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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
急に寒くなりましたね。
私、グッドボイスで、なお何ともなっていないような話が自分の中でいくつかあって、
一つはどうしても、本の売れ行き等のことと、
これですね、実は売れていないということが、そもそもすげえ気になっているのかというと、
そうではないような気もするんですね。
このフェーズに入ると、変な義務感が発生して、売れないということは、
物書きやっていて、罪深いことなんじゃないかと思うところが、
罪深いはちょっと違うんですよね。
なんかね、責任能力不足みたいな、
変な六字熟語があったじゃないですか。
政権担当能力。
民主党が政権を取れるようになったから、急に出てきたように思われていますが、
実は戦前に発明された用語で、
やっぱり当時の立憲政友会のもう一つの党で、
やっぱり二大政党ですごく争っていた時期があって、
大正デモクラシーの頃ですよね。
あの頃に政権担当能力がないとお互い言い合っていた。
確かそういう話だったと思うんですけど、
すごい脱線してますが盛大に。
要するにビジネス著作家担当能力みたいな、
そういうものにケチがついているような感じ。
これが売れることで免罪されるような気がしちゃうんですよね。
多分そういうことだと思っています。
だから実際に売れ行きがいいのか悪いのかって、
著者にはリアルタイムとかでは全然わからないんですよ。
著者兼編集であり、出版社にもいるっていう人ならわかると思うんですけど、
実はリアルな売れ行きがほぼ手に取るようにわかっているっていうのは、
著者じゃないんですよね。
著者は雰囲気で掴むみたいな感じで。
だからすごい面白いことが昔思い出したんですけどあったんですよ。
iPhone情報整理図っていう本が、こちらは強調なんですけど、
すごい伸びていた時に、僕はちょっと遅れてですね、
例の先送りする人、先送りしなくなる50の方法っていう本を出したんですよね。
私はiPhone情報整理図の方がすごい売れていて、
50の方法はさっぱり売れていないという体感覚だったんです。
iPhone情報整理図の方はすごい頑張って書店巡りとかして、
気合い入れてやってたんですけど、
黄色い本の方は何にもしてなかったんですけど、
実はそっちの方がずっと売れていたという時期があって、
後で慌てて対応したっていうことがあった。
僕の対応にどれほどの意味があったのか知らないですけど、あったんですよ。
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だからこの著者の体感覚ってすごいいい加減なんで、
明らかに黄色い本の方がどっちかというんだったら売れてたんですよ。
だからダメなんだなという体感覚とかで分かるわけないんで、
全く売れていないのとすごく売れているのだと体感覚で分かるんですけど、
すごいアバウトなんですよね。
そういうこともありまして、
これをGood Vibesに何とかするっていうこともないんですけどね、
これ全部イリュージョンなのは分かっているはずなんで、
というかイリュージョンなんですよ。
すでにこの体感覚とか、
何とか言うのがでだらめなんで、
これは実務的な話をしたとしても、
ちゃんとしたデータを持っているわけじゃそもそもないということがあります。
その本のリアルのセミナーが31日にありますので、
こちらぜひ、せっかくっていうのも変ですけど、
31日に、最近リアルのセミナーでお目にかかっていない方がいっぱいいらっしゃるので、
今日はですね、いろいろと、
ここのところずっとオンラインでしかできなかったような話をさせていただければというふうに思っています。
本に関してもいろいろまだ補足したいことが山ほどありまして、
これも不思議なんですけどね、一冊書くということは大半書き上げているはずなのに、
補足したいことがいっぱいあるとか言って、
一冊改めて書いてみると、結構前の本に書いてあったな、このことはということもあって、
今回も言わんとすることを文章に直したときに、
文章に直しているわけだからピタッと字はしないじゃないですか、自分の気持ちと。
だからといって直したところで、救い上げられていないなと思っているところが、
実は救い上げられていたみたいなことがありまして、
ちょうどいろんな角度から見ていると絵の模様が変わるっていう、
子供のおもちがありますよね、あれと似ているんですよね、文章というのは。
角度によって出てくることが変わってきちゃうので、
いろんな角度から見るとほとんど書いてあるとも言えるし、
