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2024-07-28 35:49

2024/07/28:鱗が落ちて見えたもの

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2024/07/28 聖日礼拝

加藤満牧師

使徒の働き 9:1-22


00:02
お祈りをいたします。
天の父なる神様、今日も主の御前へと私たちを招いてくださり、ありがとうございます。
本当に熱い気候の中ですけれども、主が私たち一人一人を共にいて守ってくださり、またこのところへと集わせてくださったことをありがとうございます。
この熱さの中でも、主が傍らにいて私たちを支え続けてくださること、愛していてくださることを知ることができますように、この期間を祝福してください。
私たちはあなたから限りない愛を、あの十字架で示されています。
あなたの流された血潮により罪許され、三日目に甦えられた復活の命を与えられて、
今は恵み世の主と共に、あなたの力ではなく私の恵みによって歩みなさいと、その主と共に歩む新たな人生が与えられ、あなたと共にあなたが与えられた使命を生きていく、そのような歩みへと導いてくださっていることをありがとうございます。
今日も主よ、私たちはそのまだ道半ばです。あなたの御言葉が必要です。あなたの道標が必要です。
どうか今日もあなたが御言葉を開き、聖霊様が私たちに悟らせてくださり、あなたを仰ぐことができますように、この一時を祝福してください。お願いいたします。
特にここに来たくても来れない方、ご自宅で礼拝を守っておられる方、故やって心が向かない方がいらっしゃいます。
どうかお一人一人をその場で慰め、主がそこにもご臨在くださり、礼拝を励ましてくださいますように、お願いいたします。
また今日は、綾名先生が奈良の方で、奈良の教会でご奉仕をなさっています。
今日この時に、主がまた綾名先生の上にも礼を注ぎ、あなたの御用をなさしめてくださいますよう、お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。主が御言葉を開き、私たちに語ってください。
イエス様の御名前によってお祈りをいたします。アーメン。
厳しい暑さになってまいりました。何度も複雑ほど申し上げますが、ぐるぐるもお体を第一になさってくださればと思います。
続けて今朝は、主の働きを見てまいりますが、今朝は旧書を読んでいただきました。旧書に出てきますのは、サウロ。
もちろん新約聖書の中ではたくさんの手紙を書きますパウロですが、そのパウロの救いの出来事について書かれているのが、今朝のこの旧書になります。
余談かもしれませんが、私は人の救いの証を聞くのが好きです。
03:01
なぜなら、人の救いというのは、画一的なものがないからですね、パターンがないんです。
そうだと思います。なぜなら、私たちはそれぞれ様々なうめきを人生で持っているんです。
同じであるわけがありません。けれどもそこに主が届き、それぞれのうちに主がそこに解決と救いを与えてくださる。
それもまた同じであるわけがない。
その人にとって必要なことを主はなさるし、時に、ああ、主はこんな人をこんなところから救われたんですか、ということに驚かされることも多々あります。
けれどもその度に、ああ、主はどんな人でも救うことができるんだなと素朴に励まされるわけですけれども。
今朝の箇所を見ていましても、このサウロという人物を見るならば、結構大変な人物なんですね。
ええ、そんな人を主は救われたんですか、という人物です。
けれども彼もイエス様に出会って救われました。
そして救われた彼の姿を聖書、今朝の箇所ではこのように語ります。
18節というところを見ますと、こう言われますね。
すると直ちにサウロの目から鱗のようなものが落ちて見えるようになったとあります。
聖書は人が救われるということを目が見えるようになったということで表現をします。
福音書の中でイエス様が何人かの方の目が見えるように癒されますが、
あれは単に視力が治ったということを言っているのではありません。
あれはこれまでは見えていなかったけれども、本当に見なければならないもの、
本当にあなたが目を止めなければならないものが見えるようになったということを意味します。
いわば救われたということですね。
マルコの福音書に盲人バルティマイという人が出てまいりますけれども、
