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TOKYO NORTH MOVEMENT 飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山
暖炉のある小篠光洋さんの部屋には
未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。
さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。
今月のゲストは、渋沢史料館の井上小門。
現在小門を務めの渋沢史料館で過ごした
学芸員時代から館長就任、
そして今に至るまでのお話、
今日も伺っていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
さて、先週お伺いしたように
孫楽氏等を研究された大学を終えられて、
渋沢史料館に学芸員として入られたということなんですけども、
ちょっと資料を見させていただいてですね、
僕、意外だなと思ったのは、
渋沢史料館で1982年の11月、
昭和57年の開館ということで、
そうです。
意外に、僕の印象からするとね、
最近なんだなっていうか、
もう全然僕ら物心ついてからなんだなって感じなんですけど、
井上さんはそれでもうそれの1年半後ぐらいに入られたと。
そうですね。
だから就職考えるときはなんだかよく分かんない、
まだ出来立てのところだったって感じですね。
全く右も左も分からない。
一応前任の方が1年ちょっといらっしゃったんですけども、
土台はある程度敷いてくれたようなところはあるんですけども、
2日間しか引き継ぎの時間がなかったので、
本当に入ってからは。
館の人たちもそういうものには全く目を向けるような人たちもいませんでしたので、
もう右も左も分からない中、
でも毎日が宝探しのような感じで、
こんな資料もあるんだっていうところで整理をしながら、
ある意味楽しみながらやらないとダメだなと思いつつ、
仕事を始めたようなところがありましたよね。
なるほどね。
だから何をやらなきゃいけないっていう、
指針も何もないみたいな。
そうなんですよ。
だから学芸員って言っても各館によってそれぞれの役割も違うんで、
じゃあ渋沢資料館の学芸員ってどういうふうにすればいいんだろうっていうところの悩みからだったんです。
相談相手もいないので。
で、書先輩がいる地域の博物館だったんですけども、
その博物館の会議に出席して、
こんなことを博物館では考えなきゃいけないんだとか、
こういうふうにマネジメントされているんだっていうようなところを実際に、
傍聴させてもらって、
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その学芸員が子の業結で研究を積み上げていく研究会などにも参加させてもらったりというようなところで、
それをマネ事のような形で渋沢資料館に落とし込んで、
一つずつ形にしていったっていうのが最初の時点だったですね。
だから井上さんが学芸員として成長していくことが、
渋沢資料館の発展になってるっていう。
いいように解釈していただきます。
そうだったかもしれません。
当時はもう本当に予算もなかなかなくて。
そうですね。厳しい状況だったですね。
解説プレートとかそういうのも。
もう全部手作り。
写真も自分で全部撮って、
ライティングも全部して、
焼くのはちょっとお願いしたりしましたけども、
それをパネル貼りして、
解説版も当時まだワープロの専用機もない。
いろんな使えなくなった原稿用紙がありまして、
それをライティングボックス、
それも前の人が引き出しで蛍光管を2本入れて、
手作りのライティングボックスの上に置いて、
そのまま書いてしまうと形紙が全部写ってしまうんで、
裏面に写したマスの中に文字を書いて、
それをコピーして解説版にしてました。
まだ手書きだったですね、あの頃は。
そうですよね。
それと今のように糊が付いたパネルなんて売ってなくて、
スプレー糊でパネルにうまく貼れるかどうかも、
ひやひやしながら。
でもそんな雑用的なことをいくつもいくつもこなしていって、
ある時には演じ具だけでなくて、
展示ケースも作りました。
そんなところからすると、当時、
割と上段目という日本の楽芸員たるもの、
いろんなことをやらなきゃいけないんで、
