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寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見、ご感想、ご依頼は公式Xまでどうぞ。 寝落ちの本で検索してください。
また番組フォローもどうぞよろしくお願いします。 さて今日は、
北原白秋さんの「蜜柑山散策」というテキストを読もうと思います。 北原白秋さん、日本の近代史に象徴主義を定着させた重要な詩人の一人。
感濃的で美的な詩風が特徴の邪相文、邪衆文。 故郷への思いを読んだ思い出など、象徴主義を代表する詩集として称賛されました。
よさの鉄管、よさの秋子、石川卓北など同時代の詩人と交流したとありますね。 で、これ内側の話になりますけれども、
北原白秋さんの文章ね、僕はね、本当に嫌いですね。
読みづらいんですよ。 なんか読ませる気がないっていうか、
知ってる漢字と知ってる漢字が2つ付いて読めないっていう、例えばですよ。 あの通行人の通、通るっていう字に草って書いて、何て読むと思います?
あけびですよ。読めませんよ、これ。 その後に
えっと、蔦草っていう文章も来るので、多分この地面、見栄えの地面の陰を踏んでるだけで、読ませる気あんのか、お前みたいな文章なので、本当に嫌いですね。
まあ読みますけど。
本当にね、この人意地悪ですよ、本当に。読み手には意地悪です。多分、目に、目に美しい文章なんでしょうけど、
声に出させるつもりで書いてないだろうなっていう、 感じがします。
こんな文句をね、 100年前の人に言ってもしょうがないんですけど。
あと寝落ちの前に皆さん何を聞かされているのかという気持ちでしょうが。
自分で選んどいてすごいため息が出ちゃう。 うーん、それでは参ります。
みかん山散策
みかん山でも見に行こうかと、ひなたばっこから私が立つと、 夕暮れくんも、それは良かろうと続いて立ち上がった。
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竹林の昼飯をやっと済ますと、私たちは裏の別荘の丘に席を移して、 山と海との体感を、それまで欲しいままに楽しんでいたのである。
いい冬晴れの午後3時過ぎ、 空にはみじんの雲もなかった。
日は双子の山の上にちょうど日光の拍子がのように、 縦方に放射光を輝かしていた。
では後からお箸とかごを姉やにもたしてあげますから、 そろそろ登っていらっしゃい。
と、 妻が病後の子供を抱え上げた。
私たち二人はテニスコートを抜け、丘の青木の間を鉄縄網のこわれを探して、 その上の桑畑へ出た。
桑畑のうねには、 カイコマメの列がもう子供の手にならせるほどの葉の厚みに大きく伸びそろっている。
おお、林道だ。見たまえ。 私は柵の下へかがむ。
紫林道が枯れ芝や落ち葉の間にすでに膨らみかけている。 林道は二つずつ咲くものだよ、と私が言う。
やあやあ、と夕暮れは両手を半ば上あげて。 どうだあの赤いのは、と驚かせる。
宮様の松山のはぜもみじを見たのだ。 そこへ姉やが竹籠と白いズックの坊やのカバンを持って行き席切ってくる。
竹籠の中に封筒が入れてある。 一円入っております、と言う。
よし、と籠ぐるみを受け取ると、途中までお供して、 お芋を買いに参ります、とカバンを抱えてついてくる。
どこの芋畑だ、と聞くと。 みかん山のそばでございましょう、と言う。
桑畑から水の尾道へ出ると、つま先上がりになる。 比例の崖はなお、肉かずらの生垣の内側に石の門が倒れ、
水道のセメントのタンクが無骨らしく壊れたままで、いまだ手もつけていない。 酷くなったな、と夕暮れがまた、や、やー、である。
右手の別荘なぞは倒れてきた上の赤松が、 洋館の屋根から床へまっぷたずにめり込んで、
おもやなぞは、こっぱみじんに崖下へ転落していたものである。 この山そばだとて、むろん地すべりで埋まってしまっていたのを、やっとどうにか道をあけたのだ。
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青ぐと真弓には実が青くついている。 草木の実の紅と黒とはもはや、何の潤いもなく、なえてしまった。
芋畑は遠そうだし、どこのみかん山のそばだかわからないので、 麦畑の左のうち開いたあたりから寝屋を返す。
鞄は夕暮れの餅になる。 芽麦の浅緑色も美しい。
諸島だというのに、小田原の丘はもう、 早春の絵模様である。