あの人なんか顕著ですね。目が見えるようになりたいと言って癒されて、
癒された彼はイエスの道を歩むようになったと聖書は語ります。
これが私の人生において大事な道なんだということがわかって、彼は歩み始めていく。
そういうことが言えるのだと思います。
であるならば、今朝のサウロも目が開かれたのです。
今朝ご一緒に注目をしたいのは、彼は目が見えるようになって一体何が見えたのかということです。
それはいわばキリスト社である私たちも目が開かれたわけですが、
目が開かれた私たちもまた神様は一体何を見るように招かれているのかということだと思います。
06:07
そのことを今朝は二つのポイントでこの箇所から聞いていきたいと願っております。
さて一つ目のことですが、サウロは鱗が落ちて見えるようになって何が見えるようになったのか。
一つ目それは、彼は自分自身の姿が見えるようになったということです。
自分自身の姿が見えるようになったということではないでしょうか。
今日の箇所を少し見ていきますと、
今日の9章の1節2節を少しお読みしますと、こういうことが書かれています。
さてサウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと行きまき、
大祭司のところに行って、ダマスコの主会堂あての手紙を求めた。
これはこの道のものであれば男でも女でも見つけ出し縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。
この今の姿のサウロを語るわけですが、この1節にはサウロはなおもとあります。
なおもということは、これはここが初めてじゃなくてサウロは前からそうしていたということですが、
サウロは最初どこにこの使徒の働きでは出てくるでしょうか。
7章の一番最後のシーンです。
ちょっとめくっていただけるでしょうか。
ちょっと2ページくらい前にめくっていただくと、使徒の働き7章。
これはステパノの殉教のシーンです。
ちょっとだけ57節からお読みしますけれども、ステパノが精霊様に満たされてイエス様を語りきった後のシーンです。
57節から、人々は大声で叫びながら耳を覆い、一斉にステパノに向かって殺到した。
そして彼を町の外に追い出して石を投げつけた。
商人たちは自分たちの上着をサウロという青年の足元に置いた。
こうして彼らがステパノに石を投げつけているとステパノは主を呼んで言った。
主イエスよ私の霊をお受けください。
そしてひざまずいて大声で叫んだ。
主よこの罪を彼らに負わせないでください。
こう言って彼は眠りについた。
サウロはステパノを殺すことに賛成していたと聖書は語ります。
ステパノの殉教の場にサウロはいました。
しかし特に聖書はわざわざサウロはステパノを殺すことに賛成していたと記載します。
ご存知の通りイエス様を明かししたステパノは容赦ない像を人々から向けられました。
09:03
そして石を投げつけられ殺されました。
まさにおぞましい現場ですね。
石を投げつけて人を殺すという光景はおぞましいですが
サウロはそこでおそらく石を取りはしなかったけれども
しかしその殺害に心から賛成していたということがここで書かれるわけです。
いわばこういうことかもしれません。
イエスキリストをイエスをメシアだと語るような人間は石に打たれて死んでしまえ。
イエスをメシアだと語るような人間は石に打たれて死んでしまえ。
それを彼は心から賛成をしていたということ。
実に残酷と言ってもいいかもしれないサウロの姿がここに描かれているのです。
思うのです。なぜサウロはここまでの残酷さに走ったのでしょうか。
当時の自分自身を振り返るパウロの言葉がいくつかありますので一箇所読みしたいのですが
ガラティア書1章の13節から14節、ちょっとパラパラ開いて申し訳ないのですが
ガラティア書1章の13節から14節というところにこういう言葉があります。
ガラティア書1章の13節から14節というところ。
少しお読みしますけれども、これはパウロの言葉ですね。
ゆでえきょうのうちにあったかつての私の生き方をあなた方はすでに聞いています。
私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
また私は自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにゆでえきょうに進んでおり、
先祖の伝承に一一倍熱心でしたと彼は語ります。
彼はなぜここまで残酷になるのか。
一つのキーポイントは熱心という言葉です。
