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2025-01-30 23:54

100与謝野晶子「産屋物語」

100与謝野晶子「産屋物語」

産後まもなく筆を執ったそうです。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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サマリー

与謝野晶子の『産屋物語』では、女性の出産の苦しみや命がけの役割について深く考察され、男女の関係性やそれに伴う感情が描かれています。特に、女性が抱える苦悩と男性に対する憎しみ、さらに母としての喜びが対比して述べられています。また、女性作家が直面する文学表現の課題や女性の視点にも焦点が当てられ、作品における女性の描写の難しさや男女の文化的背景の違いが議論されています。

与謝野晶子の紹介
寝落ちの本ポッドキャスト。 こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。 タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
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さて、いよいよ100回目となりました。 今日はですね、与謝野晶子さんの産屋物語というテキストを読もうと思います。
小学校で習いましたよね、確か。 与謝野晶子さん。日本の佳人、作家、思想家。
伝統的な和歌の世界に斬新な感性と表現をもたらし、 近代短歌の確立に大きく貢献した。
代表作には歌手、乱れ神や詩、 君死に保うことなかれがあります。
これこれ、君死に保うことなかれね。 これがあまりになんかこのリズムが
保うことなかれがもうすごいグッと覚えてますね。 産後すぐの
お話かな。 ちょっとわかりませんけど、読んでみましょうか。
最後までどうかお付き合いください。 間違えた。あなたの寝落ちまでお付き合いください。
出産の苦悩
それでは参ります。産屋物語。 日菜の節句の晩に男の子をあげて、まだ産屋にこもっている私は、医師から筆取ることも、物を読むことも許されておりません。
ところで普段忙しく暮らしておりますので、 こう静かに伏せておりますと、なんだか一人で旅へ出て、
のんきに温泉にでも入っておるような気が致しますし、 また普段考えもせぬことがいろいろと胸に浮かびます。
お医者には内緒で少しばかり書きつけてみましょう。 妊娠の患い、
産の苦しみ、 こういうことは到底男の方にわかるものではなかろうかと存じます。
女は恋をするにも命がけです。 しかし男は必ずしもそうとは限りません。
よし、恋の場合に男はたまたま命がけであるとしても、 産という命がけの事件には男は何の関わりもなく、また何の役にも立ちません。
これは天下の婦人があまねく負うている大役であって、 国家が大切だと、学問がどうの、戦争がどうのと申しましても、女が人間を産むという大役に勝るものはなかろうと存じます。
昔から女は損な役割に回って、こんな命がけの負担を犯しながら、 男の方の手で作られた教文や道徳や国宝では、在生の深いもののごとく、
烈者や弱者のごとくに取り扱われているのはどういうものでしょう。 たとえいかなる在生や欠点があるにせよ、
釈迦、キリストのごとき聖人をはじめ、歴史上の赤額や英雄を無数に生んだ功績は大したものではありませんか。
その功績に対して、当然他の一切を除してもよろしかろうと思います。 私は産のけがついて、激しい腎痛の襲うてくるたびに、
そのときの感情を逸らわらずに申せば、いつも男が憎い気が致します。 妻がこれくらい苦しんで、生死の境に油汗をかいて、全身の骨という骨が砕けるほどの思いで
うめいているのに、 夫は何の役にも助けにもならないではありませんか。
この場合、世界にあらゆる男の方が来られても、私の真の味方になれる人は一人もいない。
命がけの場合に、どうしても真の味方になれぬという男は、虫の世から定まった女の仇ではないか。
日頃の恋も情愛も、一切女を裏切るための覆面であったか。 かように思い詰めると、ただもう男が憎いのです。
しかし子供が鯛を入れて産声を上げるのを聞くと、 やれやれ自分は世界の男の誰も用をしとげない大手柄をした。
女というものの役目を見事に果たした。 マヤブニンもマリアも、こうして釈迦やキリストを生み保うたのである。
という気持ちになって、上もない喜びの中に、心も体も溶けていく。 ちょうどその時に痛みも薄らいでいますから、
