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2023-04-02 35:47

2023/04/02:ロバの子に乗るイエス様

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2023/04/02 聖日礼拝

加藤満牧師

ルカの福音書 -40


00:03
みなさん、おはようございます。
改めまして、今年度より妻の加藤彩奈とともに、
この名谷教会に使わされてまいりました、加藤光と申します。
よろしくお願いします。
簡単に自己紹介だけさせていただきますと、
水曜日にも話したんですが、私は今年で36歳になる人間でして、
身地が実は神戸市の樽見区です。母教会は舞妓の丘教会でして、
実は母校が、高校の母校が私、妻は友川岡高校なんです。
ですから、本当に久しぶりにこのところに、不思議と使わされてきたような実感を持っています。
この付近は学生時代によく通っていたところで、18年ぶりにここに来ています。
正直申しまして、まだまだ何もわからないところがたくさんあります。
そして、皆さんはきっと私よりも信仰歴の長い方々ばかりだと思います。
受け止めていただきながら、ご奉仕をさせていただきたいと思いますので、
ぜひ夫婦ともどもよろしくお願いをいたします。
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
宮谷教会の皆さんと共に、今日からまた主は葵で礼拝をする日々を始めさせていただきます。
何よりも主がこの教会の頭として立ってくださり、
主がこの教会を限りなく愛し抜いてくださっていることを覚えてありがとうございます。
私たち一人一人を主は愛し抜いてくださり、
その愛の現れとして、御子はの十字架へと捧げてくださいました。
その流された血潮によって、私たちの罪がもはや主の前に許され、
それだけではなく、復活の命を私たちにも与えてくださり、
永遠の命、永遠の死と結ばれた命を与えてくださって、
私たちが一人ではなく、死と共に生きる歩みを与えられていること、
あなたはもはや自分の二本足ではなく、私の恵みによって歩みなさいと、
あなたのその恵みの世界へと私たちを招いてくださっていることを覚えて感謝をいたします。
どうか主よ、この礼拝の時にも祈られたように、
あなた御自身が御臨在くださって、一人一人に命の言葉を語りかけてください。
あなたの御言葉によって私たちを正せ、あなたを仰ぎ、
この一週間も主と共に勇気を持って歩んでいくことができるように、
私たちを導いてください。お願いいたします。
祈られたように、ここに集いたくても集えない方々、
03:01
心が離れておられる方々、また体の弱さでここに集えない方々もいらっしゃることと思います。
どうか主は知っていてくださいますから、お一人一人を慰め、
あなたが励ましてくださり、共にまた主を仰ぐことができるよう、
導いてください。お願いいたします。
語る者の唇を清めてください。
あなた御自身が、どうか今日、御言葉を取り継いでくださいますように、
導いてくださいますように、お願いいたします。
全世界で持たれている礼拝のうちにも、あなたが御臨在くださって、
お一人一人が生ける主とのお出会いをすることができるよう、
帰りに来てください。
これからの時をよだねをして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
さて、今朝はシュロの主日というその時を迎えております。
小読みで言うならば、今日からジュナン集というものが始まっていきます。
ジュナン集、今週一週間、ぜひ皆さんに読んでいただけたらなと思って、
ジュナン集の木曽の手引きというものも入れさせていただきました。
ぜひご覧になってくださればとも思います。
ジュナン集というのを、来週イースターを祝いますけれども、
ジュナン集というのはある種、
イエス様がエルサレムに入られてから、
その日々のことを考えるとするならば、
実はそのジュナン集の始まりに、
シュロの主日があるというのは、実にふさわしいことだと思うのです。
シュロの主日というのは、まさにイエス様が、
ご自身の生涯の中で、最後にエルサレムへと入場されていく、
その時の光景、その時の出来事をお祝いするという、
そういう時ですね。
ただ、今朝お読みいただいたテクスト、
おそらく皆さんにとってはなじみのある歌詞かと思いますが、
一つだけ読みながら、
おそらくちょっと不思議な光景があるわけです。
それは何かと言いますと、
エルサレムに入場される際に、
