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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
明日、グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティが、グッドバイブスの実践のために用意されています。
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しかも、初月は無料です。
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どちらでもいいという場合は、特にご指名いただかずに書いておいていただくと、
24時間くらいで、居ないには、多分、よほど2人とも伏せているとかでない限りは、解答つきます。
あと、今日のグッドバイブスというのをクラゾノさんが、ほぼ日で投稿されていて、
今までグッドバイブスで言われていたようなことが、基本的にテキストベースで朝1時に届くと、
これが中身がやたら充実していて、私はこれができないんですよね。
毎日あの充実度で書くというエネルギーが、エネルギーじゃないんだよな、多分これは。
なんかそういう風になかなか慣れなくて、あれをずっとやってしまうと、本を書いちゃいそうな気がするんですよね。
一つ一つをばらしてあれを書いていくというのは、私には手に余る感じがあります。
私は週に1回グッドバイブス心理学というので、最近はどっちかというと、今ここで喋っているような精神分析のエピソードを解釈を当てていくと。
特にグッドバイブスの解釈からもアプローチできそうなものとか、
集まっていただいている方に役立ちそうなエピソードを紹介しています。
いろんな精神分析の本が実はあるんですよ。
世に全然なぜか知られていないんですけど、実は結構ありまして、
こういう精神分析をしてクライアントさんがこういう風に変わっていきましたという話が、
僕は非常に面白いと思うんですが、それを週に1回、それだけをやっていたわけではないんですけど、だんだんそうなってきています。
あとですね、これが明日やるんですけど、グッドバイブスファクトリーの人はみんな無料で自由に受けられるオンライングループセッションがあって、
これはグループセッションなんで、そこでお悩み相談をいただいて、
ほぼクライアントさんがお答えしていくと。2時間ひたすら悩みに答えという感じで、
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しかもこれが2時間を大きく突破していくこともあるという感じで、すごい内容です。
これセットで1ヶ月という感じですね。
初月なら無料で受けられます。
ので、よろしければ今日お申し込みいただくと、明日のセッションからいきなり参加いただけますので、
よろしければぜひ検討してみてください。
公式のグッドバイブスサイトの方から入ることができます。
でですね、ここのところ大きな話がちょっと続いているかなと思っているんですけど、
今日もやや大きめの話になりそうな気がするんですが、
本当の自分という言葉があり、クライアントさんのグッドバイブスで言うとですね、
ワインドとか一つ意識と言われている方で、私は2人いるみたいな考え方があるんですね。
これも宗教では古典的に実はあったりするんですよ。
特に西洋の方ではこの発想はごく宗教的な意味ではなくて、
この発想は宗教的にはごくある、普通によく見られるんですね。
ここのところの見解は私と完全に一致しているわけではないような気もするんだけど、
ちょっとよく実は私にもわからないんですよね。
というのは、ここにこれという正解があるとは、
昨日ポストモダンの話もしましたけれども、
そもそもこれってここにもう1人の私がいるんですと、
差し示すことができるぐらいならば問題はすでに全部解決済みだと言ってもいいぐらいなんですよ。
わかっていないはずだから当たりをつけるみたいな話であって、
2人いると想定するといろいろうまくいくよねというのが、
今僕はグッドバイブスで言われているところだなと思っているんですよ。
そういう水準にあるなと。
これは昔からやっぱり今言ったように宗教では言われることで、
例えばですね、ちょっと何世紀か忘れちゃったんですけど、
ウィリアム・ブレイクという詩人がいるんですよね。
