というふうに思ってしまう有名人ってたくさんいるんですよね.
例えば,勝間和夫さんの本で,
有名人になることっていう本があるんですけど,
ああいうのを見ているとわかりますけど,
有名になるということは,絶対無名には戻れないんですよね.
こういう感覚っていうのは,
例えば,学校とかで感じたことはないでしょうかね.
学校とかで,例えば,
背の順とかに並んだりしますよね.
そうですね,小学校とかって背の順に並ぶじゃないですか.
僕は結構背が高い方なんですよ.
なので,いつも後ろだったんですね.
一番後ろとか,そんな感じだったんですよ.
僕は,うらやましがられたんですね.
よく,いいな,一番後ろいいなって感じで.
でも,僕は全然それをいいと思えなかったんですよね.
むしろ,中の方にいて,真ん中あたりにいて,
みんなとワイワイガチャガチャ話ができているような状況にある人たち.
そういう人,うらやましいな.
それに比べて,一番後ろって孤独だよな,っていう感じ.
さらに後ろには先生が控えているわけですから,
先生からも監視されているし,みたいな.
だから,真ん中を見て,うらやましいと思うし,
先頭を見て,ますますうらやましいと思うわけですよ.
先頭は一番前ですよね.
いいな,一番前,うらやましいな.
トップだよな,一番,一番だからな,うらやましいよな.
それに比べて,俺は最後尾じゃないか,っていう感じで.
すごく,なんか,自分では嫌だった.
有名人というのは,一種のこれの拡大バージョンみたいな感じですよね.
みんなから注目される.
端っこということは注目される.
先生からも注目される.
注目されるということは,それはもう真ん中ではないわけですよ.
真ん中の良さというのは享受できないんですね.
だから,有名人になるということは,
良いこともあれば,嫌なこともある.
だからもう,こっちを立てれば,あっちが立たないわけなんですね.
もう,ほんと全てそうなんですよ.
で,言ってみたら,これがバラエティなんですね.
多様性なんですよ,多様性.
いろいろある.
だから,いろいろある状況を楽しめばいいんですよ.
その背の順に並んでいるというのであれば,
一番前は一番前を楽しむ.
真ん中は真ん中を楽しむ.
一番後ろは一番後ろを楽しむ.
それぞれの存在が,それぞれの立ち位置を,
思いっきり楽しむことができたら,
それでいいわけじゃないですか.
で,実際,いろんな立場があるから,この人生って面白いんですよね.
本当に面白くて.
まあ,しかもですよ.
その人生というものは,
自分の選択によって構築されていくんですよね.
というのも,これ,人の人生を羨ましがるっていう風になってしまう
一つの原因は,なんかこう,環境要因とか,
外部的な要因によって人生が決まるっていう風に,
どこか信じているところがあるわけなんですよ.
だから,そうした場合,あの人はいいな,いい環境に生まれていいなとか,
自分はこういう環境だからなっていう風に思って,
なんか,嫌だなと思ってしまう.
でもそうじゃないんですよね.
自分が今,そういう人生を歩んでいるのは,
自分の選択によるものなんですよ.
自分の,まあ,今までしてきた選択によって,
そういう人生になっている.
で,それはそれでいいわけなんですよ.
もうそれを丸ごと愛せばいいんですね.
何て言えばいいのかな,すごく面白い仕掛けになっていて,
この日々の決断っていうのかな,人生の選択っていうのも,
一つの要因になっているんですよね.
その人生を構成する要因に.
で,まあ,一つの要因どころか,それが全てって言っていいぐらいなんですけど,
で,それによって,このバラエティ豊かな,
いろんな人生というものが構築されているっていう,
この価値というか,この面白さというものにぜひ気づいてほしいんですね.
だから,今の自分の人生というものは,
例えば今あなたが,自分の人生あまり好きじゃないなって思っていたとしても,
それは実は素晴らしい人生なんですよ.
あなたにしか経験できない,あなた唯一のオリジナルの人生,
しかもそれはあなた自身が構築してきた人生なんですよね.
だからあなたのものなんですよ.
あなたのものだし,それは他の人には感じることができないし,
唯一絶対感じることのできる権利を持ったのがあなたなんですね.
それを思いっきり感じていけばいいんですよ.
まあ,こういうことを言っても,
いまいち腑に落ちない,
何を言っているんだろうというふうに思われる人もいるでしょうから,
もうちょっと具体例みたいなことを交えてお話しすると,
例えば,太るということがありますよね.太る.
で,太っている人というのはいるわけじゃないですか.
で,その人は,じゃあなぜ太っているんだということですよね.
それはまさに,自分の選択によるものじゃないですか.
