サムソンの誕生と使命
今朝は、この箇所から、切っても切れない愛と題して、メッセージを取り継がせていただきます。
2週間ぶりの詩式になります。
今朝、ご一緒に注目をしますのは、この詩詩サムソンであります。
前回見ましたエフタを見ましたけれども、エフタというのはなかなか教会学校で聞く機会というのはない存在ですが、
しかしこの帰りきサムソンというのは、私たちは教会学校やいろんなところで話を聞くかもしれません。
単純に強いだとか力持ちであるというのは、少年には憧れがありまして、
サムソンというのはかっこいいイメージが、私の中にはずっとありました。
ただ改めまして、この詩詩の13章から16章がサムソンのことが書かれていますが、
改めて読みますと、彼はあまり褒められた捌きつかさではなかったということが分かってきます。
以前からお話ししていますが、詩詩というのは、下り螺旋状にイスラエルが堕落していく。
だんだん悪くなっていくという歴史を描いている書簡です。
そしてそれは呪いに陥っていっているわけです。
その悪化の状況が著しいと書かれたのが、ちょっと振り返りもつかれますが、詩詩の10章でした。
詩詩の10章の7節というところを少しお読みしますと、こういう言葉があります。
詩詩の10章の7節。
イスラエルが著しく偶像崇拝に陥ったということの後に、10章の7節にこういう言葉があります。
主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に売り渡されたと書かれています。
私たちが先回見ましたエフタというのはアンモン人からイスラエルの民を救ったわけです。
そしてもう一人、この海岸沿いのペリシテ人という脅威からイスラエルを最終的に救うのはサムソンです。
ただサムソンは正直申し上げてヒーローではあまりありません。
ある本の中でこういう説明がなされていました。
詩詩を比べるならば、詩詩ギデオンというのは普通の詩詩、詩詩エフタというのは悪い詩詩、そして詩詩サムソンというのは最悪の詩詩。
彼の物語を読んでいくときに早々にその状況が見えてまいります。
詩詩記の中ではサムソンというのは最後の捌きつかった、サムエルも捌きつかった、詩詩記の中で描かれる点では最後です。
いわばそういう人物がどういう結末に陥っていくのか、そしてその彼を神様はどのように見つめていたのか、ご一緒に少し確認をしていきたいと思っています。
さてサムソンの物語は13章から始まってまいりますけれども、13章の流れを簡単に押さえますと、これはサムソンの誕生物語です。
イエス様の誕生物語と少し似てるんですね。
イスラエルの男族のマノアという男性の奥さん、これは不妊の女性ですけれども、この女性のところに主の使いが現れました。
主の使いがこの彼女に告げることは13章の3節から5節というところをちょっとお読みしますと、
主の使いがその女に現れて彼女に言った。
みよ、あなたは不妊で子を産んだことがない。しかしあなたは身ごもって男の子を産む。
今後あなたは気をつけよ。武道士や強い酒を飲んではならない。けがれたものを一切食べてはならない。
みよ、あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭に髪そりを当ててはならない。
その子は体内にいるときから神に捧げられたナジル人だから、彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。
あなたから生まれてくる子供は、イスラエルをペリシテ人から救う特別な子供である。
だからナジル人の誓言をかけて育てなさい。
ナジル人の誓言というのは、詳しくは民数記の6章というところにありますけれども、
簡単に言えば民数記6章にありますが、種のものとして実を性別するということです。
この子は神様のものとして特別に育てるという意味ですね。
その誓いを維持するために、ある種、求められたことは毛を剃ってはならない。
そして神様に性別されていますから、穢れたものも食べてはならないし、葡萄酒も避けなさい。
そういうことがある。
神様はイスラエルがここまでどれほど堕落しているかということをよくご存知だったのでしょう。