ある角度から見るとそれしか書いてないとも言えるので、
そういう難しさを本を書くと感じます。
そういう話はしてないですけど、
昨日書き上げ塾というところで、これも久しぶりに、月に1回ですけど、
リアルで一応やっているわけです。半分オンラインですけどね。
人数がある程度リアルでは少なめで集まって、
オンラインでも受けていただけるという、非常にオンラインが
いわゆる不幸中の幸いというか、怪我の巧妙的に
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コロナで抜群に進歩した気がします。
私とか大橋哲郎さんもそうですし、倉園さんともでしたけど、
コロナ前からオンラインというものは結構使ってはいた方だと思うんですけど、
何しろ世の中的にはそうじゃなかったので貧弱でしたよね。
とりあえず画面が映り、とりあえず音声にノイズが入りにくければ
それでよしとしましょうぐらいな感じで、結局これはリアルで
うまくできない時の長距離とかそういう時のための
だいたい手段に過ぎない感じだったけど、今はそうじゃないですもんね。
明らかにメインでこれをやるという風になったから、
いろんなところが細かく良くなっています。
これがアフターコロナで今度どうなるんだろうというのは
ちょっと気になるところではあります。
結局リアルの代替を完全にできるわけじゃないじゃないですか。
それはもうみんな意識されていることだと思うんですけれども、
何ですか、やろうと思って技術を作っていくというのは
先へ進ませた場合と、そうはあまり思われていない時とでは
やっぱり違うんだなというのを実感します。
2年前は同じようにZoomもありましたし、他にもいろいろあったんだけれども
決して同じじゃなかったよなと思います。
話が逸れているんですが、
昨日フラゾーンさんのお話を割とがっつり
一つ意識とバラバラ意識なんですけれども、
あれは私の勘でいうと
現実と罪と罰のイリュージョンみたいな感じなんですよ。
だから私はさっきのケチがついた本が売れないと
罪の意識を持つという話から始めたんですが、
要するに、
僕なんかは特によくあることなんですが、
意図的に別に悪いことをしなくても
さっきの本が売れないがまさにそうなんですよね。
意図的にというのも微妙なんですが、
意図的でないときは微妙だなって思うんですよ。
罪の意識って別に悪いことをしたとは限らないわけですよね。
例えば本を書いていないとか、
良いことじゃないかもしれませんけど、
でも本を書いていないことは罪か悪かということになってくると
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そうは思えないわけですよね。
罪を追わせるようなことになりやすいわけです。
昨日ちょうどですね、
これも思い出したんですけど、
ジャンケンしてランドセルを追わせるっていう
罰ゲームみたいなすごいゲームがあったんですね。
小学生が負けたやつに全部背負わせて
あれは何なんだろうって思ったんですよ。
その話が出たとき。
あれはいじめっぽくなるんですけど、
誰だっけな名前が出てこなくなったので後ほど調べますが、
前々からこの自閉症というものは存在しないんだ的な
面白いことを書かれている自動心理学なのか心理学者なのか
いつも私はその人の本を読むと結構難しいなって思うときもあるんですけど、
難しいのは切り口が非常に変わっているからで、
その辺は精神分析の読みにくさと似てるんですけれども、
そういう人がいらっしゃって、その人がいじめについての論を立てているんですよ。
この話が私は非常に当たっているなと思って、
またたまたまその人が扱っていたいじめ文学みたいな
文字にして扱っていたものが、私がちょうどこれはいじめの話だと思っていたのと
ピタッと重なったので、そういう意味でもすごい興味深かったのがあるんですけど、
名前がなぜ出てこなくなるのか分からないんですけど、後で調べておきますかね。
ポッドキャストでそのうちまた取り上げられるといいかなと思っています。
その人が要するに言わんとしていることはちょっと分かりにくいところもあったんですけど、
私の理解している範囲内では、いじめというのは
法意識の未熟な現れなんだということなんですよ。
つまり私たちは法意識って持っているわけですよ。
これ多分人間が少なくともそれに近い霊長類しか持っていないと思うんですよね。
まず法意識を持つには絶対に記憶の力っているじゃないですか。
この人は過去に何をしたかをさばいているわけですよね、法ってのは。
それだけじゃないですけれども、犯罪ってのはまずそういうことを言いますよね。
ルールも基本的にはそうですよね。
過去に定めたものをルールとみなしろですよね。