この熱心という言葉は単に彼が熱心だったというわけではなくて、
これは当時のゆでえきょうの中で彼が属していた宗派を指すのではないかとよく言われます。
サウロが属していたのは、いわば当時のゆでえきょうの中でも特に厳格な、
そして特に純粋さを求める、いわばそういうシャンマイ派と呼ばれる宗派なんですが、
そこに属していたのではないか、そういうことが言われます。
ですから彼は本当に純粋に厳格にそして熱心に、
12:04
旧約聖書の神を信じ、メシアを待望していたということです。
そのようなサウロからするならば、実はキリスト社というのはおそらくですが、
ゆでえきょうの中の異端に見えたんですよ。異端に見えた。
なぜならキリスト社たちが言うのは、あのエルサレムで十字架にかけられて死んだイエス・キリスト。
旧約聖書の神明記に照らして言うならば、木にかけて死ぬ人間は呪われているんです。
あの旧約の言葉で言うならば、神に呪われて殺されたようなイエス・キリストを、
キリスト社という輩は、それがよみがえったといい、よみがえっただけじゃなくて、
天にのぼって、誠の王としてこの世界を支配し始めたと、そんなことを豪語し始める。
それはサウルの耳からするならば、それは神への暴徳ですよ。神への暴徳にしか聞こえない。
なので、そのような人たちを見たときに、サウルの心はどう動いたか。
神を暴徳する者は、殺して覗かなければならない。
彼は、シャンマイ派熱心な立場にいました。
シャンマイ派の人たちをモデルにするのは、ミンスウキのピネハスなんです。
ミンスウキの中にピネハスという人物が出てきます。
彼は、イスラエルの中で、下院の罪を犯した男女がいてですね、
その人たちをピネハスは真っ先に殺しに行って、それで神の怒りからイスラエルを救うという、
そういうシーンがミンスウキの中、25章あたりにありますけれども。
何が言いたいかというと、
サウルの持っている動機というのは、至って純粋で真面目で熱心なんです。
純粋な神に対する愛、神の義を実現したいとする熱心さ。
これは純粋なんです。
彼は心から神様を愛しているんです。
でもその純粋な神への愛、神の義を実現しようとする、
その彼の熱心さがステパノを石打ちにし、
そしてキリスト社を次々と牢獄にぶち込むという、
そういうことにつながっていったということが言われているということです。
サウル自身は疑いなく、これこそ神の正義を執行する行為だと信じていたということ。
少し立ち止まって考えなければならないのは、実に純粋さや熱心さというものの難しさです。
純粋さ、熱心さ、それ自体は尊いものですよね。
15:04
これは決して否定されるものではありません。
ただ、どうでしょうか。
私たちは、自分自身のことをちょっと考えてもそうですけれども、
純粋であろうとするがゆえに、混ざりものを寄せ付けることができなくて、
かしんと正しく言って他の意見を聞けないという、ある種の独善性というものが生まれる時があります。
熱心であって、これが神の喜ばれる技なんだということばかりを思うがゆえに、
実はそこに起きている暴力性がわからなくなる時があります。
そのような側面を、これは僕自身である私自身が一番気をつけなければなりませんが、
そういうことがあり得るわけですね。
聖書の旧約聖書に、真言にこういう言葉があります。
一箇所だけお読みいたしますが、
真言の十六章の二節というところに、このような言葉があります。
真言の十六章の二節というところをお読みしますけれども、
こういう言葉ですね。
人には自分の行いが皆純粋に見える。
しかし主は人の霊の値打ちを図られるという言葉がございます。
真言の十六章の二節ですね。
人には自分の行いが皆純粋に見える。しかし主は人の霊の値打ちを図られると。
実に鋭い言葉だなと思いますが、
何が言いたいかというと、これは私たちは自分が持っている純粋性や熱心さ、
それが正しいのか誤っているのかということを、
自分自身ではまず判断できないということです。
なぜなら自分は純粋だと皆そう思うから。
自分自身でそれを判断することはできない。
ただ、主は人の霊の値打ちを図られるというのです。
主は人の霊、いわばその心の根本にあるものを主が図られるということです。
いわば、人の持っている、私の持っている純粋にこういうこと、
純粋に神様を愛して熱心に行うこのことというのは、
最終的にはそれは主の見舞いで図られるしかないということです。
平たく言うならば、熱心であり純粋であるということは大事なのですが、
