1. 名谷教会
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2011-03-13 32:04

2011/03/13:聖日礼拝(旧音源)

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2011/03/13 聖日礼拝(旧音源)


00:03
マターによる福音書、13章の24節から拝読いたします。
イエスはまた、別のたとえをカエダに示して言われた。
天の御国は、こういう人たちにたとえることができます。
ある人が、自分の畑に良い種を蒔いた。
ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった。
麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
それで、その家の主人の下人たちが来て言った。
ご主人、畑には良い麦を蒔いたのではありませんか。
どうして毒麦が出たのでしょう。
主人は言った。
敵のやったことです。
すると、下人たちが言った。
では、私たちが行って、それを抜き集めましょうか。
だが主人は言った。
いやいや、毒麦を抜き集めるうちに、麦も一緒に抜き取るかもしれない。
だから収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は軽い人たちに、まず毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦の方は集めて、私の蔵に収めなさいと言いましょう。
イエスはまた別の例えをかえらに示して言われた。
天の蜜には枯らし種のようなものです。
それを取って畑にまくと、どんな種よりも小さいのですが、
成長するとどの野菜よりも大きくなり、
空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。
イエスはまた別の例えを話された。
天の蜜にはパンダネのようなものです。
女がパンダネを取ってサンサトンの粉の中に入れると、全体が膨らんできます。
イエスは小屋のことをみなたとえで群衆に話され、
例えを使わずには何もお話にならなかった。
それは、預言者を通して言われたことが成就するためであった。
私は例え話を持って口を開き、世の始めから隠されていることごとどもを物語ろう。
それからイエスは群衆と別れて家に入られた。
すると、弟子たちが身元に来て、畑のドクミギの例えを説明してくださいと言った。
イエスは答えて言われた。
良い種をまく者は人の子です。
畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、ドクミギとは悪い者の子どもたちのことです。
03:08
ドクミギをまいた敵は悪魔であり、収穫とはこの世のワインのことです。
そして、狩り手とは見つかえた種のことです。
ですから、ドクミギが集まれて火で焼かれるように、この世の割もそのようになります。
人の子はその見つかえた種を使わします。
彼らはつまづきを与える者や不法を行う者たちを皆、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。
彼らはそこで泣いて、激しりを激しりするのです。
その時、正しい者たちは、かれらの血の御国で、太陽のように輝きます。
耳のある者は聞きなさい。
では、聖火体によって303番を賛美した後、高鳥先生に、麦とドクミの例えと題してメッセージを語っていただきます。
聖火体によって303番を賛美した後、高鳥先生に、麦とドクミの例えと題してメッセージを語っていただきます。
聖火体によって303番を賛美した後、高鳥先生に、麦とドクミの例えと題してメッセージを語っていただきます。
06:06
聖火体によって303番を賛美した後、高鳥先生に、麦とドクミの例えと題してメッセージを語っていただきます。
聖火体によって303番を賛美した後、高鳥先生に、麦とドクミの例えと題してメッセージを語っていただきます。
安らげ わが子供
月日の 憂鬱より泣き
みずりが やがて来たら
憂いは 永遠に消えて
みかおが ほぐる
みたちの さちもぞうへ
おはようございます。
11日に、皆さんご存知のように東日本巨大地震が起こり、大変なことが起きております。
皆さんも心痛みながらテレビを見ておられたことと思います。
私も本当に画面を見ながら、つらい思いをいたしました。
皆さんのご親族やお知り合いの方々は大丈夫でしたでしょうか。
神様の特別な助けと守りがありますように、お祈りをいたします。
今、しばらく心を合わせて、被災されている方々のためにお祈りをさせていただきたいと思います。
どうぞ、その場でお祈りをお願いいたします。
どうぞ、ご祈りをお願いいたします。
どうぞ、私を助けてください。
どうぞ、神様よろしくお願いいたします。
09:02
どうぞ、神様にお祈りをお願いいたします。
どうぞ、私を助けてください。
どうぞ、神様にお祈りをお願いいたします。
どうぞ、私を助けてください。
どうぞ、神様にお祈りをお願いいたします。
どうぞ、神様にお祈りをお願いいたします。
どうぞ、神様にお祈りをお願いいたします。
