収穫感謝礼拝の意義
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日は収穫感謝礼拝を皆様とご一緒に祝えることをありがとうございます。
あなたがこの世界の創造主であり、またこの私たちの命の創造主であり、
また本当に地の産物の創造主である、全ては主の命から私たちに与えられているものであることをすくずく覚えて感謝するものです。
そしてまた、その恵みをあなただけのものにするのではなく、それを分かち合うようにと招かれている礼拝でもあります。
祈られたように、私たちに与えられている恵みをまた、傷んでいる一人一人に分かち合う、そのような思いも新たにしてくださいますようにお願いいたします。
私たちは主から本当に多くのものをいただいているものです。
何よりもその最たるものとして、主はあなたを私たちのために命を与えてくださいました。
主が私たちの罪を引き受け、十字架で流してくださったその血を、それによって私たちの罪が許され、神の子とされ、そしてこの神とともに永遠に生き続ける、永遠の命を与えてくださったことをありがとうございます。
それがどれほどの恵みであり、どれほどの力であるのか、私たちは本当に確認し続けるものです。
どうか今日も目を開き、耳を開いてくださって、あなたを仰ぎ、あなたの見越えに耳を傾けることができるよう助け導いてください。お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、施設におられる方、また心痛んで来れない方、ご支度で礼拝を守っておられる方々、お一人一人を主が顧みてくださいますように。
またこの気候の変動の中で、本当に体調を崩す方も多くいらっしゃいます。そしてまた、本当に最近手術を受けられた方もいらっしゃいます。
どうか主がお一人一人を覚えていてくださっていますから、どうかその置かれているところにおいて、あなたご自身の恵みを表してくださいますように。お願いいたします。
お願いいたします。
癒しの御手を尚も述べてください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。御言葉を開き、聖霊様が私たちにあなたの悟りを教えてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
種と土の比喩
昨年はしませんでした。
今年は収穫感謝礼拝をさせていただいています。
この収穫感謝礼拝といいますのは、私より皆さんの方がよくご存知かもしれませんが、
全世界の創造主であり、全ての収穫の与え主である神様からのものであることを覚えて感謝をする日ですし、
またもう一つ意義深いのは、それを分かち合うことを覚えるということですね。
私たちは多くの恵みを受けている。
でも聖書は私たちの恵みというのは分かち合われるためにあるんですよということが重ね重ね語られます。
そのことをぜひ覚えたいと思います。
今年はそういうことはなかなか教会の行事としてはできませんでした。
教会によってはこの収穫感謝礼拝のときにバザーを押して、そのバザーの売上金をどこかに寄付するということをするんですが、
そういうことも今後考えられたら楽しいなと思っています。
また今日は前にいろいろなものを皆さんお持ちいただいて並べさせていただきました。
実はこの前の金曜日に堺さんの畑で稲の収穫をさせていただいたんです。
その稲も今日は前に並べていただきました。これ収穫したての稲ですね。
本当に私たちは植えて、植えてというだけで全部管理を堺さんがしてくださって本当に申し訳なかったんですけれども、
でも本当に立派なものが育ちました。
記録を振り返りますと、種もみを地面に植えたのが4月の末。
そこから苗が出てきて、その苗を取って田んぼに植えたのが6月の末ですね。
そこからぐんぐんと育っていって、11月の中旬に収穫をさせていただいたということですね。
最初植えたときはここに見えますかね。この本当に種もみ。
この種もみを本当に植えたところから生えてきてこれだけのものになったということなんですよ。
それを知っているだけにやはり不思議だなと思います。