雑芸員だっていうような言われ方をしたんですけど、
まさに私はもう典型的な雑芸員でいこうというふうに決め込んで、
割と技術もそこで身につけさせてもらったようなところがありましたよね。
そうでしょうね。
だからその後館長になって、
いろいろ更新を指導していくプロセスの中で、
全部のことがわかっているわけだから、
そこは生かされるところがたくさんあったんですね。
よく言われたのが、展示業者と話をしていて、
よくそんなところまでわかりますねというふうに、
逆に言われたこともありました。
でもそれ実際に自分でやってきたことなので、
今の楽芸さんは全部業者任せて、
ああしてほしい、これができてないよね、
という批評はするんだけども、
それをどういうふうに表現すれば、
こういう形になるんだという、
成り立ちをちゃんと理解した上で、
相手と接触すればいいのになというのを、
ちょっと横で見ながらヒヤヒヤしているところがあります。
それはまさに僕らのものづくり企業の技術職って、
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やっぱりそこのところ知らなきゃいけないんだけど、
私しょっちゅう会社でも言っているんですよね。
だけどまさか楽芸員さんもそうだとは思わなかったけど、
なるほどね、共通するところがあるんですね。
一方で、先ほど申し上げたように、
孫楽氏共同体論を研究されたわけですから、
渋沢一さんという経済の分野とは、
あまり接点がなかったと思うんですけど、
これも割と自由にいろいろ勉強できたという感じですかね。
そうですね、誰もそれについて言える人もいなかったので、
私も近代史をプロパーにしている人間じゃなかったというところが、
弱点ではあったんだけども、それを逆に強みにしようと思ったんです。
私その分野については専門家ではないので、というような言い切り方をして、
逆に今近代史の世界においても、
こういったことについてはあまり議論されていませんよね、
という問題提起をしたりとか、
新たに渋沢栄一を通して語れるようになっていったのかなということ、
それと村をやっていたということからすると、
すぐに千柳島に行ったんですよ。
現地に残っているはずの資料を探したんですけども、
あいにく未だに出てこないんですけども、原資料は。
でも現地のフィールドを歩いていく中において、
この土地、この高低差の中において、
確かに水田はなかなかできづらいよなというような実感の下で、
渋沢の過ごした時代を蘇らせながら語っていく。
現地に立ったときに、やはり藍玉の商売。
私も学生時代に地方の名望家の家の経営分析をやったりして、
論文に書いたことがあったので、
そういった比較から、
こういったところから経済の原点たるようなところが見えてくるんじゃないのかな。
渋沢の原点を探る。
まさに若かりし頃、少年から青年に達する中で、
こういう体験をしたからこそ、
大きな功績が残されたんだということを語れるんじゃないのかな。
逆に全く異分野の研究から入っていくことでの
渋沢の新たな研究が見えてくるんじゃないのかなというふうに思って、
そこをちょっと貫きつこうと思ったところがありました。
その若き日の井上さんがそういうふうに思われたということですけれども、
事実としても、明治以降、もうちょっと遡っても
フランスに渡って以降みたいなところでの研究が主体だったものが、
やはり深谷時代、千原一馬時代の農村での渋沢栄一というものの研究というのは、
井上さんが学園になられたことで、
ずいぶん前に出たという気がしますね。
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2012年に著作を表したことがあるんですけれども、
その時に一人の人生をまとめなきゃいけないということで、
人間形成の部分にも目を向けて書いたんですね。
そうしたら、当時の経営士の分野の研究者からは、
孫楽氏なんかやっている人間が渋沢栄一を語っていると、
こういうものになるんだということで批判を受けまして、
でもその人たちも、今やっぱり渋沢の原点はここからだよね、
ということを言っているところからすると、
当時の発言は何だったのか、
やはり私も手をつけといてよかったなというのは感じるところがあります。
タイガードラムの成天をつけ、何回ぐらいまでですかね、
十何回ぐらいまで、まさにその生まれたところから、