天皇、地位のある神様。
今、東日本で本当に大きな地震と津波があり、多くの方々が苦しみ、悲しみ、つらい思いをされています。
神様、あなた様はそれをご存知です。
どうぞ、そのお一人お一人の家に神様からの慰め、また励まし、
また、神様のどうぞ慈しみ、また、本当に主よ、ご自身のご愛を豊かに添えてくださることを切にお祈りをいたします。
慰めを豊かに与えください。
また、どうぞ速やかなる救援の業がなされ、
どうぞ、本当に主よ、一人でも多くの方が助けられることができますよう、よろしくお願いいたします。
どうぞ主よ、この日本の国を憐れんでくださり、助けてくださることを切にお願いいたします。
私たちは本当に主の御前にお祈りを捧げます。
どうぞそのお祈りを応えてくださって、神様そのご自身がどうぞ主よ、助けの御手を、また、神様の本当に大きな慰めを、
神様どうぞ天の如くに添えてくださることをお願いいたします。
すべてを主に与えます。
どうぞ主よ、ご自身が望んでください。
どうぞ多くの方々に、本当に主からの慰めが豊かにありますように、
イエス様のお名前によって信じてお祈りをいたします。
アメン。
それでは今日読んでいただきましたこの御言葉のところを、
共に学んでいかせていただきたいと思います。
イエス様は私たちを愛してくださっております。
イエス様の私たちに対する愛は非常に高く、長く、広く、深いものであります。
イエス様の愛は十字架にあらわされておりますけれども、
イエス様はとうとう命まで押してくださって、私たちを愛してくださいました。
その愛の配慮をもって最後まで私たちを導いてくださいます。
主は種まきのたとえに続いて、麦と独麦のたとえを話されました。
このたとえはいつでもどこでも通用するところの普遍の変わることのないその真理を私たちに伝っています。
そして神の国が体験してきた歴史的な出来事をたとえでイエス様は話しておられます。
12:07
いくつかのことを私たちは教えられます。
自分の畑に良い種をまく農夫がおりました。
ある晩農夫が眠っているうちに敵が来て、麦の種をまいたその畑に独麦の種をまいていきました。
ファレシナの農夫にとってこの独麦は頭痛の種であります。
独麦は細麦と呼ばれる一種の雑草であります。
若い時は麦と非常によく似ています。ほとんど見分けがきません。
子が出てきて初めてその違いがわかってまいります。
26節に麦が芽生え、やがて実ったとき独麦も現れています。
独麦が現れていたのは敵の仕業。神様の敵は悪魔サタンであります。
悪魔が独麦、すなわち38節にありますように、独麦とは悪いものの子供たちのことですとあります。
この悪いものの子供たちをまいていきました。
神の敵は世界というその畑に独麦をまいて、神の業に対して積極的な嫌がらせ、妨害をいたします。
神に敵対しているため強力な悪魔の仕業が起きてきます。
神の業に対する様々な妨げ、これがためになかなか福音が進展していくことができません。
伝道の困難は神に敵対している悪魔、このサタンの妨げがあらゆる方面に及んでいるからであります。
この日本のプロテスタント教会の伝道は2003年で150年になりました。
最初は一人のクリスチャンもいないこの日本の国でありましたけれども、今では約100万人のクリスチャンがいると言われています。
そして日本のほとんどの市町村のうち、主に市や町に教会があります。
しかし日本のクリスチャン人口は1%にも及びません。
この日本において伝道は本当に困難であることを思わされます。
日本人の心は仏教によって覆われています。道家の寺の段下であり、その寺とのつながりは昔から続いています。
また神道の宇治湖でもあります。寺とその神社によって人々の心はとらえられています。
それに加えていろいろな信仰宗教があります。
また優仏論や無神論による教育の浸透、実に日本人は霊的精神的な渇きが失われています。
政治、経済、教育、そのほか全てのところにもこの悪魔のいろいろな働きがあり、国の御業が阻められています。
15:03
しかしイエス様によって神の国の到来はすでに告げられています。
神の御言葉のダイナマイトのような威力は否定することができません。
ですから世界的視野で見るならば、この世界のクリスチャン人口はこの3分の1、20億人以上いるとそのように報告されています。
神の国は小さいところからなお大きくなっていきます。内部から成長して大きくなっていきます。枯らし種のようであります。
私がイスラエルに旅行いたしました時にラザロのいたベタニアに行きました。
その時一人のアラブ人のおじいさんが日本語をどこで習ったのか、枯らし種、枯らし種と言いながら1ドルでその枯らし種を分けてくれました。
その種は本当に小さい、針の穴のような小ささであります。
その近くにラザロを記念した教会がありまして、その庭に枯らし種の木が植えられていました。
イエス様がおっしゃっているように3メートルくらいはある大きな木、細い木でありましたが、本当に鳥が止まることもできるそのような木でありました。
イスラエルではこの枯らし種は小さいことの代名詞になっています。
私たちは自分の信仰が枯らし種のように小さくても、これといって嘆いたりする必要は全くありません。