今なんか憲法はもう昔に定めたものだからみたいな話あるじゃないですか。
昔に定めたものですよね、法律ってのは全部。
大体作ってから施行されるまでに年月がありますもんね。
作ってその瞬間から施行されるということは普通はないですよね。
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その瞬間から施行されたってそこの瞬間から過去のものにはなっていく。
だから法意識というものを持つにはまず記憶力というのは絶対必要で、
その記憶力は人間並みじゃないと始まらないんですね。
私たちは要するに18代、20代になってから投票できるとか、
もうちょっと後ですけれども議員になれるとかいろいろありますが、
あれ法律に関することばっかりですが、
あの年になって急に法意識に目覚めるということはありえませんよね。
あのぐらいの年になるころには人間、
例えば数学で言うと微分積分とかできるようになるわけで、
微分積分ができるようになる前は多次算もできませんでしたってことは絶対ないですよね。
やっぱり徐々に進行しますね。
非常に面白いことに投票行動など立法行動などは突然できるようになるわけですよね、
権利的に言うと。しかも突然みんな誰でもやっていいことになるわけですよ、基本的には。
でも、例えば4歳とか5歳の頃にはないのかというとあるはずですよね。
罪と罰という意識が芽生えてくるわけですよね。
ここにいじめの法があるんだという論をたぶん立てていて、
全然受け入れられている気配がないのが僕はとっても不思議なんですよ。
学校とか一般に言われていることで言うと、いじめはなくそうになっていますよね。
でもいじめがなくなるということは、法意識というものが消滅するということに彼の論だとなると思うんですよ。
でも法意識が消滅するということはどういうことかというと、
20歳とか18歳が今投票するまでの間は法意識は一切持たずに18歳の頃から
立法という意識に目覚めるということになっちゃいますよね。
それって明らかに変ですよね。
だから、要するに彼が言いたいことはたぶん、
いじめというものをもう少し悲惨な状態として放置したくなかったら、
あれを学校に取り込まないとダメなんだというような考え方なんですよね。
学校に広場をという本があるんですけど、
あの本はまさにそういうことを言っている本で、
そういう流れのようにはなっていない気がするなと僕はやっぱり思うんですけれども、
何か全く違うものとして受け止められているようなんですが、
私の経験した限りですね、
学校時代って小学校、中学校とかって絶対いじめにされているんですよね。
なんでなんだろうって僕は思ったんですよ。
あれに巻き込まれていい思いをする人はいないんだけど、
なんでなんだろうって思ったんですよ。
そのランドセルの話がいい例なんだけど、
あれ、罰を与えている感じがするんですよね。
そうすると、その人の犯した罪というのは何かというと、
じゃんけんで負けたことなんですよ。
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失敗というのは罪になりますよね。
恋に人を惹かなくても道路交通法では、
過失で人を惹いても過失であっても罪になりますよね。
つまり失敗というのはしばしば私たちの社会では罪とみなされますね。
それに対して総合の罰を与えなければ、
その失敗を受け止められていないという状況になりますよね。
それに対して総合の罰を与えなければ、
その失敗を防ごうという意識に人がなかなか、
つまりその種の緊張感を失うから、緊張感を持たせるためにも、
過失に対しては罰を与えるべきだって思っていますよね。
これを子どもがやるとしかし、大人は怒るわけですよ。
過失を罰するということを子どもはやっちゃいけないわけですよ。
それはいじめにつながるし、いじめっぽくなるから一切ダメだって言うんだけど、
そういうわけにはなかなかいかないですよね、実際には。
だって過失は罰するべきだって人間の心は埋まっちゃうので、
ということは子どもだって過失は罰するわけですよ。
しかも子どもだからそこは未熟にやるんですよね。
過失はめちゃくちゃ罰するみたいな、過失を犯した以上殺すみたいな、
そういうノリになりかねないのが子どもの未熟さなんですね。
だけどこれって昔は大人だってそうだったじゃないですか、明らかに。
過失に対して過酷でしたよね、昔の刑罰というのは。
つまり人の心というのは過失を結構過酷に罰したいというところがどこかあって、
この話が昨日の話と直結しているわけではないんだけど、
私がすごく連想したことの一つだったんですよ。
学校に広場をだったと思うんですけど、中で一番面白いなと思ったのが、
