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おはようございます、グッドモーニングボイスです。 今日はこの後に、なぜか予定が詰まってしまっているので
しかもこれはテイク2と来ているので、早めに切り上げることになるんですけれども
別に難しいテーマに トライしようとしてない時ほど、だいたいこう取り直すことになるんですよね。
こういう一寸先は闇なんですよ。本当にそう思いますね。
ちょっと先のことを予想して、簡単そうだとか難しそうだと思うことの、どんなに当てにならないかというふうなことをですね、私あらゆる人が経験していると思うんですけどね。
それなのに、予測というものが信頼できると思い込むのって不思議ですよね、ある意味では。
本当にこう 何かあるんだといつも思うんですけどね。まあそれは今日は良いとしてですね。
第4期の書き上げ塾募集中です。 これもなんですけれども
あの
ことは単純だと思うんですよ。 要は文章を書くと
いうことを するっていうことなんですよ。
だって文章って子供は、うちの子もそうですが、小学校1年もっと前から書かされるじゃないですか。
書けないという人は ほぼほぼ、少なくともこれ聞くような方は
いらっしゃらない。 だからえっとですね
どんな場合でも文章を書けない時には
こういうのを書けなきゃいけないんだっていうのがあるのはずなんですよ。 自分はこういうのを書けなきゃいけないんだというのがあるはずなんですよ。
で、それに及ばないから書けないと思うわけですよね。 理由はもう何でもいいんですよ、なんだっけ
昔ではないんだけど、でもやっぱり昔 もう名前が出てこないのも恐ろしいですね。
とにかく文章読本とかあるじゃないですか。 あるいは蔡一さんとか
あるいはこう 仕事のでも取り上げたことのある
ベトナム戦争の時の話とか、本田克一さんの文章の本とか色々ありますね。
あるってことは やっぱり文章はこう書けなければいけないんだってのがあるってことですよね。
で、それさえなければしかし書けるはずなんですよ。誰だって。
じゃあでもそれじゃっていうかも知れないんですけど、それがあったらうまくなるかっていうと、僕はそうは思わないんですよね。
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こう書けなきゃダメなんだっていう思いがなくなったら、尻滅裂になっちゃうかというとそんなことはないと思うんですよ。
で、これがあったらダメなんだと、これがこうじゃなきゃいけないんだというのをそういう人に注入したところで
抜群にうまくなるはずがないと思うんですよね。
そう、これで思い出したのはですね、運転免許取った時に
最後にやるじゃないですか。一番最後のこう1回なんかこう乗って、はい合格ですってやつ。
最終のテストを受けに行く前に一番最後やるやつね。あの時に教官の人が言ってたんですよ。
ここにいる人は全員運転が下手ですと。 だってまだ公道に出て免許も持っていないんだから、うまい人は誰もいません。
我々の目から見てうまいなんて人一人もいないんだから、うまく運転しようなんてしなくていいんですと。
それでも大半の人が合格するんですからっていう話をしたんですよ。
あの私この話は覚えているんですよね。いい話だと思ったんですよ。
なんか不思議ですよね。だってうまくないのは明らかじゃないですか。私がその免許取る前の時だから、もう今から見れば20年以上前ですよね。
で、1回も免許取って公道運転したことがない。 高速も高速教習1回やったきりというので、うまいはずがないですよね。
でもうまくやろうとするじゃないですか。 あれと大変私たちが物事に取り組む時の姿勢ってよく似てるなと
つくづく思いますね。 あのうまくかけるはずないと思うんですよ。
そんな夏目漱石とかみたいに。そんなはずないですよね。
で、そういうことを目指したらできなくなっちゃう気がするんですね。
それと同じことがですね、なんかこういろんな場面で現れるんですね。
えっと、書き上げ塾というところでやっていることも、結局それは文章が自由に表現できるとかうまく表現できることを目指すんですが、
それをうまくやろうと思ったらダメだと思うんですよ。
