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2024-11-21 14:17

080岸田國士「或る風潮について」

080岸田國士「或る風潮について」

日本礼賛ばかりしてるのってどうなんだ!とおじさんが吠えてます。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。



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さて、今日は岸田邦夫さんの、「或る風潮について」というテキストを読もうと思います。
岸田邦夫さん、何回か読んでますね。 劇作家、小説家、評論家。
劇局の代表作にチロルの秋、牛山ホテルがあり、 小説の代表作に断流、そうめんしんなどがあるということだそうです。
海の誘惑とか、愛妻かの一例とか、昔読みましたね。 今日はどんな内容でしょうか。
それでは参ります。 或る風潮について。
日本人が日本人に向かって日本のことを褒めて話すという風潮が近頃目立つようであるが、 これは現在の日本においては確かにその必要があるからだと思うけれども、
そこにちょっと微妙な呼吸があって、それほど変でないものと、 妙にくすぐったい、もうやめてくれと言いたくなるようなものとがある。
日本人でありながら、頭から日本を馬鹿にしていたような人々に対して、 一言、警告を与えることはもちろん賛成だ。
そうでなくても、日本人はことさらに、日本の知識層は最近幾分、 日本人であることの自信を失いかけていたことは事実で、
その点もっと楽観的であってもいい理由を強調するものがあっていいわけである。
つとに今、日本は重大な乗るか反るかというような国家的難関に遭遇しており、 これを乗り切るための国民の覚悟と努力が要求されている矢先であってみれば、
お互いに、しっかりしろ、お前は日本人だ。 ここでお前の真の力を発揮しなければならんぞ、と必死になって励まし合うというところまで来ているのかもしれん。
それならそれでよろしい。 が、そういう単純な掛け声ばかりではなさそうである。
日本再認識とか日本主義運動とか日本文化新研究とかいう規制の底には、 それを明らかに標榜しているものもあるが、
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西欧思想の近代生活面における支配的位置を不当なものとして、 少なくとも日本を中心とする東亜民族の上に、
我が伝統的文化の君臨を擁抱する大野心が潜んでいるように思われる。 これまた決して不都合なことではない。
では何が、どういうふうに我々の神経に触るのであろう。 日本人が日本人に向かって日本のことを褒めて話すという、
元来極めてデリケートな事柄を、それと気づかずに話す。 その話し方一つにあるのである。
先だってある人がラジオで、日本人の体格が美の標準から言って、 西洋人のそれより優れているということを論断しているのを偶然聞いた。
それはつまり、日本人の生活様式が、より自然の理法にかなってい。 例えば穀物を主食物とし、膝を負って座るというようなことが、筋肉の縁を最も円満にし、
関節の機能を十分に発達させ、西洋人には見られない安定な筋整備を作り出している上に、 戦争に強い原因ともなっているということを熱心に説いたものであった。
これは我々にとって全く耳寄りな話で。 私の家の娘などは、全然椅子生活にさせるのは将来不便であろうというので、
近頃は畳の上で座って本など読んでいるのを、こわごわ黙認しているような次第であったから、 膝が多少曲がっている方が見た目にも美しいということになれば、こんな楽なことはないと、
その瞬間はほっとした気分になった。 しかしよく考えてみると、その人の新発見、
ではないかもしれんが、少なくとも新学説はやや腑に落ちぬところがあり、 一般の定説がそれで覆らぬ限り、自分の娘の足を人並み外れて不格好なものにしておくことは、
いささか躊躇されないでもない。 こんなことから、私は人体の美の標準が、
一体裸体を基礎として云々すべきものがという疑問にぶつかった。 この疑問はもう確かに自局的疑問に違いないが、それほど我々はうっかりしていたのである。
それはまあどっちでもいいとして、肉体的な魅力における日本人の負け目というのは、 一体どこから来たものであろう。
これはやはりキリスト彫刻の理想的な美しさという概念が、 いつの間にか我々日本人の頭に植え付けられた結果であろうか。
そうならこれは何とかしなければならぬ。 こういう宿命的な劣等感は民族の自尊心が絶ええないところである。
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それ故にこそ例のラジオ講演となったものであろうが、 私はそこにも日本人の現代的悩みがある。
いわゆる洋服というものを廃止しない限り、 その解決は困難なのではないかと思っている。
また最近、ある人が日本画の文化的地位についてかなり独断的な、 しかし一応我々を反省せしめる意見を述べているのを読んだ。
要するに日本画は洋画よりも社会的地位が高く、 その芸術的価値もかえって洋画より優位にあると考えられる傾向があり、
ここでは日本的なあるいは東洋的な美が文芸におけるように軽蔑されることがなく、 たとえ一部の人には親しまれないにしても、とにかく一応尊敬されている。
日本画は洋画のごとき学生の芸術ではなく大人の芸術であると考えられ、 市場価値も高く社会的勢力も大きい。