4月の種の小ささを覚えば、収穫した立派な種を見ると作物が育つということの不思議さを覚えます。
なぜあれがこれになるのかということが不思議なものですね。
けれどもその理由を考えるときにおそらく一つ説明となるのは、それは種もみの中に命があったからでしょう。
そしておそらくまかれた大地にも命があったからでしょう。
そのような種もみの命、そして大地の命、そういうものがある種、組み合わさってとでも言いましょうかね。
それらが掛け合わされて作物は美しく成長していく、そういうものなのだろうと思うんです。
実は今朝読んでいただいた聖書の箇所というのは、
イエス様が私たちも人間も、いわばこの種もみと土によく似てますよということを言わんとしている、そういう場面です。
いわば種もみと土が重ね合わされて美しい成長があるように、
人もまたこの種もみのようなものと大地のようなものが組み合わされる、それに似ているんだと。
イエス様というのは実に、皆さんご存知かもしれませんが、田畑に関係する例え話というのはよくなさいます。
それはきっとイエス様の長州にその田畑を耕す人たちがたくさんいたからですね。
その人たちの日常の光景で例えられた。
そしておそらくイエス様ご自身も田畑を、農業をなさったんじゃないかなと思うんです。
だから身近な光景に神様のこのことが隠されているんだよというお話をなさった。
今日はこの箇所を改めて見たいと思います。
先に言っておきます、これ2月にやったんです、この箇所。
でももう一度大事な箇所なので、ご一緒に見たいと思っております。
さて、今日読んでいただいたこの4章の3節からですけれども、
例え話をイエス様が一つなさっています。
よく聞きなさい。種まく人が種まきに出かけたというところから始まる話ですね。
例え話の概要と言いますのは、簡単に言うとこういうことでした。
ある人が種まきに出かけた。
その人はその種を道端、岩地、茨、そして与一という4つの土地にまいた。
種はまかれた地によって実の結び方が全然違った。
最初の3つの土地は問題があって上手に成長ができなかった。
けれども与一土地にまかれた種はぐんぐんと実を結んで成長をして、
4章の8節にありますが、
また別の種は与一に落ちた。
すると芽生え、育って実を結び、30倍、60倍、100倍になったというのです。
一見何が言いたいのかよくわかりにくい例え話ですけれども、
この箇所を珍しくイエス様が解説をしてくださってまして、
その解説が10節から20節にありますけれども、
このまかれた種や大地というのは比喩なんだと。
それは何かと言いますと、
まかれた種、この種というのは神の言葉のことを言っているんだと言うんですね。
種というのは神の言葉のことである。
そしてこのまかれていく土地というのは何かというと、
それは私たち人間の心であると言うんですね。
心が畑。
神様の言葉が道端のような心に巻かれると、
雀が風呂をついばむように、サタンが言葉をついばんでしまうということがある。
神様の言葉がイワチの心に巻かれると、すぐ喜んで目を抱くけれども、
根が深くないために木照りが続いたらすぐに枯れてしまう。
同じように神様もすぐに離れてしまうという心がある。
そしてイワルの心というのは根付くんだけれども、
そのぐにぐにと伸びていく上で、
いろいろな世の思い患いであったりしがらみがあって、
その成長がまっすぐ伸びることができない。
同じように思い患いや世の欲望によって、
あなたたちはその成長が滞ってしまう心がある。
そして最後の良い土地に巻かれる、
いわば柔らかな心とでも言いましょうか、
柔らかな土地、柔らかな心に巻かれたその種は、
実が結ばれていく。
それは30倍、60倍、100倍と、最初聞いた感動からは考えられないくらい、
その人の中で何かを変えるということですよね。
神様の言葉とは聖書の言葉、
心の成長
私たちでいうところの聖書の言葉ですから、
簡単に言うならば、柔らかな心で、
神様があなたにそう語られたのであれば、
その言葉を素直に信じるということ、
そのことがあなたの中でこの言葉が身を結ぶ、
本当に一番大事なことですよ、
そういうことを言われている。
これは本当に大事なことですよね、私たちも。
よく二言葉を差し引きせずに信じなさいということを教えられましたけれども、
