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2018-02-18 40:16

2018/02/18:ヨハネの福音書講解説教(22)だれでも渇いているなら

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2018/02/18 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~39

00:01
それでは一言お祈りいたします。
だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じるものは、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、いける蜜の川が流れているようになる。
主よ、私たちは渇いているでしょうか。
どうか主よ、イエス様の御前に出てきて、そして主が下さるいける水で満たされて、私たちの心の奥底から、主よ、いける水が流れるように、
うるおされたそのような我々、そのクリスチャンのこの信仰、我々の人生となりますように、
そのための今日の御言葉を、命の御言葉を、希望の御言葉を、祝福の御言葉を、一人一人に主よ、語ってくださいますように。
そして悟ることができますように。
主よ、どうぞ、あなたご自身が教えてくださいますように、お願いいたします。
いろいろ身体の弱さのゆえに、やむを得ず出席できなかった方々の上にも、等しく主が恵みをお与えくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
ヨハネイの福音書の公開説教の22回です。もう22回もやっておりますね。
でもまだ7章も終わっていないんですので、このスペースにいたら60回以上になるかなと思いますけれども、
主に支えながら、また皆さんに祈っていただきながら取り付かせていきたいと願っております。
今日は開かれていますヨハネイの福音書7章の37から39節を中心にして、
誰でも渇いているなら、誰でも渇いているならという題にして 御言葉の恵みを共にお受けしたいと思います。
私たちのこの身体は食べ物を何回も何日も食べていないと腹が空きますね。
また同じく身体が水を飲まないと渇きます。
では皆さん、私たちの霊はいかがなんでしょうか。
私たちの霊はどんなときに渇くのでしょうか。渇きを覚えるのでしょうか。
そしてその渇いた霊はどうしたらいける水が、川のような水が流れ出るようになれるのでしょうか。
03:03
その答えを今日の御言葉から共に学んで、悟って、また求めて、また満たされていきたいと願っております。
今日の御言葉37節を見ますと、イエス様が祭りの終わりの日でありました。
そして多くの群衆が祭りですから、あらゆるところからエルサレムに多くの何万人もの人々が集まってくるわけなんですよね。
どこかの広場であるかもしれない多くの人々の群衆が集まっているところにイエス様は立って大声でこういうふうに叫ぶかのように語られました。
誰でも渇いているなら私のもとに来て飲みなさい。
つまりイエス様はご存知でした。何をですか。人々は実は渇いているんだと。
自分自身たちはいや、俺はもう全然渇いていませんよと思っているかもしれませんが、それは気づいていないだけでした。
すべての人の霊を、心を、それをもう見抜いてすべてを知っていられるイエス様が見て、実はこの群衆はかわいそうにその霊が渇いていたのです。
そしてイエス様はその彼らに渇いているなら私のもとに来て飲みなさいと。
そして私を信じるものはもうすでに大昔の旧約聖書の預言者たちが言っている通りに、
その人の心の奥底から生きる水の川が流れるようになりますよという約束の御言葉を希望の御言葉を
多くの渇いている人々に語ってくださいました。
このヨハネはこの生きる水、その川は信者がイエスを信じる者が受ける御霊のことだと解説をつけてありそうです。
イエスを信じる者はその霊が、その人生が渇いていることなく溢れ出るようになると。
そしてそれが一回溢れ出てほんと空っぽになるんじゃなくて、
水の枯れない泉のように根源のようにいつまでも流れ出るようになりますよという御言葉でした。
06:00
ですから私は今日のこの御言葉から次のような教訓を知ることができます。