この中で普通に子供が育っていくことも難しい。
だからこそナジル人の誓言をかけて、神様にあなたは性別されているんだよという自覚を備えさせて、
様々な悪い影響からサムソンを守りながら育てよう。
サムソンの愚かさと復讐
そう思ったのかもしれません。
ただ、この子はどのように育ったのかと言いますと、青年サムソンが14章から出てまいります。
14章の2節から見ますと、彼がどう育ったかがよくわかります。
14章の2節。
彼は上って行って父と母に告げた。
私はティムナで一人の女を見ました。
ペリシテ人の娘です。今彼女を私の妻に迎えてください。
青年サムソンが願ったことは、ペリシテの女性、いわば戦わなければならない敵国の女性を好きになる。
そういうことでした。
両親は何を言うんだってことを言いますけれども、しかし3節のところを見るならば、
サムソンは彼女を私の妻に加えてください。彼女が気に入ったのですと、
ただをこねるように、この結婚を両親に求めるのですね。
この数節だけでも実は、サムソンがなじる人でありながら、
神様の御心を重んじる青年としては育たなかった、ということがよくわかるのです。
ただ14章の4節を見ますと不思議なことに、彼の父と母は、それが主にあることだとは知らなかった。
主はペリシテ人とことを起こす機会を求めておられたのであるという、そういう言葉が出てきます。
これは主からのものだったとも説明される。実にこれは不可解ですね。
サムソンのこの神様の思いを大事にしない姿勢というのは、
神様が導かれたというふうに単純に読めるかもしれません。
これはよくわからないのですよね。聖書はそういう不可解に満ちています。
例えば、出世宿土で民が出ていくときに何度もファラオが止めますけれども、
ファラオが民を止めたのも、あれは神がファラオの心をカタクナにしたからと聖書は書きます。
そうなると、神様に逆らっているのに、これは神様がしている、どういうことなのと私たちは思うかもしれません。
ただ、私はこう考えるべきだなと思うんです。
神様のご計画というのは、人間の練られた資質と織り混ざって進んでいくんですよ。
神様のご計画というのは、その人がどういう存在であるかということと織り混ざりながら進んでいく。
神様は、今まで見てきましたけれども、神様は自分に従うロボットを自動的にバンと作りませんね。
アブラハムであったりイサクであったりヤコブであったりヨセフであったり、
その人たちの人格を一緒に歩みながら練りながら整えていかれるんです、種の器として。
そしてそのような神様のチャレンジ、そしてその愛のチャレンジに応えるという形を通して、
種の器として整えられていって、その器と神様は一緒に老されるわけですよね。
そう考えるならば、実は神様がそうなさったと言われるけれども、
サムソンがこうなったのは、言葉が厳しいですが、やはりこれはサムソンの責任です。
サムソンはなじる人として育てられました。
そこにも神様の期待とチャレンジはあったわけです。
それを自覚しなければならなかったでしょう。
けれどもサムソンは神様を愛しませんでした。
ペリステ人からイスラエルの民を救うという神様からの使命を彼は軽んじているわけですね。
これはサムソンの愚かさ以外の何者でもありません。
でも神様はサムソンの人間的な愚かさを通しても、ご自身の計画を進められる。
私はそう読むべきだと思っています。
ただそれにしても、ある種愚かなサムソンと一緒に付き合いながらでも、
ご計画を進めようとする神様ですが、それにもましてサムソンは実に愚かです。
14章を見てまいりますと、この後サムソンが獅子と戦って、獅子を真っ二つに裂くという物語が出てまいります。
そして獅子の死体から蜜蜂がたかって、獅子の死体から蜜が出てくるということがこの後出てくる。
彼はそれを迷わずに食べます。
そして14章の半ばから10節以降は、このペリステ人の女性との宿縁を7日間するということ。
これらのストーリーが一体何を言っているのかというと、
彼はナジル人の誓願であった穢れた物から食べてはならないということであったり、