後の始末は産場に頼んでおいて、疲労から来る眠りに心よく身を任せます。 もちろん、男の憎いことなどは産が澄んだ一刹那に忘れてしまった自分は、
世界でこの刹那に一大手柄を立てたつもりですから、 もはやいかなる憎い者でも許してやるといったような気分になります。
近頃、小説家や批評家の諸先生が、 切羽詰った人生ということを申されますが、
世の中の男の方が果たして産婦が経験するほどの命懸けの大事に出会われるかどうか、 それが私ども婦人の心では想像がつきません。
切羽詰った人生といえば、死刑前5分間に勝るものはないように思われますが、
産婦はすなわちしばしば死刑前5分間に免しております。 いつも十字架に登って新しい人間の世界を始めているのは女です。
男女の関係性
片井先生が近頃、女子文壇で、「女というものは男子から見ると到底疑問である。」 と言われたのは、お説の通りであろうと存じますが、
しかし、男子と女子とは生殖の道を他にして到底没交渉なのではないか、と言われたのは、 私が前に男が憎いと申した理由を確かめて、男子の無情を示すことにはなりますが、
現実を客観することのできる理性の明らかな男の方が、 人生における婦人の誠の価値を鮮明せられたことにはなりません。
婦人がなくてどこに人生が成り立ちましょう。 どうして男子が存在されましょう。
この明らかなる事実をご覧になる以上、男女の交渉がいかに切実で全体的であるかは申すまでもないことと存じます。
生殖の道を他にして到底没交渉なのではないか、と言われるのは、 生殖の道にばかり興味を持っておられるらしい今の一部の文学者の敵したお考えではありますまいか。
私は、男と女とを厳しく区別して、 女が特別に優れたもののように言われたくて申すのではありません。
同じく人である、ただ共同して生活を営む上に、 互いに自分に適した仕事を受け持つので、
子を産むから穢らわしい、戦に出るから尊いというような偏派な考えを、男も女も持たぬようにいたしたいと存じます。
女が何で一人弱者でしょう。男もずいぶん弱者です。 日本では男の戸敷の方が多いことを統計が示しております。
男が何で一人偉いでしょう。女は子を産みます。 ずいぶん男がなさっても良さそうな労働を女が致しております。
一般の人はともかく、新しい文学者の諸先生が女を弱者とし、 これをモテ遊びものにして、対等の人たる値打ちをお認めにならぬのは、
例えば、生殖の道においてのみ交渉をお認めになるというようなのは、未だ古い思想に縛られておられるか、
または大昔の野蛮な時代の獣性を復活して新しくせられるつもりか、 どちらにしても真の文明人の思想に実際到達しておられぬからであろうと存じます。
男を女が軽蔑する理由がないように。 女を男の方が軽蔑されるわけは到底ないと考えます。
釈迦が女の右の脇腹から生まれたの。 精霊に感じてキリストを生んだの。
火を飲んで秀吉を生んだと思うのは、女は穢らわしいものだと思う考えが頭にあって書かれた男の記録でしょうが、
それがかえって女を偉くした妙な結果になっております。 火や精霊に感じて払うんだり、脇腹から生んだりする奇跡は男の方が永劫できない芸ではありませんか。
女が同盟して子を産むことを拒絶したらどうでしょう。 また文学者や新聞記者に一切婦人のことに筆をつけぬように請求したらどうでしょう。
それが聞かれねば、一切小説と新聞紙を読まぬことに決めたらどうでしょう。 そういう極端なことでなくても、下女が台所でちょっと間違えて毒な薬を食物に混ぜても、男は悲惨な結果になりましょう。
男が女と共同し尊敬し合うことを忘れるのは決して名誉ではありません。 少なくとも進歩した文学人は、人として対等に女の価値を認めていただきたいと存じます。
と申して一概に婦人を崇拝したような小説の出るのを願うのではありません。 世相を移すのが小説であるなら、女の弱点をも美少をも公平に取り扱っていただいて、
恋に弱点ばかりを見るというような不真面目な態度、 態度というよりは作者の人柄を改めていただきたい。
弱点と申しても、もっと突っ込んで観察が深くないと、すべて男の方の勝手に作られた嘘の弱点になって、真実の女の醜いところが出てまいりません。
一体以前の小説には女の美しい点がたくさん書いてありますが、 それが私どもから見ると案外、女の恐縮な弱点を男が美点だと誤解している場合があります。
それを読んで女は、こうすれば男に気に入るというような恐縮な工夫を増長して、 自然内心では男を甘く見るということも少なくないと存じます。