日々,これを食べようか,あれを食べようか.
その日々の選択が,太るような食べ方をしてきたわけですよね.
それが積み重なってきて,気がついてみたら,
自分が太ったという感じになっているわけですね.
それは,その人の人生の日々の選択が積み重ねられてきた結果であり,
その人はオリジナルなんですね.
他の人には絶対感じることのできない領域なんですよ.
太るという一つの現象を取ってみても,いろんな太り方があるわけですからね.
その人なりの太り方というのがあって,
その太ったという状況を思いっきり楽しめばいいんですよね.
太ったなら太ったなりに,やっぱりそういう人生になっていくじゃないですか.
例えば,ドラマとかに出演するということがあった場合に,
太ったキャラというのは,どこかコミカルだったりとか,
ちょっと癒し的な役割であったりとか,
そういうのは,太っているなら太っているという役柄が与えられますよね.
それはそれでいいわけですよ.
それを思いっきり楽しめば.
それは自分が太ったことによって与えられた役割ですから.
もし太ってなかったら絶対与えられていなかった役割ですからね.
それはそれで楽しめばいいわけなんですよ.
女優になるつもりなんかなかったと言いながら,
出るだけの条件を自分は持っていると知っているんですよ.
知っているからドラマに出て,
ちょっといい感じの配役で出るみたいなことも起こるわけですよね.
そうですね.
これ,女優ということで言うと,ちょっと極端な例になりますけど,
これ,普通の人だってそうじゃないですか.
例えば,子供は子供なりの行動をするし,
10代は10代なりの行動をするし,
20代は20代なりの行動をする.
例えば,女性とかが,
可愛い服装を着たりするわけですよね.
10代後半の時とかに,可愛い服装.
ちょっと短めのスカートを履いてみたりとかするわけですよね.
それっていうのは,自分はそういう服装をしても,
いい存在だってことを知っているからするわけじゃないですか.
だから,分かっているんですよ,自分の心の中で.
自分はそういう感じの人間だってことが.
でも,例えばそれ,おばあちゃんになってからはしないわけですよね.
いくら10代の時に,ちょっと短めのスカートをいつも履いてたよみたいな.
可愛いよっていう感じの,可愛いって感じの服装にしてたよっていう人であったとしても,
おばあちゃんになったらそれはやらないわけですよね.
それは何でかっていうと,それはそれで,
おばあちゃんになったっていう条件の自分は,
そうではないっていうことをよく分かっているからなんですよ.
で,それはすごく素晴らしいことなんですね.
つまり,その人っていうのは,常に自分を分かっていて,
自分を楽しんでいたわけですよ.
10代の頃は,短いスカートを履いて,
いい服装を着て,自分の魅力を出していた.
で,おばあちゃんになってからは,おばあちゃんなりの魅力を出していた.
常に自分を認めていて,
で,自分を生かして,自分の人生を楽しんでいた.
さっきの女優もそうですよ.
女優も,自分で女優になるつもりはなかったと言いながら,
それはそれで,実は自分のことを分かっていたんですよね.
だから別に女優になっても,
多分私はいいはずだと思っていたし,
そういうふうになったし,実際に.
それは自分を認めているわけですよ.
でも時々,そうじゃない人がいるわけですよね.
時々というか,結構多いですよね,そういう人ってのは.
今の自分が嫌い.今の自分の人生が嫌い.
そういう人って,
痛い人とかになっちゃうんですよね.
まあ,いますよね,女性とかでも,
おばあちゃんなのに,
全然違うような服装をしている.
それはそれでいいんですよ.
おばあちゃんだけど,例えば10代のような服装をしているとか,
それはそれで素晴らしいんですよ.
それをもし,心の底から楽しんでいるとするのならば,
それはものすごく素晴らしいことなんですよ.
だけど,中にはちょっと痛い人もいるわけじゃないですか.
楽しんでいるというよりか,執着心.
過去への執着.
私は10代の頃,すごくかわいい服装をしていたんだから.
だからってことで,それにずっと執着している.
男でもいますよね,そういう人.
俺は10代の頃,
暴走族早朝だったんだ,みたいな.
その頃はその頃でいいんですよ.
その頃はその頃で.
いかにもヤンキーみたいな格好をしていても,
それはそれで,ある意味,そういう年代ですからね.
でも,それと全く同じような格好を,
50代,60代になってもしている人がいるわけですよね.
それっていうのはやっぱり痛いわけですよ.
楽しんでやっているならいいですよ,楽しんで.
コスプレ的にあえて楽しんで,
同窓会的に,たまにそういうことをやってみるっていうんだったらいいですけど,
そうじゃなく,すごく執着した感じでやっている人はいますよね.
