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2021-07-14 33:46

【GMV 417】内的対象というイリュージョン

葬り去るとスッキリします
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
いつも思うんですけど、このグッドモーニングボイスをやっていて、一つうっとうしいのは、連番を打っているという作業なんですよ。
これもうやめようかなといつも思うんですけど、なんかもうここまでやっちゃったから、今回417かな。
この連番を間違わないようにしようみたいなのに、精神力を使っている感じがありまして、
それが一番こう、唯一グッドモーニングボイスをやっていて嫌だなと思う瞬間がそれだったりしているんですけど、
こういうの得意な人とそうでない人間の分岐があるなと思いますが、
この番組でよく内的対処という言葉を頻繁に使っていたんですけど、
これも正直とっても分かりにくい言葉の一つですね。
内的対処というのはすごい厄介なやつで、と私は思うんですね。
これもやっぱりメラニ・クラインの考え出した発想の人、本当にいろんなことを考えるんですよね。
その内的対処というのは何て言うんですかね。
僕はやっぱりまずは母親だと思うんです。
他にもいっぱいあるような気がするけれども、ほぼ確実にいると言えば母親だなと思うんですよ。
父親ももちろんいるんですけどね。
問題なのは、よくあの人とは価値観が違うと言うじゃないですか。
あれを司っているのがこいつだというふうに思うんですね。
内的対処というのは、グッドバイブスで心がざわつくという表現をよく使われるんですよね、
グラドノ・ケイドウさんが。
その時に一番ポイントになっているのが、
私が考えている限りでは内的対処が刺激されているんです。
風雲喧嘩ってこれなんですよね。
だからすごい不毛なんですよね。
風雲喧嘩って文字通り代理戦争なんだと思うんですよ。
ただ代理戦争って言うとまだちょっと違うところが、
この辺を説明したいんですけど、
要するに私が妻にイラッとするのは、
私の内的対処の母がイラッとしているんですよ。
私の内的対処の母がイラッとすると、
大体相手の内的対処の母をイラッとさせちゃうんですよね。
同じじゃないから。
本人たちはそれに気づかないんですよ。
ここが内的対処のすごいところで、
03:00
内的対処というのは、主人公がイラッとすると、
自分の母親がよく漫画にあるみたいな感じで、
自分の母親が自分の奥さんに怒っているっていう、
そういうイメージが作れるぐらいなら、
すぐ止まる。すぐ止まります。
私はそんなに別に、
母の価値観の肩を持っているわけじゃないんで、
すぐ止まるんですよ。
自分の母親がイラッとすると、
自分の母親の顔がドーンと出てきて、
自分の母親がよく漫画にあるみたいな感じで、
自分の母親が自分の奥さんに怒っているっていう、
そういうイメージが作れるんだけど、
そんな図は出てこないんですよ。一切。
ここが力動的っていう言い方で、
力がかかってくるだけで、
母が出てきているとか、
そういう認識を僕に持たせることはないんですね。
イメージというようなものじゃないんです。
だから、気づかないんですよ。
自分の感覚のような気がしちゃうんですね。
私、これに気づくのには、
グッドバイブスの知識も必要だったし、
考え方というのかな。
プラス、ある種の発見が必要だったんですよ。
鍋にシャモジを突っ込むやつですよね。
あれで気がついたんですよ。
非常に鮮明に。
そういえば、鍋にシャモジを突っ込んでおくと、
うちの奥さんが怒るんですよ。
あれは間違いなく、
うちの奥さんのお母さんが突っ込んでおくことを
嫌がった何かがあるんでしょう。
本当に突っ込んだことを嫌がったかどうかは分からないですよ。
この話もちょっとしますけど。
うちは突っ込んどかないと怒られたんですよ。
まさに代理戦争なんですね。
現に、うちの奥さんも別に
自分のお母さんが大好きってことじゃないんで、
このことをお互いで指摘しあったんですね。
うちの親もそう言ったの。
そういえば、うちの親もそんなこと言ってたみたいになったので、
以来、大した問題じゃなくなったんですよ。
今でもちょっとやがりますけどね。