日本文化を代表して世界的価値を主張し得るものは日本的洋画でなく、 世界的な日本画であることは否定できず、
今後日本において発達せしむべきものはやはり日本画の方であることも 一般に承認されそうに思われるというのである。
これだけの部分を取り上げてかれこれ言うのは筆者に迷惑であるかもしれんが、 要点はここにあるのだからこれに対する私の考えを述べるが、
この種の考察は何というか賛成するのも気が引けるし、 反対するのも大人気ないという気を起こさせる類のもので、
洋画に浸水するものでなくても、そうまあ日本画の方ばかり持って何になるのかと 一言ながら心配になるのである。
芸術家というものは前見大使でも軍司令官でもないのであるから、 別に大人でなければならぬという分け合いではなく、
学生も立派に国民の位置階層であり、 むしろ当機将来のことを思えば若いということだけにでも期待を持つべきで、
少し日本画の歴史を知っているものなら日本画の今日あること、 すなわち日本文化を代表して世界的価値を主張し得ることは当然だと頷くであろうし、
やがて数百年後には、 洋画の流れもそこに行き着くであろうという見通しぐらいつけてほしいものである。
はじめにこの論者は何を証拠に文芸の畑では日本的なものを軽蔑していると断じるのであるか、 私にはさらに見当がつかぬ。
言うまでもなく西洋文学の翻訳移入、並びに西洋作家の模倣を追随さえ、 日本文学を育て豊かにする目的以外にないことを文学者の一人と誰もわきまえていないはずはないのである。
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ただし日本の古典に対する教養の不足を責められれば、 私などは第一に顔を明らめなければならぬが、
これは決して軽蔑などという大それた良犬からではなく、 むしろ怠慢というぐらいの罪で強いて敦事を設ければ、
とかく親類へは武裟たがちになるという不心得に似たものである。 今月の文芸に載った
西草博人の文学と技術文化という論文はまた資産に富んだもので、 日本研究の重要な資料となり得るものだと思う。
私もたまたま最近、西洋の言葉で文化の意味を考え直してみる機会があり、 日本人が文化文化というのはどこか身についていないところがありそうに思われ出したので、
これをさらにフランス人がドイツ文化を指して特にカルターというドイツ語をそのまま使っている例を思い出し、
国境を接する民族の間においてさえ、文化自体の概念のうちにどこか相入れぬ、反発し合うものがあることを今さら注意すべきであると考えた。
したがって一応ヨーロッパ的教養といっても、それははなはだ漠然とした意味における西洋的文化の影響を指すのであって、
厳密に言えばその根本において、例えばドイツ、フランス、イギリスというふうにそれぞれの文化的特質を身につけるということであるが、そんなものは結局地肉とまではならぬ一生であり、
仮に地肉の一部となったにせよ、それ以上に深さと力とをもって我々の生活の数軸を動かすところのものは、やはり東洋的、日本的教養の充積である。
ところがこの東洋的、日本的教養なるものの正体は、これを今日の言葉で文化と呼んでは、何か少し的が外れるようなところがあり、
西草氏がそれは道であると言われれば、なるほどそうかもしれぬと思うが、しかしそれはまだ私の考察の力では断定がつかぬ。
あるいは、たしなみという言葉など当たらぬであろうか。 それはそうと小川雅子女子の小島の春という本を私も大変面白く読んだ。
これについては近くまとまった感想を書くはずになっているが、ただこの珍しい手記の中で、やはり日本人の問題を捉えることが私には容易であった。
つまり日本には今なおどうして羅漢社がそんなにいるか。 そしてそれに対する国家的、社会的施設がなぜそれほど遅れているかという疑問。
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むしろ憤慨にいた気持ちの裏で、それはなるほどかという、特別な事情があるからだという安心が私を救ったのである。
しかもその事情とは、日本人が必ずしも非文明の阻止令を受けなくてもいい、 実に悲壮とも言えるある種の優しい感情の発露なのであって。
雷の問題に限って言えば、少なくとも過去に遡って日本人の社会道徳を云々する資格は、世界のいかなる海下民族も持っていないことを保障し得る材料が、この書物の中に溢れているのである。
それ故、これは日本にいる西洋人のすべて、並びに世界の雷研究家、救雷事業家の各々に是非この一本を読ませたいものだと思った。
がしかし今日以後、かかる状態が一日でも続くことは、もちろん日本の恥であり、 もはや日本人を弁護する何らの理由も存在しないことを、
いかんながらここに特に声を大にして同胞の前に叫ばなければならぬ。 知世昭和14年2月号
1991年発行 岩波書店 岸田邦夫全集24 より読み終わりです。
いやー 信じられないぐらいつまんないテキストでしたね。
なんか吠えてたなぁ。 全然
共感もなかったし。 うん、吠えてました。
おじさんが吠えてましたね。ああいうのを老害って言うんじゃありませんでしたっけ?
次はもうちょっと楽しいテキストを読みたいなと思います。 わからないです。
決めてないので。 といったところで今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
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