00:00
こんにちは、インタビュアーの早川洋平です。【戦争の記憶】今日はですね、東京都荒川区、ここは東、小倶の田村正彦さんにお話を伺います。田村さん、よろしくお願いします。
はい、ありがとうございます。よろしくお願いします。
先ほど名刺もいただいたんですけど、田村さん、小倶橋の町会の会長でもいらっしゃると。はい、はい。
きっとこの辺ではもう有名な…。
いやいや、そんなことない。ただ、もういつの間にか、ある日突然に、私より前から住んでる人はもういなくなっちゃってます。
今の若さで、もうみんな亡くなっちゃってる。
そうなんですか。
僕もちょっと人の縁でね、今回田村さんにお話伺えるってことになったんですけど、まさしく今日お話伺いたいと思ってた、この大倶の空襲について、そういう意味では語れるのが、田村さんと確かもう一人?
もう一人、堀川さん。現実に、爆心地にいて被害に遭った人はですね。
あと何人か地元に住んでおった人で、今、よその国行ってる人とか、もちろんまだ何人かおりますが、なおかつ爆心地で、いまだにそこに住みついてるっていうのは、私しかいないと自慢になりませんけど、こういう状況になって、いわば最後の語り目の一人ですから、いい機会に来てくださって、あと二、三年も遅いとお話することもできないようになってますからね。
いやいやいや、まだまだ元気だね。
今日はここは自転車で元気に来ていただいてって感じなんですけど。
田村さんは昭和11年、2月17日の生まれで78歳。一番衝撃的だったのは今日のまさにお話で、東京大空襲の前に、東京が実は空襲を受けてたっていうことを本当に知らなくて。
それがこのオグであったって伺ったので、その辺をまずちょっとお話を伺いたいんですけど。これは東京大空襲は1945年の3月10日だと思うんですけど、オグのこの空襲っていうのはいつ?
昭和16年12月8日が新地湾海戦ですから、わずか4ヶ月後ですね、昭和17年の4月の18日土曜日のいろいろ節がありますが、
私の考えではお昼の12時15分頃、最初の爆弾が起こったところというか、要するに昔は日本の帝都って言っておりました。
今度は帝都の初空襲がこのオグの地であるということをまず伝えたいというのが一つの大きな目的なんですね。
今伺って、まさにそこを今日聞きたいんですけど、つまり、どこが初空襲かっていうこともあんまり正直、これ聞いてる方は僕よりもっと勉強されてるかもしれないけど、正直そのことも考えたことがなくて、東京は大空襲があったんだろうなって思ったんですけど、そのものが3年前にあったんですよね。
そうです。東京大空襲をみんな思い浮かべるし、ですがそれよりも前に真珠湾攻撃のわずか4ヶ月後にオグの初空襲が、これが最初の初弾が落とされたところだという歴史的な事実ですね。
03:09
それがそれ後の選挙区、ミッドウェイ開戦とか、その選挙区に大きく影響してきている重要なところであることは確かなんですが。
ただ被害も大空襲とプライベート版まるで少なかったですし、その後も2年近く空爆もありませんでしたから、いつの間にか忘れられていくということになるんですね。
ちなみに被害って言葉がありましたけども、ちょっとデータ的なところなんですけど、どのくらいの…
これがオグ警察署の吉田警護法が当時気取り調査をしたのが、地元としては正確と見てますし、それが元で今の防衛庁なんかにもそういう記録が残って、オグがまさに初弾であると言っておるんですが、死者は10人、重傷が34人、軽傷が4人、焼けたのが全傷が43個。
全回9個、半傷1個、半回13個という記録が残っておりますし、地元の人間としてもまずこれが合ってるというふうに見ておるわけです。
実際、僕もちょっと事前に調べさせていただくと、オグだけじゃなくて、他にも都内とかも空襲がそのタイミングであったんですか?
そうですね。B25が16機で初めて行った、ドゥリットル空襲とこう言うんですが、隊長の名前と言いましてね。全部で16機で、一気にの搭乗員が5名ですから、それで爆弾3発、250キロ爆弾という大きさですね。
あと焼夷弾、焼夷弾は空中で結束が外れて、百何十何発かに分かれて、千個ぐらいのやつがバラバラ落ちてくるんですけども、要するに爆弾3発と焼夷弾とそれだけしか詰めなかったんですね。
それで荒川区、大宮に限らず、近くですと葛飾ですね、それから品川、和世田、和世田でも銃撃で学生さんがやられて、和世田中学に火が残ってくるんですね。
しかも学生さんが機銃装置でやられて、お墓も学校のそばにあるんですが、あと品川多い、それから名古屋、大阪、神戸など数十カ所、川崎もそうですが、全部で合わせますと死者87名、重軽死者も450名、爆弾が焼夷弾計60発ということで、
結構大規模なものですよね、全体を含めますと。
06:00
その中でもタイムとしては大宮が多分最初だったということなんですね。
2番機が途中から追い抜く形で先に到着して、爆弾を落としたと。3発ですね。
ということに、フーバー機の調査、戦後いろんな本が出て、日米合同の研究とかで、それで分かってきたわけですね。
ありがとうございます。今記録的なことを伺いましたが、まさに記録ということで、当日1942年4月18日ということで、タイミングは諸説あるって話があったんですけども、田村さんとしてはお昼、その状況、どこで何をされてたのか。
これは土曜日ですから、学校は半頓ですから、終わりまして、学校からゆっくり歩けば7分くらいのところですね。
ちなみに当時、小学校というか。
大宮国民学校の1年生ですね。
今の小学校1年生と同じ7歳とかですね。
そうです。
念のため、これは大宮小学校で出した冊子ですが、これに証拠が、いずれも証拠チャットをお示ししませんと言っていますから。
当時大宮国民学校。
これは3年の時の。
昔は担任の先生が、学級委員、球長というのを任命をしてくれまして。
大宮国民学校を出たことは間違いないと、これが証拠ですね。
ちなみに、ちょっと脱線しますが、球長になるっていうのは、やっぱりそれなりに人望があったりとか、何かがないと。
勉強できないという。
勉強できて真面目でないという。
担任が入るわけですから。
すごいですね。
その初勲章のあった、4ヶ月後に私を撮った写真が、今だんだん有名になってきますが、これがその写真ですね。
小学校1年の時ですね。
昔はカメラを持っている人がおりませんでしたから、たまたま浅草に新美堂という写真館が、石川さんというんですが、私の親戚がありまして。
そこへ親が行って撮ってくれたんですね。