彼が盛んに言ったことなんですよ。
四重のビジョンという表現を彼は取るんですよね。
またこれもここでしか出てこない言葉だと思うんですけど、
四重だから重なっているわけですよ。
ビジョンだから物の見方なんですよね。
彼は要するに一重、二重、三重、四重と言うんですよね。
一、二、三、四じゃないですよ。重なりが増えていくんですね。
四重が要するにクラゾンさんの言う一つ意識とほぼ同じだと。
ちょっと神秘的すぎて説明のしようがないレベルなんだけど、
しかもあれは統合失調症だという人もいて、
つまり幻覚だと言われるケースもあるんですよね。
詩人の言うことだから幻覚だと言えば幻覚みたいなのもあるなとも思いますけどね。
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非常に難しいというか、つまり畳から見ると難しく見えるんですよ。
意味不明な感じがする。
ただ彼が物を嫌ったものに、嫌った考え方にニュートンがあるんですね。
要するにニュートンの物の見方は一重だというわけですね。
この絵がとてもいい絵で、実は私昔カレンダーを持ってたんですけど、
ニュートンが地球をコンパスで測っていて、こういう数値で測る見方というのは一重で、
一重というより二重よりダメなんですね。
二重というのは何かというとバラバラ意識なんですよ。
一重がバラバラ意識の極みみたいな感じなんだけど、
二重は要するに日常的な私たちの物の見方を指して、
だから普通の人はみんな二重にいるんですよ。
だから四重にならなきゃダメだって言ってるわけですね。
この人の版画とかこの人の発想が一番現代の人に知られているのは、
トマス・ハリスの《羊たちの沈黙》の前作のレッドドラゴン。
レッドドラゴンはミリアム・ブレイクの作品のタイトルなんですね。
《若き竜》ってやつですね。
あれもカレンダーに載ってた気がするんですけど、
あれは非常にフロイトでいうところの男性性ってやつですね。
性欲そのものみたいな感じもあります。
それは余談でいいとして、その四重のビジョンなわけですよ。
だから四重というのが一つ意識だとすると、
二重というのがバラバラ意識なんですね。
その下に一重があるわけですよ。
一重って彼は書いてあるんですよ。
一重は重なっていないだろうと思うんですけどね。
三重のビジョンって何かっていうと、
ロマンティックな物の見方ってやつなんですね。
だから三重は二重より偉いわけです。
日常の物の見方をするよりは、
ロマンティックな物の見方をした方が、
ロマン主義風というのかな、
四重に近づくと、一つ意識に近づく。
詩人ですからね、そういう発想があるわけです。
四重になると問題というのは全部解決しちゃってるわけですよ。
これが正しい、ブレイクに言わせると、
正しい物の見方であって、
間違っても一重の方に転落しちゃいけないということを
切々と、でも意味不明な詩で書くと、
そういう詩人で一部マニアックな人に絶大な人気があるわけです。
宗教神秘詩人みたいな言い方をするので、
要するに宗教的な発想のものなんですね。
この頃から一つ意識とバラバラ意識みたいなものはあったわけです。
ただですね、ほぼ狂人とみなされていました。
つまり、この四重のビジョンで物を見るというのは、
全然意味不明なものではないわけです。
彼はそんなことに興味なかったかもしれないけど、
貧乏な版画を作ったり、詩を書いたりする人で、
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版画をど真ん中に置いて、その周りに詩を書くんですよ。
そういう芸術作品を作っているんですね。
訴えていることは常に、四重のビジョンが全てということなんですね。
一重のビジョンは全て、
一重のビジョンは全て、
一重のビジョンは全て、
一重のビジョンは全て、
一重のビジョンは最低、
これを繰り返し言うと、
ほぼこれが世の中には受け入れられず、
僕は次の時代がですね、いわゆるロマン主義ってやつだと思うんですよね。
これ、今の点で言うとですね、
やっぱり一つ意識から物を見ようっていうか、運動だったと思うんですね。
最初はすごい乗ってたと思うんですよ。
最初は前期は非常にうまくいってたというか、
うまくはいってないんだけど結局、
いけるって感じがあったと思うんですね。
ところが、いけないんですよね。
結局この一つ意識というのは、
ロマンの中では起こることなんだけど、
