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おはようございます、なっちゃのです。今日はですね、巷で超話題の大吉原展についてまた喋ろうと思うんですけど、
今週で大吉原展は終わりなんですよね。それまでにちょっと駆け込みで行こうと思ってます。
これから行くんかいって言ってないのに喋るんかいっていう感じなんですけど、ちょっと気になるXのポストがあって、そこから考えたことをちょっと喋っていこうと思います。
当初大吉原展っていうのは、吉原っていう場所をエンタメ化しすぎて、遊園地みたいに扱ってしまって、なんか負の歴史を無視するのかみたいに炎上しましたよねっていう経緯があって、
でもやっぱり名だたる浮世絵師の作品が展示されている、あの空間っていうのは素晴らしいみたいでですね、楽しみにしてるんですけど、
そんな評判をよく聞く中でですね、Xのポストでフェミニストの植野千鶴子さんがですね、セックス産業なのに春画はないんかいみたいなこと言ってたんですね。
で、なるほどって思ったんです。春画といえば性行為をする一般的には男女の姿が描かれているというのことじゃないですか。
で、ここから私が考えたことを喋っていくんですけど、吉原に関する春画がないわけはもちろんないですよね。
多分、だから意図的に展示に含まれてないと思うんですけど、春画ってすごい生々しくて、なんか私AVなんかよりもよっぽど生々しいなって思うんですけど、
例えば、今この春画のことを喋るのにググっちゃったんですけど、ディープキスしながらこんなでかいのあるっていうぐらい極太の一文字が出し入れされている瞬間が描かれてたりとか、
春画なんで普通の性行為ではないというか、性行為を見せるための絵になっているのは確かにそれはAVと同じなんですけど、やはりリアルな映像より正規とかがだいぶ強調されているので変な生々しさがあるんですよね。
それは置いといて、その展示を子どもも来るようなところに置いとけないっていう理由でもないと思うんですよ。
それっていうのは、普通にレンタルビデオ屋さんの18禁エリアみたいなのがあるように、
私、国吉と法一とかそういう渋谷でやっていた展示に行った時に、小部屋になっていて18禁エリアみたいな黒いカーテンがあって、ここからは18歳以上春画があるので18歳以上の方のみお入りくださいみたいなエリアを作っていたのを見たことがあったので、
私、これが別に唯一無二の展示方法でもないと思うので、そういう意味でも意図的に置いておいてないんだなって、その春画を展示してないんだなっていうふうに思ったわけなんですね。
それは最初の企画がやっぱり全てだったんですよねと思っていて、だから大吉原展っていうこの吉原の歴史を知ってほしいっていうテーマがあって作品を集められたわけじゃなくて、作品があってテーマが決められたからこうなってしまったっていうふうに思うんですよ。
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これで全然違ったら大変申し訳ないんですけど、そういうふうに思うんですよね。目玉の作品っていうのは、やっぱり宇多丸の最高傑作の友情シリーズの吉原の花ですよね。高橋由一のオイランとか、あと模型で見る吉原の街とかそういうことがあるみたいなんですけど、そういう見どころが先に来てしまって、もちろん超豪華な作品だからこそそこに乗っからない手はもちろんないと思うんですよ。
別に乗っかって企画を作ること自体はもちろん何の問題もないし、いい企画になればそれはもちろんいいと思うんですよ。なんですけど、目玉作品イコール吉原になりすぎたと思うんですね、今回は。
で、きらびやかで豪華で最先端のファンションがあって、原宿可愛いみたいなテンションに終始してしまったと思うんです。だから吉原といえば当たり前に製風俗サービスが本丸なわけであって、だから瞬間もあれば女性たちの苦悩とか苦悩では語れない性奴隷のような歴史もあって、そこをまるっと抱えて大吉原って言うとすべきだったんですよね。
こんな偉そうなこと言ってて、本当にこういうことって後から何いくらでも何でも言えるんですよ。特に私は大吉原展やるって聞いたときに、宇多丸最高ってしかならなかった人間だからなおなんですよ。
なお時間を込めて言ってるんですけど、って思って、だから目的と手段じゃないですけど、吉原の歴史を知ってもらうっていう目的を言いつつ、定欲言いつつ、結局は宇多丸を見てみたいな、本来なら吉原の歴史を知る一手段であるのに宇多丸を見てほしいっていうのが本音だから、そこの目的と手段が逆転してしまって、見せ方と実際の展示っていうところのズレが発生してしまう。
で、荒れてしまったんだなっていうふうに思ったわけなんですよね。という話ともう一つ思ったことがあって、春画がないとか綺麗なところしか見せないっていう、私も自分ごととして問題意識を持っているんですけど、そういう文化ってありますよね。
綺麗なところだけ見せて臭いものには蓋をするというか、そういう考え方というか見せ方っていうのが結構主流だと思うんですけど、だから私この前スタイフでもお話ししてしまった夫婦の喧嘩を子供に見せるか見せないかっていうことにもつながると思うんですよ。
なんか綺麗なところしか見せずに、みたいなことが結構気になるように私自身になってきたんですけど、例えば綺麗なことしか見せずお父さんもお母さんもいつも仲良しでいつもニコニコしてるよってそんなわけないんですよ。
ちゃんと大人同士だって喧嘩するし、でも嫌いだから悪口を言ってるっていうことで喧嘩してるわけじゃなくて、考えてることが違うから言い合いになっちゃったんだよと。
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好きな人同士でも違うって思うことはもちろんあるし、違うと思ってももちろんよくて、意見を押し殺したりとか自分が間違ってるって思う必要ないんだよって伝えるいいきっかけ、夫婦喧嘩っていうのはいいきっかけだなって思っていて、私は両親にそうしてほしかったなって今ならちょっと思ってしまうんですけど、
そもそも私は両親が喧嘩してるっていうところ見たことなくて、多分実際あんま喧嘩してないんですよ。母親は多分でもそれでも相当思うところあったと思うんですよね。
農家に卒業されてっていうか、まあ母親も農家なんですけど、なんかこう変なゴリゴリの過不調性の農家に卒業されて、義理の父にいびられて、でも夫は仕事で家を開けっぱなしでみたいな感じなので、絶対思うところはあったので、そういうところを見せてほしかったなって思うんですけど、話を戻すと綺麗なところしか見せないって大吉原っていうのにも言えるし、なんか全体的にそういう文化だよなと思うんですよ。
こういうことで思い出した話があって、鬼滅の刃で誘拐編があったじゃないですか。この誘拐編をやるっていう時に子どもたちに害悪だとか誘拐ってなんて説明すればいいんだって荒れたことがあったと思うんですけど、なんかその炎上は不思議だったんですよね。
なんで隠そうとするんだろうって。だからどこまで直接的に言うかっていうのは、もちろんその子どもの年齢とか親の考え方にもよると思うんですけど、でもそれぞれの言える範囲で説明していったらいいやって思うんですよね。
ということをなんか上野千鶴子氏の旬がないんかいっていうポストからいろいろ考えたことをしゃべってみました。話がですね、今日もとにかくとっちらかりすぎたんですけど、今日はこの辺で終わりにしようと思います。大吉原展楽しみ。ではそれではまた。