そういうことが言われているわけです。
私は改めてこの歌詞をゆみながら、じっくり読みながら、
面白いなあと思ったのは、
人の心とは畑だという観点です。
面白いなあと思います。
なるほど、心は畑であって、
そこにまかれるものがある。
そう考えると、私たちはこれまで生きてきた中で、
私たちの心の中には、
いろいろな種が既にまかれてきているような気がするなあと思うんです。
例えば、誰かからまいてもらった愛の種というものがあるとするならば、
それは小さい頃は受けたものの大切さはわからないんだけれども、
年を重ねるにつれて、
心に蒔かれる種
ああ、あのとき愛してもらったという小さな経験が、
けれども大きくなって大きくなって、
愛の実を結んで、誰かを愛せるようになっていく。
人間ってそういうことがあると思うんです。
逆に、誰かから傷つけられた、傷んだ、
そういう悲しみの種というものも、私たちはあるかもしれません。
それは小さいところから苗が出てきたときに、
どこかで引き抜くか、もしくはこれは違うんだと取り除ければよかったかもしれませんが、
取り除くことができなくて、放っておいて大きく実って、
その悲しみの実を結んでしまう。
それが引き金となって、また誰かを傷つけてしまう。
そういう人もいらっしゃるでしょう。
このイエス様の例え話を聞かれた人たちというのを少し想像してみるならば、
この人たちというのは、今でいうところの生活困窮者の方々ばかりです。
イエス様の時代というのは、大概一部のお金持ちと多くの貧乏人という社会なんです。
そのような中でイエス様の元に来たのは、特に貧しい、
病に苦しんでいる、自分ではもう医者にもかかれない、
そういう人たちがイエス様のところに来たわけです。
私たちは貧しいが故に誰かを憎むことがあります。
私たちは病が取り除かれないが故に神様を恨むということがあり得ます。
そういう種を自分の心に撒いてしまった時に、
そういう種を自分の心に撒いてしまったと自覚をした人々が、
神の言葉の重要性
もしもこの場所にいたら、イエス様の言葉に心刺されたかもしれませんね。
ああ、そうだ。イエス様が言われるように、私の心は道端で、ああ、サタンがいるということ?
ああ、そうだ。度重なる日照りで、私の心はもう渇き切ってしまっている。
ああ、そうだ。私の思い患いが、あのことが、このことが、
結局必死に神様を信じたいんだけれども、私から取り除かれない。
そういうことを自覚したかもしれません。
私の心は道端、イワチ、イバラだなと。
そしておそらくイエス様の話を聞いたときに、
そういう私は、たとえ種を撒かれたとしても、
上手に実を結べない、そういう現実にあるんじゃないかと思った人が多いんじゃないでしょうか。
ただ、この例え話の一番のポイントというのはどこかといいますと、
前も話しましたが、この例え話が一番おかしいところは、
この種撒く人の行動です。
この種撒く人というのは実に、種を無駄遣いするがのように豪快に種を撒くのです。
そうではないでしょうか。
イエス様の解説を20節まで少し話しましたが、
このイエス様の解説を聞いた上で、もう一回この例え話を振り返ってみると、
違和感があるんですよ。
そうではないでしょうか。
道端やイワチやイバラですよ。
見たらわかりますよね。
そんなところにまで何で種を撒くんでしょう。
良い土地にだけ撒けばいいじゃないですか。
そんな種のもったいない使い方はしなくてもいいでしょう。
でも、この種撒く人は自覚的にやっているんですよ。
道端であれ、イワチであれ、イバラの中であれ、パーッと喜んで種を撒いている。
一見農家としては変な行動ですね。
一目見れば良い土地がわかるじゃないか、確かに。
けれども、この種撒く人というのは、その場所に種を撒かずにはいられない方なんですよね。
撒かずにはいられない。
道端のような心、イワチのような心、イバラのような心。
けれども、そこにもこの神の言葉を撒かずにはいられない。
なぜ撒かずにはいられないのか、その人は知っているからです。
神の言葉がどんな畑にも必要だということです。
神の言葉は道端であれ、イワチであれ、このイバラの中であれ、必ず必要だということをこの人は知っているからです。
