみたいなのは、
うまくいくと非常に嫌なバズり方をすると思うんですが、
でもですね、反省文書かされても、
何か嫌なことがあるかといったら、
微妙にほとんどないと思うんですね。
400字ごとき、私だったら、
一息です正直、
数秒で書けるかもしれません。
そんなもん、別に何だってことはないんですよ。
ところがこれが、
物理的な負担に比べると、
心理的な負担は、
一歩間違えたら、
1億倍とか来てるはずなんですよね。
どうしてそんなことになっちゃうんだろう。
つまりその心理的なものなんだから、
自分でやってるんですよ。
心理は他人は直接は触れられないはずだから、
やっぱり自分で作るんですよね。
この1億倍のネガティブな感情を、
何のために作るのかというところなんですよね。
どうしてもこの話に追っていって追っていくと、
私の場合はなんですけど、
母親に行き着いちゃうんですよね。
母親に行き着くと、
それは母の育て方や、
心のDVをしていたからみたいな話になるんですが、
僕はそうではないと思うんですよ。
15:01
僕の感じではやっぱり、
私が母が大好きだったと言わざるを得ないんだろうなと、
これが自覚できないから、
この心のDVみたいな話で止まるんだけど、
もっと先へ行くべきなんじゃないかと。
そもそも母親に行き着いて、
下に見られるというのは、
子供だったんだから当然として、
下に見られるのが嫌なんだろうかと言うと、
そんなことはなかったんですよね。
下に見られてて嫌だと思ったのは、
やっぱり長寿からの話であって、
その前があったはずなんですよ。
だって誰にでも同じように、
傷つけられるわけじゃないんですよ。
これは倉殿さんがよく、
昔ブログで書かれていたことなんですが、
同じことを同じように言われても、
同じようには傷つかないわけじゃないですか。
私を最も強く影響を与えられるのは、
結局私の母だったんですね。
今は無理ですよ。
結局私の母だったということは、
結局私は母に嫌われたくなかったと、
そういうふうに考えていくしかない気がするんですね。
そういうふうに考えていくと、
ああ、好きだったってことになっちゃうよねと。
これぐらい自覚で言えないんですけどね。
そんなに好きかと言われると、
そんなに好きだった記憶が思い出せないんですよ。
でもそんなに好きだった時代があったんだろうと。
それはつまり、今や思い出せないんだろうと。
こうやって追っていくとですね、
つまり、
ここから変な話になるように聞こえると思うんですけど、
僕の中でこれに気になるのは、
ようやくこれに気がつけたのは、
ビデオだったんですよね。
アダルトの。
これがですね、
私、嫌な友達がいまして、
一緒に、
なぜ嫌な友達と一緒に見てたのかも分からないんだけど、
男同士で見ることってあるんですよね。
それで、
お前の趣味は全部お前の母親に向かってる。
これはですね、
今は思えばなんですけれども、
鋭かったのではなく、
当時は鋭かったと思っちゃったんですけど、
僕は鋭かったのではなくて、
嫌味を言いたかっただけなのかもしれないんですよね。
考えてみれば、彼は私の母親の顔を、
それは見たことあるんだけど、
そんなに頻繁に見たわけじゃないし、
上がらないんですよ。
でも、こう言われてみると、
私は全部が、
全部は当たってないんだけど、
全部が当たってない理由も今は分かるんですが、
数点極めて痛いところをつかれた感じがあったんですよ。
その時から、その時は、
もちろん、当然否定したのし、
意識の上でも無意識の中でも否定したんだけど、
十分否定できるだけの根拠はあったんだけど、
でも否定しきれないんだなと思ったんですね。
問題はここからなんですよ。
さっきのこっからというのは、
つまりですね、
教養というものは、
18:01
私の指導教授の先生の教養というものに対して、
教養というものに対して、うちの学生さんたちはもちろん何の興味も持っていませんでした。
私にそれを指摘した鋭かった友達も同じ大学で、もちろんその種のことには何の興味も持っていなかったんだけど、
言われていることはフロイトじゃないですか、そういうことなんですよね。
言われていることはマザーコンプレックスなんですよ、結局。
これがわかりにくいということが大事であって、
これがわかりやすかったら、話はすごい早いんですよ。
今思うと、うちの先生は噛んで含めるようにこの話をしてくれていたんだけど、
みんな誰も聞いていなくて、私は聞いていたけれども、くだらない話だと思っていたわけですね。
でも私は聞いていたんだけれども、なぜくだらないと思ったかというところがすごく大事だと思うんですね。
私のその先生がくだらないことを言うはずはないもんですよ。