面白いというか非常にそうだなと思ったのが、
なんだっけな、ちょっと忘れちゃったんですけど、名前をつけてたんですよね。
鬼ごっこなんだけど、永久に終わらない鬼ごっこっていうのが始まるんだっていう
ローカルルールなんですけどね、そういう名前がついてたんですよ。
私もまさにそういう経験をしたことがあるんだけど、
2回タッチされると、2回タッチ誰かにしない限り鬼から逃れられなくなるんですね。
そうすると、2回、3回、4回と素早くない子はですね、
あるいは集中攻撃を喰らいがちな子は、どんどん鬼になる悪が累積されていくんですよね、そこに。
ちょっと穢れ的な話になるんですけどね。
で、あれすっごい感じ悪いんですよ。
で、明らかに絶対いじめになっちゃうんですよね。
これがですね、記憶力というものを必須とするじゃないですか。
まず、この罰ゲームみたいなゲームを成立させるためには、
18:00
3歳、4歳の集団じゃ無理だと思うんですよ。
なぜなら彼らは翼打つポジションに入れて、
なぜなら彼らは翼打つポジションに入れてないからですね。
ここで唐突にこの言葉を出すんですけど、僕はやっぱりこれしかないと思ったんですよ。
精神分析に妄想分裂ポジションというのと翼打つポジションというのが対比の概念として出てくるんですけど、
要するに妄想分裂ポジションというのは、ダダをこねるってことなんですよ。
ダダをこねるということができるということは、
ある意味非常に自然な振る舞いができるんですよ。
なぜなら、まだダダをこねられるぐらいの子というのは、
関係性に関する記憶というものが曖昧なので、
ダダをこねて関係が悪くなったとしても、そのぐらいのことはわかるんですよね。
ダダをこねると、例えばお母さんが怒ってどっか行っちゃうと。
しかし、お母さんはいずれ機嫌を直すだろうではなく、
ダダをこねたときはダダをこねたときなんですよ。
また、いい関係になるわけですよ。
つまり、そこには時系列における経緯というものがないわけですね。
それは不自然だろうって思うのは人間だけなんですよ、多分。
動物はそんなことを意識できるほど記憶力がないから、
実は妄想分裂ポジションじゃないですが、
人間以外の生物は全て原則的には現在に生きているわけですよね。
今ここしかないわけですよね。
だから妄想分裂ポジションになっちゃうわけです。
だけど人間はそうじゃないですよね。
さっきダダをこねたから、もうお母さんは戻ってきてくれないかもしれないと思って、
そこで罪の意識を覚えるっていう考え方なんですよね。
欲打つポジションというのは。
つまり記憶というものが人間関係の中にはっきりと姿を表して初めてですね、
人は欲打つというものを学べるわけですよね。
こういうことをするとまずいからそれはやめておこうって、
これが言ってみれば最初の罪の意識なわけですね。
これはダダをこねて後でまたお母さんに甘えるという、
ただそれだけのような話なんですが、
実はこれ大人になってもみんなやってるし、
みんなはやらないかもしれない。
これをすごい慎重に避ける人はいるけれども、
ついやっちゃうという人はいっぱいいますよ。
特に恋愛関係とかでは盛んにやるじゃないですか、これを。
ダダをこねて喧嘩して後でくっつき直すと。
その時気まずさとか罪の意識とか、
さっきあれほど言ってしまったからとかって思うじゃないですか。
あのこと指してるわけですよね。
あれの一番原始的な形態が最初に妄想分裂から欲打つポジションに移る時の
自分に意識する心の持ちようだということなんだと思うんですね。
この欲打つポジションに入りかけた時に
いじめの講座のものもみたいなものもできてくるわけです。
21:02
つまり簡単に関係の解消にいけないわけです。
喧嘩するなりなんなりした後で、
敬意に関する記憶がいい加減だとすぐに中に戻られますよね。
だから二三歳児っていうのはそういう意味では
ことは深刻だけれども非常に気楽なものでもあるわけですよ。
妄想分裂ですからね。
すごい予言化したと。
泣きようめいてよくやりますよ、二三歳児では。
赤ちゃんだけ置いておくとね。
でも次の日には全くそのことを忘れて、
すごい仲良くなれるわけですよ。
だけどそれができなくなってくる。
3、4、5となってくると。
その時にさっきの鬼の累積ですよね。
百戒院とかになっちゃう子が出てくるわけですよ。
だんだん罪が増えていくわけですね。
永遠に鬼をしていかなきゃならない。
そういう風に書いてあったんですよね。
学校に広がると、
返し切れない借金にあえぐような形になっていくと。
その遊びがだんだんえぐくなってくると、
翌日に持ち込むんですよね。
持ち越すんですよ。
学校でもその子が触れるということは、
鬼にされるということなので、