私もいつもその罠にはまらないように気をつけてます。
文章を書こうと。とにかくただ書こうと思おうと。
人に感心されるとか、バカにされないとか、上手に表現するとか、
言わんとするところをはっきりさせるとか、一切余計だと思うんですよね。 ただ書けばいいと思うんですね。
そのただ書くという時に下手でもいいとかって思うべきじゃないと思うんですよ。 ただ書くべきだと思うんですよね。
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なぜこれが僕らできなくなるんだろうと。 やっぱりなんかそこに妙なものを持ち込むからだと。
日記ですらうまく書こうとしてる気がしたんですよね。 今もう僕日記書いてませんが。
日記絶対人に読ませないから自分に分かればいいって言うじゃないですか。 あれ何度も何度も盛んに言うのは人はそう思って書かないからだと思うんですよ。
でも人に見せる見せない関係ない気がするんですよね。 うまく書きたいという欲は。それとは別にちゃんと湧いてくる。
これを一切合切廃すれば少なくともこの人よりはうまく書きたいとか。 あるじゃないですか。なぜか。
全然いらないですよね。多分、昨日僕本屋にたまたま久しぶりに行ったんですけど、遊輪堂に。
この人の文章はこれよりうまく書けてるだろうかなんて考えて本手に取ること絶対ないですよね。
たまにそういうことだけが目的で、でもそういうことだけが目的で本手に取った時って、なんか我ながら嫌な感じがするんで。
やっぱりやらなくなりますんで。 本読む時というのは
誰それの本だから読むとかもあるんでしょうけれども、 原則そうじゃないなと。やっぱりかなり有名な人でも僕なんかは小説とかをパッと手に取った時は
全く知らない人の小説を全く死にもせず手に取ることの方がはるかに多いような気がします。
それは孔明な人なんでしょうけどね。 だからそういう風に文章って読まれると思えばですね
書く時も同じように ただただ書けばいいんではないかと。なぜかこれが難しいんですよね。
そういう話をする塾ではありませんけれども、 文章を書けるようになりたいです以上で
それにしては高いんじゃないかとかそういうことじゃないと僕は思いますね。 思います。
その話の延長で、 今日はしてすぐ終わりますけれども
記録を取るとかタスクシュートとかって言うじゃないですか。 私はもはやあれは記録を取っているのではなくて、今やってることを宣言していると思ってるんですが
そういうふうにでもタスクシュートを紹介してくださった方いらっしゃるんですよ。 佐藤さんという方で
昔、何だっけな、電子書籍でタスクシュートの本がシリーズで出た時にそういう話を宣言をまずするんだってことを書かれていた方がいらっしゃったんですよ。
あれとあれですよ。抽出すればあそこに行き着く感じがあります。 最近記録という話になった時に
何もできなくてもいいから記録しようっていう話があるんですけど、すごく僕はニュアンスが違う感じを持ってるんですね。
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何にもできないとかがないっていうことが分かるんですよ。
記録をする時に何にもできないっていう言い方をしている時は既に評価が入っていると思うんですね。
今日は何もできなかったとかって。それをやめるのが僕はタスクシュートだと一つは思っているんですけど
主人公って言葉があるんですね。これ禅語なんですよ。禅の言葉だと言われています。
自分に自分で呼びかけるんです。おい主人公と。 これどういうことなのかって
私その主人公の話を子供の頃読んだ時にさっぱり意味がわからんと思ったんですけどなんとなく頭に残ったんですね。
それがですねタスクシュートをやっているとつくつく本当だなって思うんですよ。
自分で自分に呼びかけている感じがしてくるんです。10年もこれをやっていると。
だって今日もやったわけですからトイレに行く、トイレに入ってからトイレ終わり、グッドモーニングワイブスやる。
これ全く同じですよね。おい主人公と。あれもそうなんですよ。 ちょっと名前忘れちゃいましたけど当の時代の話だったと思います。
だから日本人の話ではないですね。 顔を洗っているかって言うとはい、中国語なんでダクって書いてあるんですけどね漢字で。