なぜイエス様はロバの子に乗られたのでしょうかということです。
少しだけ、この今朝読んでいただいた歌詞に目を止めますと、
ちょっと異様な騒ぎになっていたことがわかります。
パリ災派の人々がまさに、
イエス様にあなたの弟子を叱ってくださいというほどまでに、
実はこのイエス様がエルサレムに入られるという時に、
イエス様の大勢の弟子たちであったり、
その周りにいた群衆たちが、ものすごく騒いでいるわけですよね。
ここでものすごい騒ぎになっている。
そして騒いでいるだけではなくて、
06:02
上着を引いてイエス様がエルサレムに行かれる道を作るわけですよね。
なんでこんなことをするのでしょうか。
言い方を変えるならば、
ある地方で有名に力を持って奇跡を起こしてきた人が、
エルサレムという都に入るという出来事じゃないですか、
簡単に言うならば。
でもそれだけにとどまらない騒ぎがここで起きているということなんですよ。
なんでこんなことが起きているのか。
これはおそらく一つ言えることは何かと言いますと、
当時のユダヤ人たちにとって、
イエス様がエルサレムに入られる光景というのは、
ああ、あの出来事が今起きているんだということを、
彼らは見ていたということです。
何か彼らが持っている一つの期待と言いますか、
イメージと言いますか、
そういうものをイエス様がエルサレムに入られる光景に重ねて見ていたんです。
ああ、あれが今起きている。
じゃあ、一体何が起きているとユダヤ人たちは思ったのでしょうか。
それは何かと言いますと、簡単に言うならば、
王が王の都に帰還したんだという光景を見ているわけです。
王が王の都に帰って来る。
今日、群衆たちが叫んだ言葉、38節に書いてありますが、
こう叫んでいますね。
祝福あれ、主の皆によって来られる方、
また王に、天に和平和があるように、
栄光が意図高きところにあるようにと。
主の皆によって来られる方、王にと。
王が来られた。
王が帰って来られた。
彼らはそのような期待の中で、ものすごく大騒ぎをしたと言いますか、
喜びの騒ぎをここにしたということです。
ちょっとだけややこしいことをお話します。
この時代の背景のことをお話しさせていただきますと、
この時代のユダヤ人たちにとっては、実は彼らは何百年にもわたって、
他の外国の人たちに支配されている生活を続けていました。
ユダヤ人たちというのは、いろんな国の人たちに支配をされて、
この時代はローマ帝国という国に支配をされていました。
彼らの悲願といいますか、絶望していたのは何かと言いますと、
まさにダビデ王のような、私たちのユダヤ人の王を神が再び立ててくださって、
王の都に帰ってきて、そして王の都でまさに私たちを支配している外国、
ローマ帝国ですよね。
その人々を追い出してくれるんだという期待が彼らの中にはあったわけです。
ですから彼らはとても騒いだ、とても喜んだ、
王が帰ってきた、王が来られた。
09:02
イエス様の道作りをしたのは、まさにそのような期待の現れでした。
ただ、このように見ますと、やはり不思議なわけです。
それはなぜかというと、
普通王様というのは都に帰ってくる時には、ロバの子には乗らないんですよ。
王様が自分の都に帰ってくる時に乗る乗り物というのは基本的には馬です。
馬というのは当時の社会においては兵器なんです。
今でいうと戦車です。
この馬に乗って帰ってくる王様というのが大事なんですよね。
馬というのは力ですから、武器ですから。
だから、私は力のある王様なんだということを誇示するために、
普通は王様は馬に乗って帰ってくるんです。
でも、イエス様は王であるにもかかわらず、
ここでロバの子に乗って帰ってこられたというのが、
実はとても大事なことなんです。
主が強いて求められたわけですよね。主が老いるようなのです。
私はどうしてもロバの子に乗ってここに帰ってこなければならないと、
ご自身で定めて帰ってこられた。
そのことにとても大きな意味がある。
じゃあ、ロバの子に乗る王様ってどういうことなんでしょうか。
ちょっとだけ旧約聖書を見ますと、
ゼカリア書というところにロバの子に乗る王様のことが書かれてあります。
旧約聖書のゼカリア書、旧書の旧説というところに、
旧約聖書の1621ページの下の段にあります。
ゼカリア書旧書の旧説ということを、
ちょっとお読みいたしますと、こういうことが書いてあります。
娘シオンよ、王位に喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
みよ、あなたの王があなたのところに来る。
儀なる者で勝利を得。乳話な者でロバに乗って。
