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2024-09-03 36:00

060中谷宇吉郎「捨てる文化」

060中谷宇吉郎「捨てる文化」

曰く「アメリカみたいになるには捨てなきゃ」。世界初の人工雪を作った人って事のほうが驚き。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、
実際に読んだこともあるような本、 それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。 作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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さて今日は、 中谷宇吉郎さんの「捨てる文化」というテキストを読もうと思います。
言いづらいな。中谷宇吉郎。 中谷宇吉郎。
物理学者・随筆家。 北海道大学で教授を務め、世界初の人工雪の製作に成功したと。
ということで、僕はウィンタースポーツをしませんが、 スキー・スノボを楽しむ方は、
この人に感謝しないといけませんなぁ。 中谷宇吉郎。
初めて聞いたなぁ。 まあトントン参りましょうか。それでは参ります。
捨てる文化。 1.清潔・整頓・農立。
日露戦争の時に、東北の田舎の一農夫で、 ロシア側の捕虜になった男があった。
本国に誤葬され、欧州各国を次々と送られて、 数年がかりでやっと日本へ送還された。
当時の東北の一貫村で、 欧州各国の現状を数年がかりで見てきた男と言えば、
非常に珍しかったに違いない。 それで色々な連中がこの男のところへ話を聞きに行った。
しかしその男から得られた知識というのは、 偉いもので立派な大きい町があって人間がいっぱいいた。
次の町へ行っても立派な町で偉いはんかなものだった。 港はまたとても立派で人間が大勢いた。
というだけであった。 という話を最近聞いて思わず苦笑した。
我々のアメリカ見聞記というものも、 それに類した点が大いにあることであろう。
この流儀でアメリカ生活の便利さを骨髄され、 生活の改善などを唱えられたら一番迷惑するのは国民である。
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現に北海道全土から地方の有識夫人たちを札幌に集めて、 真空掃除機の話をしたという噂を聞いたこともある。
案外なことが実際に行われているものだと大いに感心した。 現在アメリカ生活の特徴は清潔・整頓・農立の三語に尽きる。
そしてその基調は物を捨てる点にあるように私には思われる。 このアメリカの文化の基調にあるものは捨てる文化である。
だからこれを日本へ適用することはなかなか難しい。 2.捨てる文化。
前に花水の中のアメリカの婦人生活で、 アメリカの家庭における台所のことをちょっと書いたことがある。
少し二重になるところもあるが、話の順序として今一度説明をしよう。 台所の正面には真っ白なタイルの大きい流しがあり、
その横にはコンロが4つくらい並んだ黒いガス台がある。 一方の壁には白エナメルのピカピカした大きい電気冷蔵庫が建っていて、
それと並んだガラス張りの食器棚には皿とコップがきちんと積み重ねてある。 白ペンキ糊の戸棚が別の壁に沿って作り付けになっていて、
その中には貯蔵食料品がいっぱい入っている。 台所といっても外に出ているものは何もないので、
清潔と整頓の標本みたいになっている。 しかしこういうふうに台所をいつも綺麗にしておけるのは、いらないものをどんどん捨てるからである。
街で買い物をすると小包み用の渋紙みたいな立派な紙で包み、 純綿の細い丈夫な真っ白い紐で戸へ畑へに縛ってくれる。
アメリカ人は不器用だからむやみどたくさん紐を使う。 マッチの軸木よりもちょっと細い紐であるが、大人が力いっぱい引っ張っても切れないくらい上等な
紐である。 この包みを開くときに紐を解いたりはしない。
ハサミでブツブツと切って、包み紙いことを丸めて捨ててしまう。 食料品にはガラスの瓶詰めが多いが、この空き瓶もどんどん捨てる。
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広口の角瓶で金属のネジ蓋が付いたものが多く、 一つ拾って日本へ持って帰ったらどんなに重宝するかと思うような瓶がある。
それを平気で捨てる。缶詰の開いたものはもちろん捨てる。 缶切りで開けたものは論外であるが、日本では多いに尊重している
トモブタのキャンディーの容器でもコーヒーの缶でも、 閉まっておく家庭の方が珍しい。
もっともいちいち取っておいたら、たちまちにして空き瓶と空き缶とで、 台所と食堂もいっぱいになってしまうであろう。
料理は普通大鉢か大皿に入れて出し、 各自の皿に取り分ける。