起こせることなんだけど、つまりずっとロマンティックにやって考えて
生きようとしている間できるんだけど、
そうすると生活が破綻すると。
そういう風になっていってたんですよ。
だから、お酒飲んだりワイン飲んだり、
後期でよく出てくるのが大背敵ロマン主義みたいな言われ方をするんですよね。
ナチズンもそうやって攻撃されたりするんですけど、
要は現実が扱えなくなっていくわけです。
アヘン中毒になってみたりね。
一つ意識に向かうんだけれども、
その場合は現実は犠牲にならなきゃいけないと。
つまり、ブレイク的に言うと三重のビジョンに突っ走っていくから、
二重の世界が事実上手当てできなくなるわけですよ。
こういう話がロマン主義をすっげえ雑に総括すると、
しかもグッドバイオス的に総括すると、
こういう話になるんだろうなという風に思います。
特に後期のヘルマンヘッセイとかそういう人たちが、
やっぱり三重に突っ走ると何が起こるかというと、
精神分裂病になると。
彼がそのことを期したのが、私はそれが最高傑作だと思っているんですけど、
シャリンの舌で有名な人なんですけどね。
シャリンの舌じゃなくて、小屋の狼という作品があります。
この作品中彼はですね、自分の精神分裂病、今では統合失調症の、
彼ははっきり書いています。これは精神分裂病なんだと。
しかも彼はユングに見てもらっていますね。
ユングはこういう人に関しては完全に治しちゃダメなんだという感じの治療をしています。
つまり、この人にとって精神分裂であることと、
作品を創作することは近い関係にあるので、
同じじゃないんだけど、近い関係にあるから、
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これを治してしまうということは、
彼から何か、要するに創作力を奪っちゃうみたいな、
そういう考え方で、治療をやるんだけれども、
治しきらないみたいな、
それってどうなのっていうようなやり取りも結構あるんだけど、
そういう考え方だったわけですね。
ロマンティックなんですよ、何しろ。
倉園さんの言う一つ意識とかに比べても、
はるかにロマンっていう感じなんですよね。
やたら美少女が出てきてみたい、そういう世界なんですよ。
やたらモーツァルトが出てきてみたいですね。
ワイン飲んでばっかりいますし、とにかくロマンティック。
これは一つ意識以前に、
この生活を続けるときっと破綻するよねっていうのが、
目に見えるような、
でもこの人まだしも相当まともな方で、
その同時代に描いていた人たちの作品は、
これよりもはるかに逸っちゃってるというか、
現実逃避的です。
だからやっぱり最初の方の流れとは裏肌に、
どんどんどんどんですね、
現実というものは、
この一つ意識を許さないっていう、
そういう絶望感が、
だんだん色濃くなっていく感じがありますね。
そういう時代がヨーロッパにはあったわけです。
今ユンクと言いましたけど、
ここを何とかしたいというのが、
どっかにあったと思うんですよね、精神分析には。
そういう意味で僕が、
グッドバイブスと精神分析が近い関係に出てきてるのは、
そういうことがあるんだと一つ思うんですよ。
一つ意識とは言わないですけど、
本当の自分みたいな、
この表現はヨーマンはみんな使ってますよね、
これに近い表現は。
要するに40のビジョンに近づくってことは、
本当の自分というものと、
本当の現実というものを誘惑させたいと。
誘惑できないっていうことを書いたのが、
小屋の狼で。
誘惑させようとして失敗して、
精神分裂病になって、
夢の世界の中でほぼ破滅していくという。
破滅しないんで、
小屋の狼の主人公は。
頑張ってる感というものを滲ませるんだけど、
頑張ってますよねっていうところで話が終わる。
彼は戦後まで生きましたし、
ノーベル賞取ったりもしてるし、
自殺したりもしなかったんで、
あの頑張り感が結構身を結んだんですよね。
ただ、この分裂感はあるわけですよ。
精神分裂っていうぐらいですからね。
要するに一つ意識側に生きたい私と、
これを何て言うんですかね。
これを彼は狼と言うんですよね。
日常生活に留まって、
やりたくもないことをしなきゃいけない。
これを彼は人間と言うんですけど、
つまり人は人間と狼に分裂しているという
言い方をするわけですよ。
で、狼が本当の自分なわけですよ。
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もっと言うと、