その関係者の間では、
少なくともそこで遊んでいた子の間では、
その鬼からは触れられないように逃げる。
そういう形をとるんですよね。
その子はずっと鬼をしていなきゃならなくなる。
でもこれは、
家に帰って、ご飯を食べて、夜寝て、朝起きても、
その事態について覚えておけるぐらいの能力が要りますよね。
つまり、そういうところから法意識というものは、
芽生えてくるはずなんですよね。
この人は罪人だという言い方って、
そういうことですよね。
この人は間違って車で人を引いちゃいましたと。
5年前ですと。
全く問題にならないですよね。
5年ぐらいだったら。
いまだにその罪は生産されていないという発想を、
私たちは普通にとるじゃないですか。
これは子どもの鬼ごっこに比べると、
はるかに現実的な意味を持ちますが、
結局そこにおける精神構造の成り行きは同じですよね。
そういうことが、
そういう認識を持つことができないんだったら、
法意識って成立しないはずなんですね。
だから必ず子どもの世界というものは、
こういうものが入り込んでくる。
こういうものが入り込んでくる以上、
いじめというものは、
適切に対処しない限りは、
絶対結構ひどいことになるはずです。
ということを一生懸命書いていて、
あまり読まれている気配のない本なんですよ。
私は大変いい本だったと思うんですけれども。
こういう話には必ず、
客観性のなさというのかな、
24:03
当事者だけでやっぱり、
当事者だけでやっていくと、
どんどんルールがローカル化していくわけですよね。
100回鬼にさせられたら1000回分何とかとか、
勝手にどんどん累積されやすいように作られていくわけですよね。
これ完全にいじめになっちゃうわけです。
こういうことが起こるのが嫌だったらば、
学校に広場を設けないとダメですよっていう、
この話を客観的に扱えるという状態を作っておかないと、
この種問題はなくなりませんよということを、
彼の名前がまだ出てこない、
は書いているわけです。
別に僕が書いているわけじゃないです。
僕は非常に感心させられたんですよ。
すごいあの世界には、
罪と罰的なものがいじめっていうのにあるんだけど、
全くなぜかそこのところは大人は好んでスルーしているとしか思えない。
なんか後ろめたいんだろうかぐらいに思うほど、
私も昔、学校にいた時にはそこのところが不思議だった。
学級会とかってあるじゃないですか。
ああいうものをやっておきながら、
そういうことは絶対取り上げられることがないという、
非常に不思議なんですよ。
学級会なんていうのは、
まさに先生がいるわけだから、
あそこで校長会みたいな、
裁判みたいなのをやったらいいと思うんだけど、
そうじゃないんですよね。
少なくとも私の時代はそうじゃなかったんですよね、
40年くらい前。
どうでもいい話ばっかりするんですよね。
絶対平和で無害な感じが。
実際に3、4年生になってくると、
平和で無害では済まされないので、
今みたいな累積の鬼みたいなのが山のようにやっているので、
めちゃくちゃドロドロしているわけですよね。
この話、結局元をたどると何なのかというとですね、
やらかすのは過去のことなんですよね。
私たちはそれを何らかの生産を取らない限り、
永久に許さないというシステムを、
なんていうんですかね、
好んで構築する癖があるわけです。
必ずしもリンチみたいにはなんないにせよ、
ヒステリーと話、結構していますけれども、
ヒステリーの話、
ボーダーラインみたいな話でもいいんですけれども、
理想化と脱価値化ということがあるわけですね、
大人の世界には。
子供の世界にもあるんだけど、
例えばすごく尊敬できる上司がいたと、
この段階で非常にエリプスなんですけどね、
尊敬できるということは非常にお父さんっぽいんですよね。
そこにはお父さん文化があって、
上っていうものは敬意を払うに値する存在だみたいな、
そういう上下的な何かがあるわけですよ。
お父さんっぽいわけです。
お父さんっぽい相手が女性であるとかは関係ないですよ。
お父さんっぽい女性っていっぱいいますね。
そこは問題じゃないんですよ。
27:01
そこのエリプスっぽいところに入っていくときには、
だいたい理想化って起きるんですよ。
上司そのものよりもはるかにいい立派な人が意識されている。
で、近づいていく。
というか近づいていくから立派に見えるという感じもありますよね。
つまり理想化されているわけです。
例えば何か1個あると。
1個。
ちょっと夜に飲み会とかでセクハラっぽいことを言うと。
幻滅するわけですよ。一気に。
で、このときにさっきの累積が入るんですよね。
たぶん1回でダメになるケースがあります。
1回もうだつかちかしたら、