でも、大した問題ではなくなったんですよ。
これが内的対称を持つ力なんですよね。
そして気づかれにくさなんです。
もう忘れてるっていうこともあるし、
いちいち親の顔がシャシャリ出てくるわけじゃないんで、
ここがですね、親の言いなりになっているっていう指摘が
僕が曖昧すぎるなって思うところなんですね。
親の言いなりになっているという自覚を持つのは難しいんですよ。
そこまでとことん極端であれば、
なんとなく、うちの親が
極端であれば、なんとなく分かるところもあるんだけど、
そういうのともまたちょっと違って、
自分の価値観みたいな視点がしっかり根付いちゃってるんで、
気づきにくいんですね。
だし、私がなんで内的内的ってうるさく言ってるかというと、
本当の親がそう思っているかどうかとはまた別の問題なのかなと。
これがさっき言いかけたことで、
本当に奥さんのお母さんがそう言ったかどうかも疑わしいんですよ。
ここが多分精神分析の最大のポイントだったんだと思うんです。
だからトラウマとかって言うじゃないですか。
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疑わしいんですよ。
本当にそれあったのかっていう問題は出てくるんですね。
フロイトはそこをすごく言ったんですよ。
親的現実っていうのはおかしな言葉じゃないですか。
親的だったら現実じゃないし、
現実だったら親的と言っちゃダメな気がするんですね。
フロイトがわざわざ親的現実って言ったってことは、
このトラウマは実際にあったという話じゃないよって言ってるんですよ。
ここから多分僕は全てが始まる感じがするんですね。
その代理戦争って言ったって、
別に私は親代表できてるわけじゃないんですよ。
親だと思い込んでいる何かを代表してるんですよ。
相手もそうなんです。
代理戦争なんだけど、
自分の親がそう言ったと思い込んでいて、
しかもそれを親が言ったんだということは
忘れている何かを代表してるんですよ。
そういう喧嘩をするんです。
イリュージョンですよね、要するに。
だから一番いいのは気づくこと。
つまり自分の内的対称というやつが何であって、
どんなことを言っていて、
いつどういうふうに自分に作用するのかを気づくと、
途端に楽になれるっていう、
この話は精神分析の割と基本だと思うんですよね。
ここに親殺しという表現を取るものだから、
またインパクトがでかすぎて、
伝わりにくくなる面があるんだけど、
一方でこれは親殺し感があるんですよね。
自分の根底にあるものを否定するみたいなものがあって、
そういうのを得ないとダメなほど、
この内的対称にがんじがらめにされちゃうというケースが、
精神障害なんでしょうね。
少なくとも精神分析でいうところの。
だから一見全然障害っぽく見えないケースもたくさんあります。
自分の親の内的対称、
しかも内的対称の親の優雅ままに動いていたって、
本人も周りも気づきません。
だってその人は親の優雅ままになっているようには見えませんからね。
しかも自分でそういう認識もほぼない。
だけどよく話を聞いていて、
何度も何度も精神分析のセッションをのすごい何年も受けていくと、
こういうことがあからさまになっていくんですよ。
っていうことなんだと思うんですね。
これって相手が常識的だと全く気づかないんですね。
相手が少し非常識なことをやってくれないとむしろ気づかないんですよ。
何でかというと自分の親の親のだけれども、
親とイコールではないんだけどそういう価値観と、
大幅にずれてみなければざわっとわざわざ来ないじゃないですか。
よほど近くに暮らしていないとですね。
小さなずれの場合、自分たちの意見なのか、
その内的対称の意見なのかが区別しにくいケースの方が普通ですからね。
この鍋で気づくっていうのは象徴的なんですよ。
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この鍋で気づくときにも、でも体内は気づけませんよね。
なぜならどっちが正しいかって話になっちゃうからですよね。
体外はそうなるんですよ。
どっちが正しいのかってこの議論を外に持ち出しても、
いやそれは内的対称の親の言ってることですっていう指摘する人はほぼいませんよ。
この話を外に持ち出すとどうなるかというと、