それは御霊、精霊に満たされた人の霊は渇くことがない、流れ出るようになるということであります。
逆に言いますね。御霊に満たされていない人は渇いている。
渇いているから、つまり枯れているから、流れ出るものがないということであります。
では皆さん、御霊に満たされていない人、渇いている人、流れ出るものがないとの特徴はどんなものでしょうか。
それはその霊が実は乏しいです。
目に見えるものをどれくらい持っているか持っていないか、それとは関係はありません。
いくらたくさん持っていて何の不自由なものがなくても、その霊が乏しい人。
あるいは逆に持ち物もない貧しい経済的に、経済的には乏しいかもしれませんが、
しかしその霊は豊かな人が乏しいというものはどんなものでしょうか。どんな状態なんでしょうか。
もう枯れている、干からびているということです。
溢れ出るものがないということであります。
皆さん、例えば日本も長い間雨が降らなくて、乾発のような時期になったら、水源地のダムの中に水がもうそこが見えるような時もあるんじゃないでしょうか。
水を放流して、飲み水に使ったり畑や田んぼに使う水がないんです。
ダムの中に水がないから流せる水がないんです。
また畑とか田んぼに水がないともう種を植えることもできませんし、そこから野菜であろうが実であろうがそれを刈り取ることはできないんです。
とぼしいから、枯れているから、私たちの霊のことも全く一緒です。
私たちの霊が御霊様によって満たされていれば、生きる水の川が流れ出るようになるでしょう。
しかし逆に我々の霊が御霊様に満たされていない。
09:00
そしたら枯れた状態、干からびた状態、とぼしい状態に続くということであります。
だからそこからは豊かさ、潤し、収穫、実、そういったものは見つけることができないんです。
このように見たまに満たされていない魂のそこから見える特徴はどんなものでしょうか。
ちょっと聖書を開きたいと思います。
新約聖書のガラテア人への手紙、5章、19から21節です。371ページです。
私の聖書では371ページ。新約の371ページ。
ガラテア人への手紙、第5章、19節から21節でございます。
聖書をお持ちの方はご覧ください。私が読みいたします。
肉の行いは明白であって、つまり精霊に満たされていない状態のことを肉の行いと言います。
今から出てくるその特徴は肉の行い、つまり見たまに満たされていない人々から見える特徴であります。
不貧高、汚れ、高職、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、ソネミ、生きどおり、
当破神、分裂、分破、妬み、明定、幽虚、そういった類のものです。
前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなた方にあらかじめ言っておきます。
こんなことをしている者たちが神の国を創読することはありません。
そしてその次に、この有名な22節から23節に見たまの実がここに書かれているわけであります。
つまりこのように皆さん、見たまに満たされていない、イエスの実元に行って、
そこでイエス様を下さるその生ける水で満たされるべきなのに、そうでない人の特徴はこのように満足しきれていない。
何があっても満足できないんですよ。
この前 教師会である先生が 昔の教団の手に召された先生の説教を引用して こういう話をしていました。
何があっても いつも不満な人は その人がクリーチャーで天国にいても不満するかもしれない。
それは神様を見たら 神様は輝きすぎません
12:01
すぎますってはいって それでまた満足しないと。
眩しすぎますよって 見たまに満たされていない人は満足ができない。
そして今自分が持っているもの しかもそれはただのいつかは消え去るこの肉のものなんだけれども
そういったものを失われたらどうしようと思って恐れます。
実は見たまによって 家様の身元にいて そこから満たしていただくべきなのに
それじゃなくて別のものを求めます。
喉が渇いているなら 何を飲んだらいいでしょうか 皆さん。
お水を飲んだり 少なくともお茶を飲んだりです。
そのなのにコーラを飲む お菓子を食べる ジュースを飲む
いくら飲んでもまた渇く。
あるいは見たま様に満たされていないから 自分の思いが神様の思いと見たま様の思いと一致していないので
神の心を上手することに関心を持つより 自分の願いをそれを上手することに関心がもっと強いです。