いいダクダクのダクです。 ちゃんと目は覚めているかダクダクって言うんですよ。
こういう感じがでもすごいするんですね。 これが何の役に立つのかと言われるんですよね。
でもその前の話でも出てくるんですけど、このお坊さんは一生説法でこの話しかしなかったっていうのが私にはすごいよくわかる気がするんです。
これだけでいいんですよね本当は。 だから何もできなかったことこそ記録しましょうとかすごい違うんですよ。
よく似たように思われると思うんですけど、そこに評価は入らないってことですね。
だってさっきの話もそうだったと思うんですけど、顔を洗っているかっていう呼びかけで、はい洗ってますと答えると。
これを1日中やってなさいと。
で、何やってもいいんですよ。 これも通った端子がないんですよ。
何やってもいいと言っても意味のないことをやっている人は見たことがないとかって書かれるんですよね。
そんなこと僕ないと思うんですよね。 意味のないことをいっぱいやってますよ私は。
全部を全部公開して晒してるわけじゃないだけで。 だって晒すって言い方がすでになんか変じゃないですか。
晒すってことは恥ずかしいっていうニュアンスが含まれますよね。 僕それ評価だと思うんですよ。
その評価が余計だと思うんですね。
文章を書く時もそうで、これはダブンだとかってそう思うわけでしょ。
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それが余計だと思うんですよ。
いちいち評価しないと。
で、いちいち評価しない文章に赤が入るのかって思われるかもしれないんですけど、赤は入るんですよ。
価値が高かろうと低かろうとですね。
そういうことだと思うんですよね。
それが納得がいかないって時は、つまり価値の上下をつけたいってことじゃないですか。
PDCAっていう話もタスクシュート的に私はそうではないですってことを言うんだけど、
そうであらしめたいってことですよね。
より良い自分の時間をより良くしていきたいということは、
私はより良いとかより悪いということがない方が時間っていうのは絶対上手く使えると思うんですよ。
なぜならばこれから良い時間の使い方をしようと思うとストレスがかかるわけですよ。
今までよりも一段とエネルギーをかけて慎重に行動しなければならなくなるってことを案に含むじゃないですか。
そうしてより悪い行動をとっちゃうんだと思うんですよ。
そんなのは辛いからとりあえずちょっとまだエネルギーが十分じゃないからここで漫画を読んでエネルギーを蓄えようってするわけじゃないですか。
こうして上を目指して下に行くわけじゃないですか。
これをずっと繰り返している感じってあるんですよね。
そうして文章を書くのも辛くなるし、何もしないというような意識も辛くなるし、
いろんなことが辛くなるじゃないですか。
それを一切やめるためには上を目指さなきゃいいじゃないですか。
ただやったらいいと思うんですよね。
ただやったらいいんだけど、ただやったらいいと言っても僕らただやらないから。
だからただやったことは全部記録に残しましょうという話にするんですよ。
そうすれば価値の上下をそこで認められなくなるでしょうという扱い方が全部同じになるわけですからね。
でも嫌なんですっていうその嫌っていう気持ちですよね。
嫌っていう気持ちはつまり上があるんだっていう意味ですよね。
ここは実践で乗り越えるしか僕はないと思うんですよ。
上があるって思う限りにおいてうまくはいかないというふうに僕は思うから、
うまくいかせるんだったら上は一切ないって思うしかないと思うんですよね。
それは思えないからそういうふうに自分の時間を扱いましょうということなんですよね。
何もしなかったことを記録に残すのでは全然ないんですよ。
むしろ逆ですよね。何か常にしてるんですよ。
それが批判の対象になり得ないってことです。
あれですよ、極めて問題のある行動とかは別です。
ここは避けておかないと話がややこしくなる一方なんで、
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明らかにどう考えてもそれやっちゃダメだろっていうことはダメなんですが、