食事が済んだ時、鉢や大皿にたくさん料理が残れば、 冷蔵庫に入れておくが、そんなことは滅多にない。
少量ならば皿に取って食べ残りとともに全部捨ててしまう。 食後は皿類をまとめて流しに持っていき、
残品はどんどん捨てて、器物を流しに入れる。 だから色々な食べ物の残り物が少しずつ皿に入って、それが食器棚の中に並んでいて、
戸棚の戸を開けるとプーンと臭うようなことは決してない。 四角なタイルの流しは深さ5、6寸あって、排水溝に線をすると大だらいになる。
温湯はどの家庭でも出るので、熱い湯をこの流しにいっぱいに入れ、 粉石鹸を一握り加えて石鹸湯にする。
そしてその中に食器を放り込んでしばらく置いて洗う。 だから油系のものでもすぐ綺麗になる。
汚れた石鹸水を捨てて、また温湯を満たしてすすぐ。 熱湯から取り上げた皿は、しばらく並べておくと簡単に乾くので、
すぐ食器棚に収められる。 こういう調子だから、食後の後片付けという主婦にとって一番嫌な仕事も、
15分くらいで済んでしまう。 捨てる文化のありがたさである。
日本のように3弁も使った、いろいろなアドレスの書いてある小包み紙まで、 庭園に皺を伸ばしておく家庭では、
アメリカ風の清潔と整頓とは、なかなか難しい問題である。 3.ボロのつくろい。
この捨てる文化は衣類の場合にもやはり成り立つ。 ボロをつくろって何とかして着るとか、
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夫の古街灯を構成して子供の通学服を作るとかいうことは、 アメリカではほとんどない。
極下層階級のメキシカンなど、 例えば農場の日雇い労働者たちの間ではあるいはあるのかもしれないが、
日本でいう普通の労働者の家庭でもボロを綴るというようなことは例外的なことである。
そういう階級ほど破れた服は捨てなければならない。 というのはそのボロを作ろうのに必要な時間だけ外で働けば、
新しい服が一着買えるからである。 中産階級でも同じことである。
日本でいういわゆるサラリーマンの家庭でも、 奥さんがストッキングのつくろいをするということはあまりない。
電車が一本走ればさっさと捨ててしまう方が多い。 というのはそういう家庭では大抵夫婦とも稼ぎをしているので、
時間が何よりも惜しいからである。 そんなものにかまっている時間だけ外で働けば、新しいストッキングが立派に買える。
だから靴下のつくろいが日本では美徳であり、 穴の開いた靴下を捨てることがアメリカでは美徳なのである。
もっとも捨てると言っても本当に焼く煙草の中に捨てるのではない。
坂西志穂さんに教わった話であるが、そういう着られなくなった衣類どもは、 それを集めて困窮している人たちに配るので、そういう社会政策が非常にうまくいっているそうである。
4 アメリカの土地
捨てる文化に意味があるのは、その裏にそれだけ外で働くという条件がついているからである。
そして現代のアメリカはまさにその通りになっているようである。 それで捨てる文化が成り立つか否かという問題は、
いつでも外で働けるほど仕事がどこにでもたくさんあるか否かという点に帰す。
すなわち資源がほとんど無限にある国でのみ、こういう文化が成立するのである。 しかしこの資源が多いという言葉ぐらい、誤解を招きやすい言葉は少ないという点も注意しておく必要がある。
日本ではアメリカといえば大抵の人は、 それはもう典型に満ち満ちた国のように思っている。
例えば農作物にしたら、気候が年中非常に良く、土地は豊穣で、 作物は掘っておいてもいくらでもできるように思いがちである。
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しかし事実はむしろその逆である。 アメリカの真ん中から西半分は、ほとんどその大部分が砂漠と半砂漠地帯である。
太平洋からの水気はカリフォルニア州の狭い地帯を抜けてすぐ ネバダ山脈に突き当たる。
1万フィート級の山がずっと連なっているこのネバダ山脈は、 太平洋の水域からネバダ、コロラドなどの各州をほとんど完全に遮断してしまう。
大西洋の水域の影響も大陸の半ば以西までは届かない。 それで西部一帯及び中部の一部は年中ほとんど雨が降らない。
これらの地方では水資源というのは冬の間に降る雪がその大部分を占めている。 これらの雪が春になって溶けて川に流れ出る。
その水がほとんど唯一の水資源なのである。 春先のこの水を利用して小麦を蒔く。
しかしその後はほとんど雨が降らないので、極端な乾燥農業になってしまう。 そういう乾燥農業を連々続けると自力はすぐ減退してしまう。
それでよく小麦の中に牧草の根パンをする。 麦を刈った後にこの牧草が伸びてくる。
それをその年と次の年に渡ってたびたび刈って資料を取る。 第3年目に掘り返して緑皮にする。そしてまた小麦を蒔く。
すなわち2年1毛作しか取れない。 こういうやり方が中部及び西部では例外の話でなく、