つまり神のことに関心があるように見えますが 実は肉のことに関心がある。
皆さん いかがでしょうか
この頃何か心配していらっしゃることが 何か終わりなんでしょうか
あるいは何かのために恐れているんでしょうか
ところが皆さん ゆくゆく考えてみますと
私たちが本当に恐るべきものは何なのか
実はそれは自分自身の霊が見たまに満たされて もしいないならばですよ
満たされていないならば それを恐るべきではないでしょうか
あるいは自分は神の国のことに少ししか 関心を持っていない
そしてもっぱら自分の肉のことに 関心が強く持っている
その自分の状態を恐るべきなんです
ですから見たまに満たされていなくて乏しい魂は その霊は満足しない 感謝しない
肉のことに関心が強い
そしてさっきのガラティアの見言葉のように
敵争い ソネミ 生きどおり 分裂 分破に囚われている人であり
15:03
そしたらそういう人々はもうだめなのか そうではありません
だから今日の見言葉に そこにいる群衆にみんな渇いているんです
その霊が乏しいんです
何かに縛られて囚われていて恐れている魂に イエス様は良い知らせを語ってくださいました
誰でも渇いているなら 今まではどうであっても構いませんよ
私のもとに来て飲みなさい
それは生命の満たしを求めて
神によって自分自身の霊が見たまによって 満たされることであります
これこそ私たちの霊が生きる唯一の道であります 他はありません
だから皆さん 自分のことを見て 自分の霊は今渇いているんだと 満たされていないんだ
それが分かる人 そして求める人は 実は本当に幸せな人なんです
なぜなら 今まではどうであっても これから心を直して 精霊の満たしを求めて
そして満たされて そしてその霊が生きるようになる 豊かになる 溢れ出るようになれるからです
今からが過去のことは大事なものではありません
今まで満たされていなかったとしても大丈夫です
今から満たされればいいんです
ですから皆さん 自分自身の霊が 心が見たまに満たされるために 求めていこうではありませんか
そして これはやってもいい なくてもいい そういった選択できるものではないんです
それは生きるか死ぬかという 一番大事なことであります
そして今年 後からまた話をしますけれども この見言葉 2018年度 明太寺教会の兵庫のうるおった
そのような教会という見言葉と一致する見言葉であります 本当に感謝であります
ですから皆さん 今年こそ皆さん お一人お一人が 皆 精霊充満を 精霊の満たしを求めて
それをぜひ経験していただきたいです
これは言葉では説明できるものではないです
例えば アマゾンのどこかの山の山のどこに 奥にいる一度文明に触れたことがない人に
コーラの味を説明することよりもっと難しいことが 精霊の満たしを説明することであります
ところが 聖書に書かれているわけですから 渇いていますか
18:02
自分は実は渇いているのに 気づいていないんでしょうか 大丈夫です
ここに私たちに向かうグッドニュースがあるんです 良い知らせがあるんです
なぜならイエス様は 誰でも渇いているなら 私のもとに来て飲みなさいと
誰でもですよと そうしたら その腹からいける水が 流れ出るようになりますよと
精霊に満たされますよと 約束の御言葉を語ってくださいました
皆さん もしですよ 私たちがもう精霊に満たされたい
自分の腹がいける水の川で 流れ出るようになりたいと思っても
神様がくださらなかったらいくら求めても もうしょうがないんですよね
でも イエス様は私たちに 御霊の満たしを与えたいと願っておられる
いいや 私たちより精霊に願っておられる
そして満たしてくださることが お出来になるという方だから
これこそ良いお知らせ グッドニュースじゃないでしょうか
ところが 今日の御言葉の中で イエス様は38節を見ますと このように語られました
私を信じるものは 聖書が言っている通りに とありますよね
皆さんのお持ちの聖書の中で 下に線があって 脚柱ある聖書お持ちの方は見ますと
聖書が言っているの 聖のところに 聖の文字の上に かっこ1がありますよね
そして下の脚柱の38という数字の下に 〇1 キと書いてあって イジャヤ44-3 55-1 58-2 タと書いてありますね
ありますか 脚柱のある聖書はね
だから ここの三つの箇所を 今から一緒に開きたいと思います
