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寝落ちの本ポッドキャスト。こんばんは、Naotaroです。 このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本を淡々と読んでいきます。 エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。 さて、今日はですね
夢野久作著「創作人物の名前について」の後編です。
小説に出てくる登場人物たちの名前をどのように決めるべきかということに条件を出している。
前回は第3条まででしたが、今回は4条から続けてまいります。 おしまいまで全部読めるといいな。
それでは聞いてください。 第4の条件は実在の名前。
例えば電話帳などに多く出てくる名前をなるだけ使いたくないことである。 前にも述べた通り、実在しないとっぴな名前を使うと読者の記憶は残り難い代わりに
間違えました。残りやすい代わりに、この前編の白紙性を極度に薄める恐ろが非常に大きい。
馬にコットと書いて、馬琴などは石亀やジダンダのネズミカワヨシジローなんていうのを平気で使っているが、今頃使ったら物笑いのほどであろう。
しかし一方に実在の名前をなるだけ使おうとすると困る問題が一つ出てくる。
これも前日の通り、探偵小説では、善人と悪人とをはっきり区別しなければならない場合が非常に多いのだから、
善人の場合は差し支えないが、悪人の名前にうっかり実在の名前を使うと意外な結果を招きやすい。
これは架空の話だから、 お差し合いの方にはまっぴりごめんくださいであるが、
田中という人物が推起すべき悪党であったり、林という人が、林という美人が自動車に引き潰されたり、中村という先生がやつ斬りにされたりしたら、
日本中の田中さん、林さん、中村さんは、作者に対して報復しようのない怨恨を抱き、不情を感じ、嫌悪の情を持って本を投げ出す恐れがある。
それほどでなくても、作者として一種の変てこな失礼を四方八方に働いたような良心の過酌を感じることになるのだから、
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つい遠慮したくなるのである。 こうして様々な条件をつけてくると、創作人物の名前になるものはいい加減、神経衰弱のたりになるものである。
だから私などは、今日まで気に入った名前ばかりで一遍を創作した場合は一度もないので、
十中八九は、いい加減なところで辛抱してきた場合が非常に多い。
無責任なようであるが、そんな風に考えて、徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、
締め切りに間に合わない場合が多いのだからやむを得ない。
また一方から見ると、作者が創作人物の名前を悠々勘々と試案する、などということは、今のスピード時代には望まれないことかもしれない。
作者の堂楽か、もしくはお庭の石をあっちこっちと動かしては眺めると、同じ格の一種の隠居仕事かもしれないと思われる。
妙なものといようか、またはありがたいことといようか、ここに一つの不思議な現象がある。
最初はいい加減な名前で我慢して、そのうちいい名前をつけてやるつもりで筋を進めていくうちに、
その名前とその人物がいつの間にかしっくりきて、到底切り離すことができなくなる場合が非常に多い。
最初は不似合いに思っている名前でも、原稿紙の14枚、15枚も書いていくうちに、その名前を書いただけで、
その人物の顔形から背丈、体格からその地位、趣味、ステッキやハンドバッグの色恰好、
その書斎に並んでいるアギ読書の種類まで、いっぺんにずらりと目の前に浮かび上がってくるようになるので、
そうなると他の名前を持ってきても絶対に受け付けられなくなる。
それを読者に対する気兼ねや何かで、無理に他の名前に改名させると、
全然別人の漢字になってしまって、全体の筋から書き直さなければならなくなることが度々である。
つまり作者はその名前から受ける漢字で筋をはかんでいくものらしいことが、ここにおいてはっきりと自覚されるので、
これは自分ばかりに限ったことではあるまいか、それとも他の作者にも共通した心理現象であろうか、
時々首をひねってみることがあるくらいである。
もう一つ面白いのは主役と俳句とで名前の付け方が違うことである。
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俳句の名前などはどうでもいいと思うのは大変な間違いである。
主役の名前はどこでも主役らしく、
俳句の名前は必ず俳句らしく付けていかなければならぬことは無論であるが、
その主役に対する彩り、対象の形状などを一歩誤ると、
読者に余計な注意力を浪費させ筋の混濁を放棄し、前編の風刺を打ちのめすことがあるのだから油断がならない。
同時に後から主要な役割を受け持つ俳句の名前は、最初からそうした用意も込めて名前を選んでおかなければならないのだから、
俳句の鮮明といってもなかなか軽々しくいかないのである。
おかしいのは赤ちゃんの名前をやはり赤ちゃんらしく可愛くしておかなければならないので、
そいつが大きくなって悪党になったりするときに非常に困ることがある。
さらにもう一つ厄介なことに、作者がそういった感情を持って鮮明をしても、
読者の方でそうしない場合を考慮しなければならないという問題であるが、しかしこれはちょっと見当がつかないから困る。
私などに言わせると、 クリシマ・スミコという名前は中年のインテリ夫人の名前がするし、
エガワ・ランコはスレッカらしの勇敢冷情らしい感じがするのであるが、
しかし万人が万人、そう感じるかどうかは疑問である。
全く並行するのは西洋人の名前である。 外国人の名前の特徴なんか外国語のできない私にとっては全然わからないし、
いわんやその名前によって、その髪の毛や瞳の色を想像させるような芸当は一生涯できないものと諦めている。
やむを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生まれ故郷の地名や、
付近の地面の発音の特徴をもじって作るより他に方法を知らないので、こうして白鳥するさえ情けない気がする。
厳密に言うと日本でもその地方地方で特有の名前がある。 川津奈久屋一村西大同宇宙
という素人俳句が記憶に残っているが、そんな具合である地方の出来事を確認、
その地方のありがちな名前ばかりを使って事件を運べば、 非常によく実感が出るはずであるが、そこまで行き届かないから略することにしている。
いずれにしても創作人物の名前が神経衰弱の種になるのは私一人ではないらしい。 しかもうっかりすると作者の個性だか趣味だかが一定しているために、全然別の創作の中の同じような性格の人物の名前が似通ったようなちょいちょい出てくることもあるのだから油断がならない。
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しかし、また一方にそうした傾向を利用した作者の趣味とぴったりした人物を中心にして、いろいろな物語を描いていくのは確かに賢明な方法である。
ホームス、ルパン、ミッキーマウス、ノラクロなんとかといったような名前は、
要するに創作人物の名前の持つ魅力を100%に利用したもので、そんな出し抜く名前を発見した人の喜びは考えるさえ嬉しくてならない。
まだまだ創作人物の名前については重要なことをたくさんに書き残しているようであるが、さてこうして書き始めてみると、なかなか重大な問題らしく、
後から書くことがいくらでも出てくるのに驚いている。 誠に数日間で会わないことばかり並べ立てたようであるが、今までの小説表に名前の付け方の表など出ないようである。
しかも考えようによっては、創作人物の名前の付け方というものは確かに一つの立派な芸術のように思われるから、ちょっとその口開きまでにこんな愚問を発表してみた。
ゆめの旧作全集11 竹間文庫 竹間書房より1992年12月3日第1冊発行の
ゆめの旧作著 創作人物の名前についてでありました。 名前の付け方は
いろいろ考えていそうということですね。 普通の名前じゃ小説の主人公にはなれないでしょうな。
ということで、 以上をもって本作は読み終わりです。
それでは寝落ちできたでしょうか。皆様おやすみなさい。