メロバの子であるロバに乗ってという言葉があります。
イエス様はおそらくこのことを成就としてなさったのだと思いますけれども、
乳話な者なのだ、ロバの子に乗る王様というのは、
乳話な王様なのだということをここで言っているわけですね。
ロバの子に乗る王様は、馬に乗る王様のように力を誇示する、
12:01
力を振り回す王様ではなくて、乳話な王である。
そのことをはっきりと示すためにイエス様は、
ロバの子がイリ王ですと言って、乗ってエルサレムに入られたということなんです。
でも乳話の王様ってどういう王様なんでしょう。ちょっとわかりにくいですよね。
乳話の王様とは一体どういう王様なのでしょうか。
ロバの子に乗るイエス様とは一体どういう王様なのでしょうか。
今朝はこのことから二つのことをご一緒に受け止めさせていただきたいと思うのです。
二つのことをご一緒に見ます。
一つはロバの子に乗るイエス様は、平和を実現する王様であるということです。
ロバの子に乗るイエス様は、平和を実現する王様である。
そしてもう一つ、ロバの子に乗るイエス様は、
私たちに平和を実現する方法を示しているということです。
ロバの子に乗るイエス様は、私たちに平和を実現する方法を示しているということです。
一つ目のことを見ていきますけれども、ロバの子に乗るイエス様は平和を実現されたわけです。
ちょっとこの入場した後のことを少し想像しながらお話を聞いていただけたらと思いますけれども、
誠の王としてイエス様はエルサレムに入場なさいました。
皆さん思い出していただきたいのですけれども、
じゃあ誠の王として入場されたイエス様は、エルサレムの人たちに歓迎されたでしょうか。
王様万歳と言われたでしょうか。
エルサレムの人々は、王に従う国民のようにイエス様に仕えたでしょうか。
残念ながらそうではありませんでした。
例えばイエス様が神殿の境内の中で教えておられるときに、
イエス様の側にはいつも敵対していて、イエス様を訴える口実を探している人たちがいましたよね。
そしてイエス様の弟子の一人であるユダが、まさにイエス様を裏切ってしまいます。
その裏切りによって、まさにゲッセマヌの園でイエス様が祈っておられるときに、
ローマ兵たちがイエス様を捕らえに来られたわけですね。
このことをきっかけに、まさにイエス様の弟子たちはユダだけではなくて、
他の弟子も全員イエス様を裏切っていかれました。
そして捕らわれたイエス様は、ローマ帝国と共に地域を支配しているヘロデオ王という王様のところで侮辱をされ、
兵士には骨が見えるほど鞭打たれ、そして茨と冠の衣を着せられたということです。
15:12
まさにユデイ人の王という体裁を整えられるわけです。
冠をかぶらされて、そして衣を着せられて、ほらお前王様だって騒がれてたじゃないか。
いいだろう、これがお前の王様の姿だというふうに、そのように姿を整えられる。
そのようにまさに茨の冠と衣を着せられたイエス様の姿を見て、
イエス様が王様になってくれると期待していた人たちはがっかりするわけですね。
イエス様を釈放する代わりにバラバの釈放を求めて、イエス様に向けてはまさに十字架につけろと叫び始めました。
おそらくこれは先ほどイエス様がエルサリムに入場するときに、
イエス様万歳おこさなと言っていた人たちときっと同じ人たちです。
イエスが王となってくれて、エルサリムでローマ帝国を追い出してくれる、それを期待していた。
でもイエスは簡単に捉えられて冠をかぶせられて嘲笑されて、ああ期待はずれだ、がっかりした。
いわば勝手に自分の理想を押し付けて期待をし、自分の理想通りでなければ勝手に失望する人々、そういう人々なのかもしれません。
そのような人々の要求によってイエス様は十字架につけられる。
まさに手足を釘で打ち抜かれ、十字架の板に貼り付けにされ、
簡単に死ぬことが許されないという、ある種極刑を受けて残酷な刑に処されるわけです。
ここまでお話をしながら、私たちが思い出さなければならないことは何かと言いますと、
イエス様は王様なんです。この事実は変わらないんです。
イエス様は王である。
しかし、王に対し国民であるイエス様の弟子たちであったり、指導者であったり、
民衆がしたことは、王に従うことだったかというと、そうじゃない。
全く王には従わない。むしろ真逆です。
裏切り、暴力、侮辱、嘲笑、自分の理想通りでなければ死ねばよい。
普通の王様であれば、そのような国民をどのように扱うんでしょうかね。
きっと許さないでしょう。きっと力ある王様であれば、
そのような国民をきっと呼び出して裁判にかけて裁き、原罰を加え、
もしかしたら命を奪うということをするのが当然かもしれません。