未だに過去の栄光にすがっているような,そういう感じの人.
そういう人っていうのは,自分の人生を認めていないんですよ.
つまり,僕がここまで何を言いたいかっていうと,
自分の人生というものは,間違いなく自分の選択によって構築されたものだっていうことなんですよ.
それは,自分のものすごい超オリジナルだし,
愛すべきものなんですね.
だから,愛してしまっていいんですよ,自分の人生をまるごと.
他に羨ましがる必要もないし,過去に執着する必要もないし,
今ここを楽しめばいいんですね.
今ここを.
だから,今ここの役割,自分は今こういう状況だなっていうのは,
実はわかっているんですよ,誰もが.
誰もわかっている.
問題は,それを受け入れるかどうかなんですよね.
10代は10代として,20代は20代として,80代は80代として,
それぞれの役割がある.
役割というか,立場というか,状況というか,
そういうものがあるってことは,やっぱりわかるわけですよね.
わかって,それを受け入れるかどうか.
もちろん,年齢というのもそうですし,状況というのもそうですよね.
どんな職業に就いているか,どういう状況で暮らしているか.
それも,今ここの状況は,自分が作り上げてきたものなんですよ.
それを受け入れて,愛せばいいわけなんですね.
受け入れて愛すだけの価値ってありますから,確実に.
さっき女優の話をしましたけど,自分は女優になるつもりなかったけど,
なんとなくスカウトされてなったんだよね,みたいな人.
そういう人っていうのは,自分を受け入れているわけですね.
自分って多分,女優になってもいいよねっていうことを,分かってた.
分かってなければ,いくらスカウトされてもやらないわけですから.
分かってて,受け入れたからやったわけですよね.
これは,女優ってこともそうですけど,例えば,最初の方に出てきた,太ってる.
自分が太ってるっていう場合もそうなんですよね.
太ってるならば,太ってるなりの役割ってあるわけじゃないですか.
これもさっきも言いましたけど,例えば,それでもしドラマに出るってことがあるとするのならば,
役柄としてはちょっとコミカルなものであったりとか,太ってるよっていう役になっていきますよね.
それを受け入れればいいんですよ.受け入れれば.
なぜならば,それは自分の人生の選択の中で構築された,太っているという状況,今ここの状況ですから,
それはそれで愛すだけの価値があるんですね.
太ってるなら太ってるなりの役割があるんで,それを思いっきり果たせばいいんですよ.
問題は,人っていうのはもう,最初からずっと言ってるように,そうは思えないんですよね.
自分はダメで人が素晴らしいとばかり思ってる.
だから太ってるみたいなことになった時に,なんか嫌なんですよね,自分のことが.
だから自己否定しちゃう.で他人ばっかり羨ましがっちゃう.
そうではなく,それを受け入れるんですよ.受け入れて楽しむんですよ.
もちろん太っていて,そこからじゃあ痩せようかっていう風に考えるのも一つの楽しみ方ですよ.
まあ言ってみたら,ダイエットをするとか,そういう人生っていうのは,太った人にしかできないわけですよね.
太ったことがない人にはダイエットなんてできないわけですよ.
ダイエットしようがないんですよ.
ダイエットしたいなと思ってもダイエットできないんですよ,残念ながら,太ってない人は.
だから太った人だけに与えられた特権なんですね,ダイエットをするっていうのは.
だからそれはそれで楽しめるじゃないですか.
今こうやって太ってるな,じゃあちょっとダイエットをしようかなっていう風に考える.
それでそこから色々と日々の食事の,これも人生の選択ですよね,日々の選択も.
それを繰り返すことによってだんだん痩せていった.
で,スラッとした体型になった.
これもこれで一つの構築された人生ですよね.
これは最初からずっとスラッとしていた人とはまた違う人生なんですよ.
最初からスラッとしていた人は,日々スラッとするような食事をずっとしてきたというだけですよね.
ただ,一回太ってそこから痩せてスラッとしたっていう人は,それはそれで何か違うんですよね,状況が.
例えばダイエットをした経験を語ることもできるし,太っているからこその良さもあったよねってこともやっぱりわかるわけですよ.
今は痩せてるけど,でも太っている時は太っている時なりに色々と良いこともあったよなってこともわかる.
それは太ったからこそわかる.
太ったからこそ太った良さ,悪さわかるわけなんですよ.
それだけ人生に膨らみが出てくる.
いずれにしても全ては自分の選択によるものなんですよ.
今自分が生きているその人生はまさに自分が構築したものなんですね.
別に他人のせいにできないんですよ.