僕はこの範囲もですね、大概の人は高すぎると思うんですよね。
明らかにそれやっちゃダメだろうってみんなが言うことは
僕には明らかに構わないように見えるんですよ。
最近大関がキャバクラに行ったとかで、
あの人もしかすると幕下とかまで落とされそうですけど、
結構大きな問題だと思うんですよ、大関が幕下とかまで行っちゃうのは。
何がそれでいけないんだろうって僕は思います。
多分こういう期間中にそういうところに行くのは好ましくないとか言うことあるんでしょう。
好ましくないぐらいはいいと思うんですけど、
それと大関が幕下まで落っこっていくって全然話が違うと思うんですけどね、僕は。
つまりこれは価値観みたいな話になるかもしれないんですけれども、
これもタスクシュートの恩恵かどうかは分かりませんが、
自分の行動をつぶさに全部同じ価値って思っていると、
人の妄想見えてきます、だいたい。
やけに人の行動の部分について称賛されるべきだとか非難されるべきだっていうのは、
結局激しく上下をつけている感じなんですよね。
それを自分に適応すると、
世の中の大半の人から称賛される行動ばっかり一日中取れる人なんていやしませんから、
だから自分が辛くなっていく一方だと思うんですよ。
こういう話がどうしても常にいつも許可するとか、
多めに見るとか、許すって話になりやすいんですけど、
許すっていうのはグッドバイブスで言う許すと少し違います、この場合はね。
自分にそういう甘えさせようみたいな、甘えって言葉もちょっと違うと思うんですけどね、
僕は違う意味で使いたいんで。
でもそういう話になるじゃないですか。
そうじゃないっていうことなんですよ。
さっき途中、最初の方で言った通り、
文章が下手でもいいとかじゃないんです。
下手じゃダメなんですよ。
下手じゃダメってことはないんだけど、書けばいいんですけども、
下手でもいいと思って書くとかじゃないんですよ。
ここら辺が多分厄介なんだと思うんですよ。
それぐらい僕らは評価というものと根前一体になっちゃってるんですが、
下手でもいいとか上手く書こうという意識を持たないってことなんだと思うんですね。
タスクシュートなんかは絶対そうなんですよ。
ちゃんとやろうとか、だらけてもいいやとかって思わないんですよ。
それはもう行動に評価が入っちゃってるから、ただやるんですよ。
普通そうすると思うんですよ。
ただ呼吸するとか、ただ食事するじゃないですか。
ただやるってことですね。
ただやればいいんですよ、それで。
ここを自分を甘えさせようとかする必要はないと思うんですね。
何にもしないってこともないんですよ。
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ちょっとあえて脱線するんですけど、
GDDとタスクシュートみたいな話があったときに、
だから僕はあんまりキメラにしないほうがいいと思うんですね。
よくそういう話をされたとき困るなって思っちゃうんですよ。
両方ともいい方法ならいいところを取ればいいじゃないですか、
とかって言われるわけですよ。
そんなにギチギチに、原理主義的にしないでっていう。
そうではないんですよね。
組み合わせだとするじゃないですか。
例えばよくおっしゃられるのが、
GDDは実行時のところが特に何もないので、
これも誤解だと思うんですけどね。
タスクシュートで実行部分を担ってもらって、
洗い出しとかプランニングをGDDでしよう。
一見とっても理にかなってるようなんですが、
そういうことはできないんですよね。
なぜならば、例えばGDDで洗い出すっていう行為を、
タスクシュートは書かなきゃいけないんですよ、それ自体を。
ここだけ時間止めることは一切認められないと思うんですよね。
GDDで今洗い出しててプランニングしてるんだから、
今タスクシュートやってないんですよっていうのは通らないんですよ。
それもタスクシュートではGDDをやってるって書くべきなんです。
そうしないとある時間だけは、
この扱いをやめますってことになるじゃないですか。
さっきの途中で言った主人公の話で言うと、
主人公がいなくなるんですよ、その時だけ。
それがおかしいわけじゃないですか。
それじゃもう舞台じゃなくなっちゃうじゃんっていうことですよね。