むしろ一般の種植農業の姿であると言っていい。 こういう土地から見れば日本のような国はまさに天国と言って差し支えない。
5.砂漠の征服。 砂漠の征服に詳しく書いたように、近年のアメリカの開発事業はこういう地域の開発である。
それは一口に言えば砂漠の征服なのである。 雨が夏の間ほとんど降らないということは、毎日毎日焼きつくような日光に直射され通しということである。
すなわち日光は有り余るほどある。 それで水さえあれば作物はいくらでもできる。
すなわち灘外水を作って水をひけば、一躍収穫は3倍も5倍もに跳ね上がるのである。 しかし川はどれも灘外水を取るには不適当である。
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春先の雪解け水は恐ろしい氾濫を起こし、 日本で言えば小さい犬を一つ丸々濁流の下に葬るくらいの洪水をちょいちょい起こす。
例えばコロロラド川などは日本の面積の2倍近い流域面積を持っている。 その流域の半分近い都市に降った雪が、春先になると一度に溶けて一本の川に流れて出てくる。
日本では想像のできないような洪水が起こるのも不思議ではない。 しかも肝心の水の必要な夏にはこの川の水量は著しく減退してしまう。
それで考えをやると言っても、まずこの川の制御からしてかからねばならない。 すなわちダムを作って、春先の雪解け洪水を全部貯水庫に蓄え、
それを年間を通じて一定の量だけ下流の方へ流すようにする必要がある。 それができれば、あとは貯水庫なり一定水位の下流なりから小運河によって濃厚地帯まで水を
引くことは大した土木工事ではない。 コロロラド川の場合を例にすると、まず第一の仕事は全雪解け水位を収蔵し得る貯水庫を作るために、
ボルダーダムを構築することであった。 このダムは高さ726フィートあり、
その構築にはエジプトの大ピラミッドよりも大きい土木工事を必要とする。 そういう大土木工事を従来全く無人の境であった
ネッサと岩海との砂漠の中に遂行しようというのであるから、 その困難の土はちょっと想像もできない。
しかしアメリカの科学と技術、それとそれよりも偉大な貢献をした関東精神とが、 この難事業を遂に完遂したのである。
1931年に着手、わずか5年にして、 1936年にはもうこの奇跡の大土木工事が完成した。
コンクリートを打ち出してからは、昼夜3交代、 8時間の重労働を完工して、一瞬の休止もなく、遂にやり通したのである。
あのネッサの荒野の中で、こういう労働をやり抜く精神力はちょっと想像外である。 灼熱の太陽、
乾ききったサレキの荒野、 寒海、熱風、
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1時間も外に立っていたら、混沌しそうになるところである。 この地理的および気候的条件を忘れては、この異業の意味は理解されない。
ボルダーダムの完成によって、下流のインペリアルバレーは一変して翌夜となり、 この一地方だけで毎年9000万ドル、
300億円の農産物収入を上げるようになった。 しかしそれはまだこの大事業のほんの一部の結果であって、
それよりもっと重大なことは、このダム一つによって、 104万キロワットという、ちょっと考え及ばない
莫大な水力電気が得られた点である。 この途方もない量の電力はロサンゼルスに送られて、
そこでアメリカ第2の大工業都市を生んだのである。 このロサンゼルス及びその近郊の、いわゆる南カリフォルニア工業地帯では、
今度の対戦中に新しい工場がこの電力によってたくさん生まれた。 世界最大のマグネシウム工場、
人造ゴム工場をはじめとして、 総計1800の新しい工場ができたそうである。
それによって今度の戦争中のアメリカの飛行機の大量生産が可能となったのである。 6.資源と資源化
日本ではよく、「アメリカは資源が豊富だから。」 という一言でバンジの説明を尽くしているような傾向がある。
しかしアメリカのジェラル・ミンとて、自分で山から出てきて飛行機に化けるのではない。
有り余るアメリカの電力とても決してそこらに転がっていた電気を拾ってきたものではない。 人間の生存し得る場所でない砂漠の真ん中に、
エジプトの大ピラミッドよりも大きい大土木工事を完遂したことが、 すなわちアメリカには資源が多いことなのである。
ロサンゼルスでは1800の大工場が新しく建設されたために、 著しく人口の増加を見た。
この10年間に100万人の人口増加があったというが、 これは世界の都市発達の歴史の上でも珍しい現象の予示である。
これらの人々は他の都市及び田園から移住してきたものであるが、 その移住の原因は言うまでもなく、
新しくできた職場がそれだけの人間を必要としていたからである。 アメリカでは前に言ったように損耗したものを捨てて、それを修理する時間だけ外で働く。