狼と人間が一致したところに
本当の自分がいるって、
私はこの感じが近い感じを持ってるんですけどね。
この本当の自分ということで。
マインドなのかな。
一つ意識の方に、
融合できないものの融合みたいな。
このテーマでは、
ブレイクもよくし、
版画を作ってます。
こうあれですよね。
陰陽みたいなやつですよ。
陰と陽が融合していくんだけど、
融合しきらない感じというもの。
そういうホリズムみたいなものをですね、
描いてるんですよね。
要するに、
ロマハは事実上失敗するわけです。
何しろ、
ヘッセという人はやっぱり
すごい繊細だし、
なんていうんですか。
繊細なんですよね。
第一次大戦を目の当たりにして発狂しちゃう。
それが精神分裂病の最初の契機になるんだけれども、
その辺の話も
小屋の若みには出てきます。
そういう夢を見るんですよ。
ただ戦争も、
えらくロマンティックな戦争なんですけど、
彼の頭の中では、
ロマンがないとダメなんですね。
ある意味では、
彼の日常の生活っていうのも
ひどくロマンティックで、
全然リアリティを感じさせない日常の生活で、
これがそんなに嫌なのかと思うほど、
大して嫌なものには見えないんだけれども、
彼からするとやっぱり、
そこに留まらせられるのは
すごい辛いっていうのが
あったんだと思うんですね。
そういうわけで、
正気を保つのがほぼ不可能になるので、
事実上、諦めましょうねみたいなノリも
どこかにあるわけです。
イゲイド・リラランだったよな。
生活なんてものは
召使いに任せておけっていう
有名なセリフがあるんですけど、
あれがそういう話です。
そっちに行くとバラバラ意識になってしまうから、
諦めようということで、
綺麗な女の人と一緒に複読自殺すると。
そういうノリなんですよね、この時代って。
その以降に来ているので、僕らは、
昨日も言った通り、
ポストモダンなので、
要するにですね、
バラバラ意識は受け入れようみたいな感じの
時代だったと思うんですよ。
40のビジョンとか、
ロマンとか、
そういう方向には突っ走らないで、
とりあえず、
肉体的でバラバラでいいから、
それを受け入れましょうと。
そういう生き方に、
精神分析側から継承派しているのが、
お好み警護さんなんだと思うんですよ。
ジゾイド人間というのと、
自己愛人間というのは、
両方とも同じテーマを抱えているんですね、多分。
バラバラ意識でいけるっていう感じが、
今の時代はあるけれども、
それをずっとやると、
自分の身体がバラバラになってしまう。
そういうのもあるけれども、
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それをずっとやるってことは、
要するにそっち側から攻めたわけですね。
ブレイクとかヘッセに言わせれば、
もう自明なわけですよ。
二重とか、そういう日常とかでやっているということは、
人間としてありえないっていうのがあるわけですよ。
それはもう全くナンセンスだっていう感じで、
突っ走ってるわけですね。
だけれども、我々の時代は、
もっと非常に現実的になってきて、
とにかく二重のままで、
身の回りを良くしようっていう考え方だと思うんですね。
二重のままでいいから、
みんなで快適に、
だから快っていうのが多分僕は全てだと思うんですよ。
快適っていうことかな。
全自動洗濯機とか、
そういうものが非常に重要視されるようになったんですよね。
ロマン辞めて、
とにかく身の回りの不快なものを、
一つ一つ潰していくと。
これが非常にうまくいったんで、
もうすっかりですね、
荒野の狼とか読んでる場合じゃないんですよ。
絶版になりましたからね。
1906、1970年代に。
その反動みたいにして、
ヒッピーの人たちが、
あれをやたらと読み直すという時代が来るんですけども、
てことはどういうことかというと、
やっぱり、
一つ意識を現実に適用しようという運動って、
なかなか無くならないはずなんですよね。
理由は非常に、
僕はこれを精神分析が一番はっきりさせたと思うんだけど、
偽りの事故になっちゃうんですよ。
というか、二重の世界に行き着いて、
そこでうまくやるってことは、
要は偽りの事故が満足するように、
偽りの事故というのは何のためにいるかというと、
これをやるためにいるんですから。
適用を快適にすると、
適用を快適にするとすごい面白いと思うんですけど、