この上司はもう二度と口も聞きたくないみたいになるわけですよ。
必ずこれどこかのタイミングで起きるんですけどね。
で、普通に。
普通にっていうのも変ですな。
ヒステリーというものとそうでないものが分かれる1つの私はポイントとして、
だつかちかが起きたとしても、もう1回戻っていける感じがあるんですよね。
非常に極端な振り子を揺らいじゃうときもありますけれども、
普通の人であるとだいたいそのだんだんだんだん現実的な落としどころに
相手のポイントを置くと。
グッドバイブス的じゃないですけれども、
相手はつまり人間なんだなって思うっていうのが普通のポイントなんだけども、
一旦少しでも黒いところが見えたら、
その人とは永遠に縁を切らなければならないという風になるわけですよね。
これもすごく欲打つポジションっていうものの一番最初の形を
やっぱり連想させられるわけです。
つまり、半分妄想分裂っぽいんですよ。
いいお母さんだと思って近づいたけど、悪いお母さんだったから縁を切るっていうのって、
確かに敬意というものはある程度感じられるんだけど、
自分の敬意しかそこにはないわけですよね。
相手の敬意は一切ない。
だいたいそのときに見るのは、やっぱり相手に罪、
相手が罪悪的な何かを犯したと。
で、罪悪的なことは一切認められないという心理状態というのがきっとあるんですよね。
その罪を何らかの形で生産しない限りは、
もう私はこの人とは縁を切ると。
こういう話はいっぱいあると思うんですよ。
会社に入ってみたらブラックだということが判明したと。
会社に罪悪というものが見えたら、
もうその会社は絶対にブラックだと。
ブラックが見えたらもうその会社は転職して、
輪際縁を切らなければならない。
これはこのように言ってみると、
ものすごくプロセスをはしょったから、
なんだかすごく勝手なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、
これを少し長めのスパンで繰り返しているという方は、
たぶん全然珍しいとは僕は思わないんですよ。
これとさっきの鬼の累積でいじめをするというのは、
30:02
同じ心理構造の表れになっているはずだと思うんですね。
たぶんこれを言うと、
これを言うのは言っちゃっていますけど、
書くと結構荒れるかなという感じがするんだけど、
この話をですね、
僕は今している人の話をまとめていったほうがいいよなと思うんですよ。
なんだっけ、心はどこに消えたで、
これは名前が出てきた。
中芸人さんが書かれていますけど、
こういうふうに円を切るところに、
その人の孤独の形が姿を表すって書いていて、
ギャグみたいな文章の中に名文が挟まるんですよね。
びっくりさせられます、あの方の本には。
こういうふうに円を切っていく中に、
その人が孤独になっていくっていうパターンが現れるわけですよね。
フロイトの言う反復脅迫なんですよね。
同じことを何度も繰り返しているうちに、
その人がどんどん孤独になっていくと関係者を切っていきますから、
自分に関係している人に何かブラックっぽいところ、
セクハラっぽいところ、パワハラっぽいところがゼロの人って、
まあなかなかいないじゃないですか。
だからどうしても一点でも見つけたらダメだということにしていくとですね、
まるでその人が、そうじゃないはずなんですけどね、
人を罰しているうちに罰されていくみたいな形になっていくんですよ、どうしても。
なぜかというと、どんどん悪いものを外に置いて、
その上で関係を切っている。
まあ悪くなければ関係を切る理由はないですからね。
そうするとその人にとって現実世界というのは狭くなる一方ですよね。
ある意味物理的な意味ではなくて、
なんていうんですかね、精神的な意味でなんですよね。
関われる人が一人一人と減っていくと、
それも縁がある人ほど関わっちゃダメなわけですよ。
それってきついことだと思うんですよね、結果としては。
でも鬼ごっこの、やたら鬼の罪を着せた子もそうじゃないですか。
その子との相性は良くなかったかも分からないけど、
最初は遊んでたわけですよね。
そうやって遊び相手をリンチにかけていくようなことをやっていくと、
徐々に徐々に罪を着せている人っていうのは、
徐々に徐々に孤独化していく傾向が出ると思うんですよ。
私その、それ辺も3、4年生ですね、小学校の。
間近で見たんですよね。
そういうふうに、やっぱりこう、罪を着せられがちな子もいれば、
罪じゃないんだけどね、鬼を着せられがちな子もいれば、
鬼を着せがちな子もいますよね。
で、どっちも同じようになっていくんですよ。
不意にですね、その鬼を着せまくってる子がみんなからパージされて、
すごくこう、なんていうんですかね、立場が逆転しちゃう時っていうのが