しかしいつも問われるのは、これはイエス様を喜ばれるのだろうかということです。
私のこの純粋さや熱心さによって行っているこれは、
イエス様が喜ばれることなんだろうかということを、
18:03
いつもそこで図られる、これは私自身が一番図られていると思いますが、
そういうことを思うときに、実は今朝の箇所に戻りますと、
サウロの見舞いに主が現れるのです。主が現れ。
今朝の箇所の9章の3節から5節をお読みしますけれども、
こういう形で主が現れます。
ところがサウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、
突然天からの光が彼の周りを照らした。
彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。
サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。
彼が主よ、あなたはどなたですかというと答えがあった。
私はあなたが迫害しているイエスであると。
神様はその人に必要な救いの形で現れます。
サウロにまず現れたのは天からの光でした。
これはサウロにとって必要でした。
なぜなら、これは否定がしようのないほど、
天の神、私が信じている神から来ているものだということをまず示されるからです。
しかし、その神の光に包まれて、その中から聞こえた言葉は何か。
サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。主よ、あなたは誰ですか。
私はあなたが迫害しているイエスであると。
天の光、否定のしようのないほど、私が信じている、私が愛している。
神様のその光の中から聞こえてきたのは、あなたが迫害しているイエス、私があなたに語っているという。
その言葉を聞いたときにサウロはどう思ったでしょうか。
これまでサウロが、あれは呪われた罪人だと批判してきたイエス様です。
そして、そのイエスを主と合互するのは異端だと牢屋に入れてきたそのイエス様ですが、
彼の目に純粋に悪に見えていたものが、実は悪ではなく、
いや、それこそが神の義であり御心であったということを彼は示された。
それも実に容赦ない形です。容赦ない形で、否定しようのない形でサウロに示された。
サウロはこの時に、自分自身の姿を見せつけられたのではないでしょうか。
それはおそらくこういうことです。
神を純粋に愛し、神の義を熱心に求めていたそのことがむしろ、
私こそ神を冒涜し、神を傷つけていたという事実です。
21:04
そのようなものなのだ私はということを彼はそこで認めざるを得なかった。
天からの光に包まれているから。
私こそが実は、あのピネハスのように神の義を実行していると思っていたが、
私こそが実は罪人、誰よりも罪人であったという事実。
聖書は罪人の姿をまさに、彼らは自分が何をしているのかがわからないのですと言います。
ローマ書でもパウロは、自分は何をしているのかがわからないと言います。
でも罪人の特徴というのは、自分が何をしているかがわからない。
神の前に、神を傷つけ続けているのに、神を愛している。
自分が何をしているかがわからない。
しかしそれを見せられる時がある。
その時、サウロはどれほど自分のことを惨めだと思ったでしょうか。
でもそれがサウロがまず見たものではないでしょうか。
ただ、サウロはそのような自分自身の姿を見せられながら、それだけではなかったと思うのです。
もう一つ彼が見せられたものがあったとするならば、それは先に言いますと、
そのような私に対して、なおも期待をかける神の姿。
その姿もサウロは見ていったのではないかなと思うのです。
二つ目のポイントは、そのような私にかけられる神の期待を彼は見たということです。
サウロの姿を見ていきますと、彼にはこの後、導き手が備えられていました。
アナニアという人物ですね。
主はアナニアに現れて、サウロに会って、彼に手を置いて祈るようにと勧めます。
ただ、この歌詞を見ていると本当に好きなんですが、アナニアはこれを嫌がりますね。
とても嫌がります。13節14節にアナニアは主に答えた。
主よ、私は多くの人たちからこの人がエルサレムで、あなたの生徒たちにどんなひどいことをしたかを聞きました。
彼はここでもあなたの名を呼ぶ者たちをみんな捕獲する権限を主宰主張たちから与えられています。
ダマスコにいたキリスト社、それはアナニアのことです。