これと反対に少しの弱点を捕まえて、それが女の性格の全部のように書いてある 近頃の小説などを見ては、一層飽きたらなく思います。
以前のは一概に女の前に目も鼻もなくなって書かれた小説。 近頃のは机の上で外国の小説などから暗示を得て書かれた小説。
共に世相の真実には遠ざかっておるかと存じます。 私には空想とか想像とかで最もらしく書かれた作も大好きですが、
またほとんど観察ばかりで細かく深く実際の人間を写してある小説も拝見いたしたい。 嘘らしい本当の小説は嫌いです。
例えば、婦人を浅ましい肉的一方に変したもののように書く小説があります。 たまにはそういう病的な婦人もありましょうが、婦人がすべてそうであるとは思われません。
これは婦人でなくてはなかなかわかりにくいことで、 男の書かれたもののみでは信用しかねます。
女の大部分が男の方に理解されるとは思われませんが、 こういう一部一部には女でなくてはわからぬ点があるのでしょう。
私どもから男の方を見るとやはり一部一部にわからぬ点があります。 父親が子供を母と一緒に愛しますことなどもちょっとその心持ちがわかりません。
婦人は解体した時から子供のために苦痛をします。 体内で子供が動くようになれば母は一種の神秘な感に打たれてその子に対する親しみを覚えます。
分娩の際には命をかけて自分の肉の一部を削くという感を切実に抱きます。 生まれた子は海の底に降りて取り得た玉と申しましょうか。
とても比べ物のないほど可愛く思われます。 男は子供との間に精神上にも肉体的にもこういう関係がみじんもないのになぜ可愛いのでしょうか。
また小説を読みましても加泰先生の布団の主人公が 汚らしい布団をかぶって泣かれるあたりの男の心持ちはどうしても私どもにはわかりかねます。
ああいう小説を読むと肉感的動物的であるというのは婦人に下す判断でなくて かえって男に下すのが正しくはないかなどと考えます。
女から見れば男はいろいろのことに携わりながらその忙しい中で絶えず修行婦などに手を出す。 世の中で男で女に関係せずに終わるという人はほとんどおりますまい。
童貞多いらしいですよ最近。 女は二十歳以前それから母になって後というものは概ねそれらの欲が少なくなり
またほとんど忘れるものさえあると申しますのに近年男の文学者の諸先生の中には 中年の恋と思うようなことが行われます。
また未成年の男子や670歳の男子までが若い婦人にたわむれる実例は目に余るほどあります。
しかし病的な婦人の除外例を例として女を肉感的だと断ぜられないごとく 男をもう一概に動物的であるとは申されますまい。
布団の主人公などはやはり病的な男子の除外例でしょう。 一体男女の区別と思うものがこれまでのはあまりに上辺ばかり
一部分ばかりを標準にしてはおりませんか。 世間には女のような要望、皮膚、子扱い、気質、
感情を持った男子があり、 また男のようなそれらの一切を持っておる婦人があります。
すなわち高有無機能を備えた男、文学者、教師、 農夫、哲学者となる技量を持った女というような人が随分あるかと存じます。
いろいろの学理といろいろの実験とから調べましたなら、 男女の区別の標準を性色の点ばかりにとるのは間違いかもしれません。
そうすれば男女のいずれかが全く肉感的であるというようなことも間違いであって、 肉感的な人は男女のいずれにも多少あり、
女性作家の挑戦
もしくは人間は一般に多少肉感的であるということに気するかもしれません。 小説にはそういうところまで学理と実際の観察とで書かれていなければ進歩したとは申されませんでしょう。
男の作家に真の女は書けないかもしれぬという説がありますけれど、どうでしょうか。 女には幾分女でなければわからぬという点も前に申した通りでありましょうが、
同じく人である女の大部分が、 男の方にわからぬはずはないでしょう。
よし、普通の男子にはわからずとも、それが鋭い観察と感受力とで了解せられるのが文学者ではありますまいか。 幾分女でなければわからぬという点さえも、文学者のみにはわかりそうなものだと私は存じます。
罪人にならねば、罪人の心持ちがわからぬようでは、文学者もつまらぬものになりましょう。 砂漠の中の犬は、二里先の人の匂いを嗅ぎ知ると申します。
女の子とは婦人の作家が書いてならば、うまくその真相を移すことができるかと思うすに、 これまでのところではまだ我が国の女流作家の筆にそういう様子が見えません。
男子を移すのは、男の方がお上手であることは申すまでもないので、 女の書いた男はもちろんうまくいきません。
一葉さんの小説の男などがその例ですが、女の書く女も大抵やはり嘘の女、 男の読者に気に入りそうな女になっているかと存じます。