お酒を飲むなということを次々と破ったということです。
破っているんですね。
しかもこの10節から出てきます婚姻の状況というのは実にすごい話です。
その宿縁の中でサムソンはこの14節にありますけれども謎々を出すんです。
しかもその謎々は実に時用のない謎々です。
14節に喰らう物から食べ物が出た、強い物から甘い物が出た、これは何か。
これは答えはサムソンが咲いた獅子、その獅子から蜜が出てきたというね、
超常的なというかあまり良くないケースの話をしているわけですが、
そのことを時用のない謎々を出し、ペリシテの女性の来賓客として来た人たち、
ペリシテ人ですね相手は。
このペリシテ人たちが奥さんを脅して答えをサムソンから聞き出せと言って、
サムソンから聞き出してその答えを来賓客が言ったら、
サムソンはそのことに今時で言うことの逆切れでしょうかね。
怒ってその町の住人を30人殺害をいたします。奥さんは即座に実家に帰ります。
サムソンは後を追いかけます。
けれどもこの奥さんはもうよその男性のところに突いてしまいました。
そのことに怒ってまたサムソンはペリシテの田畑に火をつける。
その結果ペリシテ人はこのサムソンが結婚しようとしていた奥さんの実家に火をつけて、
この女性の家は燃えてこの女性もその父親も死んでしまう。
実に驚々しいそういうことが起きてくる。
サムソンはこのことを受けて十五章の七節を読みますと、
サムソンは彼らに言った。
お前たちがこういうことをするなら私は必ずお前たちに復讐をする。
その後で私は手を引こうと。
サムソンがペリシテ人と戦う上での動機というのは復讐です。
しかも個人的な復讐です。
よく見るならばこれらは彼自身が蒔いた種ですよ。どう考えてもね。
彼が蒔いた種なんだけれどもそれを認めることなく一方的に復讐心を燃やしてペリシテ人と戦う。
そこから始まるのは報復の連鎖ですね。
ペリシテ人はサムソンに復讐するためにイスラエルに攻め入る。
イスラエルはペリシテ人が怖いからサムソンを生贄として差し出す。
その先でサムソンはまたペリシテ人を打ち破る。
さっき歌いました歌ですけれども、ロバのアギト骨、ロバのアゴ骨を持ってペリシテ人を一千人打ち殺すというのが十五章の十四節そのあたりに書かれてあります。
彼の返り気には誰一人立ち打ちできないのです。
しかし神と人の前にこの人はこの上なく愚かです。最強しかし愚か。
サムソンの最後の絆
それがサムソンという人物です。
ただ注意しなければならないのは、じゃあその絶大な力は一体何から来ているのかということですね。
それが十六章というところで探られていくのです。
サムソンはデリラという優女に心を奪われるわけですね。
ペリシテ人はこのデリラを買収してサムソンの力の源がどこにあるかということを探らせ始めます。
デリラに擦り寄られて彼は三回話をはぐらかすわけですけれども、面白いですね。
このサムソンはそう問い詰められるデリラの言葉に十六章の十六節というところに書いてありますが、
こうして毎日彼女が同じ言葉でしきりに攻め立てるので彼は死ぬほどにつらかった。
すごいですね。
そのような口による攻撃ですね。
それがサムソンの心を苦しめ。
そしてサムソンは自分の秘密を明かしてしまった。
私の力の源はこの毛なのだと。
そのことをすぐにデリラは打ち明かして、この今日読んでいただいた十六章の十八節につながりますが、
彼の髪の毛はペリシテ人によって切られて、そして彼の力、神の力はサムソンから離れ、
彼は両目をえぐり出されてペリシテ人にとらわれていった。
実に救いようのない話です。
ここで少し考えなければならないことがあるように思います。
神様とサムソンにとってこの髪の毛とは一体何だったんでしょうか。
実はこの歌詞を読んでいくときに不思議なことに、
これまでサムソンが実は穢れた獅子から蜜を食べたときも、お酒を飲んだときも、
彼が力という賜物を神様から与えられながら、それを自分勝手に使ったときでさえ、
神様はサムソンから力という賜物を奪われなかったんですね。
ずっと神様は死の霊を注ぎ、愚かなサムソンに付き合いながら、それでも力を注ぎ続けていきました。
しかしながら、この髪の毛が切られたときに、主の力は去っていってしまった。