将棋で言えば、彼は藤沢みたいなもんで、私はペーペーなわけですよ、完全に。
その先生が言うことがくだらないと思うということは、一つはもちろんマウント取られたくないって、
このマウント取られたくないこと自体が既に強要なんだけれども、
ものすごくこの話に私は同意できないところがあったわけですね。
つまり、お母さんが好きだってことなんですよ。
そしてこのお母さんが好きだというふうに思いたくなさの気持ちが、思いたくないというその欲求が全てなんです。
このお母さんが好きだったということを、たとえ一歳児のころにあったとしても認めたくないというこの気持ちが、
その先生が勘で含めるように説明してくれている話なんですよ。
だから分かりにくいんですね。
だから分かりにくいというよりも、だからややこしいわけですよ。
その理解したくないという気持ちそのものを説明してくれてたんだけれども、
理解したくないという気持ちなわけですから、当然理解できないわけですね。
この気持ちというものを説明されることほど、上下関係を持たされることはないわけです。
ここが精神分析の一番ややこしいところだと思います。
それを理解させられるということが最も嫌なことだとするならば、
それを理解させてくる相手は一番自分の上に立ってしまうんですよ。
こういう関係が精神的指導に関わることには常にネックになってくるし、
ここをいいダクダクと話を聞くようになっちゃうと、今度は扇動っぽくなるんですよ。
すごく依存っぽくなる。
実際私はその先生に大学生時代中、今思えばですが、
大学2年の冬からほぼ依存していました。
依存できていたから卒業できたんです。
そう思うのも当時は大変不愉快だったんだけど、しょうがなかったんですね。
21:02
切羽詰まっている部分もあるんです。
あの時期というのは不安定ですからね。
特に私は不安定なところが多々あったんで。
結局これはエリフスなんですね。
結局のところこれは自分の母親がべったりである。
ここを100%認めてしまうというのはまずいし、
ここを100%認められないと思うから一人でいろいろ頑張ろうという気になるんだけれども、
私の母というのは人を情緒的に頼らせるのがとても嫌いな人で、
それは結局育てられ方によるんですけれども、
私が情緒的にべたべたするのを非常に嫌ったんですね。
だから私はその情緒的にべたべたする相手が、
つまりそれが彼女が欲しいということなんだけど、
欲しかったわけですね。
そういう気持ちを自分は母に向けるということを常に拒否されていて、
それをたぶん小さい頃には強い屈辱感があったんです。
もう完全にエリフスなんですよ、これは。
その屈辱感をたぶん2,3歳、1,2歳かな、覚えてないですよね。
覚えてないために封印されているというか、覚えてないんですよね。
覚えていようがないのでね。
だから封印したというわけじゃないんですね。
沈んでいいという感じなわけです。
今もそうなんですけど引っ張り出すことができないんですよ。
ところが面白いことに、だからなんだけれども、
だから私がアダルトを見て思ったことは、
つまりこれを見たときに初めて思い出せるんですよ、実は。
そのときに私がやりたいことというのは、母親に対するリベンジなんですよ。
これはもう本当に完全にそれ系の話で、
そのことだけではないんだけど、
フルイト全集を読むとこと細かに書かれている箇所があってですね、
ところがそれを読めないわけですよね。
でもあの先生が勘で含めるように説明してくれていなければ、
私はもうさらに5年ぐらい余計にかかったような気がします。
これがようやく理解できるようになったのが40過ぎてからなんですよ。
頭をよげるようになったのは30の後半、一番最後の頃からなんですけれども、
多分そうなんじゃないかなといい加減認めても気持ち悪くなくなったって頃なわけですね。
でもやっぱりはっきりわかるようになってきたのは40過ぎてからで、
その辺からどうして別に母親そっくりとか、
母親と同じような姿形をしているとか、
そういうことは関係ないということもわかるようになったわけです。
そして何より大事なことはですね、
私はそういう観点を持って母と話すようになってからつくづく見て、
今の母とは全然違うということに気づいたわけですよ。
これも不思議な話じゃないですか。不思議な話じゃないのかな。
私が持っているイメージ、イメージとしてのイメージはですね、
やっぱり内的対象というしかないですね。
24:01
としての母と、実際に存在する母とは全然関係ない。
もう全く別人と言ってもいい、というか全く別人ですね。
私が勝手に2歳児の頃から抱いているリベンジしたい相手としての母であり、
私の世話をしてくれてきていた母であり、
遥かに若いイメージを混在させていてかつ、