暖かいいい国だ。箱根連山から、 青畑へかけて濃い薄い霞が、三匹ごと幾重にも引きはえて、
その所どころから野焼きの煙が白く、まっすぐに昇っている西の方の展望は、 静かで匂わしくて、それももう冬のものではない。
や、やー、と夕暮れが、今度は鞄と片手等をあげる。 道のそばには野原の赤い実が。
玉をすすれば、からたちの黄色い実が、 棘の間にまんまろく挟まっている。
すがれ果てた麦芽の風貌がきが白く、 薄紫に光をいぶして続いていると、
あけびの殻や、 須田草の黒い光沢のする細かな実も、つると絡んでいる。
花荘場の女松や、枯れくぬぎや、 通り過ぎると青い杉や小松の長い長いトンネルになる。
日よけ積んだ赤馬が後ろから来る。 そのトンネルは何がしの富豪の別邸の前通りであるが、
これがとても長いので、ほどほどにして右の小道へそれると、 やっとみかん畑の中道となるのだ。
どちらを見てもみかんの葉ばかりだが、 目指した金色の実はほとんど目の中へ入ってこない。
いや、しまった。遅かったなぁ。 だが声がする。若い娘どもの声だ。
よく見ると向こうの向こうのみかんの木が揺らいでいる。 ちょきんちょきんとハサミが鳴る。
この小道はいつか東村と来たときに、 黒いヤグルマ型のげんげのつぼみでいっぱいだった。
今はのぎくによめな草もみじ、赤のキリン草。 枯れ木の一本二本。
09:04
さむざむとも光らないで、 柔らかな色と緑の細かな白い枝のすべてをさやにまとめて、
ほうとしてつったっている。 その向こうにクレ型の丹沢山がほのかな赤みを、
うすいうすい藤紫の空のかすみに、 紅葦そのもののように一連に泡立てて匂わしている。
大山の光も何か白っぽいぶどう色だ。 いやー無限の世界だと夕暮れの突拍子もない声が後ろでする。
ハーモニカの声が聞こえてきた。 みかんがぽつぽつ目についてくる。
小道は下りになる。 とハーモニカがいよいよ調子づいて甘い甘いセンチメントをふるわしてくる。
まるで、 5月頃の都会の子供の浮き足でやってくるなと思っていくうちに、
ふいとみかんの葉陰から、 赤いソフトにネズミの釣り金マントと、茶の中折れに大柄な島の羽織に白チリメンの葉はひろ帯とが曲がってきた。
どちらも村の青年団という風彩である。 釣り金マントがそっとハーモニカを引っ込めて、
さてやや鼻じらんですれ違った。 大友も大友だ。
引き違いにこぼれるような金色のみかん。 それはすばらしいみかんの眺めがあちらこちらに木にあがってきた。
だがそこらあたりにはもう一つの陽だまりもなかった。 何かしらうすら寒い影ばかりが空にも地面にも感じられてきた。
陽が双子の山に沈んでしまったのである。 ちょきんちょきんとハサミが鳴る。
私たちの行く道は平らかなやや湿りをもった黒土の、 たんたんたる弓なりの丘道である。
ちょうど野外劇場敷の後ろ高にみかんの団畑が遠景にめぐっている。 その中ほどに私たちは立って、そうして耳をすすます。
ちょきんちょきん。 赤い帯こそ見えぬが何かまた娘どもの声らしい。
騒いでまた静かになってちょきんちょきんである。 と見るとつい足元のみかんの根に大きなかごが放り出されてある。
それには大きなみかんばかりがぎっしりとしまっている。 むしろにも地べたにも残りは投げ散らかしたままになっている。
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「みかんをよずってくれませんか。」と呼びかける。 が、ふふふと娘の声で笑って、
逃げるようにちょきんちょきんである。 やっとじいさんが出てくる。そこで分けてもらう。
もっともはじめはみかんを金のありったけで買うつもりだったが、 思い思いをするよりか身軽い散策気分になってしまったので、
ただ渇きを癒すだけのことでよからおとなった。 で、少々ずつかごとかばんと逃げて、今度は上の畑を抜けて丘の頂上を通っている水の大道の方へ、
道もないのでみかんの間をがむしゃらに上がって行こうとなる。 そこに放課ぶりの至高家班でちょきんちょきんとやっている70ばかりの白髪のおばあさんがいたというわけである。
伸び上がってはちょきん。かがんではちょきん。 腰をたたいてはちょきん。
みかんの木と木の間の大根畑の青さ。 木のかったのは白菜である。
それらの新鮮さはいたるところにだんだんおなしている。 地震前の小道かと思われる崩れ崖のそこらには、
土まじりの枯草に林道がつぼんでいる。 アザミの咲き出したばかりの
くれむらさきと白の光沢。 それらをまた驚きながら、