適用って結局不愉快なものなわけですよ。
下手にやろうとすると。
だから、適用が外傷になると、
トラウマになるという話が起こってくるわけですよね。
自己愛、みんなで自己愛というのは、
とっても難しいわけじゃないですか。
だってみんなが本当の現実を無視して、
自分にとって最も都合のいい世界を作り出していくわけだから、
つまり、自己愛というのは、
どうしたっているように、
自己愛というのはどうしたってイリュージョンになるわけですから、
いいものと悪いものに現実を分けるわけですからね。
いいものと悪いものに現実を分けるということは、
現実は分かれていないんですからね。
ある人にとっては、
お天気がいいと、青空を見られるのがいいと、
でも農作業をやっている人にすると、
そろそろ雨が降んないと困ると、
現実というものをいいと悪いだけで分けていくと、
当然利害が対立していきますよね。
その時に窓ガラスにスクリーンを映して、
今日は晴れていると思う人と、
雨が降っていると思う人がいれば、
幸せだということにはならないわけですよね。
どっちかの現実は実態としてあるので、
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でも私たちは、なるべくある意味ではですけど、
イリュージョンの中で生きようということになったんですよ。
これはすごく僕はロマンカの考えのごく一部を
機械で実現したみたいな、
そういうノリだなと思うんですよね。
今の時代って本当にそういう感じがあって、
万能なわけですよ、もはや。
多分ですけれども、
そのうちそういうものはできると思いますね。
窓に自分の見たいものを映し出すみたいな。
荷物等が全てアレクサとアマゾンが
用意してくれるようになればですね、
実現したいというのが、
そういうものになればですね、
実現しないわけじゃないと思うんですよ。
完全に二重のままで、
四重は無理だな、三重で生きると。
そういう感じですよね。
快適さというもの、
肉体にとっての快適さというもので、
完全に身の回りを覆うっていうのが、
今私はある程度実現しつつあるのかなという感じがします。
これってだから本当の自分というのはいるんだけれども、
要は家の中にいるってことですよね。
本当の自分は家の中にいて、
基本的には外部とは関わらないと。
これは、このこと自体が全然本当の自分らしくなくて、
ひどく偽りの自分らしいんですけど、
なぜなら守られてますからね。
偽りの自分で何でいるかというと、
怖いからいるわけですからね。
二重のビジョンというのはなぜいけないかとブレイクが言ったかというと、
現実と関わってないっていうことを彼は言ってるわけですから。
小屋の狼でも同じですよね。
狼というのは、現実と関わりたがってるっていう意味じゃないですか。
野生ですから。
人間というのは結局そこから、
それではうまくいかなかったり、
汚くなっちゃったりするものを隔てようという発想なんで、
そういうところまで彼は、
要するに考えたところまでいって分裂したわけですよ。
分裂が決定的になったんですね。
そういうことだと思うんですね。
現実にこの一つ意識を適用するのは、
そんなに絶望的なことなんだろうかっていうのが、
僕はグッドバイルスだったと思うんです。
その前にも、もちろんあったんですよ。
精神分析は完全にそういうことです。
これは病理の方だけしか扱っていませんけれども、
結局のところ病理の人にとって問題になっているのは、
本当の自分というものがそこで生きていないことなんだということだったんですよ。
その見たてが全てに近いのかな。
そういう見たてがまずあるってことは間違いないと思うんですね。
その人はどういう病気であるのか。
今は特に、
このパッドキャストでも言ったような、
DSMで病気を分類して診断するということは、
第一義的に大事なことじゃないんですよね、
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分析にとっては多分。
だからこの人はどういう病気なのかも一応検討するけれども、
大事なのは、
本当の自分が切られるように、
そのセッションの中でいろいろと面倒臭い病気を
ケアしていくということなんじゃないかと思うんですよね。
本当の自分が生きられるようになると。
ということはつまり、
本当の自分が全く生きていないというのは、