これ他人のせいにしちゃうから他人を羨ましがるみたいな発想にもなっちゃうんですよね.
だから人生は外側で決まるものだと,環境で決まるものだと,そういうふうに思っていると何か理不尽な感じがしますよね.
あの人は羨ましい,でも自分は環境が悪いからダメだみたいな.
でもこれって本当に間違っていて,全て自分の選択によるものですからね.
例えばどんな毒親に育てられたとしても,逆に毒親に育てられたからこそ,愛とか慈しみの大事さっていうものをより強く感じて,ものすごく優しい人に育っていく人もいるわけですからね.
これカウンセラーさんとかに多いですよね.
心理カウンセラーさんとかに.
場合によっては人の心を読めちゃいますからね.
テレビとかに出て人の心を当てちゃうような人っているじゃないですか.
ちょっとスピリチュアル系の番組とかに出てパーンと,あなた今こういうこと考えてますよねみたいな.
ちょっとした超能力者みたいな扱いになるぐらいな感じなんですけど.
愛とはどういう人生を歩んできていますか?
その人の経歴を見ると.
大抵が壮絶な家庭で暮らしてみたいな,それで育ってとか,ものすごく悲しい出来事があってとか.
それを乗り越えてきているわけですよね,ああいう人って.
本当に毒屋とかに育てられているわけですよ,ああいう人って.
でもその環境を逆に生かして,優しさに変えていって,ちょっとした超能力で人の心を読めるようになっちゃったみたいな.
そういうふうになる人もいるぐらいなんで.
すべては自分の選択によるものなんですね.
それはそれでどんな人生も尊いし,価値があるわけなんですよ.
自分でどんなにしょぼいと思ってても.
極端なことを言うと,ネトゲハイジンとかでも,それはそれで素晴らしい人生なんですね.
全然自己否定することなんてないんですよ.
これちょっと逆説的な話になるんですけど.
自分のことを丸ごと認めていたら,ネトゲハイジンにはならないんですよね.
もしネトゲハイジンが,俺の人生って素晴らしいっていうことを丸ごと認めたら,
次の日からネトゲハイジンを脱却してます.
むしろすごく周りに光を与えるような,ライトワーカーみたいな.
ゲームをする時も,ゲームをすごく楽しんでるし,
自分がゲームをすることによって,もちろん自分だって楽しいし,
周りもそれを見てて楽しいし,みたいな.
自分の人生を楽しんでる人って,周りにいい影響を与えますからね.
同じゲームをしてるっていう状況でも,
自己否定してる人がゲームをしてたら,いつまでゲームをやってんだよみたいな感じで,
家族とかから叱られてしまうみたいな感じに,家族から見えるし.
でも一方で,ゲームをすごく楽しんでいて,自分自身が大好きでっていう人の場合は,
例えば家族が見ていても,あんまりいつまでゲームをやってんだよみたいな感じで,
ちょっと言いにくいような感じ?だってすごく楽しんでるし,
むしろ,勇気をもらえちゃうような感じ?
家族も,お父さん,お母さんとかも,苦労してるわけじゃないですか.
いろんなお父さんの仕事とかで苦労して,
家に帰ってきたら,自分の子供がいつまでもゲームをしてると.
でもすごく楽しんでる.楽しんでて,自分の人生大好きな感じでゲームをしてる.
そういう姿を見て,ゲームやめろよとか言えますか?って話ですよね.
むしろ自分が恥ずかしく思える.
ああ,俺すごく自分のこと嫌いだなっていう.
それに比べて,俺の息子はゲーム楽しんでて,自分が大好きで,
まあ確かに一日中ゲームやってるのはどうかとは思うけど,
でも,それ以上にやっぱり楽しんでるっていう要素が大きいよねっていう.
それを考えると,俺の人生楽しんでるかなっていうふうに.
なんかこう,学びを得られるんですよね.
ゲームをしてる人を見て.
そうするとやっぱり,いつまでゲームしてんだよっていうふうに言えないですよね.
むしろ,勇気をもらう.
俺もやっぱり,自分の人生をもっと楽しんでいこうっていうふうに思える.
だから,自分がゲームをすることによって,周りが学ぶんですよ.
勇気を与えられるんですよ.
だから,ネトゲハイジンみたいな感じにはならないんですよ.
自分の人生を丸ごと認めてたら.
いずれにしても,どんな人生であっても,
それは自分が作り上げてきた素晴らしい作品なんですから,
それを丸ごと愛せばいいんですね.
少しでも伝えればと思います.
人生は色々ですけど,頑張っていきましょうね.
あなたが進化するメルマがやってます.
詳しくは概要欄から.