先週もお話ししましたけれども、その景色の中で、
渋沢栄一がお父さんとの間を打っていく、
その商売の中で将来につながるものを蓄積していく、
そこが結構丁寧に描かれていた気がするんですけれども。
お話については、そこの部分にちょっと力点を置きたいんだという相談を受けて、
それに一番お話が分かる人間だということで、
ご相談を受けたところから、
時代交渉の話にもつながっていったようなところもあるんですよ。
そうなんですね。ありがとうございます。
そして学芸員の経験を踏まえて、資料館の館長に就任されて、
合計で18年間、2004年から2022年まで勤めさせていただきました。
この間、非常に手がけられたこととしては、国際展開ということなんですけれども、
結構外国で渋沢の展示会を。
そうですね。財団自体が当時、前理事長であった渋沢正英さんという方が、
理事長に着任されて、やっぱり渋沢が残してくれた財産を有効に生かすためにということで、
ご自身が国際型の人でもあったので、国際シンポジウムというのを先行して開催し始めたんです。
それがある程度、軌道に乗り始めたところで、
ただセミナー形式でいろいろ展開を図るだけじゃなくて、
飛鳥山の拠点である博物館を拠として事業を考えてくれと。
長年苦労されてきたようなところもあるので、あなたがそれを考えてくださいというようなことで振られたことがありまして、
そこから渋沢慶三さんがあそこに作ろうとしていた博物館なども真似するような形で、
こういう展開をということで、ただ単に渋沢栄一を語るだけじゃなくて、
渋沢栄一が築いた時代に生きた人、渋沢栄一によっていろいろな恩恵を被った人たちが、
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どういうような変化を、生活の変化が見えてきたのか、
そんな周辺からも見ていきたいというようなことで動いた中で、
国際展開と合わせて日米の比較をしてみたいとか、それとアジアにも視野を広げて、
日中米の比較検討。
当時の近代史の中において、政治だとか軍事の比較というのは割と多かったんですけれども、
経済史、特に経営者という実業家像を比較しながら、日米なり日中米の比較をするというのはなかなかなかったんですね。
そこにあえてトライしていった。
それが結構評判を呼びまして、日米実業史比べという展覧会で2004年、
アメリカ中西部のセント・ルイスの大学の図書館で3ヶ月間、私もその時はそこにずっと滞在しておりましたし、
その後、中国との交渉などにも何度も飛び回って形にしていったというところで、
渋沢栄一のみならず、日本の近代化、産業化、19世紀から20世紀初頭にかけて、
だから渋沢栄一はここにこういうふうに手をつけていったんだというのが見える。
その背景も合わせてように解いていった、通っていったというようなところがあったんですね。
なるほど。今、資本主義、行き過ぎた資本主義というんですかね。
そういうものに対する批判がある中で、渋沢栄一の道徳経済という考え方が再び注目を浴びている。
それのベースが2000年代初頭に井上さんの努力で築かれたということですかね。
そうですね。意外と比較されたものがなかったので、改めて認識した。
日米の同じような時代の近代化、産業化の進み具合の中にあって、
実業家の資本主義のあり方にどっぷり使った人たちの個人主義的な考え方、
それとあいまって渋沢の公益というものを第一に考える考え方というようなところの違いが、
わりと明確に見えてくるというようなところがありましたよね。
そうですね。中国なんかでも、やはり渋沢さんと並び称される中国の経営者で、
道徳経済を唱えた人がいるよというようなお話が出てきたりとかね。
そういう渋沢さんをそのまま置き換えてというだけじゃなくて、
それぞれの国の中で道徳経済的なものを考えていくというスタートがこの時代に切られたということなんですね。
ありがとうございます。
ここまで官庁時代までのお話を伺ってまいりましたけれども、
さらにこの官庁時代に素晴らしいお仕事をされているので、
その話を来週はお伺いしていきたいと思います。
渋沢栄一にまつわる膨大なデータをまとめられたこんなお話でございます。
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ご視聴ありがとうございました。
ではまた来週。よろしくお願いします。