やっぱり突っ込んでおいた方が便利でいいんじゃないとか、
そういう議論になるじゃないですか。
あるいは衛生的に問題がある場合は取り出してとか、
あるいはこういう社文字にすればライフハックでとかって話に絶対なるんですよね。
決してそもそもなぜそれで腹が立つのかっていうところに
降りていけないんですよね、この種のケースでは。
普通は降りていかなくていいものですから。
で、これをですね、私今日はつくづく思ったんですよ。
このことをずっと考えていて、一つはこれもですね、
話がややこしくなりがちなんですがしょうがないんでね。
母親じゃないですか、母親には性欲がありますね。
その性欲はうちの母の場合は男の人に向きますね。
そうするとどんな男がいい男かというものは当然母にはありますね。
これこういうのをファルスって言うんですよ。
何がファルスかというと、ファルスはペニスなんですが、
ファルスって言うのはファルスって言うんですよ。
何がファルスかというと、ファルスはペニスなんですが、
母にペニスはないんで、精子分析でこういう部分が多分性的すぎるって言われるんですよ。
これ性的じゃなく説明することは不可能だと僕は思うんですよね、やっぱり。
母はペニスはないんで、ファルスがあるわけです。
ファルスとは何かというと、母の中にある強い男らしさなんですよ。
それは私を育てるにあたって、当然力を持ってくるじゃないですか。
かっこいい男とはどうあるべきかっていうのを母が持たないってわけにいかないじゃないですか。
無意識だとは思いますよ。でも無意識だから困るんですよ。
これが内的対象と一緒になって入ってくるじゃないですか。
母は無意識ですよ。これが内的対象と一緒になって私の中に根付くわけですよ。
男とはどういうふうに振る舞うべきか。
これをさせてくれないとき、その人と喧嘩になりやすいわけですね。
ところが、これをさせてもらうことはおそらく不可能なんですよ。
内的対象の一番困るのが、性的な話の時に出てくるのはこういうところなんです。
性的な行為、内的対象の価値観、いずれも同じですが
パーソナルな問題なんですよ、多くの場合。
鍋の中にしゃもじを入れておくかどうかって、実に個人的かつ限定的で現実的な話じゃないですか。
だいたいしかし、そうはならないんですよね。
正義感とかかっこよさってそうはならないじゃないですか。
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どんどん非個人的なものになっていく。
非常に簡単な例で言うと、私の母のかっこいい男っていうのは中心ぐらいなんですよ。
朝の匠の神とかいうのは違う。
大石倉之介。あれになっちゃうんですよ。
あれがあるべき男だとすると、私の男性性というのは全くついていけないものになってしまう。
こういう乖離がことをすっごく悪化させるっていう話があるんですね。
内的対象の一番めんどくさい部分の一つが多分これだと思うんです。
いちいち自分の男性性が否定されていく。
自分のですよ。私の極めて個人的な。
極めて個人的な男らしさって何なのかってすっごい曖昧で分かりにくいじゃないですか。
だからといって中心ぐらいやってられないわけですよ。
というか中心ぐらいはできないんですね。
この種のことが、個人的に収納しやすいとかいう言い方するんだけど、
インストールしやすいものならだいぶいいんだけど、
個人的にインストールしにくいものだと、
それにどうかするか、それはもうないから自分もそうでないことにしちゃう。
大体どっちかになりやすいんですね。
どうかするとなったらですね、中心ぐらいやらなきゃならない。
これあれなんですけどね。
会社組織とかで内紛みたいなのを起こす時に急に活躍しだすのが、
内的対象のファルスっていうケースがすごい実は多いんですけれども、
もう一つは、私は全く男性ではありませんという振る舞いになっちゃう。
これが私が長らくとらざるを得なかった方向性なのですね。
つまり女性に興味を持たないことにする。
すごいこれが多く出るんですよね。
いろんな事例が出てきますけれども、やったらと男らしいことに突っ走って
全然女の子に興味ないっていう人生を歩んできましたみたいな臨床例って
かなり出てくるんですが、全部大体こういうパターンにハマるんですよ。