ほぼ病気だということだから、
本当の自分が生きたほうがいいということになりますよね。
これは大きな話をすると、
ブレイクということと何ら変わらないんですよ。
彼は40歳じゃない限りは、
どこかが死んでいるというような発想を取っているわけだから、
30歳とか20歳は、
要するに重なっている視点のいくつかを犠牲にしているから減っているわけですから、
十分に全部が活用されれば、
40歳になるはずなんですよ。
多分そういうことをロマン派の人も考えたんだと思うんですね。
狼を殺しているということが問題なんですよ。
問題だったわけですよね。
ただ、狼を生かそうとすると、
なぜか現実的な状況が変わってしまうんですよね。
問題だったわけですよね。
ただ、狼を生かそうとすると、
なぜか現実が犠牲になると、
そういう悩みをロマン派の人が訴えていたということを、
ヘッセが総括したんだと思うんですね。
こういうのって宗教には常にあるじゃないですか。
私、読むセラピーで弓と禅というのも取り上げましたけど、
あれもそうですよね。
ひたすら本当の自分が弓を射るように
訓練していくと。
本当の自分じゃない奴が少しでも出てくると、
それはもうダメだと見出して、
ひたすら本当の自分が弓を射るように
やっていくっていう考え方ですね。
だから、現実に対して本当の自分だけが出ていくと、
偽りの事故を出さないようにしていくっていう、
あれは訓練なんだと思うんです。
グッドバイブスも要するにそういう方向指向していて、
グッドバイブスの独特なところは、
今の時代ならそう難しくはないじゃんってことなんですよ。
ひとつにはね。
ロマンガの時代には何しろナチズムだったし、
戦争とかもあったから、
本当の自分を守りたくなるのは
ごく当然だったわけですよね。
偽りの自分、満載でいくしかないような
時代の苦しさがあったんだけど、
今はそうではないところがあって、
それなのに、
アレクサとネットと、
要するに、
お好みさんの言うところの自己愛人間に徹して、
自分のささやかな自己愛というものだけを
守っているほど、
がんじがらめに守らなくても
いけそうですよっていうメッセージが
割とあると思うんですね。
本当の自分というもので、
偽りの自分だけが出てくると、
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本当の自分というもので、
例えば仕事をするとか、
こういう発想がロマンスにはないんですよ。
全くないわけです。
仕事をするとなったら、
それは、要するにダメな自分というか、
偽りの自分、100%でいくしかないという、
そういう絶望感だったんだけれども、
ブレイクの時代にはましてやですよね。
宗教的に不思議だから、
日常は二重なわけですよ、自動的に。
でも、そうじゃなくて
自分ができるんじゃないんだろうか、
という考え方なんですよね。
割と僕は精神分析にも
そういうところがあると思うんです。
最後までそこを言わないですけれども、
偽りの自己優勢であってはいけなくて、
本当の自分が生きられるようにしたところで、
多分セッションを終了にすると。
これは価値観としては
同じことを思考していると思うんですよ。
私はライフハックというのは、
当然二重だと思うわけですね。
二重と二ゾイドの世界だと思うんです。
やっぱりここでもポイントになるのは、
本当の自分というものを仕事に借り出すみたいな、
これがありえないことだと考えられているわけですよ。
狼に仕事をやらせてもダメでしょ、
みたいなそういうところがあったはずなんですが、
カラズムさんの、
特にチェンジ図で編載されていた記事の頃は、
本当の自分でやるのが
実は一番いい仕事をするっていう部分で、
四重と二重を接続したような感じっていうのは、
僕の中では発生していたんですね。
意識させられていたわけです。
これはすごく新しいよなっていうイメージを持つんですよ。
やっぱり僕らは、僕らはというのも変ですが、
後期ロマン主義の後なんですよ。
この日常と本当の自分は完全に分裂し、
本当の自分というのは日常生活のためには
何の役にも立たないから、
でも本当の自分を殺さなければ
生きていけないような生き方っていうのは、
死んでいるのと何も変わらないっていう抗議から来ている、
その後の、その後には要するに絶望の時代があるわけですね。
すっげえ極端なのだと何もすることがないよねっていう、
ただただ漠然、舞台の上で何も起こらない舞台とか、