私が勝手にそこに盛り込み、勝手に憎んだ、そういうものを全部練り上げて、
私が心の中でつくった母を、私は母だと思ってたんですよ。
東英なんですね。この東英先はもちろん実母にしているわけで、
実母はずっとそういうふうに見えていたわけです。
少し若く見えていたとか、そういう話では全くないです。
全く同じなんですよ。オーバーラップしちゃっているわけです。
なんていうんですか、プロジェクターで壁に映像を映し出すと、
そのうち人はそれをずっと見ていると、スターウォーズとかでハマると、
映像を壁だとは思わなくなる瞬間が来るじゃないですか。
あれを母親相手にやっていたわけですよ。ずっとやっていたわけです。
だから、しかも似てるわけですから。同じじゃないんだけど似てるわけですから。
そっくりなんですから。できるんですよ。
これをずっと重ねていたから、わからんかったわけですね。
それが実母ではないってことに。
これが倉澤さんの言うところの、夢を見ている人に罪はないのはずなんですよ。
現実を見に行くっていうのもこれですよね。
このオーバーヘッドのプロジェクションをやめて現実を見てみると、
まず少なくともプロジェクションをしているということに気づかなきゃいけないはずなんですね。
僕はそれを見た感じがしたんです。数度ですけど。
自分が投影しているということと、実体がずれているということを目で見たような気がした瞬間が何度かあって、
それ以来、母に対しては何かこだわるということが一切なくなったんです。
こだわりは私の中にあるものであって、彼女というかその外側にいる存在とは別物なんでね。
その外側に人はいて、私のプロジェクトは私のプロジェクトなわけですから、
そういう分離が起こったんですよね。母だけです。
やっぱり母ぐらいじゃないとこれほど詳細にやらないですから。
内的対象としての存在というのは数多くはありません。
ただのイメージとかとは違うんですよ。
例えば私は大橋裕三さんに関しては内的対象を持っているとは言いがたいです。
多分大橋さんに父親の内的対象としての父親をプロジェクトしてしまっていたことは何度かあるでしょう。
そういう関係、インテンシブルって言うんですけど、
すごく詳しく付き合っている人、要するに親しくというよりは詳しくですね。
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相手のことを知っていると思い込んじゃうレベルで、
仕事の関係者ですから、仕事のパートナーなので、友達とかとはまた違う。
いろんな面を知ることになるので、でもそれは知らないんですよね。
なぜなら今と同じようなことをやっちゃうからなんです。
やらないでは人と接するのが難しいんですよ。
本当に相手の本体とだけ接するというのはとても私たちは難しくて、
なぜなら私たちは意味づけする動物なので、すぐ意味をつけちゃうんですよね。
だからこういう人はこういうタイプだっていうのはみんな信じてるじゃないですか。
あれはデタラメなんですけれども、すごくそういうことが当然のように言われるわけですよね。
それこそ心理学の世界でも言ってます。
11の人格とか9の人格とか、人格をたった9に分けて平気でいるんですよ、人というのは。
意味づけがそれだけ得意なんです。
そういうふうに考えていって、ようやく母というものは私の内的対象だから、
実母と関係ないし、父もほぼ確実にそうであって、
父の方が面倒な面が実はあるんだということがその後わかってきたんですけれども、
父の方は説明しにくいんですよね。
母とほどはもちろん情緒的にも身体的にも接触点がないわけですから、少ないわけですから、
どうしてもそういう話で観点で語るのは難しい相手なんですよ。
どっちかというと父親のことも私は環境都市の母親扱いしてたんで、
大概の人はそうだと思うんですよね、特にこの段階ジュニア辺りの人は。
だから父親的なところが出てくるというのはもうだいぶ後になっちゃうんで、
それほどその無意識からいろんな影響を私に与えてこないということはあったわけです。
ただ、ここに上下関係の大元があったことは、僕の場合は間違いないと思います。
結局最終的に怖いのは、母に怒られるという、もうちょっと言うと母に嫌われるということかな。
それを盾に取られて、上下関係がそこにできてしまうということを私は最終的には恐れていたということが、
これはもうずっと前から明らかでしたけど、久しぶりに土曜日に毎日、
これがつまりネタの重点なんだけど、知らされるというか思い出させられるというか、
そういう感じのことが起こったというわけですね。
で、完成文を書かされるとかが嫌なのだって、それは先生に書かされた記憶を思い出すからなんだけど、