例えば異常なほど剣道に興味を持つとか、こういう形にしかなれないんですよね。
多分お母さんが、私の母とは違うでしょうけど、剣の道とかにかっこよさを見出したんでしょう。
そうすると剣の道みたいなものが男だってことになるとですね、
ひたすら剣道をやるみたいなそういうことになっちゃうわけですよ。
でもこれ、どこをどうとっても精神病っぽくは別にないじゃないですか。
非常にややこしい病、病理まで行ったら言い過ぎなんですけど、
非常にややこしい問題を抱えることになるけど、本人も周りも誰も気づきませんよね。
そんなことは。別にいいですからね、それで。
ただ、ずっと剣道ばっかりやっていて、剣道のことになると異常なほど集中、
熱心で結婚もしないでずっと独身なんですけれども、
なんか急に女性問題でトラブルが起きましたみたいな話になったときに、
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こういう話に行き着くんですよね。
常識っていうやつは、多分この内的対象の親の言い分、
つまり私で言えば内的対象の母の言い分なんだけれども、
これが気に入らないという人の嗅覚ってあるんですよ。
これが非常にややこしいんですけれども、間違いなくこれが気に入らないって人が、
私にとって相性の良くないということになるんですね。
このことを私が思い知ったのが幼稚園の年長の時だったんです。
今思えばですよ、あの先生には今思うとすごい感謝なんですけど、
実に嫌な先生だったんですよ。
本当に問題行動の多い先生で、
例えば悪い子を保育園の教室に連れて行っちゃうんですよね。
幼稚園の年長か、今思えば。
年長の教室に連れて行くっていうんですよ。
子供泣きますよね。
私、あの光景を見たときに一つ考えたことがあったんです。
幼稚園の年長の時ですね。
自分がこの連れ去られる子が、
この連れ去られる立場になったとき、
自分はちゃんと泣けるだろうかって考えたんですよ。
あのことはですね、今でもよく覚えてるんですけど、
泣ける気がしなかったんですよね。
この先生は本当に僕はヘキヘキしていたので、
彼女は頭が悪いからっていう嫌な小説が、
読んでいて気分が重くなってくる小説があるんですけど、
その今のセリフを僕は口にしてしまったことがあったんですよね。
それちょっと問題になりそうになったことがあるんですけど、
あの先生は頭が悪いからさって友達に言っちゃったことがあったんですよ。
幼稚園時代にね。
それはいいんですけど、手を引っ張られて年少に連れて行かれるみたいな、
トラウマになりそうっていう、それこそ話なんですけど、
そういうことではなく、私はその先生嫌いだったし、
今でも好きかどうかというと微妙ですが、
非常にいろんなことを学んだなと思うんですよ。
厳しさによってじゃないですよ。
問題行動っていうのをよくよく理解できるようになったという意味で、
非常にいい経験だったと思うんですよ。
僕その先生のことについてはずっと小学校時代中考えてたんですよね。
いろんなことを。
非常にフロイト的だとある意味思うんです。
僕のもしかすると一番フロイト的なことに興味を持つきっかけになったのは、
その先生との遭遇だった気がします。
自分の親はやっぱりある意味かなり常識でいいなんで、
親じゃ僕はフロイトみたいなものに本当のところ興味持たなかった気がするんだけど、
あの先生との遭遇は大きかった。
年中の時の先生はまともだったって全く記憶になるんですよね。
18:00
年長の時のその先生が洋服チェの悪いことをした子があったんですけど、
ほとんど気分次第なんですよ。
だからある意味何とかの強制収容所みたいなんですよね。
教官の気分で全てが決まっちゃうみたいな。
子供はその世に何個生しかかかったように泣くわけですけども、
連れて行かれそうになると。
私はですね、どうしても泣ける気がしなかったんですよね。
その先生好きじゃなかったから、
他の教室に連れて行かれて何が困るんだろうって思ったわけです。
その先生は私のことが好きじゃなかったから、
頭が悪いからとかって言っちゃうような子でしたからね。
好きじゃなかったからある日にとうとう晩が来るわけですよ。
たぶん気分で連れて行く子は決めてたと思うので、
いずれ私の晩が来るだろうなと私は思ってたんですよ。