そこに一応の写真が残っています。
これを見ると、自分で言うのもなんですが、いかにも利口そうですから。
利口だと思います。
ですから、当時の記憶というのはまず間違いないと。
いろいろいろんな人にも聞いていますけどね。
この写真を見せたら、なるほどと認めてくれるんですね。
昭和17年2月、浅草にいて7歳。
そうですね。
ということはまさにこの7歳のタイミングで、先ほどの。
半頓で休みで。
半頓で終わりまして、ゆっくり帰ってきまして、
うちのガラガラドを開けて、ただいまと言いまして、
入ってすぐ左手にうちの台所があったんですが、
09:02
そこへ行って、昔みたいに冷蔵庫も冷水機もありませんから、台所で水を飲むために蛇口を開けまして、
行った瞬間に吹っ飛ばされたんです、口の中で。
そのとき爆弾が起こったんです。
そのときって、何でしょう。
吹っ飛ばされる前に光が見えたとか音がしたとか。
何もないんです。
うちに入って、うちはソロバンチングをやっていましたから、
玄関のところ柱にボンボン時計があいうふうに引っ掛けてあるんです。
それを見ましたら12時15分なんです。
昔のボンボン時計ですから、1分2分の誤差があるでしょうが、
とにかく12時15分というのを返ってきて確認をして、ただいまと言って、
水を飲んだ瞬間に、うちの中でもうとにかくバーッて床板がめくれ上がって、
うちの中で私は2、3メートル吹っ飛んだわけですよ。
そしたら起きて母親がその日たまたま梶石板で寝ておりまして、
これで食いしようだと言って台所に飛んできて、
転がっていたアルミ鍋を頭に被せてくれたんですね。
音は何も、その前の爆音だとかそんなことは何もないですよ。
爆音はそのままのD-29ですね。
この轟轟たる爆音というのはもう恐ろしいものですが、
まさか空襲があるとは昭和17年には予想しておりませんから、
突然に 周りの他の証言者も言うんですが
急にバリバリって天井が破れて 猛烈な土煙が
地震や火事と違う 異様なその時の物音と異様な土煙が振動で
ただ元じゃないっていう 空襲だとまず言って
空襲 体験したことのない人が 空襲だって言ったんですから
体育館なんかも昔は みんな乱した暴れ家ですから
体育館はぐっとハラハラハラして ペヤーとか吹っ飛んだり
屋根ごと吹っ飛んだり 壁が吹っ飛んだりいたしましたが
それよりさらに強烈な刺激があったんで 空襲だって言って飛んできたの
異様な体験ですね
何の予告も 普通は警戒警報ってなるんですよ その後はね
それから空襲警報ってまもなくという そんな警報なしに
突然バカーって吹っ飛ばされたんですが その時隣の北側の道路
後で見ていただきますが 3メートル離れた道路の中山さん
っていうお家の人が6名 爆死するわけですよ
昼に食事してるときに 腕飛ばされたりなんかして爆死はして
3人は病院に搬送して 亡くなるわけですね
2人亡くなりましたかね
12:02
全部ひっくるめて10人亡くなったと
10人っていうのはその後の戦争に比べますと 極めて少ない人数ですから
小規模ですから 忘れ去られていくということにもなるんですが
今ね空襲だって言葉ありましたけど そもそものところなんですけど
当然初めて空襲を多分日本の国民の中で 受けた方じゃないですか
そうするとその時代っていうのは その前に空襲警報なんて逆になかったんですよね
でも防火衣装みたいので もしかしたら聞いてたのかもわかりません
それから防火訓練って証拠写真が これ残ってるの上がそうですけども
それ昭和15年の要するに 開戦前に既にそうやって訓練をしておったんですね
これ当時ですか
当時のここの懲戒会館です 場所は違いますけど
昭和十何年って書いてありますね
ありますね
予想はしておったんですが
ところが予想の懲戒の人に聞いてみますと そういうことは全くやってないってことだし
このところでも地域によって温度差があって
予想しておったところと 全然思ってもいなかったところなんですが
いくらかこの懲戒は旧北懲戒といいます 旧朝目北懲戒といいますが
意識が高かったのか 予想はしておった こういう訓練をやっておったんですから
だから空襲だって言葉が出たのかもわかりませんね
意識が高かったってありますけど
やっぱりそもそも大空を空襲したっていうのは 米軍も何か理由があるんですかね
やっぱり軍事工場が多かったんですね
それからあと赤羽田とか大楽園のほうとか 武器作ってるところ
縛ってるところがありましたから それで習うつもりで来たんですが
来たんだと思うんですが ともかく特攻作戦で
昔の戦争ってのは 本土から相手の本土に行くのに直通で来られませんから
今みたいな巡航ミサイルじゃないですか
途中の国 途中の島を取って そこを基地にして飛んできますから
日本に近づくのに当時としては航空母艦 航デットっていう航空母艦を使って
それに厳選した飛行機 ちょうど大きさ揃った滑走距離だとかっていうのを見て
B25という飛行機を陸軍の飛行機を16機積んで 折り重なるようにして積んで
斜めになって積まれたりして それで発進をしてきたんで
まさか空母で運んできて そこから飛行機が飛んでくるってことは予測もしてなかった
でも日本の太平洋の周りには 漁船なんかが警戒をする船として採用されてましたから
15:03
いち早く見つけたとこもあって 本国へ打電したりしても信用されなかったりして
みなしてまさかっていう 勝ってる最中ばっかりですから
まさかって油断があって 迎え撃つこともほとんどないまま
ただ向こうとしてはともかく早く爆弾を落として どこでもいいから爆弾を落として
中国へ逃げるという方針をとって 16機みんな中国へそれぞれのコースで向かってるわけですが
途中不時着をしたり 海にですね
それから中国本土でも日本がちゃんと 日本の領土圏に入っているところと
そうでないところでありますから 不時着をしてですが
結局後で資料を見ればわかりますが 80名のうち70何名かはみんな生還すると
飛行機は全部途中で落っこちて 全滅ということですが
先ほどの空襲の大空襲の日 その時の記憶ってことで見ると
まさにその天気とかって 今日すごい快晴ですけどどんなでしたか覚えてますか
まさに全部覚えてる 何で覚えてるかって言わせたら
当時あんまり勉強することないんですよ 今の小学生はパソコンだろ英語だろまでやるでしょ
昔は就寝とかね 天皇の名前ずっと人物水前案内徳と言うとか
足腰鍛えるとかですね そういうことが多かったですから