そういうふうになっていくわけですよ。
それは要するに僕らが偽りの事故だけで生きている、
死、それ以外の選択肢は一切ないっていう、
偽りの事故ってさっきから言ってるのは、
もう説明を一切省いちゃってますけど、
ミニコットのやつですね。
あるいはもうヒステリーしかないと、
現実を二個に完全に分けちゃって、
理想的な現実とダメな現実と、
極力このダメな現実を排除して、
自分の生活からはですね、締め出して、
理想的な人、理想的な家電とか、
理想的な衛生状態とか、
そして一番重要なのは理想的な会社ですよね。
理想的な人ですよ。
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こういうふうに完全に分けておいて、
一種ヒステリーの世の中に生きると、
その人にとってなんですけど、
ヒステリーの世の中というものは別にないので、
その人の真理から見ると、
ヒステリーの世の中が出現するわけです。
評価者が存在し、自分に星をつけてもらうと。
最近Amazonの星の話をちょっとしようと思っていて、
今日はできそうにないんですけど、
星5だけで生きたいわけですよ。
だってそうですよね。
ミシュラムとかタブログとかみんなそうじゃないですか。
星の高いものを自分の周りに置くことが、
いい人生を歩むってことだから、
これは私は完全にヒステリーの構造に
組み込まれていると思うんですよね。
いいと悪いがあるということは、
そこに競争があるということなので、
評価者がいるわけですからね。
評価者がいないいいと悪いだと、
ヒステリー虜して教会でなっちゃうんですけど、
そこまでいかずに評価者がいると。
星3以上のものを自分にどんどん位置付けると。
もちろん自分も星3以上の人間であると、
これは完全に競争というもの。
お父さんという人、お父さんは評価者ですよ。
お父さんという人がいて、競争というものがあり、
いい方にいないということになると、
大変だと。そういう価値観ですよね。
このヒステリーかジゾイドか、
どっちかを選ばされるという感じになっちゃっているんですよ。
どっちも本当の自分でやることではないんですね。
ヒステリーというのは、
非常に疑似的な世界なので、
ここだけで生きるということは、
全然本当らしさはどこにもないわけですよね。
完全にゲームに乗っかっているだけなので。
何よりも非常に厄介なのは、
言ってみればこれはネタ見の世界なので、
うまく言っている人は、
時とかその人はいいのかもしれないんですけど、
星がずっと1に晒され続けているというところでは、
このヒステリーが完全に脱価値化していくわけですよね。
本当の現実よりずっと低い世界に
なぜかいさせられ続けると。
これが何者かになりたいということだと思うんですけどね。
じゃなければもう、
ジゾイドですよね。
世の中に自分以外の人はいないことにすると。
極労のそういう話ですよね。
そうすれば競争からは逃れられるわけですよ。
人が他に自分しかいないわけですから、
家から基本的に出ないということによって、
それは可能になるんですけど、
ここと引きこもりが多分関係あるんですけれども、
話がでかくなりすぎているので、
この辺で収束しちゃいますけれども、
要するに本当の自分というものが
現実の役に立つというのが
グッドバイブスの新しいところなんですよ。
特にロマン派の最後の方から、
この考え方が完全に放棄されたんですね。
本当の自分は現実には何の役にも立たないと。
ヒステがそこに一生懸命抵抗しているのが
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僕の考え方なんですね。
本当に一生懸命抵抗しているのが
僕は一番強い人だと思うので、
あの人は後期のロマン派の枠組みから
少し逃れ出ている感じというのがあるんですけど、
多分みんな頑張ったと思うんですよね。
これ嫌ですからね、どう考えても。
だけれどもほぼ撃沈して、
その後にやってきたのは
本当の自分なんてどこにもいません状態で
いきましょうという絶望的なある意味、
リアリズムみたいになったんですよね。
私が時々言われているのは
ちょっと恐れ多いんですけど、
冷静なリアリストと言われているのは
この路線なんですよね。
だから僕はこの感覚って古いなと思うんですよ。
こんなことを言ってもらって
申し訳ないとも思うんですけど、