何度か見ていて、そういう子は強いからそんなに簡単にやられないですけど、
そういうふうになることって何度か見ていて、
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こういうことって起こるんだなっていう、
ある種の不思議さを感じたことがあります。
男の子の世界だけじゃないと思うんですけどね、
僕は男の子の世界でしか当時は活動してなかったから、
思いっきりこれが男の子の間で起こるんですけど、
結構、なんていうんですかね、残酷ですね、やってること。
ここに暴力が絡んでくるんで結構残酷なんですよ。
で、その辺の含み込みを考えてみると、
結局僕らが身につけたいと僕なんかよく思うのが、
いかに過去を見ないかっていうことなんですよね、最終的に。
僕らは必ず翼ずつポジションに普通入るわけですよ。
例えば入り口の付近であっても入るわけですよ。
経緯って意識しますし、
関係を切った相手とまた再生しなければならないと。
大体の人はヒステリー一変と生きていけないんですよね、やっぱり。
そうするとどんなにコネクションが多くったって
転職先なくなっちゃうし、どんなに人に好かれる人でも
ほとんどの人との関係が疎遠になっていくわけじゃないですか。
そこでも構わないようにという発想に
自然独特さがあるんだけども、
多分そうは僕はまだいかないと思うし、
永久的にいかないと思うんですよね。
やっぱり僕らは物だけで生きているわけじゃないですもんね。
だからあれなんですけどね、
ここに僕は思うに
ジゾイド的なカップルっていうのを最終的に
意識しなければいけないかなと思って
今チェーンリズでひもての話を一生懸命書いてたりするんですけど
つまり他の誰とも関係しなくてもいいけど
この夫婦の間だけでは苦労のない世界を築き上げよう
っていうことを実現するって
そこには自己愛みたいなものが絡んでくるんで
話がぐっとややこしくなるんだけど
このポッドキャストではそれを喋りきりたいと
とりあえずは思っております。
ちょっとグッドバイオスから離れる感じあるんだけど
ただ昨日、倉園さんのグッドバイオスの
結構こうなんていうんですかね
倉園さんが現在思い描くところの
グッドバイオスの全貌みたいなのを聞いた限りでは
内容的には矛盾全然しないよなと思いながら聞いておりました。
一番最近で僕が読んでいく対照関係論ですけど
精神分析の対照関係論の一番新しい頃の理屈とは
相当近いものがある。
同じじゃないんですから
やっぱり国字っていうのが生前のところで
同じでもないんですけどね。
似ているって感じなんだけど
似ているっていうところが大事だよなと思って
思いながら聞いてたんですよ。
そこではやっぱり
僕らは結局過去のいきさつを考えずに生きるってことはできないから
過去というイリュージョンを持つんですが
その出し入れができるようになるっていうことが
36:01
大事なんだと思うんですね。
現実はあくまでも今ここであって
決して過去じゃない。
どれほど過去にその人が悪いことをしたということに
した方が良いというふうに考えられても
やっぱりそうではないんですよね。
その人が過去に何々をしましたと
それが証拠等からも確定的で本人も認めているとしても
今ここのその人が同じ人なわけではない。
これ大事なポイントだと思うんですよ。
抑鬱ポジションの入り口にいつまでもいると
やっぱり僕らは
抑鬱ポジションの入り口の一番ネガティブな出方が
抑鬱なんですよ。
名前の通りなんですよね。
みんなで抑鬱化していくしかなくなるんですよね。
やっぱり縁を切って
つまりバラバラ意識を進ませていかなきゃならなくなるわけですよ。
少しでもだんだんだんだんやっぱり
世の中でそうなっていくと思うんですよ。
なぜかというと世の中が技術が進歩して
システムが進歩していくと
柔らかしにくくなるからなんですよね。
そうするとまるで
やらかさない競争みたいになっていくんですよ。
世の中が多分。
精神的なケアもされて
電車も時間通りスムーズに来て
しかもそれもAIが動かすぐらいになってくると
やらかす奴はダメだっていう感じが
以前よりもいっそ強まると思うんですよね。
これは社会侵入学でいう構成世界仮説なんですけど
何かこの人がダメなことをしたということは
この人はよっぽどダメなんだろうと。
鬼の累積の鬼ごっこの時にも
そういうニュアンスを必ず帯びるんですよね。
だからこういう人を社会から
一時隔離したりするのは
全く正当なことなんだっていう感じを
少しずつ帯びてしまうんだと思うんです。
私これに関してはツイッターだけですけれども
ツイッターとかフェイスブックとか
せいぜいブログですけれども
なんか政治の右左
あんま関係ないように見えるんですよ最近は。