その時一番困るなと思ったのが、
全く平気な顔をして連れて行かれると、
この人の怒りはありえないほど沸騰しそうだという、
そっちはどうしようというのが当時の私の悩みだったんですけども、
すっごい抵抗して泣いたんですよね、
実際に連れて行かれそうになった時。
それがですね、泣いているそのまさに時に、
すごく俺泣けるんだみたいに思ってたんですよ。
すごくですね、なんて言うんだろうな、
ああいう感じでは説明がすごく難しいんですけど、
僕は劇が下手だったんですね。
慣れないんですよ、要するに。
なりきれないんですよね、全然。
全く入れないというタイプだったんで。
その時でも、白身の演技ってこういうことなんじゃないだろうかって、
そういうことじゃないのかもしれないけど、
なんかですね、全くどうでもいいというふうに半分思っているのに、
泣いて抵抗している自分がいるって感じだったんですね。
それが外から見える感じ、外から見える、
そういう離脱感みたいなのまではなかったから、
そこまで言うと言い過ぎなんですけど、
中から見ているみたいな感じでした。
この泣いている自分は、
本気で泣いているんだけど、
でも本当はどうでもいいと思っている。
で、その時触れたんですよ。
泣いてきたでしょうとはこういうことなんだっていうことが、
なんか目で見えたような感じが、
本当は目では見えませんけどもちろん、
感じがしたんです。
この冷ややかに見ているというのか、
突き放したように見ているのは自分の母だったんです。
間違いなく。
で、私は自分の母とその瞬間同化しちゃったんですね。
泣いてたのは誰だったんでしょうね。
母と同化しちゃったんです。
それがいけないんですよ、本当はね。
母と同化しちゃったら、
21:00
うちの奥さんとの例えば喧嘩とか、
収拾つかなくなっちゃうじゃないですか。
あのタイミングで起きたことはそういうことではありませんけれども、
まさに自分の母親に自分はなったんだって感じがあったんですよ。
だからこの先生のことが怖くもなければ、
非常にこう、なんだろう、見下してた感じがありました。
たぶんうちの母はそういうところがあったんでしょうね。
そういうのが見抜かれちゃうんですよ、相手に。
この先生に見抜かれてたから、
この先生何かにつけて、
私ほとんど悪さをしない子だったんだけど、
何かにつけて、
絡んできてたわけですね。
何か言いがかりをつけてくると、
非常に興味深い事例だなと思うんです。
つまり、もし内的対象の母親、
幼稚園生だから当然いますわね。
いなければ、私はその先生との対立はおそらくなかったと思うんです。
けれども、うちの母はああいう人嫌いですから間違いなく、
喧嘩になっちゃうわけです。
まさに代理戦争をやってるわけですよね。
今思えばですよ。
今思えば、多分あの先生が怒っていた子供やお子さんは、
全てそのお母さんと仲良くなれないケースだったと思いますね。
あまりにもそういうことがあからさまにわかる先生だったんですよ、
ある意味では。
非常に感謝ってのは変ですけど、
この体験は実に良い体験だったと今でも思っています。
この体験がなければ、少なくとも内的対象という説明じゃ、
相変わらずメラニック・ラインはわけわかんない書き方というか、
非常に正しいっちゃ正しいんでしょうけど、
普通に読むとさっぱりわからない話になりますから、こんなのは。
すごくわかるような気がやっぱりするんですよね。
内的対象とわざわざ言うっていうことは、
やっぱり外在しないよっていう話じゃないですか。
だから、特に精神分析とかでもそうですし、
どんなシーンでもそうだと思うんですけど、
その外在している存在に出会うってことはとても大事だと思うんですよね。
倉園さんが言う、現実を見に行くっていうやつなんですよ。
どうしても私たちは身近な人ほどですよね、
内的対象と出会っちゃうんですよ、すぐ。
母なんかと会ってるときは5分の違う、
100分の99くらいは内的対象と喋っちゃってるってことも、
いや、ほとんど100%ってこともありますよね。
明らかに違う、よーく見るとシワが多い、
よーく見ると老化がひどいんですけれども、
親だからこういうこと言ってますが、
要するに内的対象と喋ってるだけでも相手気づかないんですよ、ほとんど全く。