主人公はいませんで、今GDDになりましたっていうのはダメなんですよ。
その後でこれを実行する時だけ急にタスクシュートが始まって、
はい主人公登場ですっていうわけにはいかないんですよね。
一日中登場してないとおかしな感じになるんです。
少なくともそれはもうタスクシュートをやってる感じじゃなくなるんですよね。
こういうふうにいろんなところで、
どっちのほうがっていうことはないところもあるんだけれども、
同じようなことに結果としてはなるんですけど、
混ぜ合わせるとどっちの効果も、
なんて言えばいいのか分からないですけど、
二つの栄養ドリンクがあって、
混ぜると両方の効用が激減する飲み方をしたいみたいな、
そういう話以外には僕には聞こえなくなるんですね。
どうしても望むならそうしてもいいと思うんだけれども、
別にお勧めはどう考えてもできませんっていう感じなんですよね。
ぶっちゃけそうでもあったと思うんですけど、
倉園恵都さんと同じような話したんですが、
キメラになるんですよ。
いいことないような気がするんですね。
いいことのようであっても、
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これを思うんです。
主人公の話で最後終わらせたいんですけど今日は。
GTDの話が出たからちょうどいいと思うんですけど、
GTDっていうのはやっぱりあくまで西洋的で、
私っていうのがいると思うんですよ、はっきりと。
気になること、これちょっと訳語だからあれですが、
私が気になることを私が断済ませて、
私の心が済んだ状態にすると。
こういう流れだと思うんですね、あれは。
非常に買い詰まってきますと。
私はタスクシュートっていうのは、
その私が空っぽだっていう部分が大事だと思ってるんです。
非常にだからさっきの前提なんですよ。
何にでもなれるんです。
顔を洗うときは顔を洗う人になる。
この例えだと分かりにくいならばですね、
原稿を書くならば原稿を書く人になる、作家になる。
その後で娘の勉強を見るときは父親になる。
私たちそういうふうに生きてるじゃないですか。
私自身がどれほど空っぽになれるかで、
私はその役者さんの能力ってある意味、
ある意味評価の対象になると思うんですよね。
何の役でもきっちりやれますと。
悪役でも将軍様の役でもやれますと。
そうじゃないですか。
主人公ってのはそういうもんですよね、ある意味では。
だから私が空っぽっていうのは非常に前的なので、
タスクシュートとGTDっていうのはそういう意味で
もう反対側のアプローチからいくはずだと思うんですよね。
それを混ぜられるはずないと思うんですよ。
私はそこには、私というのはあるんだけども、
ずっとあるんだけども結局。
いろんな役を従前にこなせるっていうんですかね。
完全に入り込める。
完全に入り込むべきだと思うんですよ。
やっぱりメットモーニングワイブスをやってる最中に
娘の中学の三平方のやつっぽいやつ解かせられてなかったなとか
って考えながらやるべきではないと思うし、
全部そうなんですよ。
食事中だろうと入浴中だろうと。
全部それを、その役を、その時は、その時間はっていうのかな。
その時間は、時間はまたグッドワイブス的に微妙ですが、
その時間は完全にそれに入り込む。
だから私は大橋哲夫さんが最初に時間を計測しましょうと。
この時間はそれをやる時間なんですってことにして、
そしたらそういうふうな役を一つこなしたら
どのくらいかかったのかがわかるでしょっていう話から始まると思うんですね。
気になること洗い出しましょうって話からは絶対に始められないんですよ、これ。
っていうことなんですね。
これをですね、いろんな意味で、だから役を評価しちゃいけないと思うんですよ。
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いや、王様と小敷の役なら王様の方が偉いでしょうみたいな。
ないじゃないですか。
それがないと思うんですね。
ダラダラしている人と勤勉な人の役ならやっぱり勤勉な人の役やりたいでしょう。
必ずしも演劇とかドラマではそうじゃないですよね。
ダラダラした人を非常に上手に演じるというのは大事なことですよね。
この観点から上下をつけないということが一つあると思うんです。