どっちの人たちもやらかす人に
ひどく厳しいところがあって
やらかす相手がどっちの党派になってるかだけの違いであって
要は上級国民とかもそうですけど
スムーズに生かせられるはずの
気をつけていれば起こさずに住んでいることを
起こしやがったみたいな感じ。
これがなんとなくですね
じゃんけんで頑張れば負けないで住むのに
負けた人が悪いから
みんなでランドセルを背負わせるのは
全く正当だっていう感じと
心情的に違いがないんじゃないかなと。
それだけならまだいいと思うんですよね。
ここに欲打つポジションを投入する。
それもヒステリーからあんまり離れてないレベルで
投入してしまうから
持ち越すんですよね。
これをそのまんまの形で
生産するまでは罪人みたいな感じで
39:02
その罪を意図的にとか
単なる失敗とか
情状借り落ちとか
いろんなことを言うことで
ますますこう
公正にやっているみたいな
雰囲気というのかな
公正にやってるんですけどね。
江戸時代とかに比べれば
火破りとかになりませんから。
だけれどもやってることに違いはないと思うんですよ。
過去に何かがあり
過去を持って現在を測るみたいなことを
やってることに違いはないと思うんですよね。
これを出し入れしないと
まずいだろうという気がやっぱりします。
出し入れするというのは
つまり欲打つポジションに入っているから
過去の戦は知ってるんだけど
でもあたかもそうでないかのように
今ここだけを現実だとみなすと。
妄想分裂ポジションに戻る点ではないんですよ。
行く点でもないんですけどね。
関係を破綻するというのではなく
でも今ここしか意識しないということは
十分できるはずだろうと思うんですよ。
これを全く検討もしないっていうのが
よくある混乱なんではないかと思います。
ずっと欲打つポジションの
一番欲打つ的なところで
踏みとどまっちゃっている感じ。
これは結局敬意を意識するというだけで
記憶を使って誰かをラベリングするということが
目的ではないはずなので
そういうふうに使われやすいというところがあるんだけれども
そうしなくてもいいはずなんですよね。
私も最近そのことにはすごくチャレンジ中なんです。
やりにくいんですよ。
自分のやらかしについて
基本的に一切悪いという観点を取らないと。
昨日もそういう話がちょっと出たんだけど
やらかしやすいですからね、私は結構。
この考え方が既にダメなんですけどね。
つまり、やらかすとか人を傷つけるとか
そういうのを過去にやったからといって
その後ろめたさみたいなものを引っ張らないと
引っ張らないとますますパージされるような気がしちゃうわけですよ。
だから私は悪いと思ってましたみたいなポーズを取りたくなるんですね。
これも一つの防衛なんですが
こういうことを人にも自分にもやらないってことはやっぱり
今さらながらなんですかね、グッドバイブス的に言うと
今さらながらなんですが、とても重要だと思います。
やっぱりミニコット的ですけど、私の言い方は
トゥルーセルフっていうのは今ここの全部だったって思います。
今ここの精神状態のあり方全部。
これだとわかりにくいと思うので
言ってしまうと、今ここでは私は別に何もやらかしていないわけですよ。
これを喋っていることがやらかしなのかもしれないけど
そうは思っていない。
つまり普通に自分がやっていて
42:03
時間的に考えず、時間経緯的に考えずに
これを考えちゃうとどうしても過去のやらかしが気になりますからね。
未来思考でもなくて
未来思考だけ持とうとするのは無理なんですよ。
未来を持とうとすると必ず過去を意識して
昨日そう、この話は大事だったんですが
過去に犯した罪に対して未来で罰されるんですよね。
どっちもないところに行きたければ
今こうしかないと思うんですよ。
空間的に意識はやっぱり時間から空間に切り替えていくという感じ。
それは妄想分裂ポジションになっちゃうわけじゃないんだけれども
過去の経緯みたいなものを運と後輩経緯に退かせるっていう
そういう感じなんですよね。
それができた時の方が
やっぱり自分というものは
もっと柔軟に行動できるように思います。
実系列のことばかり意識していると
ものすごく硬直した感じになってしまう。
一番それが硬直した時に欲打つになるんだとしか思えないので
この方向性に救いはない感じがするんですよ。
硬直した、自系列で私はライフを生きていますみたいな感じ。
これを極力廃止したいという
過去も未来も意識にはあるけれども
あくまでも意識にしかないもので
いっつも現在の空間というものが横に広がっていって
意識しておいた方が
そこでできることの柔軟さに自分を開いていけるっていうものを
昨日は特にそういう認識が強かったなって思ったわけです。