親なんていうのは、向こうも内的対象の私とどうせ喋ってますから、
これじゃ話にならないっていうケースも多々あるわけですよね。
逆に人と喋ってるときはこれをやりだすとだいたい聞くしゃくするから、
24:01
何となくは気づくことが多いんですけれどもね。
私のパートナーで一番喋ってるのは仕事の小橋哲夫さんですが、
彼と私は当然お互いの内的対象があるだろうけれども、
やっぱり緊張感、長くやってれば当然意見が合わないということがあるわけですよね。
100%と言っていいほど代理戦争ですね。
だから本当に不毛なんですよ。
私、心がざわつくっていうのはもう間違いなく不毛だと。
少なくとも私に関して言えば代理戦争以外の一つもないと言えます。
私が怒ってるケースなんてないんですよ。
私のいつも内的対象の母が怒ってる。
ただそれだけでしかない。
だからそういう意味で倉澤さんのウッドパイプさん、
本当正しいなと思うんです。
イリュージョンそのものなんですよね、これは。
だから大橋哲夫さんと意見が合わなくて、
お互いの言い分に緊張感が漂うという時は、
大橋さんがそう思っているところのお父さんかお母さんの正しさと、
私が親がそうだろうと信じているところの
うちの母か父の正しさが喧嘩しているんですよ。
全然当人たちには関係ない話なんですよ。
ここが難しいんですけどね。
それを正しさと言うんだろうと言われればそうかもしれないんでね。
ただ私はそうじゃないと思うんですよ。
途中で中心グランの話をした通り、
本当は正しさってパーソナルなものじゃないと意味を出さないですよね。
つまり、現実的かつ限定的かつ個人的じゃないと。
逆だと思われているケースがあるんだけど、
逆のはずはないと僕は思うんですよ。
例えば鍋にしゃもじを突っ込むことに関しては、
私と妻だけで考えるのがいいことじゃないですか。
これが限定的かつ現実的かつ個人的ですよ。
非パーソナルなものになってしまうというのは、
どっちか普遍的な意味として鍋に突っ込んでいくのが正義かということになってしまう。
つまり個人的じゃないほどダメなんですよね。
でも個人的じゃないほど正しい感じがする。
だから私たちはすぐ個人的じゃない方に行こうとしちゃうんですけど、
個人的じゃない方に行くと、武士の格好をして女の子をナンパできないじゃないですか。
個人的じゃなくなりがちなんです。
なぜならば、母親のファルスなどというもの、
母がかっこいいと思っている男性の像などというのは、
母は男性として生きてきたわけじゃないから、
抽象的なものを追い求めるに決まっているわけですよ。
すごい野球選手とか、大谷翔平とかね。
そういうのになるじゃないですか。
せめてまだジャニーズとかだったらよかったわけですよ。
ジャニーズの方がはるかにまだ現実に収納しやすいというのは、
こういう時に言うべき言葉だと思うんですよね。
現実的にああいう男の子になることはまだしもじゃないですか。
現実的に大石倉之介になれるわけがないですよね。
27:02
だから母親のファルスというものは邪魔なんですよ。
非常に。
私の男性性とはほとんど全く何の関係もないから。
これを現実に適用しようとすれば絶対ずれますよね。
非個人的なものを個人的な状況の中で扱おうとするとずれる。
このずれがですね、
いろんな場面においてざわつきというやつを
無駄に掻き立てる原因にきっとなるんだと思うんです。
ついでに仕事のパートナーといえばJ松崎さんという方がいて、
スクシュートクラウドというのを作ったんですけど、
ベルリンにいるじゃないですか。
私はドイツのベルリンに行ってますよね。
こういうことについてざわっとくるとしたら、
明らかに僕じゃないんですよ。
なんでそんな余計なことをするんだろうとか、
非常識な行動だと思うのは、
うちの父なんかが非常に思いそうなことな気がするんです。
事情を知っていればね。
うちの父がそう思うかどうかということとは全く別に、
私の内的対象の中の父がそう思えば、
私はイラッとするわけですよ。
でも私はイラッとしてないんですよ。
別に彼がドイツに行こうかベルリンに行こうか、
全然構わないと思うんですよ。
多分興味が持てないというのが本音なんだと思うんですね。
ところが私の父みたいな人が考えるところの、
私が考えるところの私の父は、
多分そういうのを好かない気がするとイラッとする。