まずはイジャヤ書44章3節 みんな開きましょう イジャヤ書 このヨハネには印をちょっとつけておいて
まずイジャヤ書44章3節に行きましょう 皆さん みんな開いてですね 一緒に読みたいと思います
イエス様が語られた このヨハネの37 38節の御言葉を覚えながら
この旧約の今からの三つの箇所を 読みたいと思います
1196ページですね 旧約聖書の1196ページ イジャヤ書44章3節だけを 一緒に読みたいと思います
21:01
よろしいですか お一緒に
私は潤いのない地に水を注ぎ 乾いた地に豊かな流れを注ぎ
私の霊をあなたの末に 私の死去苦をあなたの子孫に注ごう アメン
そしてもう一箇所 55章1節 1217ページです 1217ページ イジャヤ55章の1節 ご一緒に
ああ 渇いている者は皆 水を求めて出て来い 金のない者も
さあ 穀物を買って食べよ さあ 金を払わないで穀物を買い
代価を払わないで 武道手と乳を買え ここに 渇いている者は皆 水を求めて出て来い
これはまさに アニエス様が 誰でも渇いているなら 私のもとに来なさい 飲みなさいと
その御言葉を このイジャヤ書から 語られたわけですね
それから58章の11節 今年の兵庫の聖句ですけれども イジャヤ書58章11節 開きたいと思います
1222ページです イジャヤ58章11節 ご一緒に
主は絶えずあなたを導いて 灼けつく土地でもあなたの思いを満たし あなたの骨を強くする
あなたは潤された園のようになり 水の枯れない源のようになる アーメン
皆さん イエス様は この御言葉を既に知っている そこの人々 そしてイエス様ご自身も この御言葉を知っておられて
そして彼らに 誰でも渇いているなら 私のもとに来て飲みなさい
そしたら聖書が言っている通りに 溢れ出るようになりますよと語られました
皆さん このイジャヤ書の三つの箇所と 今日のヨハネの御言葉から 神様の心が イエス様の心が読み取れたんでしょうか
何か感じ取られたんでしょうか
皆さん イエス様は私たちに向かって 潤いのない血のような私に 渇いている私に 灼けつく血のような私に
出て来なさいと 飲みなさいと 私たちの名を ずっとずっと 昔から昔から世の初めから 呼んでおられる
24:09
誰々よ 私のもとに来なさい そして飲みなさい
今までは潤いのない血のようであっても かまいません
灼けつく土地のようなものであっても かまいません
かさかさした霊であっても かまいません 主は そんな私たちを どんなふうに変えてくださるんでしょうか
水を注いでくださる 豊かな流れを注がしてくださる 祝福を与えてくださる
そして潤された園のようになり 水が枯れない泉 源のようにしてくださるんですね
本当にですね 晴れるようなんです 感謝のことではないでしょうか
子供だったら やったと言うかもしれない
皆さん ためらうことはありません 恐れることはありません 避けることはありません
イエス様の御元に出てきてください
この頃 何か皆さん おうちに あるいは自分自身に 家庭の中に大変なことが起きているんでしょうか
あるいは まだすっきりにきれいに解決できずに そのままいる心の感情の問題があるんでしょうか
男女夫婦の問題があるんでしょうか
将来のことが気になっているんでしょうか
健康のことは気になっているんでしょうか
それで心配していらっしゃるんでしょうか
子供のことで苦しんでいらっしゃるんでしょうか
自分の進歩のためにもがいているんでしょうか
あるいは精神的なことで悩んで祈っているんでしょうか
これらのすべての問題 課題を解決していただける方法は
イエス様の御元に行って 精霊に満たされることであり
そしてイエス様は満たしてくださると 約束してくださったから
必ず求めるものには満たしてくださる
渇きよう いける水で 渇くことないいける水で 潤して潤してくださるんです
皆さん 失礼ですが女性の皆さん 顔が潤いがないと心配していますか
自分の霊が潤いがないのを 心配しなくならないんですよ 実は
皮膚が肌がカサカサしているな 何のローションがいいなと求めて
テレビショッピングを見ていますか 0120何何何
自分の霊が精霊に満たされるように 自分の霊が潤いがあるかどうか
27:05
自分の霊が もしカサカサしているんじゃないか 埃が立っているんじゃないか
それを見て 御霊様を求めなければなりません