そしてサウロはおそらくダマスコに向かっていましたから、サウロが倒れなければダマスコで捕らえられていたのはアナニア自身のことだったでしょう。
そのような自分を捕らえるために派遣されたサウロ。
彼は言います。私は彼の噂を聞いているし、彼が他のキリスト社たちに対してした死討ちのひどさ、そのことを私はよく聞いています。
24:08
そのことを思うと主よ、あなたがそう言われたとしても心は複雑です。
許したくもないし、主の言葉でも信じがたい。
主よ、あんなことをした人をなおもあなたは本当に救われるんですか。
アナニアの本心だと思います。許したくないですよ。主よ、あなたはそうなんですか。
しかし、今日特に注目したのはこの15、16節の言葉なのです。
しかし主はアナニアに言われた。
行きなさい、あの人は私の名を違法人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、私の選びの器です。
彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを私は彼に示しますと語られます。
この言葉を読まれて、皆さんどう思われるでしょうか。
サウロは救われる。しかし彼のその行き先は苦しみであるとイエス様は言われます。
アナニアからするならば、きっとこの言葉は少し彼の心を救うような言葉だったかもしれません。
主はキリスト社を迫害し苦しめていたサウロを今度はキリストのために苦しむものと召されたのだと。
それならいいじゃないですか。
そういうような思いで彼は聞くことができたかもしれません。
ただ少し思いますが、じゃあこの15、16節の言葉はサウロに対する罰を言っているのでしょうか。
彼はひどいことをしたから、じゃあ苦しんだらいいんだ、そんなことをこの歌詞で言っているのでしょうか。
そうではないと思います。
むしろこの言葉は、私はこう理解すべきではないかなと思うのです。
それは、自分の罪深さ、みじめさに嘆くサウロに対して、神はなおも期待をもって、あなたをイエスの道に歩むように選ばれたということです。
もう一度言いますと、それは自分の罪深さ、みじめさに嘆くサウロに対して、神はなおも期待をもって、あなたをイエスの道へと選ばれたのだということ。
この言葉は罰の言葉ではありません。
これはサウロへの証明の言葉であり、これはサウロに対する神様の期待のこもった言葉なんです。
なぜそういうことが言えるのでしょうか。
27:02
今日読んでいただきましたこの9章の19節から22節というところを読んでいただいたのでお分かりかと思います。
諸カイドウにおいてサウロが証をし始める。この方こそ神の子ですと。
しかしこれを聞いた人々は驚いていった。この人はエルサレムでこの名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。
ここへやってきたのも彼らを縛って最主張たちのところへ引いていくためではなかったか。
そのようなサウロの姿を見てみんなうろたえた。
そしてこの後続いていきますのはサウロを殺そうという人物たちも出てきたということですけれども。
これらの箇所を見ていただくときに、この箇所どこかに似ていませんか。
実はこの箇所というのはルカフクイーン書と一元考録を一人の執筆者ルカという人物が書いたとするならば、
明らかこれはルカフクイーン書の一つのシーンと重ね合わせています。
それはルカフクイーン書4章の16節から30節。
イエス様があの流れの街道で語られた、一番最初に街道で語られたあのシーンと重なるんです。
そのシーンまた見ていただけたらと思いますけれども、皆さんよくご存知だと思います。
流れの街道でイエス様が語られ始めたときに人々はまともにその言葉を聞けませんでした。
いや、彼はヨセフの子ではないかと言いました。
イエス様はそれを聞いて、
預言者がとうとばれないのは自分の故郷だけだということを言って去っていかれますが、
この9章の19節から22節とルカの4章の16節から30節は使われている言葉がだいぶ重なるんです。
それは一体何を意味するのか。
イエス様の十字架と復活に至るまでの戦況の旅が、流れの街道であの言葉から始められていったように、
サウロはここからイエスキリストの十字架の道を歩む道が始まるということです。
ルカは少なくともそういうふうに語っているのではないでしょうか。
サウロはキリスト社を迫害し、自分の純粋さのゆえにある種、
熱心さのゆえに、そしてそれが神様の前にすべて誤りだと示されて、
彼は言い方を変えるならば、砕かれるわけですよ。