18:02
しかしながら、実はイエス様はそうはなさらなかった。
なぜなら、イエスキリストは入穴王だからです。
イエス様はどうなさったでしょうか。
イエス様が十字架上で言われた言葉が一つあります。
私の救いのきっかけになった言葉でもありますが、こういう言葉です。
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。
ルカナ福音書23章の34節というところで、
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。
王であるイエス様ならばきっと、
力によって裁きを加え原罰に処死、そのような人々を滅ぼすこともできたでしょう。
他の福音書でもそういうこと書かれていますよね。
天の軍勢をここに呼ぶことだってできる。
でもそうはしない。
入穴王であるイエス様は、
ご自身を傷つける罪人であったり、
ご自身に歯向かう人々に対して、
力で裁くこと以上に、
その人たちを愛することを望む王様であるということを言っているわけです。
そして愛するが故に、正しく裁かれたら滅びるかもしれない人々の代わりに、
自らが代わりにその裁きを負ってしまうような王である。
それはどんなにイエス様という王を拒もうとも、
イエス様という王を傷つけて、十字架につけて、
知らないふりをしようとも、
それでも私はあなたを許し、あなたを愛すると言われる。
それが入穴王であるイエスキリストというお方なんですね。
私は以前、いくつかの教会でご奉仕をさせていただきましたけれども、
一つ教えられたことがありました。
その教会で、月に一回伝道礼拝をさせていただいていたんですね。
教会員の方がご近所の方を呼んで、ご近所のご夫人の方々がよく来てくださって、
短く伝道礼拝をして、午後にお茶しながらバカバナ菓子でわーっと騒いでいたんですけれども、
本当によく熱心に質問してくれるご夫人が一人いました。
この方はクリスチャンではないんですけれども、
よく私に向かって、先生、最近私困ったら、まだ信じているわけではないんだけれども、
心の中でイエス様って叫んでいるの。
先生、お祈りってそれでもいいってことを聞かれて、いいですよ。
あなたがイエス様と叫ぶときに、あなたの心の中にある思いすら、イエス様を受け止めてくださっています。
21:00
主は聞き上手なんです。だから安心して、イエス様って叫んでいいですよってことを言ったり。
そういうことをしていたんですけれども、
その方があるときこういうことを言われたんですね。
先生、十字架のお話を教会でたくさん聞く中で、
なんか教会の十字架が立ってますよね。十字架ってすごく無言らしい形ですよね。
あそこの手を開いて、またに釘を打たれて。
でも先生、私最近、教会の十字架を見ると、
血を流した神様がこうやって手を広げて、私を待っているように見える。
私をこうやって抱きしめようとして、抱きしめる前に胸を開いて、手を広げて待っているように見えるんだけど、
先生、この理解っておかしいかなと私は聞かれたんですよ。
皆さんどう思います?
私はそれを聞いて、なるほど、そう言えるんですかね。
そうです、そう、そう、そうですよね、と私はちょっと納得させられたところがありました。
牧師はクリスチャンじゃない方に教えられるんですよ。
そのところで、そうかって改めて思わされる。
十字架の愛って何なんでしょうね。
私たちは神様の前に正しくあるということがとても大事なんですよ。
でも最初の神様の愛はどこから始まっているのかと言いますと、
それは私たちが神様を十字架につけているんですよ。
否んでいるんですよ。
イエス様のことを嫌いだって言って離れているんですよ。
あんな奴知らないって言っているんですよ。
でもそのような私たち一人一人の現実を見つめて、
イエス様はそれでもあなたを愛するって言ったんでしょう。
十字架ってそういうことですよね。
それでもあなたがどんな状態であったとしても、
あなたが今私を拒んでしまったとしても、
私からあなたに対する愛は変わらない。
絶対に変わらない。
それが十字架というものが示しているものです。
教会は十字架を掲げるんです。
絶対に掲げるんです。
それは私たちがいつまでもこの愛から始まるためです。
神がこんな私ですら今なお愛し続けてくださっている。
私はもうだめだ、神様から離れている。
でも違う。
あなたのすべてを見ても私はあなたをなおも愛している。
そういうから私たちはここに安心して集うことができるし、
自分は限界があって弱さがあるなということを知りながらも、
主の愛を信じながら、
あなたにも弱さがありますよね、限界が。