頭に入る余裕がたくさんありましたから 覚えてたんだと思うんですけどもね
天気は晴れて 天気は快晴です 今日のような
快晴です 今は大変な有効効果ですが 敵の飛行機はちゃんと見えるわけですよ
飛んでるんですか 飛んでるんです もともとすぐ逃げたわけですけども
飛行機っていうのは4000m 発射めて1万mの上空を
富士山の上のほう飛んでおっても 地上からカッカッと光るから見えるんですよね
その日はよく見えて 急遽撃墜ということに新聞庁報じてるんですが
いや一機も撃墜してないと 当時冗談で言われたのは空気を撃墜したという
冗談が親父ギャグがその頃だったんですよね
一機も撃墜しなかったけれども 結局中国へ逃れて助かるものは大勢助かった
それから捕まったのは日本の軍事裁判で 死刑にしちゃった
それがどっちに死刑にしたことの罪が問われて また逆に死刑にされるという
同理と言う事件があったんですね 結局無差別爆撃です
確認なんですが 飛行機相手の見えたっておっしゃったじゃないですか
18:05
それは空襲があって見えたってことなんですか それが日頃から飛んでたんですかってことはないですよね
アメリカの飛行機は飛んでません
つまりその日だから飛んでた
マークで分かりますけども 異様な色をしておったのと異様な大きさだったと言うんですが
大きさも書いてありますが この近所で有名な人は吉村明という有名な作家がいらっしゃるんですが
この方も操縦士の顔を見たとかで 証言があるように低いところを飛んできて
2、30mだという説もあるんですが それはないだろうと地元の人いろいろ言いましたけど
煙突もあるや電柱もあるし 高層建築家は当時はありませんけど
引っかかっちゃうから
おそらく海の海上からここから飛んできた時は 海上はスレスレですよ
しかしこういうところに来たら 煙突なんかぶつかりますからおそらく2、300mは
爆弾落としますとすぐに上に登っていかないと 爆風でやられちゃうわけですね
結構2、300mは飛んで でも2、300mでも操縦士の顔はちゃんとわかるわけですよ
当時の人間視力良かったですから 私も今でも2.0ですが
当時みんなテレビもないし目使ってませんから 勉強もあんまりしないしただ体操だけしてたんですが
顔見えたという証言がいくつもありますよね
だけどその異様な形の飛行機は初めてだということですよね
そこで12時おそらく15分 爆撃空襲があって
その時はご家族とかってお母様の話ありましたけど ご家族構成とかどういう感じですか
家族はですね 母親が何歳になりますかね もう亡くなりましたけど30代でしょうね
あと父親は中野の方の学校に勤めておりまして 教員になっておりましてね
その時は終わってから帰ってきましてね それから兄はまだ大学生だったと思いますね
年離れてた? 年離れてるんですよ
それでその海軍省に学徒動員で勤めておりました
弟は昭和20... 私は当地外ですから昭和21年生まれてから戦後ですね
弟は病気で亡くなりました 勉強しすぎて病気で亡くなりましたけど
勉強しすぎると良くないですね
ですから母親が自宅におりました 父親は中野に勤めておって 夕方帰ってきました
兄は大学からそれも帰ってきたんでしょうか 弟はまだ生まれてないです
そうすると帰ってこられた時にすぐ爆撃があったってことですけど
21:02
その時それこそ吹っ飛ばされたとかありましたけど 怪我とかそういうところはどうだったんですか
体は柔らかいから 子供ですから 今だったらそこで折れちゃうでしょうけど
当時またこういう頑丈じゃなくて荒々の土壁ですからぶつかったってどうってことです
それは逆に幸いしたという
子供の頃みんな体柔らかいから 荷台からコロコロと落っこってきたっていうかもしれないような
お母様は大丈夫だった
母親は寝てましたから大丈夫です 病気で寝たんでしょうがね
それで慌てて飛んできました
そうですよね それこそ慌てて飛んできて その後ってどういう状況になったんですか
もう台所が一番北側にあるんですよ
つまり直撃くらった長山さんっていう機械屋さんのすぐこっち側ですから
今保育園になっちゃってますが
ですから一番被害のひどかったのは台所のところですね
そこらのもちろんガラスは破れて
床板は台所の床板は格納庫になってるからこんな分厚い床板ですよ
それも一緒に吹っ飛んで
家自体は真っ黒で持ち上がりました 何センチか
それで縄地ちょっと大きな家でしたから
真っ直ぐ持ち上がっても落ちる時に思い思いは先に落っこっているんですよ
いびつになって落っこって
歪んで落ちて
だからそのままずっと戦後まで取ってありましたが
最近建て直しちゃって今鉄筋に直してましたけども
あとは私どもは表にすぐ行くことなくしばらくうずくまっておりました
その後爆心地行ったらすぐそばですけども
そこへ見に行ってどのくらいの穴庫空いてるとかって見てきました
それこそ見たらどのくらいの穴庫
穴庫は結局3発後でご案内いたしますが
当時朝日電化カプチですがカプチのところのうちに落ちたのが1発
それから直径10m深さ5mロート状の穴ができた
そこで亡くなった人は1人
それからそこから200m離れたとこが私のうちのとこで
そこは幸いにしてというか5mに3m同じ爆弾でも違うんですね
違いが面白いもんですね
5mに3mでも6名爆死しておりますから
それからそこから20mばかり離れたところに落ちたのが1発
それが10m遠く見えた
そこは亡くなった人は業者の人が腕を振ったんで亡くなったとかって伝えられておりますが
そこはタバコ屋さんの奥さんが風邪ひいてコタツに入ってて
そのままぐっと奈落の底に落ちるようにこれが死ぬことかと思った
24:02
そのうちポカッと上を向いたら明かりが見えたんで
明るかったんでそれで這い出してきて近所の人に助けられて無傷だったと
直撃くらっても無傷
私のうちのすぐ3mのところに落ちても爆風で吹っ飛ばされただけで人間としては無傷
というくらい爆弾は大した規模じゃない
今だったら1トン爆弾とかそれだけで原爆ですからね
昔の爆弾は大したことないって怒られますけども
その程度で亡くなった人にとっては大変です
それから焼夷弾につきましては
その後の爆撃はアメリカが焼夷弾を研究して油でやるやつですから
それはそれはもうどんどん燃え広がるんですが
当時の火薬でやる花火みたいなもんですから
地元の第3弾目に起こったとこの富の有名な親方がおられたんですが
その人なんか冒険集で見たのとまるで違うと大したことない
踏みつけて庭の砂かけてポイっとなってやっちゃったと