こっちの方がよくあるんですよね。
代理戦争になっちゃうんですよ、こういうことって。
しばしば。
私自身はどっちでもいいと思う。
ほとんどのことがそういう気がするんですよ。
自分自身の個人的な、
つまりとってもパーソナルな部分では、
そんなことは問題にならない。
そういうふうに考えていくと、
ざわつくっていうのは、
全部こっちだなと。
全部がハホやっていう意味ではないですよ。
ただ全部内的対象がざわついてるっていうケースだなと。
在的対象というのは、
そんなにものすごいいっぱいあるものではないです。
おおむね人ですが、人とは限らないです。
さっきの言うところも言うと、
ファルスみたいなものもくっついてきちゃうので、
例えば刀とかですね。
刀とかですよ。
そういうものも自分の内的対象になりやすいと思うんですけれども、
なんて言うんですかね。
そういうものってのは、
所詮はイリュージョンなんですよね、結局。
それが満足しても、
本当のところ私は満足しないし、
それが起こっても、
本当のところ私は起こってるわけじゃない。
やっぱり僕の中ではですね、
一番人に説明すると、
ピタッときませんが、
幼稚園の年長の時のその体験が非常に興味深かった。
30:00
トラウマとかでは全然ないんですよ。
トラウマってのはそういうことではないと僕は思うんですね。
現実の対処のできなさと出会った時に
起こるのがトラウマと呼ばれているものだと思うんです。
あの現実は絶対対処できると思ってましたから、
どうせ連れて行かれて戻って来れなくなった子一人もいませんでしたからね。
内的対処っていうやつって、
要するに好きだから作ってるわけじゃないですか。
その時僕なんか母と同化したって、
同化できるってことは嫌じゃないからですよね。
嫌なら絶対同化ってできないですよね。
同化するっていうくらいだから好きで作ってるんだけど、
好きで作ってるだけに
そいつが邪魔になった時非常にややこしいんですよ。
少しいつも邪魔なんですよ。
私なんかはこの母の内的対処というものを対象化して、
ほぼ捨て去った時、実に生成したんですね。
生成したっていうのはこういう時に使うんだなって思うぐらい生成したんです。
内的対処の父はですね、まだ捨て去った感じはないんですけど、
弟父はうちの家の中ではですね、
なんていうんだろう、影がある意味薄いんですよね。
だからそれほど重要な問題を、
特にパーソナルな問題では厄介ではない。
ある意味すごい厄介な面もあるんですけれども、
インパーソナルなものは全て厄介なんですよね。
武士みたいなもんであって、武士にはなれないわけですからね。
もうちょっと本当は悔い話にすると分かりやすくなるんだろうけれども、
ここをうまくやれる気が今はしないので、またそのうちにしますけど、
要するにこの話って、
自分がどういうふうに自分を表現しようと思うかって時に、
一番問題になるのは間違いないです。
例えばかっこよく自分を表現しようと思った時に、
その内的対象の母のファルスがしゃじゃり出てくるわけですよ。
おい、シクラノスケっぽくやりなさいって。できないんですよ。
だから個人的じゃないっていうのは大きな問題なんですよ。
当然ジャニーズっぽくやりなさいって言われても無理なんですよね。
だから無理じゃない形でやるためには、パーソナルにやらなきゃならない。
実は全部現実でそうじゃないですか。
現実にカスタマイズしてやらなきゃならないじゃないですか。
それがやりにくい場面でほど内的対象というものが邪魔になってくるんだけど、
この内的対象があまりにも徹底的にあらゆる活動でガッチリしていると、
33:00
何にもできなくなりますよね。
パーソナルには何にもできなくなる。
本当にそれこそ剣道しかやれないみたいな話になってくる。
多分そういうのが、そういうののマイルなやつが私たちがよく陥りがちなざわつきであって、
あれですよね、だって剣の道みたいな話になったらすぐそこら中の人と喧嘩になりそうですよね。
意見合うことほとんどないと思うんで。
そういうようなことがイリュージョンの、僕は思うに一番何とかしたい部分だろうというふうに思っています。
33:46

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