時々にはかごに入れてみかんをすいすい歩いて行く。 と、また地べたにもぎっぱなしのみかんが幾山も積んだままになって、
ひとかげひとつ見えぬくぼ畑にもぶつかる。 そのそばを行くのだからなんだかこそばゆい。
買ったみかんだが盗んだと思われはせぬかと。 ひいやりしないでもなくなる。
林道などが混ざっているかごだ。 言い訳はちょっと立ちそうにもないなと、おかしくもなる。
シュロがある。 カレッパのササハラがある。
ガサガサのクヌギバヤシがある。 ドウソジンがある。
やっとぬけると水のおみちの高圧線の鉄塔の下に出る。 春は赤いハゼコのタカアゼである。
マツムシグサがちらちらと咲いている。 みかん畑もある。
下手を見ると小道がある。 タケヤブがある。小道を誰かの背負ったわらたばが、
すでにくれいろの立ち込めたタケヤブの暗みへ ひっそりひっそり入ってゆく。
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タケヤブと小道の下のくぼには、 ものさびた古いカヤヤネの農家の兄さんが見え、
そのどれもが緑と白との梅雨の滴りそうな大根を 一列二列つり下げている。
よく見ると破り散らした障子が見える。 子供らしい青いものが、
横から出て縁側の青いものをほのかにほのかにひいて入る。 壮望とした幻灯画のように。
と、隣の外庭には子供がぽつりぽつりと歩いて出る。 女の子もいるらしい。
あ、鳥が出てきた。 犬が駆けた。
と、その奥の家では馬屋らしいのに何か黒いものが面を出している。 赤いのはサザンカらしい。
と、窪地を隔て畑を隔てた模子とした向こうのおかす草を担いでいる人影は見えないで、
みかんの籠らしいのが二つ、動くともなしに動いているようだと見ていると止まった。 と、その上の道から女らしい白い影が来て、これも止まった。
話しているなと見ているうちにそのどちらもがほおっとして紫の霞になってしまった。 そこで私たちももう帰ろう急ごうとなる。
空には半月がみかん色の光を帯びてくる。 崖崩れの下の茂みでははぐれ小鳥がチチチチとやっている。
帰りは早い。 ついさっきの茂みの下のあたりに来る頃には、麓の板橋から早川の漁村へかけて、
明かりがチカチカと輝き出す。 沖のぶり船にも火が灯る。
こうして目が喜ぶ、目が喜ぶ。 幸福な静かな、
それでいてにおやかな良い夜が、もう私たちの足元まで迎えに来た。 ところで海蔵寺の板橋が鳴る。
おあつらえ向きすぎると思っても、向こうの山で鳴る鐘をこちらの山で聞くのはいい。 家へ帰るとこれもまた華やかであった。
やしろさんが来ていらっしゃいます。 と、家のものが飛んで出る。
やあ、よかったな。 やあ、あ、わあ。
みかんのかごとカバンが飛ぶ。 握手、握手。
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パパ、パパ。 うんうん、林道、林道。おい、すてきだぜ。
あ、そらあざみだ。みかんだ。 いや、やしろくん、おい。
やしろくんはいつ見えたんだ。おい。
いや、僕はもう山へ行ってきたんですよ。 もうさっきですよ。
おお。 いや、これは。
どうして会わなかったんだろう。いつかのあの道だよ。 僕もそこへ行ったんですがね、ちょうどみかんを摘んでいたおばあさんがいたから聞いてみたんだ。
するとおばあさんがね、あの若造どもづら、 へえ、さっきけえちまっただと言ったんだ。
おお、若造とはよかったね。 いや、そうだ、なるほど。あのばあさんから見りゃ若造かな。
と、みんながひっくり返って笑いころげてしまった。 が、よく聞いてみると、どうにもおばあさんのいたところが違っているし、道が上と下とになるし、
時間もしっくりと合わないし、これは変だなと思った。 と、夕暮れが、あ、そうだと言った。
あのハーモニカだよ、若造っていうのは。 ああ、そうか、ハーモニカか。
へえ、ハーモニカと言うと、12月7日未明、日光、1999年発行、作品写、花の明水筆11、11月の花、より読み終わりです。
なんか、着せずしてこのタイミングで読みましたが、
11月の花っていう特集のエッセイだったんですね。 じゃあ、今回読んでよかったかもね、タイミング的には。
なんすかね、この北原博集のこの、
いや、なんかところどころの文章は美しいのはわかるんだけど。
なんかねー
手が合わないですね、僕とは。
ああ、はい、ということで、
愚痴っぽくなってしまいましたが、といったところで、今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。