怖くもなんともないというふうに富の方ですから
夜明けは言いませんけどまあ大したことない
しかし燃えてるわけですやっぱり
ですから爆弾と焼夷弾と同時に落ちておりますから
どっちが爆弾の被害でどっちが焼夷弾かわかりませんが
とにかく壊れたのは爆弾爆風ですね
うちなんかも爆風でうちがそのまま持ち上がってバシャッと起こったんですから
そのままにしておきました
それでそのまさにお迎えの直撃ってところは一家みなさん亡くなった
そうです
ちょっと思い出しになりにくいかもしれないですが
その時ってもう明らかに亡くなったみたいなのはわかるんですか
いやそれは後からです
ただもうバラバラにうちがなっちゃってますからね
それで結局一切そういうことは言うなということを
学校でも教会でも言われるもんですから
語っちゃいけないことになってるわけですよ
それはそういう当時の
それはですね当時法律が出ましてね
なんで地元の人も何も喋らない
ずっと70年黙ってたんですか
昔のあれは正規何年って言わないんですよ
私もいちいちこっち直すんですよ昭和に
いまだに平成でもわかんないから平成何年は昭和何年と直して検査するんですが
昭和16年12月8日とか
こういうのはちゃんと覚えてるんですけども
大向国民学校って昭和16年ですね
集団疎開始まるのは昭和19年でしょ
それは当時昭和16年の12月8日からか早いですよね
12月8日の後
言論出版決謝出版臨時取締法って法律が出まして
27:01
わずかな被害を古代に振り回ったり
虚構の方言を散布したりすれば
重罰原発にしろと
出発は知らずに言いふらしても罪になるという法律が出たんですよ
真に祖国を思うもんなら
言っていいこと悪いことぐらいわかるだろうと
いう法律で言うと原発にしろとですから
地元の人は言わない
防空砲という法律もできまして
防空砲8条で隣組制度ですね
隣組が回ってきたらば
逃げちゃいけないと消さなきゃダメだと
逃げていいのは妊産婦と子供と年寄りはいいと
あとはみんな逃げちゃいけないという法律が出ましてね
私は保守的だから
なるほど全部なるほどなと思っておりますけど
それは当時教育を受けましたから
五穀少年と言わしてね
当時教育を受けたからですけども
逃げることはできない
他所の土地に行くことはできないということで
それから昭和16年の12月8日の直後に
当時の東条内閣でこの戦争を大東亜戦争と呼ぶと決定をしたわけで
ですから当時の正式な言い方は大東亜戦争
私も大東亜戦争とずっと言い続けてきた
それも太平洋戦争とかね
それからさらに第二次世界大戦
今は何というか知ってますか
第二次世界大戦ですね
今度大きな第三次大戦が起きないようにしてもらいたいと思うわけですよね
当時子供は逃げ惑うほうがなかったんですからね
とにかく空襲怖さを耐えて戦う武器を出されるわけじゃないですからね
武器を出さればパンパンと少年を撃ったりするんですけど
そんなことはもちろん無駄な防空門に逃げるだけですからね
だから今の若い人たちや子供が学校に行かれない
毎日いつ空襲が来るかわからないということで
裸々して生きてるっていうことは
体験させたくないなという思いは確かにいたしますね
空襲を受けた当日田村さん奇跡的に幸福死で
ただその当時7歳でしょうし
瞬間もそうですしその後とか
多く死とかそういうことを意識しました
それからするそんなことも何が何だかわからなかったみたいな
どういう感じだったんですか
やっぱり怖さはありますね
ただ怖がっちゃいけないという教育されましたから
だから言っていいかどうかわかりませんけども
そんなものは怖くないと怖がってたら戦争できないと
やってられないというような気分はあるんですよね
しかしやっぱり夜中だって落ち着いて寝てられないんですから
いつ警報が鳴るかわからないから
30:02
だから寝巻きだのパジャマだの
そんな悠長なものは着てないですよ
普通のシャツで
シャツって昔はTシャツ
昔Tシャツって言葉なんかないですけども
丸首シャツ1枚か2枚しか持ってません
今は使い捨てとか1日後捨てちゃうんですよ
それとあと寝るときはゲートルを
子供ですがゲートルを巻いて
三角形じゃなくて包帯みたいなもんで茶色っぽいね
極黄色のここずっと巻いてね
それでいつでも起き出せるように
パッと起きられるようにですね
ドッグスリーピングって言葉ありますが
犬の寝てるのと同じ
いつもパッとごめんなさい
いまだに何回もパッとごめんなさい
いう習慣で落ち着いて寝てるんです
いう恐怖はありました
だけど恐怖なんていうことだけ思ってたら
生きていかれませんから
こんなものは怖くないんだと
でもそういう習慣っていうのは
オグ空襲の前からあったんですか
やっぱりその経験してからですね
学習するんですね
教育が受けてたとしても
まさか来るなんて当然でなかったわけですが
そうですやっぱり学習したってね
落ち落ち寝てらんないということは
だから寝られるときにどこでも寝る
今でも寝ていいですよって
こうやってすぐ寝られますくらいね
そうやってデータベースとかないといけませんから
あれ安心して寝らないとは嫌なもんですよ
落ちた直後
すみませんそこにまたフォーカスしちゃいますけど
ご無事で
その日お父さんが帰ってくるまでとかっていうのは
何か覚えてますね
それは残念ですが覚えてませんね
ただ怖くてガタガタしてたってことはないんですよ
穴ぼこ見に行くくらいですか
そうか
でまさかオグの中心地みたいなところだったんですか
そのご自宅もそうですし
中心地っていう言い方ができてるのか
中心地はどこがあって
私の家は中心地じゃないですけども
そこにあでかって浅地殿下
これは当時ぐっちぃ校長って言われてる
今はなんかはっきりわかりません
あでかを狙ったと当時は言っておったし
今でもそう思ってる人大勢いるんですが
しかし今はあそこ狙ったんじゃない
という説も有力になってきて
どこでもよかったんだと
でお父さんが帰ってきて
持ち上がってこうなってガラガラバラバラなってる
家を見てゼッカイしてないのを見てですね
さすがうちは船田彦が作った家だから
大したもんだって言って
ちょっとリゴッとしたのは覚えてるんですよ
すごいお父さんですね
ある意味感心してたんですね
感心してましたね
それでそこから幕七から半径100メーターぐらい離れた
いろんなその近辺もみんな
例えばこの近辺で行きますと
鈴木先生っていう大島市の委員の先生なんかも
一つか二つ上なんですが
学校から帰ってきたら