限界が大丈夫でも神様はあなたのことも愛しておられるんですよ。
そう言えるわけじゃないですか。
24:04
教会は十字架を掲げます。
それはどんな人であっても神は胸を広げて待っている。
愛を示しているということではないでしょうか。
信仰とはイエス様が神様が表明している愛を受け止めることでしかありません。
そして聖書が語るのは、その愛を自分への愛として受け取ったならば、
あなたはもう一人ではない神の子とされ、
神があなたと共に歩んでくださる、
そのような人生が始まると私たちに語る。
ニューワノ王は罪人を裁くのではなく、
代わりにご自身を十字架において裁くことを通して、
ご自身の愛を示し、
神と私たちの間に平和を築いてくださった。
十字架を通し、私たちは知るわけです。
あなたがどうであっても、私は今なおあなたを愛している。
そのことを私たちも当たり前のことかもしれませんけれども、
なおも最初の愛に帰りながら受け止めさせていただきたいと思うのです。
さて、もう一つのことを見て終えたいと思いますけれども、
もう一つご一緒に今朝確認をしたいことは、
ロバの子に祈るイエス様は、
平和を実現する方法を示してくださったということです。
これはここまで見たら多くを語る必要もないかもしれません。
イエス様を受け入れた一人一人は、まさに神の子とされています。
神の子という言い方もありますけれども、
もう一つ言い方を変えるならば、
私たちはそれによって、イエス様の弟子になったと言えますよね。
イエス・キリストの弟子にそれぞれがなった。
弟子になったということは何かと言うと、
イエス様の生き様に習うものとなっていったということです。
ではこれまで見てきた話から、
私達はイエス様の生き様に習うことができるでしょうか?
どのような姿をイエス様の姿から 習うことができるでしょうか
それはニューワナ王であるイエス様は
力で罪人を裁く以上に 愛することを望まれたということです
もっと少し言い方を変えるならば こう言えるかもしれません
私なりの解釈です こういう言い方ができるかもしれませんね
私たちはイエス様の愛に習って
まず剣を置いて相手を見つめることを 始めなければならないということです
剣を置いて相手を見つめることを 始めなければならない
例えばの話をしましょうか
私たちが 教会も一つの交わりですけれども
それは親子関係であったり もしくは夫婦関係でもそうですけれども
27:04
誰かと共に生きていくということは 簡単ではありません
本当にいろんな戦いがあります
時にはその中で仲違いをしますよね
緊張感が走って 相手が自分を傷つけるようなことを 言ってくるかもしれないと思うかもしれません
その時に私たちがよくすることは何かと言いますと
心の中で剣を研ぐんですよ
あの人がこう言ってきたら こう言い返してやる
いや私は間違っていないんだ 私は正しいんだ
そういうふうに私がこれ以上傷つかないための 剣というものを研ぎ始めるんですよね
そしていざ何かぶつかる瞬間が パーンと火花が散るときになったら
よっしゃ待ってましたって そこで剣をポーンと持ち出して
相手と斬り合いを始めて
それでその斬り合いが終わった後に勝ったら
やった私の勝利だ 私の平和が訪れたって言うんですよ
そういうことってないでしょうかね
いいと言うならば先ほどちょっと 戦争のことを祈っておられました
その通りだと思います 戦争でもそうですよね
とにかくロシアの戦争があります
本当に平和が少しでも早く迎えられるようにと 願いますけれども
例えば仮にウクライナが勝ったとしましょう
いろいろな国が支援をしてくれて ウクライナが勝ちました
そしたら私たちは喜びます
ウクライナに平和が訪れた
でも勝った国があったら 負けた国があるわけですよね
負けたロシアといいますか 負けた国はどうなるんでしょうね
おそらく戦争で負けるということは
何百年ものを払わなければならない 負債を抱えるんです
その負債は国民に強いられるんです
ロシアの人たちは貧しく生きている間 生きていけなければならない
貧しさがまたこの世界に一つ生まれる ということになるのかもしれない
マタイの福音書というところで
ゲッセマネの園で兵士に囲まれる中で
ペテロがローマ兵に斬りつけますよね 剣で
その時にイエス様がこういう言葉をおっしゃいました
マタイの福音書の26章の52節というところに こういう言葉があります
剣をもとに納めなさい 剣を取る者はみな剣で滅びます
剣をもとに納めなさい 剣を取る者はみな剣で滅びます
これはとても大事な言葉だなぁと思わされます
剣を取った時点で私たちが築ける平和というのは何かというと