一葉さんのお書きになった女が男の方にたいそう気に入ったのは、 もとより才筆のせいですけれども、
また幾分芸術でこしらえた女が書いてあるからでしょう。 女は大昔から男に対する必要性を幾分誰も教職の差顔や種のお手、
上辺を装うことになっております。 で、自分の美書も終書も隠して、なるべく男の気に入るようなことを自然、男から教えられた通りに行うという場合があろうと存じます。
女の成すことの過半は模倣であるというのは決して女の本性ではなく、 久しい間自分を応用にした習慣が今では第二の性質になったのです。
文学を書くにしても、女は男の作物を手本にして男の気に入るようなことや、 男の目に映じたようなことを書こうとします。
女は男のように自己を発揮して作を致すことを遠慮しているところから、 女の見た真の世相や真の女が出てまいりません。
これを誤解して女には客観描写ができず小説が書けぬもののように申す人があります。 しかし徳川時代から明治の今日へかけてこそ女流の作家は出ませんが、
平安朝以後の文学では男子がみな女の小説を手本にして、それを模倣して及ばざることを恥じております。
細文に富んだ女が真実に自己を発揮したならば、現時物語のような巧みな作画、この後とてもできないとは限りません。
紫色部の書いた女性はどれも当時の写実であろうと思われ、女が見ても面白うございます。 女の醜い方面も相当に出ております。
それにしてもまだ十分、女の暗黒面を、諸文獣や婚弱物語などのように露骨に書いていないのは、当時の手本である品文学にそういう類のものがなかったせいでもありましょうが、
一つは男にひどく女の醜いところを見せまいという恐縮の心。 後世の道徳家の言葉でもおせば、低粛の心から書かなかったのでしょう。
紫色部は女をうまく書きましたに関わらず、男はそれほどでもありません。 光源氏などはどうも理想の人物で、当時の歴史を読んだ者にはこういう男子の存在を信じられません。
昔から女には男を書くことが難しいのでしょう。 地下松の書きました女性の中で、お種にお妻、小春とお産などは、女が読んでも頷かれますが、
定女とか忠義に凝った女などは人形のように思われます。 夫人の小説家がこの後成功しようといたすには、
これまでのように男の方の小説を模倣することをやめ、 世間に女らしく見せようとする恐縮の心を投げ打って、自己の感情を練り、
自己の観察を鋭くして、遠慮なく女の心持ちを真実に打ち出すのが最上の法かと存じます。
また女の作家がこういう態度で物を書けば、貴重を徹して女の真面目を出すのですから、女の美も臭も、
よく男の方にわかることになりましょう。 また私はこういう態度を取れば女にも小説が書けるものだと信じております。
文学における男女の視点
と申すと、女は大変に暗黒面の多いもの、 お座の覚めることの多いものであって、それを汚なく女自身が書いたら風俗を乱すなどと思う人もありましょうが、
女とても人ですもの。男と格別変わって劣った点のあるものでなく、 あるいは美しい点は男より多く、見にくい点は男より少ないかもしれません。
女ばかりでなく、男の方も随分まだ見にくいところを隠しておられるのではないでしょうか。 古事記の女詩人や小野の小町、清少納言、
泉四季部などの歌ったものを見ますと、 女が主観の激しい細やかな英単を残しておりますが、
この方には割合に協食が行われずに、 親立に女性の感情が出ております。
私は小説家ばかりではなく、詩歌の作者としても、 また新しい夫人の出てこられることを祈っておるのです。
東京二六新聞、1909年3月17から20日、
1985年発行、 岩波書店、岩波文庫、
よさの秋子評論集、より読み終わりです。
はい、 ということで、今で言うところの
フェミニストとかにあたる方なんでしょうかね。 女性の地位の向上を、こう裸に
叫んでいく。 実践していくみたいな。
特に言うことはございません。 ということで、無事100回が終わりました。
これからも200回、300回と続けていけたらいいなと考えておりますので、 どうぞどうぞお一人お一人の皆様ですね。
お付き合いいただければ幸いです。 意外と聞いてくれてるっぽいですけどね、どうやら。
今度はまた長いのでもやりましょうかね。 はい、といったところで、今日のところはこの辺で、また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。
23:54

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