自分のお屋敷のガラスが全部割れてたとかね
33:02
それからそのそばの野島さんっていううちの
もう90幾歳になるおばあちゃまですが
その方も北側の方のあれが何回振ったんだと
言いますからですが
まさにこの向こうから見ますと
こっちは北ですから
北の方が幕七の方です
そこで幕府でいらっしゃる
幕府ですね
ここには
飛行機だって直接弾は高射法で当たらなくても
その近所で当たってないんじゃないかと思うんですけど
飛行機のパカッパカンと弾幕が出た
その振動で飛行機を落とすんですから
そのオグデ空襲があって
他の場所でもあったでさっき
冒頭でね都内でも話しましたけど
そのお父様とかは中野って教えましたっけ
中野にいてやっぱりそういうのは全然わからなかったんですかね
わかんないですよね
情報はいかないですよ
その音とかもさすがに中野とかだと聞こえない
聞こえませんね
夜中ですとね火が上がれば
例えば仙台の方からね
東京が燃えてるなとかっていうのはわかるんですよ
火山のあれと同じで
夜中になってお風呂から火が上がる
昼間はわかんないでしょ
それから帰ってきて初めてわかる状況ですよね
その当時なんかはまさに
終戦ギリギリまで多分ほとんどの方が思ってると思いますけど
戦争が情報がそんなに入ってこないから
基本的に勝ってると思ってて
って話だったんですけど
ただまさにもうパラバの直後
半年後にもそういう経験をされてた
田村家
あとみんな口は閉ざしてしまいましたけど
その近隣の人たちっていうのは
なんじゃこの戦争が勝てるのかなとか
負けるかもとか
なんかそういう雰囲気とかってなんか持ってた
それはもうずっと勝つと信じております
空襲が来てても
来てもどうってことないと
当時兵庫だとか歌いろいろ作るじゃないですか
欲しがりません勝つまでは
一億日の玉だ贅沢は敵だ
贅沢を思うだけでも敵だと
出てこい二三つ真っ赤さ
出てくりゃ地獄へ酒落としとかね
そういう歌をみんなで歌って
だから兵庫だとかバックミュージックってのは
やっぱりそういうあれがありますから怖いですよ
だからバックミュージック流れてきたら
警戒しますよ
いろいろ学習しましたから戦争で
あと世論調査とか意識調査
意識調査も戦争中意識調査なんかやらないですけど
なんか思ったり言ったりすると
すぐ捕まってた時代ですからね
あれは怖いですねそういうのはね
要するに戦争ってのは怖くないもんだと
いうふうにずっと教わっておりましたし
神風が吹くと
13世紀もうこの襲来があった時の
神風が来ると本当に思ってたことだもん
いるしついに吹かなかった
でも8月にやめちゃったから戦争
もっと続けたら吹いたか分かりますけど
まあこれは冗談でしょうけども
だけどそれは神風が吹くだろうと思ってた人も
36:01
真剣に思ってた人もいますよね
だから負け戦ってのはほとんど分からない
しかし3月10日の大休止で
これは全部都電の延伸も全部思えて
母校も小学校も小学校も思えて
見るとこれは負け戦だなと
でも危ないらしいなとかって言うと
今何言ったんですかって
全部憲兵に連れて行っちゃう時代でしょ
身の回りにいました?
いやまあそれは私は分からないですね
今なら僕は防犯協会ですから
そこら中でちょっと大勢出て
田村さんご苦労様ですっていうように
大勢いらっしゃいますけど当時子供ですからね
なの分かりませんけども
とにかく余計なことは言うなと
いうことは教わってましたね
日本の初空襲から東京大空襲まで
ちょうど3年近くあると思うんですけど
その3年っていうのはどういう感じですか
その3年間というか
それも約2年間長かったわけですが
B20が開発されて
それがやってくるまではなかったですが
ごく普通にというか普通ですよね
それも集団疎開が始まりますよね
集団疎開は3年生から
1年は学校に残りまして
3年生から集団疎開をするわけですね
集団疎開いつかだったらまた調べるはする
田村さんもされたん
集団疎開福島県飯坂温泉仙林風呂
今は仙林風呂もうなくなったそうですが
そこへ疎開をいたしました
その疎開先っていうのは誰がどういう基準で決めるんですか
教育委員会のカランテックかどうか
子供の頃には分かりませんが
でも全国一斉に集団疎開始まったでしょう
それは学校単位でみんなはそこにいたんですか
集団疎開と縁起疎開と親戚の人たちの縁起疎開
文章書は何年って書いてますね
これは仙林風呂です
私はどこにいるかなんとなく分かんない
どこも違うかもわからない
何ヶ月かいたんです
これ疎開する時の
する時の気分ってどういう気持ちなんですか
子供の頃ですから
修学旅行ほどの気分ではないですが
そんなに泣いている
これが最後と思うというようなことはない
観光気分ではないですけども
そのほうが安心だと
それから千葉が東京都内で
防空を一生懸命やれるのに
邪魔にならないようにということで
国に協力するというつもりで
子供の頃に軍国少年と言われ
小国民と言われ
十五の守りと言われましたから
みんな当然のようにして
疎開をするわけですね
東京も食糧事情が悪くなって
B-29の攻撃は集団疎開が始まって
一段落した頃
見計らったわけじゃないんですが
子供のいなくなったのを見て
39:00
B-29の空襲が始まるということですね
子供を助けようと思ってやったわけじゃないですよね
戦争だと子供を逆に狙ったような
何かをしますから
こんなヒューマニズムで
待っていたわけじゃないですけど
ちょうどうまく開発が間に合ったから
その頃からやったんでしょうけどね
ただその頃も食糧がなくなってきましたから
都内でも何も食べてませんほとんど
何食べたかって言われても
いや何も食べてませんと
だけど無理に言えば
さつまいもですね
ご飯に混ぜた
ご飯ってごくおかゆのようにして
それも戦争後は
おじやとか
腐ったような団子飯を煮たのを大体しましたが
都内にいては配給はなくないでしょう
配給戦なんですけど滅多に来ないでしょう
滅多と言えばどのくらいの頻度ですか
1日1回はないですね
食糧事情っていうのは大変ですよ
ですから葉っぱでも何でも
自分家でうちは庭がありましたから
そこで作りましてね
さつまいもだろうとんもろこしだろうが
作りましたけど家庭菜園は戦後ですね
盛んになってくるのは
戦争中そんなこともやっておられませんでしたから
戦争中は防空壕掘ってましたから
自分家に防空壕掘っておりましたから
だいたい配給
とにかく食べられるものは何でも食べちゃうような
でしたね
でもそれこそ