しごろ私たちが自分自身の霊の状態に どれだけ関心があるか それが実は大事なんです
御霊様来てくださいと 私が注ぎますよ 潤してあげますよ 溢れるようになりますよ
それは一回だけではありませんよ 一回きりではない
水の枯れない源泉のようになるように ずっと永遠に流れ出ますよ
あなたから流れ出ますよ そしてあげますねと
イエス様が この朝 あれらにみんな招待して 招いておられるわけなんです
イエス様の御元に来てください 恐れることはありません ためらうこともありません
ところが 旧約聖書の御言葉をちょっと開いて そこをちょっと見ていきたいと思いますけれども
生きる水が流れていくと その川の水が流れていると どんな支度が起こるか
まるで映画を見るように 描いている聖書があるんです
もし思い浮かぶことがあるんでしょうか 私がよく引用する箇所ですけれども
エゼキエル書に行きましょう エゼキエル書 47章 1節から ちょっと長いですけれども
ちょっと説明しながら読んでいきたいと思います
エゼキエル書 47章 1節 1442ページです
ここを見ますと これは 予言者エゼキエルが見た幻なんですね
これはまた 将来への予言の御言葉でもあって 二重の意味があります
一つの意味は 当時の人々に近いうちに起こる予言であります
彼らは国がなくなって 潰されて奴隷に行って バベロンにアシリアに連れられていきましたが
彼らがやがて帰ってくる その回復の予言であります
それからもう一つの意味は 将来に それは遠い将来 イエス・キリストによって起こる祝福
すべての回復の予言であります
まさにイエス様は この御言葉を知っておられて 語られたとわかります
私はこの歌詞をいつも読むたんびに 本当にワクワクするんですね
30:00
そして こうならなくならない こうなりたい こんな墓会ができたらと
こんな家庭になれたらと いつも願って読んでおりますけれども
皆さんもそういう同じ夢を持って 願いを持って見ていきたいと思います
まず このエゼキエルが見た幻は 神殿の敷から水が東のほうへ流れて出ていくんですね
どんどんどんどん水が流れて出ていくんですよ
それ ある人が神殿から千九尾と測って エゼキエルに渡ってみなさいと
そしたら その近いところは 自分の足首ぐらいの高さでした
そして そこからさらに一千九尾と測って また渡ってみなさいと
そしたら 膝まで高さが 深さが来ました
そして そこからもう一千九尾と測って さあ 渡ってみてください
そしたら 腰まで至りました
そこからさらに一千九尾と測って 渡ってくださいと言ったら
もう泳げるほどの渡れない川になって その川がうわーと流れていたんですね
ところが その川が八節を見たら アラバの海に入るとありますね
このアラバの海は今の死海なんです イスラエにある死海 縦の長い死海
そこはもう死んだ海であります
今も死んだ もう塩分が高すぎて 生き物は生きられない 死んだ
その今いる いわゆる死んだ状態のことを意味すると
ところが 神殿から流れている川が 死んだ海に入ったら その海に
そのほとりにどんなことが 起こるんでしょうか 皆さん
まず八節の後半を見ると 海に注ぎ込むと そこの水は良くなるんですね
水が良くなるんですよ そして九節 一緒に見ましょうか 九節だけ
この川が流れていくところは どこででも そこに群がるあらゆる生物は生き
非常に多くの魚がいるようになる この水が入ると そこの水が良くなるからである
この川が入るところでは すべてのものが生きる アーメン
皆さん 不思議なことが起こるんですよ 死んだ海なんです 死んだ魂 死んだものに
神殿から水が この水は精霊の満たしを 精霊の恵みを意味するだけですね
流れていると 死んだ水が 海が生きるようになって 魚が非常に多くなる
それから 女子説から見る漁師たちが集まってくる そして漁ができる たくさんの魚が捕れる
そして その川のほとりには果汁ができて そこから葉っぱも実も豊かになる
33:01
それを食べて それは薬になる みんな生きるようになるということであります
皆さん どうでしょうか? ワクワクしませんか? 愛する皆さん
私たちの魂が何かの課題をかかっていて もしも渇いているなら
死んでいるかのような海になっていたとしても あまり身がなくて資格がなくて
良いことよりトラブルがしょっちゅう起こっている
そんなならば 神殿から神の身元から 流れている精霊に満たされますと