なぜ神の言葉が誰の心の畑にも必要なのでしょうか。
簡単に申し上げるならば、それは神の言葉には命があるからです。
私たちは言うならば、聖書の言葉には命があるからです。
ただ、このことをもうちょっと厳密に言い換えますと、おそらくこういうことなんです。
それは、聖書の言葉に命があるというのは、聖書の言葉を通して今も生きておられる神様が私たちに語られるんですよ。
命の源である神様が、聖書の言葉を通して今も語られるんです。
だから私たちはそこに止まってしまった言葉ではなくて、今も生き生きと何か聖書を読んでいると心に刺さるということがある。
それは単に何かを読んで感動する話ではない。
命あるお方が今もこの言葉を通して語られる。
そして聖書の言葉を通して、例えば心の中に悲しみの実がまかれているのであれならば、神の言葉というのは私たちの心を慰めますね。
そして私が何のために生きているのかわからなければ、神の言葉ははっきりと言います。
変化のプロセス
いや、あなたが生きている理由というのは、あなたが愛された存在であること、あなたが神に喜ばれている存在であることを知り、そしてあなたの人生には神が与えた使命があるんだということです。
それぞれの命に神様が持っておられる使命がある。
私たちは何のために生きるかということがよくわからなくなってしまうんですが、しかしそういうことを神の言葉は教える。
先ほど招きの言葉でも読んでいただきましたが、詩編の18編の30節というところにこういう言葉があります。
神その道は完全、主の言葉は純粋、主はすべて主に身を避ける者の盾という言葉があります。
神の道は完全で主の言葉は純粋である。
それはまるできっと私たちの中に植え付けられている種、それはある種いろいろなものが混ざったこの世のいろいろな言葉が私たちの心に刺さるわけですよね。
でもその中で清い水がその田畑に流れるように純粋な言葉、それが神の言葉だと聖書は語ります。
そういうある種私の心の中に生えてしまっているいろんなものがある私たちの心を自覚するときに、
でもそこに命を与える言葉というのが神の言葉なんだというのです。
そしてこの種まく人というのは誰なのか、これは神様そしてイエス様のことです。
イエス様はどんな人にも、それはいい人にも悪い人にも貧しい人にも豊かな人にも、
イエス様は神の言葉を語られました。
それは神様は貧しい人も罪人もどんな心を持っている人も含めてこの世の全ての人を愛しておられる、そのことを伝えるためです。
種まく人がどこにでも種をまいたのは、神は実にこの世界を愛されたというあの言葉ですよね。
ただ私たちも実感があるかもしれませんが、語られた言葉は小さな種なんです。
小さな種が私たちにまかれる。
最初はさほどインパクトがないかもしれません。
イエス様の言葉もそうでした。多くの人は聞き流しました。
もしくはあるところに刺さった人は怒り出しました。
しかしそのわずかな人々、けれどもどこかでこの人の言うことは大事かもしれない。
この人の言っていることは重大かもしれない。
そう聞き受け止めた人たちの中に、イエス様の神の言葉が根付き始めたんですよ。
そして種が成長するのが時間がかかるように、神様の言葉を受け入れた人々もすぐに成長するわけではないでしょう。
しかしその言葉が私たちの心の中で、何か私たち自身では生み出せなかったものを生み出し始めるんですよ。
それが神の言葉ですね。
そして徐々に人の中に苗が生えて成長して実を結ぶ。
実が結ばれるというのはどういうことでしょうか。
それは私は思うんです。キリスト社が実が結ばれるというのは、
ああそうか私は本当に神に愛されているんだということをとことん知り続けているということです。
そこから始まるんです。とことん私は神に愛されている。
そして神に愛されているという種をまかれてそこで実が結ばれた人を今度は神様は神を愛し隣人を愛する者へと私たちをそのような実を結ばせてください。
私たちにはそこで神様に与えられた使命があるんだということを気づきそれに生きるようになっていくわけです。
これも経験した人しかわからないことなんですよね。不思議なことなんです。
最近教会の平日に何人かの人、皆さん知っている人と会って話しますけれども、