この発想は19世紀のそれなんですよ。
よくて20世紀なんですね。
サルトルとかね。
もうその時代は誰が昔に終わっただろうと思うんですよ。
この議論をいつまでも引っ張るほど
価値があるとは思えないわけですよね。
要するにリアリスト対ロマン派みたいな発想って
ここから来ていて、
これを古典として楽しむのは
別に構わないでしょうけど、
これは現代の教養だとは思えないですよ。
なんか大正時代みたいな感じですよね。
昭和よりもさらに戻っちゃって。
現実の自分というものが
本当の自分というものが
現実にやってきた時に
それではやっていけないから
代わりに機械とか
ライフハックとかがいるっていうのが
最後まで引っ張ってきてるんですけど
そのラインで行く限り
すごく敗北感が強いじゃないですか。
そういう機械とかライフハックとかが
すごく敗北感が強いじゃないですか。
そういう記事が定期的にブログに上がってきて
考えさせられるんですけど
つまりそれは
究極的には私は守ってあげなければいけないという
本当の私っていうものが
いるにしてもいないにしても
とにかく守ってあげなきゃならないっていうのは
前提にありまして
その守ってあげなきゃならないのが
しかも価値を持ってるっていう話になっちゃってるんで
内向的な人の輝きみたいな
ああいう話になってるんですけど
あれがずっと
それこそ大正時代から
延々続いてきていて
一つの常識みたいになっているんだけど
実はウッドワイブスで言われてることっていうのは
それにかなり真っ向から反抗してるというところがあるんですよ
本当の私のほうが有能で強いんじゃないの
っていうところがあるんですよ
これを言ってるのも実は
全然違う文脈みたいに聞こえるんですが
それが精神分析で一つはね
もう一つが弓と禅みたいな
ああいう仏教の武道みたいなやつで
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あの辺でも書いてあることって
結局そういう話だから
あれを弓じゃなくてですね
デスクワークとかオフィスワークに
持ってくればいいっていうのは
新しいところだと思うんですね
多分それができるんだったら
それに越したことはないと思うんですよね
そんなリラナンの名前忘れちゃったんですけども
この人たちみたいにさっきも言ったように
生活っていうものはお手伝いさんに任せておいて
自分たちは美しい景色を夢見ながら
毒を持って死ぬしかないんだっていう
あれ美しいというか
何か文学的な雰囲気を帯びてるけど
言ってることは非常にアホみたいじゃないですか
ああいうアホみたいなのが結構あるんですけれども
シェリーとかの詩でもですね
なんていうんですかね
日常というものの価値を
そこまで脱価値化している視点っていうのを
読んでる側としては
ひどく押し付けがましいなというところも
ないわけじゃない
ないわけですよ
結局そういうのを僕らは
どっか受け継いだというのか
誰かが吹き込んだというのか
そういうところがあって
自分自分っていうものは
ダメなんだみたいな
誰がそれを言ったのか知らないですけど
これはヒステリーの成果だと思うんですけどね
散々パラ競争させられてきていて
なぜかダメなところをやだら言われるわけですよ
僕なんかも小学校時代がそうでしたけど
勉強ができてもですね
例えば喧嘩が弱いとそこを言われるみたいなね
そういう感じでね
みんな競争と劣等感みたいなのが吹き込まれて
俺はまだまだなんだという
意識で頑張らないといけないというのを
ずっと続けさせられているうちに
嫌になっちゃうわけですよね
そういう嫌になっちゃう感というものと
複読自殺みたいなものが
妙に美しくマッチングしていくっていうのが
本当ダメだなと
最近というか40過ぎると分かるわけですよ
このカラクリはデタラメが多いということに
考えてみると
Amazonで星1を10個くらい付けられたからって
絶望して毒どんだりする必要って
全然ないじゃないですか
1本違ったらあんなのはただの星じゃないですか
この話をちょっと来週したいと思っているんだけど
つまり
どこかで書いていきたいんだけれども
すいません 喉が詰まっちゃったんですね
今日長いな
ヒステリーか引きこもりか
ジゾイドか
ジゾイドと引きこもりは
すごい双子なんですけど
このどれかを選びなさいみたいなのを
いい加減やめたいよねっていうのが
今私がちょっと
表現していこうかなと思っている話ですね