この髪の毛とは一体何なのでしょうか。
私はこう思います。
この髪の毛とは、神様とサムソンの最後の絆。
最後の絆のようなものだったのではないでしょうか。
サムソンはナジル人の誓言を破り、神様を深く傷つけました。
けれども、読んでいただいたらわかります。
神様はサムソンとそれでも共に歩もうとされて、彼の愚かさに一生懸命付き合っていかれました。
サムソンと神様の関係
けれども、サムソンがナジル人としての最後の印、それは言い換えれば、神様の選びの最後の印ですね。
それである髪の毛を彼が軽んじてしまったときに、繋がりは断たれてしまった。
いや、神様から選ばれているというその印を最後に彼が軽んじたがゆえに、
この力は神に選ばれたからあるのでもなくて、私のものだとどこかで思い始めて、
神からであるということを彼が忘れ軽んじたときに、サムソンがこの神様との繋がりを切ったのです。
力は彼から去ります。当然です。
ヨシワキから続いてくる一つのテーマですが、力は主のものです。
力が賜物であることを忘れ、その方との絆の印も忘れ、
すなわちそれは神様ご自身を全く忘れるということでしょう。
その結果、主の力はサムソンから離れざるを得なかった。
そう言えるのではないでしょうか。
ただ、今朝の箇所を見ながら一つ驚かされるのは22節なんです。
十字架の愛
しかしサムソンの髪の毛は剃り落とされてからまた伸び始めたという言葉です。
私はこの言葉から目が離せなくなりました。
これは単に髪の毛が伸び始めましたという自然現象のことを言っているわけではないでしょう。
髪の毛が神様とサムソンの最後の絆とするならば、
髪を断ち切った直後にその絆はつながろうとし始めている。
それは一体どっちからつながろうとしているのでしょうか。
サムソンは神様を捨てました。
しかし神様の御手はその直後から伸びようとしている。
そのように私には見えます。
でも私たちは思いますね。神様ってそういうお方です。
この歌詞を読みながら私は思わされました。
神様とサムソンにおけるこの髪の毛が最後の絆だとするならば、
じゃあ私たちと神様にとっての髪の毛って一体何なのでしょうか。
最後の絆。切っても切ってはならないようなその絆。
それは何でしょうか。
私は十字架だと思うんです。
十字架。
十字架。
巫女イエス様を十字架につけたのは、
イエス様が愛した一人一人でしたね。
イエス様を一人一人を愛していた。
けれどもその愛はそのイエス様の民には届かず、
その愛をイエス様の民は軽んじて、
マコトの王であるイエス様を十字架につけてしまわれましたね。
けれども十字架上でイエス様が叫ばれたのは、
父よ彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかがわかっていないのですと叫ばれた。
それは言い換えるならば、
人間の愚かさによって神様とのつながりは切られる。
その思いをはねのける。
けれどもその人間の愚かさをはねのけた手さえも超えて、
神の愛、なおも手を握ろうとする神の愛がそこにはある。
その手が伸ばされている。
それが十字架である。
こういうことを思うときに私たちは心して、
この神様の愛の手を払いのけないように注意しなければならない。
そういうことをつくづく思わされます。
サムソンのストーリーが教えてくれるのは、
この神様からの愛の手を払い続けたらどうなるかということです。
サムソンの最後というのは、そういう人たちの行く末を描いているようなシーンです。
16章の23節から31節に書いていますけれども、
彼はペリシテ人が信じる神ダゴンの神殿にとらわれていき、
生贄にされようとされます。
エフタのストーリーを思い出していただきたいのです。
彼はアンモン神には勝利をしましたが、
しかし彼の心はアンモン神の神モレプにとらえられて、
人身釘のようなことをした。
そういう話を以前にしましたが、
意識は悪化していく。
サムソンに至ってはもうダゴンの偶像の前に実際にとらわれていく。
そして彼は偶像の食卓の上に置かれるわけですね。
串子もこの光景というのは開きませんけれども、