餓死するとかそういう人はそこまではいなかった
でも
餓死はしませんね
餓死したのは戦後
裁判官が有名な事件ですが
やみごめは自分は食べないと裁判官だから
配給のものだけでやっておったら
ついに餓死しちゃったと法律を守って
法律通りやってたら餓死しちゃう
だからみんな田舎へ
戦争中思い出しました
戦争中とつぎ先から持ってきた着物
お金は有効じゃありませんから
お金持って行っても物売ってくれませんから
これでいうと松戸だとかね
今大都市ですけども
松戸だとか練馬だとか
ああいうところに行って物資持って行って
これで米とカロテと買えてもらうと
それで近所の人にもそれ分けてやるとかね
田舎のある人は田舎へ買い出しに行って
見つかれば途中で押収されちゃって
なんとかうまく持ってくると
隣組の人に分けてくれたりね
言っていただいたら覚えておりますが
ですからぶつぶつ効果ですね
そうですねちょっと米も多少ね
昔各家庭に精粉機って粉にする機械があったんですよ
なんかあるとすぐ干して
それで多少あるたまに配給されるうどん粉を混ぜて
それでパンにして食べたりね
こんなことで口説きましたから
あと私は食べたことないですけど
犬なんかも捕まえて赤犬はうまいって言われてね
犬食べて犬焼いたりね
42:02
野犬みたいな野良犬みたいな
野良犬でもなんでも食べちゃうんでしょうね
そんなこと言ったらサバイバルですからね
ともかく食べられそうなものはみんな食べちゃった
葉っぱなんかも
あとかぼちゃもちろん茎も葉っぱもみんな干して
粉にしてねお米に混ぜて雑炊にしてですね
その頃デブの人はいませんでした
みんな痩せ細ってね
たまに太ってる人は一人か二人いましたけど
要するにお金持ちの人と言いますかね
お金持ちの象徴でしたね太ってる人
あとみんな細めの人でね
疎開されてそこからまた戻ってきたんですよね
疎開しましてね
やっぱり親子いっさり飼いたいと思うわけですよ
消化防火活動の邪魔になるからっていうんで
疎開をしたわけですから
だから向こうでも出るご飯はご飯と吹きの似たの
例えば朝はお昼はご飯とそれから味噌汁
それから夕方はご飯とジャガイモを薄く切ったとの
漬物塩漬けそのレベルですよ
しかもカングとは違うでしょうけども
先輩のほうに先輩も足りないから
上級生6年でしょ下級生3年でしょ
あと飯回せっていうお風呂が来ると
それ回さないと後で地味になるから
自分の食べないで回したりするわけでしょ
ですから結局どうやって飢えしろいのかっていうと
われわれ福島ですから
福島はサクランボを行って怒ったり食べたり
それから農家に行っておにぎり売っていただけませんかって
金も持ってないのにかわいそうにねって
かわいいぼうりゃだねっておにぎりもらったり
あともう60年も経ってから時効ですけども
70年経ってから時効ですけども
いや80年経っては70年経ってから時効ですけど
畑に行って畑のあれを掘って食べたり
玉ねぎでもなんでもめったにしません
どうしても食べられなかったら
ごぼうですねごぼうはまずいですよね
あと何もの食べたらいい
あと笹の実っていうのがあるんですよ
笹の実がね
それを福島温泉が湧いてましたから
缶からそれ入れて温泉で沸かして食べたり
そうやって植えしのぐことは
あとクワの実とかねそういうのを食べたり
あとノイチゴスカンポーとかっていうですね
あとはタバコですねタバコは松の葉っぱを干しまして
あとは餅草を干して切ってね
三聖堂の辞書の紙で鉛筆で巻いて
マッチも背景でありませんし
我々持ってませんから
あれで蒸し眼鏡で
45:00
へーすごい
ぷかぷかぷかって
本当空腹一応満たすわけですね
煙でもって
タバコはもうこの20年やってませんけど
戦争中小学生の頃
母とかに火をやってタバコを吸ったり
そうやって空腹を紛らわすのは大変でした
なんとか帰りたいなと思って先生に言うと
いやダメだったんですよ邪魔になるから帰してくれ
どうしても帰りたいということで
うちと暗号を決めておいて連絡を取って
やっと母と兄が迎えに来たんですよ
遠古祖会が八王子の方に親戚があったもんで
そこに行くからということで
現実にそこに行ったんですが
八王子の大和田町ですけども
はたおり工場が一応母親の実家でしたから
そこにということでやっと帰してもらって
でもそういうのは一応許されるんですね
まあそういう遠古祖会先があれば
さもないと認めてくれないんですよね
早く帰りたいとかっていうことも
手紙出そうにも先生が切って貼ってくれないんですよ
当時五銭です野木大将の切ってがね
貼ってくれないからちゃんと書き直しなさい
帰りたいとか寂しいとか
食べ物のままに食べられたりとか
こういうものを送ってくれとかっていうと
出してくれないから
中身を見るんですよね
うん半期ですからね
今度は52になっちゃいますけど
当時五銭の先生のお母も名前も覚えておりますけども
こんな大和田町だったとか言ってましたね
私どもも元気でね
こちらで頑張っておりますと
お父さんお母さんも東京で頑張ってください
っていう書くとよくできたって言って
あれをしてくれるわけですよ
だから本当のこと言えないんです
いうことがありましたね
でも暗号で?
うちはその点ずる賢いとか賢いって言ったら暗号決めてきましてね
本当に帰りたくなったらこの暗号って決めてきましたから
先に当然決めてたんですよね
すごい
頭良かった
母親の頭良かったですね
これでこれは確かに帰りたがってるっていうことで
お酒見つけて迎えに来て
で終戦は東京都議会
で終戦って言ってもラジオは各家庭にありません
あっても真空があるのでカンと叩かないとなってこないから
で近くのお家に大きなお屋敷で大きな電池があって
その周りにみんな集まって
深く世界の情勢と帝国の現状を取り考えて
非常の措置をもってなんとかっていうね
そういう曲放送みんなこう鳴らされて聞いたと
その日はやっぱいいて真夏の末最中です8月15日
で蝉の声がいつも聞こえない蝉の声が大きく聞こえた
蝉の声なんか気にしてなかったのが
そのジンジンと大きな声で聞こえたと
今でもなんか残ってます?
もう全部残ってます
他に覚えることなかったですから
勉強してなかったですから
頭いっぱい入れるところたくさんありましたから
その当時のことは覚えてるんです
なんで小学生になってますかね
48:01
そうすると当時東京大空襲の時は蘇海崎にいた?
東京大空襲の時はもうこっち帰ってきました
そうするとまさに屈辱を受けてるわけですよね
もちろん
その日はどう?