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それによって大いに生産を上げる。 それが可能なのは外で働く職場がいつでもあり、
働いた時間がそのまま生産になるからである。 ところがそれだけの職場がいつでもあるのは資源が豊富だからである。
そして資源が豊富だということは、捨てられていた自然のエネルギー及び物質を 労働力によって資源化したことなのである。
そうすると、働くから資源が生まれ、資源があるから職場ができる。 職場ができるから働けるという理屈になる。
なんだかごまかされたように思われるかもしれないが、これが本当なのである。 職場がないから働けないのではなく、
働かないから職場がないのである。 7
日本の場合。 この考え方で日本の現状を今一度振り返ってみると、いろいろなことがはっきりするであろう。
日本の今の悩みは、働きたくとも働く仕事がないという一点に尽きる。 先日見たところ、現在の4つの島では9000万人の人間が生きていくだけの資源が足りないのである。
まだ9000万人なんだな。 しかし前の考え方によると、それは資源を生み出すだけの働きをしないからである。
ところが日本人は働かないかというと決してそうではない。 農家の人たちの労働を見ると、朝は暗いうちから畑に出て、日いっぱい過激な労働に従事し、
夜遅くなって疲れ切って家に帰り泥のように眠る。 主婦の一日の仕事も少なくも精神的にはこれに劣らぬ労働である。
朝から晩遅くまで食事の用意、後片付け、家の掃除などという目に見える仕事のほかに、
作ろいや洗濯やいろいろなやりくりなど、ありとあらゆる雑用に追い回されて、一日を無我夢中で過ごしているのが、今の日本の主婦の実情である。
その上最近まで配給などという言語道断な制度、少なくもその制度を運用している連中の言語道断なやり方にせめ、
苛まれていたのが家庭の主婦の姿であった。 職場をもって外で働いている男もやはり一日中追い回される生活をしている。
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交通難、電話難がその無駄な忙しさに拍車をかけている。 こうしてみると日本国中の人間が誰もかも一所懸命に働いている。
怠けている人間もあるが、好きで怠けている人はごく稀で、 本当は誰も働きたいのである。
そして事実、みんなが夢中になって働いている。 少なくも生活に追い回されているという意味では働いているのである。
8.文明への逆行 そうすると前に言った理論
すなわち働くことによって職場が生まれるという理論は日本では当てはまらないことになる。 そして事実、現在の日本にはそれは当てはまらない。
その理由は働くという言葉の内容がアメリカの場合と日本の場合とではまるで違っているからである。
日本ではせっかくの労働がほとんど全部空転している。 今度の戦争の始め頃からその傾向がだんだん表面に出てきたが、
敗戦後は特に酷くなったようである。 現在の日本では全国民が体と精神等をすり減らしていながら、その労働が空転している。
その点は少し心のある人は皆が認めていることであろう。 その原因はというよりも、その現象を別の言葉で言い表せば、日本には組織がまだできていないからである。
100人の主婦が1時間ずつ時間を潰してする洗濯物の送料を、 1人の洗濯屋が多分1日で済ましてしまうであろう。
機械を使えば1,000人分もあるいはもっとたくさんできるであろう。 一番主な理由は湯を沸かしたり、たらいを持ち出したりする無駄な時間が、
100人別々にやれば100倍かかるからである。 まして湯を沸かすべき燃料の入手にまで遡れば、無駄に消える労力はさらに多くなってくる。
家庭菜園を作り、食料を背中に乗せて人、もろとも、客車に乗り、 衣類を自分で作り、またつくろいをすること。
すべて自給自足の体制を取ることは、文明と逆行する傾向を取ることなのである。 組織を壊すあるいは組織を作らない方向に進んでいるのであるから、
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これは近代文明に背を向けて、原始生活に後戻りしているのである。 生産が上がらず生活が苦しくなるのも当然のことである。
敗戦直後あるいは12年の混乱期にはそれもやむを得なかった。 ただそれはやむを得なかったが間違った方向であったということだけは知っておく必要がある。
もっとも、それを知ってもどうにもならないのではないかという抗議が出ることであろう。 しかしその抗議が出るのは、
単事実のうちに我々の生活が楽になるような、何か上手い方法が他にあるような錯覚に陥っているからである。 これだけの大戦争に完敗したのであるから、そういう上手い方法などはどうせあるはずはない。
ここ10年や20年のうちに再び戦前の比較的楽であったあの生活が戻ってくることは到底期待できない。 この頃急に物資が出回って、銀座の店頭は戦前と同じような景観を呈しているが、