すべてがどうなりますか? 生きるようになるんです
そして それをイエス様が満たしてくださる という約束であります
皆さん イエス様の身元に出てきてください 祈り求めてください
精霊に満たされて 自分の人生が 本当の自分の霊が 神の霊によって潤されるまで
粘り強く祈り求めてください 潤されるまで 満たされるまで祈り求めてください
もう一か所 ちょっと開きましょうか ちょっと斉唱多いんですけれども
ルカノフクイン書 11章9節から13節です ルカノフクイン書 11章9節から13節までですけれども
12節まで私は読みますので 13節はみんなで読みましょうか
新約の135ページです 9節からで読みますね
私はあなた方に言います 求めなさい そうすれば与えられます
探しなさい そうすれば見つかります 叩きなさい そうすれば開かれます
誰であっても 求める者は受け 探す者は見つけ出し 叩く者には開かれます
あなた方の中で子供が うおをくださいと言うときに
うおの代わりに蛇を与えるような 父親が一体いるでしょうか
玉をくださいと言うのに 誰がそそりを与えるでしょう
13節ご一緒にしてみると あなた方も悪い者ではあっても
自分の子供には良いものを 与えることを知っているのです
とすればなおのこと 天皇父が求める人たちに
どうして精霊をくださらないことが ありましょう アメン
皆さん 神に求めれば どうして精霊をくださらないことが ありましょうということです
だから求めれば与えられることです 精霊の満たしを求めれば与えられる
逆に言いますと与えられていない それは求めていないということであり
36:00
皆さん 大事なのはまず自分自身が 見たまによって満たされて潤されておれば
そればその周りがまるで川が流れて 死んだ者が生きるようになったように
自分が潤されて自分の霊が満たされていれば 周りが家族がみんな同じく満たされる
潤されるようになり 生きるようになるんです
お分かりなんでしょうか
ところが逆に自分の魂が渇いている 枯れている 死んでいるようである
乏しくなっている そのままだったらですね 実はそのまま
それを解決しようと思わないまま 礼拝しても奉仕をしても祈っても
何か虚しさがある 乏しさがある
それで神から避ける 御言葉を避ける恐れが襲ってくる
そして心も魂もその顔にも 平安と喜びがなくなる
しかし大丈夫です
イエスの御元に来て求めてください
何が心配でしょうか
神にはすべてを解決できる 精霊の満たし
それをいただいた人は 不可能と書いて それを可能と読みます
精霊に満たされた人は 無しと書いて ありと読むんです
だから法則は簡単です
私が精霊に満たされれば 私の周りの人たちも精霊で満たされる
私が潤されれば 私の周りの人たちも潤される
私が精霊によって生きるようになれば 私の周りの人たちも生きるようになります
願わくは愛する皆さん 一人一人みんながイエス様の元に来て
精霊に満たされるまで 粘り強く祈り求めてください
これを満たしていただかなければならない
そしてすべての問題が 精査に解決できて いつまでもこの肉的な問題で
そればかり心配しなきゃならない状況から それを乗り越えて
神の国のため 福縁選挙のため 進み生き
潤された園のように 水の垂れない源のように なりたいと切に願っております
その信仰を持って求めていこうではありませんか
39:06
メッセージはここまでしまして 今週の木曜日から3月22日まで
皆さんのご理解と またお祈りに感謝して 韓国に選挙国に参ります
願わくは教会は祈りの家と イエス様は言われました
ですから その見言葉通りに 僕しかいなくても 皆さんがもう集まっていただいて
祈りの灯火が消えないように 集まって祈って 集まって賛美していただきたいと切に願っております
むしろ先生いなくても たくさん恵まれましたよと
そう言われるほどになりたいなと
神様が皆さん おりとりでの健康と また心と体を また家庭を またこの教会を平安に満たしてくださって
お守りくださいますように
そして たくさんの良い和歌詞があって 書いてきて ゆん先生 こんなことがありましたよね
そういうような和歌詞がありますように 心からお祈り申し上げます
お祈りいたします
40:16

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