東京大空襲は8月9日の夜中から10日の朝にかけて
5号渡る音ですよ
B-29の爆音
5号からずっとずっと来るんですよ
そうするとB-29の5号のやり方は
まず周りを中心地を攻撃する中心地
東京全体ですが真ん中に焼夷弾を投して
爆弾は使えませんからここは
明るくして
それで周りを先に没しちゃうんですね
これですから逃げ場を失うわけですよ
ひどい虐殺ですのでありますよね
戦争だからしょうがないというかしょうがないですけど
それで西の方からずっとずっと来るんですが
爆音で恐ろしい爆音
私どももっぱらしたすら爆音があるな
地震だって関東大震災1分ですよ
地震は長く揺れないものだとせいぜい1分と言われ続けてきたんですが
この間の地震で5分10分揺れるってことになって
地震の定義も変わってきますけど
まさに2時間近くの何百回の爆撃が来て
とにかく爆音が過ぎ去るのをウォークウォークで
ひたすら待つほうがない
それはそれは怖いものですよ
でもそのご家族とか周りの皆さんはご無事だったんですか
はいうちの家族は無事でしたね
ウォークウォークはこれはもともと
この辺だとビシャビシャした火災ですから
いつも庭で掘りましたら1m掘ると水がビシャビシャビシャビシャ出てくるんですよ
そこに背の甲を敷いてそれから上に畳を置いて
その上に泥をかぶせて
入り口のとこは横穴式の昔の住居みたいに
風呂敷をパチッとかぶって
9週とか的来週とかってそこにみんなダーッと入っていって
だからどのくらい役に立ったかっていうと
爆弾の直撃くらったら問題にならないですよアウトですよ
それから灰が飛んでくるくらいでしたら畳と泥で避けられますから
なんとか防げる
ところが東京大空襲ではお調べのように
体育館に逃げたと体育館でみんな流動され逃げた
体育館の中で蒸し焼きになっちゃった
カエ飛び越えたらみんな溺れちゃった蒸し焼きになったんですよ
防空壕でも蒸し焼きになった
うちの周りは燃えましたけど
その炎がうちの防空壕まで来ませんでしたから助かった
そうか
はいですよそれは
椅子まで立ってもゴーゴーたる音がしてるんだけど
火が上がったらババーンってくるんでしょ
おっともう本当に生きた心地しないように
51:00
とにかくうずくまってるほうが方法がないんですからね
だけど考えてみると
今これ敵襲来で爆弾起こってきたら
逃げ場所みんなないから動かさせるでしょ
昔は防空壕を逃げれば安定だと思ってたから
その点幸せっすよ
シンプルにそういう
あそこ逃げないと実は何の役も立たないけど
ただ爆風は防げるんですよ
風というのは真っ直ぐ吹いていきますから
爆風でやるんですよ
爆風って言ったら穴の中をわざわざ
真剣にこうやって行くわけじゃないですから
穴の中入ってれば竜巻もそうでしょ
ずっと上行っちゃいますからね
防空もあったっていうことはその点でね
心の拠り所です
今じゃどうしようもないですよ
逃げ場所ないからどう行ったらいいか
ただ動かさせるだけです
その極音放送までの戦争まさに初空襲の時から
そういう意味では戦却というか昭和で言った方がいいかもしれないけど
その時から
僕初空襲の時から3年ちょいだと思うんですけど
心の変遷ってあると思うんですけど
まさに軍国少年として育てられてきて
僕がインタビューした方はみんな普通に疑いなく
年寄りはね
その時に未来を描けたかとか
自分はいつか死ぬのかもなとか
国のためだったらそれもいいとはなったら
どういうことを命とか未来に対して
ご自身に考えてたかな
私はその当時は早く大きくなって
兵隊になって
なんとか例えば小学校で山崎先生と出世しなくなったと
現地で聞いたわけですが
早く大人になりたいと
早く大人になって兵隊になって
戦いたいと言うことしか頭がなくて
軍人になろうと思っておった
戦後まず警察予備隊ができまして
それから保安隊になって自衛隊になって
警察予備隊も保安隊も軍隊じゃないというふうに
ずっと政府が答弁してきたから
軍隊じゃないと入ってもしょうがないなと思ってましたけど
実は軍隊だったと最近はわかるんですが
ですからともかく早く大人になって
いうふうに思って
それが大きな目標でしたから
死ぬってことはある程度の年にならないと
死とは何かとか
死に対する存在だとかっていうところまでは
考え及ばないですよ
そういう意味では
修正者先生じゃないですけど
誇りだったり
それで散るんだったら
散りたいと思わないでしょうけど
でもそれは名誉なことだみたいな
そりゃそうなんですよ
心ならずも戦地に
っていう言葉を誰かが言ったら怒られたと
心ならずも言ったわけじゃないんだって
当時としては自分が戦地に出てって
1日でも2日でも
妻子や親がその分生き延びるならば
54:03
あえて死んでいこうという気持ちは
ほとんどって言っちゃおかれかもしれませんが
多くの人がもって戦場に行ったわけで
そのために救われた人たちも
大勢いらっしゃるんだと思うんですね
ある新聞で私の言ったことは
戦争は無意味だと書いてありますが
私は戦争は無意味だと
言った覚えはないんですけども
しちゃいけないことですもちろんね
外交上の努力を最大限にしなきゃなりませんが
とにかく戦地に行った人は
中には我々もいたでしょうけども
やはり後の人たちのためにともって
遺産よく亡くなくかもわかりませんが
遺産よく死んでいったんですから
大した感謝なんですね兵隊さんに
また当時の歌で
肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために戦った兵隊さんのおかげです
お国のために戦死した兵隊さんのおかげです
とかね
そういう兵隊さんを参加する歌もありまして
小学校の長かったらみんな
そんな文化ばっかり歌ってましたからね
兵隊に対する感謝の気持ちは当然あったでしょう
しかし大人になって冷静に考えると
あのまま軍国主義が続いておったら
やはりよろしくないだろうと
それはもう冷静には考えますよね
当然戦争はあの時は戦争をやらざるを得ないだろうと
思っておりましたし
今でもそういうのもあったろうとは思いますが
やっぱり戦争はしないように外交努力
これは私たちは諸手じゃできないことですから
ジャーナリストや政治家が
一生懸命努力してやってもらえればなりませんけれども
そういう気がいたしますね
その漁港放送までそういう気持ちだったってことを聞いて
その漁港放送のまさに聞いた瞬間っていうのは
本当僕お話し方でもそれぞれの立場で
人それぞれなんですけど
つまりこれで終わりなんだなのか
なんか受け入れが難かったのか
何も考えないのかどういう感情
これは子供ですから
文庫長ですからよく分からなかったです
ただみんな慣れて聞いてますから
だけども誰かが終わってから
なんとなく雰囲気でこれは負けたんだなとか