しかしそのようなサウロを見て、
イエス様は、だからあんたダメだからもうちょっと苦しみなさいというのが違う。
あなたは自分の純粋さや熱心さが絶対ではないことを知ったでしょう。
30:07
いや、あなたは自分自身が絶対ではないということを知ったはずだ。
で、あるならば、私はあなたに期待をかけて、
あなたをイエスキリストの同じ使命に立たせることができると言われるんです。
イエス様への道にめすというのは、それはただならぬ期待がなければできません。
ただ、ここでも少し考えなきゃいけないの。
神様の期待って一体どこにかけられるのか。
サウロの姿を見るならば、彼はたくさんのものを持っていました。
彼は聖書に対して白色だし、ヘブル語も喋れる人間だし、ローマ市民でした。
で、その彼の持っているものは後の宣教活動で大いに役立ちますけれども、
しかし神様が見られる、神様が期待をかけられる彼のポイントはどこか。
砕かれたということです。砕かれたということです。
あなたは私のために苦しまなければならない。
そう16節で語られますが、
そう神様から言われたら、皆さんどうお答えになるでしょうか。
私なら言うかもしれません。イエスよ、それは私の願う苦しみではありません。
ただ、同じ問いかけに対してイエス様はこうお答えになりましたね。
しかし私の願いではなく、あなたの御心がなりますようにとお答えになられましたね。
これが砕かれた心というやつですね。
サウロもまた主の前に砕かれたのです。
徹底的に自分がやってたことは全く正しくなかった。
しかしそこで彼は自分の限界、弱さ、罪深さを知った。
それを知ったからこそわかるのです。
ああ、私の願いや私の熱心さというのは絶対に正しくなくて、
それよりも正しい主の御心というのがあるんだということです。
私たちは、もう終わりますけれども、
私たちは目から鱗を落とされ続けなければならないような気がします。
主は私たちを救ってくださったときに、私たちの目から鱗を落としてくださいました。
私たちは恐らくかつてよりも自分自身の姿がよく見えるようになったでしょう。
自分は罪深いということがよくわかったかもしれません。
同時にかつてよりも神様が私をどう見てくださっているかということもよくわかったでしょう。
でも、私たちはなおも目に鱗があって、目から鱗を落とされ続けなければならないお互いである。
33:05
落とされ続けたら何がなるのか、自分自身の姿がよくわかる。
自分が持っているものは決して絶対ではないということ。
誤り得るのだということ。
見解があり、罪があり、弱さがあるのだということ。
しかし、それだけで終わらない。
クリスタンの方でよく、だから私はダメなんだ、そうじゃない。
もう一つ見なければならないものがある。
それは、そのように砕かれたそのところに主の期待がかけられているということです。
私はダメだ、私はわからない、何か正しくない。
でも神様が言われるのは、そうだろうと。
だから、だから、そのようなあなただからこそ、今はわかるだろうと。
私の道に歩みなさい。
そのようなことを私たちは言われるのではないか。
私たち自身もまたサウロと同じように、
あなたは私の名を運ぶ、私の選びの器だと言われます。
そして、そのように主に召されて、選ばれて、主の業を担っている一人一人ですよね。
でもその時に、主が私たちをある種、自分自身の姿をよく見せながら、
でも、ある種、二通り必要だと思うんですね。
やっぱり砕かれなきゃいけないんだと思います。
私は絶対に正しいわけじゃない。
これは私自身もそうです。
絶対に正しいわけではない。
でも同時にもう一つ言えることは、矛盾があって、限界を知って、
ああ、私は正しくあれないんだと知った、私たちに主は期待をかけられる。
そうだ、だからあなたは私が必要だろうと。
だから私と一緒に歩もう。
だから私と共にイエス・キリストの道を歩もう。
そのような神様の期待を見ることができるような気が致します。
忘れないようにしましょう。
神様の期待は、神様の御業は、私たちの砕かれたところに注がれます。
目から鱗が落ちる中で、これは私自身の願いですが、
私の願いではなく、あなたの御心がなりますように、
そのような主が祈られた祈りに、私たちもどこかで導かれていく、
そのようなことを願って、ご一緒に歩ませていただきたいと思うのです。
この祈りをして、聖書を終わります。
35:49

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