そもそも先生に書かされるのがなぜ嫌かというと、母親に怒られるということを、
そして母親に怒られるということを作り出してしまう可能性があるからですね。
30:00
完成文なんかも学校から持って帰ると母には怒られるわけですから、それも大して怒られないんだけれども、
結局それが嫌なわけですよ、その諸々がですね。
今思うと、例えば妻に書かされると、さぞ嫌だろうと思ったんだけど、
さぞ嫌というのはどういうことなのかというと、やっぱり全部、僕の場合はですね、上下。
先日のセミナーでは、罪人と処刑人という言い方が出たんですね。
これが倉園さんから。処刑人というのは遥かに上に行くという意味ですね。
処刑人と処刑人という言い方が出たんですね。
処刑人というのは遥かに上に行くという意味ですね。
これが処刑人という言い方が出たんですね。
これが倉園さんから。処刑人というのは遥かに上に行く。
これ天井というようなイメージかなと思うんですけど、処刑というのは死刑という意味ではないんですよ。
刑は軽くても同じなんですよね。もちろん思いほど現実的な深刻さというのがついてもありますけれども、
軽くても同じになるんですよね。
つまり罪認定は下に見られている、コントロールされるという問題を自分で抱え込んでしまう。
これもその通りなんだけれども、自分に責任があったり原因があったりした場合でも罪悪感を持たない。
ここが多分最終的に、なぜかというと社会の中でそれが認められているとは言い難いからなんですよね。
罪悪感を持ってほしいって人が思ってるんですよ。
旬となってしばらく人にコントロールされてなさいと。
あなたは何をして勝つかわからない人だから。
この辺は反省させると犯罪者になりますに詳しく書かれている話なんですけど、
グッドバイブスというのがその人の職業との関係からどこから解き起こすかというものをある程度決めてくる。
反省させると犯罪者になりますを書いた方は、もともと警察関係の刑務関係の人なのでこの話がすごく多く出てくるわけなんだけれども、
当然グラヌーンさんは違いますよね。他の方面から話がやってくるわけです。
でも言っていることは非常に似ている部分が出てくるわけですよ。
反省させるということには何の意味もない。
何の意味もないというのは私たちが人をシュンとさせることによってコントロールしやすくなる。
これがマウントの問題と結局同じ位置に入るんですが、コントロールしたいというか、まずされたくないというのが第一にあって、
第二にその反動みたいなものとしてコントロールできていれば安心だという感情を抱くんですよ。
だからグダグダになるとか、のほうずになるということをとても恐れるという方がいらっしゃる話はよく聞くんですが、
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私、この話をよく聞くなと思ったのが会社だったんですけど、本当にもう収集がつかなくなるという言い方をされるんですよね。
上にいる方で、特に厳しく言うということを必須だと思っている方、所長とかが私の時代にはそうだったんですけれども、
何かというと収集がつかなくなる。私は非常に威勢のいい方だったので、どこがらで威勢のいい方だったので、よくいるような感じの方でもあるんだけど、
この人本当に強靭だなと思っていたんですけど、全然逆なんですよね。今思うとよくわかるんですよ。
イメージで思い出すだけでも十分で、大変彼は恐れているわけですね。
恐れているというのは、深く掘っていってしまうと、さっきのお母さんに怒られたくないあたりに行き着くんですよ。
着地点として。だから教授が勘で含めるようにいろんな人に教えていたわけですけれども、
何であってもそこに行き着くということは非常にある意味興味深くて、かつ知っておくに値する結局知識なんですよね。
これが強要のマウントという話になるんでしょうけれども、つまりあの署長を恐れていた人はいっぱいいました。
私の直属の課長も恐れていました。多い。副課長の人もすごく恐れていました。
だけど一つ知っておくといいのは、あの署長が一番誰よりも怖がっていることがあって、
しかもそれも多分ですけれども、あの年齢ですから恐らく確実にお母さんに怒られるのは怖いんですよね。
そんなことがわかってしまえば、あんな風に振る舞わなければいけない理由ってどこにもなくなるわけです。
特に生活かかっているという正社員の人はまた別なんでしょうけど、
あの時代の私が勤めていたときには派遣社員だったんですけど、みんなものすごくビグビグしてたわけですよ。
その人が来たときにはですね。全然そうする必要がないんですよね。
僕らは直結してないので、何かに。何を失うのを恐れるかというと、結局マウントを取られるという話でしかないわけですよ。