負けるとは思ってませんでした
直前までですけれども
これ負けたんだなと思って
それで実は大人が解説をしてくれて
ほっとしたんですね
何をほっとしたかというと
これで逃げ惑うことがなくなった
ほっとしましたね
それでその日の
正午ですがその日の午後
B20が取ってきたんです上の方をね
見て爆弾落としていったB20もあるそうですが
終戦後ですね
だけどもこれで大丈夫だなと
B20が安心して見てたんで
57:01
それまで突っ張っておった
あんなものは怖くないと言って
突っ張っておったのが
ほっとしたという
でセミの声が大きく聞こえたということとですね
共にほっとしたというのは本音ですね
その後急速に戦後の復興活動とか
戦後教育がもうもろつの速さで進んでいきますからね
でも友達がいつどこで亡くなったなんて
情報は何もないまま
いつの間にか何十クラスも
何十クラスもないですね
たくさんクラスがあったのが
卒業式パラックでやった時は
もう人数少なくなってたということで
それを特に追求するでもなくね
来たわけですよね
先ほどの話でね
戦争終わってから警察呼びたいとか
そういうことでいわゆる軍隊
自分は軍人になるつもりだったとおっしゃってて
つまり戦争はそこで歴史的には終わってますけど
ご自身の中では
ほっとはしたものの
まだ軍人になる気だったから
その辺の気持ちの切り替えというか
気持ちの切り替えはやっぱり早かったです
早かったですよ
早くないとやっていかれないから
そういう教育をすぐしたんですよ
学校で
墨塗り教科書とかね
それから昔の国語がこんな
国の歩みと変わりますし
韓国人から民衆に変わった
民衆教育にガラッと変わるでしょ
それから英語も導入されて
いうことで
それから一番やっぱり良かったっていうのは
新中軍の放出物資っていうのは
ミルクからそれから
コンビーフのこんな大きなのが来て
それがお昼に出ますから
ありがたいもんだなとかね
もうから
それは憎しみって
アメリカ自分の親族や先生が亡くなったり
それから原爆の無残なことだとかっていう
考えりゃ
もちろん忘れちゃいけないけれども
それで復讐してやろうとかって
言ってるもんでもないし
切り替えが子供の頃に早かったんですかね
そうしないと
人類に落ち着いていかないんでしょうかね
ただ死んでった方に対する念というものは
それは忘れませんよ
感謝の念とね
まさに今日一番聞きたかったことでもあるんですけど
冒頭で空襲だったときに
戒厳令じゃないですけども
引かれて
そこに関してはずっと
口を閉ざしてるわけで
ただそれが今ご活動でも
懲戒会長としても
ここのことをすべて知ってる
そういう意味ではちゃんと語り
唯一の方だと思うんですけど
どのタイミングで
それをお話しようと思ったのかとか
それはアラカワの人っていうですね
ACCっていうのが出してくださった
つい最近
ありましたね
1:00:02
こっちのこれに書いてあるんですけども
地元の者はそういうことは言うべきでないと
言わないのは地議だというふうに
これって言ったから
みんな黙っておったわけですが
日暮里地区の人が
本人名前出さないでくれと
自分たちのことを言わないでくれと
言っておった分で
それも言わなかったんですが
今から13年
2000年って言いますか
13年前に
日暮里の方の国際平和なんとかって
どっかに書いてある
ありましたね
その人たちが
黄群発空襲っていうのは
都内で落ちたわけだって
調査を今から10何年か前にやって
それで初弾と3弾は分かったんですが
2弾の私のうちのところに落ちたら
2弾については分からなかった
それを調べたがってたんですが
私もそれは言うべきもんじゃないと
ずっと襲われ続けて
ずっと黙って研げたんですけども
でも2000年頃から一生懸命
毎年小群橋の田元に来て
慰霊をやっておってくださって
ただ黙々しく祝祝とと言いますか
政治的な売名の意図でもなんでもなく
俺らで亡くなった10名の人に対して
一生懸命やって
純粋にやっておられた姿を見て
俺はちゃんとだしたわけかと
地元の人間が
ただ地元のものじゃ
やらないのが仁義ですが
地元の者がやらないのでは
申し訳ないということで
だから外の人だから
これもできたことだと思うんですね
それで申し訳ないということで
じゃあ小群橋長会として
組織的にこれを引き継いでいこうと
長会が引き受けるからには
右左思想なく
事実だけを伝えていこうということで
長会の予算も取って
区長様はじめ区のバックアップも得て
それでやっていくことになったんですから
国際平和展の人たちが
そういうことをやらなかったら
まだ当分やってないですよ
当分やってないうちに
私も堀川さんも亡くなっちゃいますから
結局なんだかうやむやになって
おしまいになったんで
この人たちが意図を掘ってくださったと
いうことでありまして
ただ荒川区は保守的なところですから
本当の保守とは何かというと
ちょっと私は疑問ですけど
私は本当の保守と思ってますが
保守の強いところですから
あんまりそういうのを
結局平和とか反戦とかということで
結びついて評価
そっちの評価されるのも嫌ですから
ある種勇気が見えましたけども
中央を貫いて長会ならば
偏ってないだろうと周りの人も見てくれるから
安心信頼して
応援してくれたということで
今から5年前にすぐそこのアテカを
1:03:00
皮切りにして始めたのは
忘れないコンサートで
やり方としては良かったなと
今後も中央を貫いて
政治的な偉いこと言える立場じゃありませんから
歴史的な事実だけは
ちゃんと伝えていきたいと思ってやってるんです
最後になんですけども
政治というか一言いただけないかなと思って
学校でこの間お年寄りから電話がかかってきましてね
この歌覚えてますって言って
みんなで勉強嬉しいな国民学校1年生
要するに学校行かれる
勉強できるってことが嬉しいんだという
当時の消化を謳ってましたけども
やっぱり子どもとすれば
震災で学校行かれなくて
再び集まった子どもたちが
みんなお互い喜びあっておりますよね
ですから子どもにとって
学校教育というのは非常に大事なものですし
やっぱりうちのすぐ前も保育園ですから
しょっちゅう子どもたちの子を見てますが
やっぱりこの子たちが
やっぱり平和な社会で成長してもらいたいなと
本心でつくづく
特に最近年取ってきたらそう思いますよね
ですから戦争起こらない努力を
一生懸命やらなきゃなと
政治家とジャーナリストの
できる力を持っていらっしゃる方々に
とにかくこの平和は長続きをしてもらいたいと
もう心からつくづく思いますね
今日は戦争の記憶
東京の東奥の田村雅彦さんにお話を伺いました
田村さんどうもありがとうございました
いつまでもお元気でいてください
ありがとうございます