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世界に多くの喜びを提供しよう! 起業家たちの心構え
はい、こんにちは、直人です。今回は、えっと2024年度の上半期に20年ぶりに
新紙幣が発行されるそうなんですけど、そのお金の肖像に選ばれた方の話を
しばらくしていこうかなと思います。 今日はまずその一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一さんの話をしていきたいと思います。
渋沢栄一は日本優先、帝国ホテル、第一国立銀行
かっこ後の水穂銀行、東京証券取引所、 ひとつ橋大学などの設立に関わった人物です。
日本資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一は、 2024年に発行される新一万円札の肖像に選ばれました。
日本初の一万円札に描かれた聖徳太子、 そして現在まで40年にわたって肖像画を務めた福沢諭吉に続く3人目の肖像になり、
3人目となります。 日本銀行券を製造している国立印刷局によると
お札の肖像として選ばれるポイントは主に次の2つだそうです。 日本国民が世界に誇れる人物で教科書に載っているなど一般によく知られていること。
偽造防止の目的からなるべく精密な人物像の写真や絵画を入手できる人物であること。
そして今回渋沢栄一は新たな産業の育成に尽力し、 新元号の下で新しい日本銀行券にふさわしい人物として選出されたそうです。
実際に彼はどのような形で日本の産業に貢献していったのでしょうか。 そこをちょっと解説していきたいとおもいます。
渋沢栄一が活躍したのは主に明治の始まりから終わりにかけて。
1909年に財界からの引退を表明するまで数多くの企業の立ち上げに尽力してきました。
その数はなんと500前後だと言われています。 しかし初めから実業家としての道を歩んでいたわけではないそうです。
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明治時代の諸島は官僚の一人として国の繁栄を推進する立場にありました。
明治時代の日本は近代国家を目指し制度改革や産業強化を進めていました。 当時の主な施策はインフラや金融制度の整備、
官営模範工場の設営などです。 その中で渋沢栄一はお金の単位を円、銭、輪とする新貨幣制度の確立や
銀行設立に関するルールを定めた 国立銀行条例の整備を行います。
また後に世界文化遺産として登録される富岡製糸工場の建設計画の中心人物としても有名です。
しかし渋沢栄一はたった4年で政界を後にします。 その背景には産業や社会の成長には民間企業の力が必要だという
自身の考えがありました。 明治時代になって身分制度こそ廃止されましたが、当時の社会はまだ政府や官僚が盗賊、
商人や民間事業を卑下する、 寛存民費という風潮が根強く残っていたそうです。
役所に頼りっきりの経営を行う企業も多かったようです。 商人の意識や立場を改善しなければ文明開化を進めることができない。
そう考えた渋沢栄一は将来が約束された官僚としての立場を捨て、 民間で事業を立ち上げていく事業家としての道を選んだのでした。
かっこいい人ですね。 はい次行きます。
資本主義の父と呼ばれるわけ。 渋沢栄一が明治政府の下で働く前、静岡藩で財政を管理する役職にあった彼は、
藩の経済状況を立て直すために商法会所という組織を設立します。 この組織が日本初の株式会社だったと考えられています。
商法会所では、 民間人からお金を預かり、集めた資金で米や肥料の売買を行うほか、
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茶畑農家や 量産家への貸し付けも行いました。
そして借りたお金は利子をつけて返すという、現在の株式会社と銀行を組み合わせたような事業形態をとっていたそうです。
また、商法会所では民間人から扱ったお金だけでなく、 藩の資金も運用していました。
事業を行い世の中を良くしていく上で、 藩も民も関係ないという脱艦損民費の考えが当時からすでに渋沢栄一にはあったようです。
話は戻りますが、明治政府を去り、実業家として歩み始めた渋沢栄一は、様々な事業を手掛けていきます。
結果、設立や運営に関わった企業の数は500以上にも上ります。 そしてその多くが今もなお現代に名を残している大きな会社です。
いくつか立ち上げに協力した企業の例を見ていきましょう。 まず日本で最初の銀行となる第一国立銀行。
こちらは水穂銀行の原型となっています。 渋沢栄一は民間が事業を起こすためには資金を貸してくれる銀行が何よりも必要だと考えており、
実業家となってから最初に銀行の開業に取り組んだそうです。 また産業の発展にはアイデアや情報を共有するための新聞、書籍の印刷が不可欠であると考え、
消費会社 現在の製糸業界最大手
オージホールディングスの前身を設立します。 さらに製品の原料を運ぶための海運や陸運の発展にも貢献します。
これらは後の日本郵船やJR東日本となります。 運搬車の事故を補件する必要があると、今の東京海上日常火災保険の前身にあたる
東京海上保険会社の発起人にもなっています。 他にも産業の発展、世論をつくる目的で
東京商法会議所 今の東京商工会議所を発足
東京商法会議所は1879年に来日したアメリカ合衆国元大統領 ユリシーズ・グラント将軍の歓迎会を行ったり、日米就航通商条約の改正に向けた
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ロビー活動を行ったりするなど、国際交流の窓口としても重要な位置を占めました。 一見すると彼の旺盛な事業活動を脈絡なく感じる人がいても不思議ではないでしょう。
しかし実際はそうではありません。 銀行は事業を立ち上げる人が資金を借りられないように、
政治会社は多くの人が書籍などで技術学習できるようにと、一つ一つの企業の力が国の発展に欠かせないという考えが背景にありました。
これらの数多くの業績を残したことが、日本資本主義の基地と呼ばれる理由の一つになっています。
最後に渋沢栄一が掲げた道徳経済合一説という思想を紹介したいと思います。
当時は商人に関する社会的立場は決して高いとは言えず、利益追求イコール悪という考えが人々の間で広まっていました。
また商人の中には社会の倫理を無視してお金を稼げれば良いと考える人も多かったようです。
しかし渋沢栄一は不誠実な利益追求主義について真っ向から否定しました。
辞書論語とソロ版にも、利職利益を得て財産を増やすことと仁義の道とは一致するものであるという一文が残されています。
企業は国や社会の公益を追求しながら利益を得るべきであり、経済活動と道徳は常に一致しているという考えを渋沢栄一は大切にしていたのです。
はいありがとうございます。今日はここで終わりたいと思います。
あとしばらくはこの日本のお金の肖像になっている方のお話をしていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
それでは良い一日をお過ごしください。直人でした。