本当にですね、過去にあったこと、そういう話で私がいろんな、それこそ自分が悪くてシュンとさせられたような話まで全部含めても、
あれは全部夢だったんじゃないだろうかと思うだけで、本当に夢と何にも違いがないなと。
構造が夢と全く同じ構造だから、リアルにそれはあったじゃないですかという人もいるかもしれませんけど、
全然そんな言葉は意味を作り出せないということ。
36:02
私が今これを喋っているのもそうです。数分経てば過去の話になります。
リアルタイムに聞いてくださっている方はまた別ですけれども、私にとってはそうです。
過去の話になっていく。そうするとそれは全部構造上ですよ。
リアルにあったかなかったかはまた別として、構造上、夢と何にも変わらなくなっていくんですよ。
最近私はそういう観点で、しかも物を見なくなったので、タスクシュートとかで記録を読むと、
これは夢に関する記録だというように見えるようになったんですね。
それはそれで楽しいですよ。ただ、夢に関する記録はあってもなくても同じですよ。
夢に関する記録ですから、夢の日記を僕はつけているんですけど、全く同じだなというふうに見えるんですよ。
起こっていることは違いますよ。夢の中で起きていることは尻滅裂です、もっとね。
でもリアルに起きていることだって結構尻滅裂ですけどね。
そうじゃなくて、構造は同じなんですよ。私の主観によって記述されている、私の主観によって作り出されているんです。
現実画ですね。現実画というのは、皆さん一人一人が私と妄想の産物だという話ではないです。
私が見ている現実は、私の妄想の産物だということです。
これは多分私はどんな人でも例外はないと思うんですね。
たとえそれをビデオで撮っておいて、動画で撮っておいても無駄です。
なぜならばそのビデオを見るのは自分の目だから、あと脳ですから。
必ず私たちはそこにありもしないものを作り出してしまいますから。
そしてありもしないものばっかり作り出すので、それでも現実って一定の整合性が何とか保たれていて、すごいなと時々思いますが、
まあ撮れてないように見えることもありますけどね。
例えば今のロシアとウクライナみたいな話を見ていると、
これはもうみんなで悪夢を共有しているようなものであって、だから嫌なんですけれどもね。
全然こう、すごくちょっとしたことをやっているというつもりに人はなるんですけど、
これはルドサックスが描いていたようなことですね。
完全に夢の中で踊っているような、そういうものなんですよね。
それがいけないわけじゃないんですよね。
これは人間の生活の作り方なので、それがいけないというわけじゃなくて、
ただそれが夢だということを都度都度思い出しさえすればいいんだと思うんです。
起きているか寝ているか関係ないと言えると思うんですよね。
これはビオンが言ったことですが、人間というのは結局起きていて夢を見るのが正常なんですよ。
見られなくなったら精神病なんですよ。
寝ている時は現実に依拠しない夢を見ているに過ぎなくて、
寝ていても起きていても夢を見っぱなしであることに違いはないんですよね。
夢がずっと上映されている。ただ起きている時はおそらく、
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起きて動いても差し障りのないように夢が調整されているに過ぎなくて、
だからだと思うんですよね。究極的に言えばですよ。
だからこれをむやみに恐れる意味が全くないんですよ。
上映されている悪夢は、それが怖いんだけど、自分で上映しているんですから。
だからこそこれに対して難癖つける価値は何もないんですよ。
つけたっていいんですよ、別に。
だけど難癖つけるということは、難癖つけたくない夢に切り替えればいいわけじゃないですか。
夢なんだから。これはあれですよ。
テレビを見ていて、誰かの悪人が出てきて、そいつに物凄い怒っているようなものであって、
何にも意味がないんだけど、別に怒っちゃいけないとは、ここまで言えば言えないですよね。
東山の金さんに出てきた悪い代官に向かって、
ほんとお前許しがたいなって言っても別にいいじゃないですか。
ただちょっとあれだなという程度の話であって、それがいけないってことはないと思うんですよ。
だから怒っている人を見て怖がるっていうのは多分ナンセンスなんですよね。
でもここに非常に複雑な構造だけれども、
その悪代官にマウントを取られているような気が私たちはする生き物だから、
そのことについてけんけんガクガクにSNSでやりとりしたりすることもできちゃうと言ったことなんですよね。
そういう話がいろんな話がごちゃごちゃ入りましたけれども、
結局私が学生時代に勘で含めるように教えていただいたことはこういうことだったということです。