南ウダ王国の最後の王様ゼデキアと全く同じです。
彼も両目をえぐられて、
目の前で子供を殺された後に両目をえぐられて、
彼はバビドンの国に惹かれてまいります。
これは一つの象徴だと思います。
神様の声を最後まで、拒んでもいけない声までも最後まで拒み続けるとき、
人はとらわれていき、偶像の食卓の上にあげられる。
その上で命を落とす。
サムソンはそうなるくらいならと思い、
ペリステ人を巻き込んで死のうと考えます。
ただ16章の28節に見ますならば、
サムソンは死を読み求めていました。
16章28節。
神、死をどうか私を心にとめてください。
ああ、神よ、どうかもう一度だけ私を強めてください。
私の二つの目のために一度にペリステ人に復讐したいのです。
最後まで彼の心を占めたのは復讐心。
神様はこのようなサムソンをどのように見ていたでしょうか。
親の立場からすれば、
復讐に最後まで心を奪われる子供の姿など見たいでしょうか。
そうなってほしくはなかったでしょう。
いや、そうならないために、
私はあなたを生物したのに、あなたを守ろうとしたのに、
なぜあなたはそうなってしまったのか。
そして、こうなるまで何で私のもとに来なかったのか。
それがサムソンに対する神様の声ではないでしょうか。
私たちと神様の間に最後の一戦があるとするならば、
それはどんなに大きな罪を犯してしまったかではないです。
何度神様の約束を破ってしまったかではないです。
そういうことではないでしょう。
最後の一戦、それを斬ってはならない、それを拒んではならない最後の一戦は何か。
十字架の愛を拒むことです。
あなたの罪を背負って、あなたのために命を捨てたと語られる、
その神様の愛を拒むことです。
サムソンの髪の毛は、それを落とされてからまた伸び始めたと。
なおも差し伸ばされる、手を弾きながらしかしなおも差し伸ばされる、
神様の愛の御手を拒んでしまうならば、救われることはできない。
私たちの応答
偶像の食卓へと導かれてしまうのではないでしょうか。
これから私たちは清算式を取り行います。
清算式のときに私たちは、イエスキリスト、神の子であるお方が、
罪人である私たち一人一人のために、その体を裂き、血を流されたということを覚える。
キリストの打たれた打ち傷、流された血をは、私の罪のためだったんだということを、
改めて私たちは受け取ります。
その愛は今も変わらず絶えず私たちに向けられている。
その中で私たちが問われるのは、私たちになおもその手を振り払いながらも、
私たちを、あなたを許し、私はあなたを神の子としたと言われるときに、
いや、そんなはずはない。これは私のことではない。
神は私をここまでは許すけど、このことは許しておられない。
そういうところに私たちが留まるならば、
私たちはそれは重大なことをしているということを自覚しなければならない。
神様は、そうなる前に帰って来いと言われる。
そうなる前に帰って来い。
そのような主の御声をいつも心して私たちは聞きましょう。
神様の愛は永遠ですが、答える私たちの時間は限られています。
救いのときと言われる今、
真摯に生ける神様に私たちをお答えさせていただきたいと思います。
私の偶像は何なのか。
まことに生きておられる神様の前でしか、
私たちを偽りの神々から解放することはできません。
十字架の神の愛は、私たちの中にある偶像からも、
私たちを解き放ったのではなかったでしょうか。
ローマ人への手紙にあります。
神の尽きない慈愛が私たちを悔い改めへと導くと、
自分の罪深さに痛みながら、驚きながら、しかし、
このような私の全てを引き受けて、
あの十字架で身体を裂き、血を流されたイエス・キリストの愛を、
私たちはそのまま差し引くことなく、
ああそうだ、これは私のためで、
私の罪は全てキリストにかけられて、
私は囚われているところから、キリストは私を解き放つことができるんだ。
そのことをご一緒に改めて信じ直したい。
その世の方向転換へと私たちを導き、
偶像から神様が私たちを解放してくださるように、
そのことを願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。