私の平和なんです
剣を持って戦って相手に勝って築けるのは私の平和です
でもそれは相手にとっての平和じゃありません
傷つけられたら 言い合いになって 負けたら
なんか私の方が間違っていたかもしれない となりますけれども
30:03
でもやっぱり私の平和が実現する
私の平和を築いたらいいんでしょうかね
教会は正しいことを語ります
これは聖書の言葉を語っていきます
でも私は時々思うのですが
正しさや正義というのはとても大事なんです
でも扱うのが難しいんです
とても難しい
本当にいいことなのだけれども
人を傷つけて終わってしまうだけのことになってしまうかもしれない
私の平和をどうやって築くかではなくて
実は私たちが考えなきゃいけないのは
私たちの平和はどうやったら築けるかということですよね
私たちの平和をどうやったら築けるのか
それはまさにイエス様が今回歩まれた歩みにすごく現れていると思うんです
先ほども読みましたがイエス様は十字架上でこう言われました
父よ彼らをお許しください
彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです
イエス様は傷つけられたら
剣を持ってやり返してよかったわけですよね
でも剣を持ってやり返すのではなくて
イエス様がなさったことは何かというと
父よ彼らをお許しください
彼らは自分が何をしているのかが分からない
イエス様は十字架の上で自分を釘付けた人たちを見ているのです
彼らは自分が何をしているのかが分からないぐらいに分かっていないのだ
どれほど自分が罪深くて自分が過ちを犯しているかすらも分かっていない
でもそう分かっていない彼らのことを見つめて
だから父よ捌いてくださいではなかった
父よ彼らをお許しください
そう祈られる
それは相手が自分を傷つけるときに
相手と相対するときに
相手に剣を持って応酬しようと剣を解くことではなく
相手がどういう状況なのかを理解しようとする姿勢ではないかなと思うのです
私なりに表現しますと
こういう言い方になりますね
自分を傷つける人がいる
何か分からないけれども怒る人がいる
その人にすぐに剣を抜き出したくなる手があるんです
いや俺は間違ってないお前に言っていることの方がおかしい
でもその手を少し抑えるんですよ
少し抑えて
少しでいいから抑えて
この人はなぜこういうことを言うんだろうと
相手を見つめることが必要なのではないでしょうか
何か私が彼を傷つけるようなことを言ったのだろうか
33:04
もしかしたら彼女が私に怒っているのは
私ではなくて私の背後に見ている誰かに対して怒っているのかもしれない
分からない分からない
でも分かろうとしなければならない
エペソビという手紙の4章の15節というところにこういう言葉があります
短い言葉です
それは愛をもって真理を語りなさいという言葉です
愛をもって真理を語りなさい
これとても大事なんですね
真理を語ることは言い方がちょっと雑ですけど簡単なんです
正しいことを言うだけならば私たちは簡単です
でも愛をもって真理を語れ
聖書はこの世界にいずれ正しい裁きが訪れるということを述べています
主が再び来られるときにこの世界は正しく裁かれます
でもこの世界に正しい裁きを下される前に
主は御子イエス様をこの世界に下された
これはすべてつながると思うんです
愛をもって真理を語れ
正しい裁きを下す前に
まず私たちは相手を愛することを見なければならない
私の平和ではなく私たちの平和を築く
それはとても大変なことですが
そのために悩むようにと私たちは招かれていると思います
なぜならイエス様は力を誇示する馬を選ばれたのではなく
乳羽を貫くロバの子を求められたからです
主が御利用なのですとロバの子に乗る道を求められたからです
私たちはそれぞれ限界があります
愛するということであったり
人と向き合うときに剣でぶつかりたくなるという思いが私にもあります
でもそのたびに私たちは主の前にひざまずくわけじゃないですか
どうか剣を一個置かせてください
この人に剣を振るうよりも
まずこの人が何でこういうことを言うのかを見つめる勇気と心のゆとりをください
そのところから実は気づかれる愛がある
私たちがきっと聖霊様によって変えられるべきところはそういうところだと思うのです
父たる歩みです
でもその小さなところから私たちは
イエス様に習うものとして歩ませていただきたいと願うわけです
ちょっと長くなりましたが一言お祈りをしてメッセージを終えさせていただきます
35:47

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