つくづく聖書の学びをしながら不思議だなということも最近言っていました。
神様を信じて神様の言葉を受け入れ始めてから不思議と私たち変わりましたよね。
変わらなきゃ変わらなきゃと私たち思うけど違うんですよ。
神の言葉がすでにあなたを変えているんです。
そのことを私たちはむしろ喜んで聞いていいと思うんですね。
それまで愛がなかった人に愛が生まれる。
ただこの不思議さにも理由があるとすればそれはやはり神の言葉に命があるからとしか言いようがないですね。
皆さんもご覧になられたでしょうか。今朝7時からライフラインという番組がやっていまして、
私も時々見るんですけれども、その中でこういうお明かしがされていました。
青森県のある教会の牧師先生、芦名正俊先生とおっしゃいましたが、
その先生は弱い頃病弱でほとんど外で遊べなかった。
神の言葉の影響
けれども徐々に体が成長するにつれて治っていって、
青年期はやんちゃな、要はいろいろ生活をして、最終的にその先生はプロフォクサーになるんです。
プロフォクサーになられた後、その中で遠距離恋愛している彼女と別れるということを経験されて、
その失恋のどん底の中で先生は思われた。
俺は一体何のために生きているんだろうと。深い問いですよね。
結局でも人生の中でどこか問われますよ。私たちは一体何のために生きているんだろう。
その先生に、実は先にお兄さんがクリスチャになっておられて、
お兄さんが励ましの手紙の中に聖書の言葉を一つだけ書いていた。
それは呼吸の十四章の七節という言葉だったようです。
木には望みがある。たとえ切られてもまた芽を出し、その若枝は絶えることがない。
あなたは切られたかもしれない。けれどもあなたにはまだ命がある。
あなたにはまだここから生え出る力がある。
神がそれをあなたに語っている。
その言葉を聞いて何かにとらわれて、
この葦名先生は再び立ち上がり、神様を信じて最終的に牧師になられた。
お兄さんが証でおっしゃっていました。あの弟が牧師になったとは。不思議ですね。
けれども私たちが神の言葉をまかれるというのは、そういうことが起きるということです。
本当にそこに力があるの?最初は全くそんなものは見えない。
でも受け入れ始める中に結ばれる実が見えてくる。
それは私たちが私自身では解容のなかったものがそこから変わってくる。
それが神の言葉ですね。
もう終わりますが、イエス様はこの命の言葉が全ての人に必要であると知っていました。
そしてそれ故に、誰彼構わずに種をまき散らしました。
いいえ、イエス様は今も生きていて同じことをなさるんです。
誰彼構わず、いやあなたにも、この神の言葉は必要なものなんだよということを教えるべく、種をまき続ける。
私たちの心はそれが聞けない時もあるでしょう。人間ですから。
道端の時もあれば、いわちの時もあれば、茨の時もあって、それの重ね技みたいな心の時が私たちはありますよ。
けれども、私たちが始められること、いや多分願われていることは、
その小さな種を私の心が道端であれ、いわちであれ、茨であれ、何かのこの小さな種を私の中に受ける、植え始めることです。
そしてその種が私たちの何かを変えることを信じていいと思うんです。
別の種は良い地に落ちた、すると芽生え育って実を結び、三十倍六十倍百倍になったと語られます。
心の畑に神様の言葉をまいてみれば、見える世界があります。
私たちの今朝は収穫感謝礼拝ですが、多分もっと大事なのは、私たちの心もまた収穫の時があるということです。
まかれたものが最後、かりとりして見えてくる時があるということです。
でも大事なことは、私たちの心に種をまき続けることじゃないでしょうか。
そして私たちは道端でも岩地でも茨でもいいんですが、でもその中で良い地がどこかにひとつあって、そこから実が結ばれていく。
心に種を蒔く
それを一緒に見たい、そう願っております。
どうか、私たちは自分の力では実を結ぶことはできません。
自分で自分を変えることも難しい。
けれども、この神様の種、命の種が私たちに良いものをあふれさせてくださる。
お一緒にそのことを受け止めながら、小さな命が私たちの心に終わり始めますように、そのことを願っております。
一言お祈りをして、メッセージを終わります。