あれは変態的なあだ花であろう。 本当の国力の復帰はじりじりと自然回復の生じてくるのを待つより仕方がないものと思われる。
その場合少しでもその回復速度を速めることができれば大成功である。 ところが今日のいろいろな動きは、
せっかくの労働がただ空転しているだけならまだ良い方で、 悪くすると自然回復の邪魔をするような場合すらありそうである。
病気の根源を知らずにむやみと下熱剤やゲリ止めを飲むことはかえって病状を悪化する。 どんなに回復を熱望しても焦って悪い場合には焦ることは禁物である。
この場合何よりも大切なことは病原に対する根本的な知識の把握である。 知っただけでは何にもならないかもしれないが知らない方はもっと危険である。
9 精神と物質
以上のような議論に対しては反対意見の人もたくさんあることであろう。 敗戦の板では大きいが、
おかげでアメリカ流の民主主義が輸入され、 男女同権なども確立され、我々は自由を得たという人もあろう。
しかし本当の民主主義や男女同権が 一丁にして確立されるはずはない。
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アメリカにおいてさえ、それは数百年の年月を経てようやく 今日の姿に成長したものであることを忘れてはならない。
わかりやすい例として男女同権の問題を取り上げてみよう。 アメリカ流の男女同権は
婦人の経済的独立にその基礎があるように私には思われる。 この婦人の経済的独立は家庭の主婦の場合にも存在する。
一般の労働者はもちろんのこと、 日本ならば相当裕福な階級にあたるアメリカの中産階級の家庭でも、
主婦が外に働きに出ることは珍しくない。 むしろ家庭にいて掃除と食事の用意だけしている主婦の方が例外的な存在である。
ちゃんとした家庭を持ち、それを立派に維持しながら主婦が共に働きに出れるのは、 食事や掃除などいわゆる家庭内の雑用に使われる主婦の時間が極めて少なくて済むからである。
その理由は捨てる文化と台所の機械化とにある。 もっとわかりやすく言えば電気冷蔵庫があるからである。
電気冷蔵庫がなかったら現代のアメリカの食生活はできない。 主婦が働きに出ることも不可能になり、したがって経済的独立は成り立たない。
もっとも電気冷蔵庫のなかった30年前でもアメリカには男女同権があった。 しかしその時代にもやはりその時代に相当した電気冷蔵庫はあったのである。
それでもし今日のアメリカの男女同権をそのままの形で日本へ輸入しようとするならば、 私はまずダムの建設を提唱する。
まずダムを作って電力を無制限にほとんどただのような料金で供給する。 一方工業を起こして電気冷蔵庫をたくさん作り、
冷凍食品で生活できるように食生活を改善する。 また真空掃除機もふんだんに作って安く売り出す。
そして主婦は家庭で無駄に消費される労力を省いて外へ出て働き、 経済的独立を確保する。
そうすれば男女同権は自然と生まれてくる。 この議論はもちろん極端な話であって精神的の方面を全く無視した暴論である。
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しかし物質的方面を忘れた議論は全くの空論であることを強調するためには、 こういう議論もたまには必要であろう。
男女同権はもちろん人道上の原則であり、 当然そうなくてはならないことであるが、そのことと、
それが一枚の法令さえあれば可能であるということとはまた別問題である。 男女同権のようないわば精神的の問題でも、
やはり物質の制約を受けている。 いわんやその他の問題では推して知るべきである。
アメリカの今日の繁栄は、別の見方をすればそれは捨てる文化である。 そして捨てる文化は働く文化である。
ただこの場合注意すべきことは、働くという言葉の内容が日本の場合とは著しく違うことである。
昭和25年2月 1966年発行
朝日新聞社 中谷浮一郎随筆選手第2巻
より 読み終わりです。
なるほどねー なんか最後
大きくカーブしてた感じがしますけどどうでしょうか 僕も家では全くご飯を食べないのでコンビニで買ってきたのは温めるぐらいですかね
あとカップ麺を溶け食うかな シンクは綺麗なままですが
あのさー あのさーって言っちゃった
水しか流さないわけですよ基本的には 猫の
お水を交換したり 沸かしたお湯を捨てたり
しかしないのに水垢つくのって何なんですかね 何もあったえてないんだけどな
水垢って何なんだ 細菌がいるのか
なんか水しか流してないのに汚れるって何なんだろうって しかもヌメヌメするじゃない
昔すごい嫌いだったんだけどあの水のぬめり 最近なんか積極的に落とせるようになってきましたね
おじさんになってきたかな 家庭人になってきたかな
といったところで今日のところはこの辺でまた次回お会いしましょう おやすみなさい
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