たとえ枯らし種のような見る影もない小さな信仰でありましても、もしそこにキリトの命をしっかりと宿しているならば、必ず命あるものは成長してきます。
芽が出て花が咲き、実を結ぶようになります。神様が成長させてくださいます。
また、パンダネの例えのように、この33節、イエスはまた別の例えを話された天皇ミクにはパンダネのようなものです。
女がパンダネを取ってサトンの粉の中に入れると全体が膨らんできます。
キリトの福音は大きな変化をもたらすものです。個人の生活が正しくされ、整えられてきます。
神を信じる生活は神の御心にかなう歩みへと変えられ、強い歩みを神と人に喜ばれる歩みへと変えられて、家庭も祝福されてくるはずであります。
大阪のある夫婦は、犯した過ちのために二人の子供を抱えながら、離婚かもしくは一家親従かと、破滅寸前まで追い詰められておりました。
ところがある日ふと聞いたキリトの福音放送をラジオで聞いて、心を本当に光めして、そうだ、聖書を学んでみようと、そのように思い立ち、聖書を学び始められました。
それでついにキリトの十字架の愛に触れて、離婚や危機的な状況から救われました。それからは戦い、クリスチャンフォームを築くようになられたといいます。
18:02
キリトの福音は地域や社会をも変えていく力を持っています。このように福音そのものの持つ威力は失われてはおりません。しかし現実は伝導は困難です。
悪魔の技は少しも衰えるどころか、ますます激しくなっています。
良い種である身国の子供たち、クリスチャンを滅ぼそうとして待ち構えています。サタン悪魔は実に巧妙であります。
イエス様はヨハネ福音書の八章四十二節から四十七節で、悪魔について第一に彼は人殺しである。第二に真理に立っていない。第三に偽り者、偽りの父であるとそのようにおっしゃっています。
ですから悪魔の奴隷である特命の人々は心に憎しみを抱いていて真理に立つことができません。嘘を偽りに生きています。
しかし私たちは貴人に属する者、神の子供であります。良い麦として敵悪魔のこうした力を知り、敵に打ち勝つ術を心得ていなければなりません。
それはどんなことがありましても、何でも神様に従う、神様に復讐していくということが大事であります。
薬房の手紙の中にも神様に従うならば悪魔は終毒であろうとそのように言われています。
神の御言葉を心に蓄えて、神の御言葉により賜る貴人の血と主の皆によって敵に立ち向かうことによって私たちは勝利を得ることができます。
またエピソード1の手紙の6章にありますように、神の武具を身につけて、諸刃の剣である御言葉を持ってなお戦っていく。
そのようにするときに私たちは勝利することができることをこのパオロも教えています。
麦と毒麦、苗の時は互いに似ているため見分けることができません。人間も外側の姿だけでは見分けがつきません。
政治家、実業家、教育家、そのほか社会的には地位があり立派な人であっても中には悪いことをしている、そういう人もいるかもしれません。
そうすると次々に明るみにそれが出されて、意外思いをしなければなりません。
様々な事件や出来事が起こり隠されていることが次々と暴露されていきます。
何もないときはあの人は本当にいい人だと思っていても、何かあるとその人の過去まで知ることになって、なんだあんな人だったのかというようになります。
人は上辺しか見ることができません。表面的なところしか見ていないので仕方ないといえばそうでありますが、その人自身その人格を見て知るということが求められます。
人はそれぞれに職業や地位や財産のあるなしによって判断することができません。
私言うけれども良い人もいるでしょうし、その反対に富んでいるのに悪い人もいるかもしれない。
21:05
だから上辺を見て判断すると失礼なことをしてしまいます。
そうにしても私たち人間はいかに人の上辺を見やすいものであるかということを思います。
聖書の言っている通りであります。けれども神は人の心を見られます。
神は人の心の中をもご存知なので、いつも正しい見方をしておられます。
しかし私たちはどの人が良い人で、どの人が悪い人なのか、その区別をすることはなかなかできないということを知らされます。
私たちは人を正しくその人の心まで知ることができないからです。
基督教会の中にもいろんな教会がありますので、中に入ってみないとその区別をすることができません。
聖書信仰に立ち、人心情を唱えている教会は十字架を掲げているプロテスタント教会でありますので、まずそう違うことはありません。
けれども聖書は使っているけれど、人心情を唱えていないばかりか、
仏教の教えを取り入れて全く信仰が混ざってしまっているという、そのような教会もあります。
外側を見たらいかにも基督教会であるかのように見せていますけれども、
中に入ってみると聖書信仰にはほど遠い、そんな教会もあります。
異端であるならばすぐわかりますが、そこまでもいかない。
けれども異端に近い教会、それが正しいと思っている人は、仏教と混ざり合っている教えが基督教であると信じて、そのような教会に通っています。
区別がつきにくいため、正しい信仰を持った人がいないと、全くその間違いがわからないわけですね。
また、基督教会に来られている人の中にも、救いをはっきりと明確に受けられていない、
神聖の経験のない方もおられるかもしれない。
以前の教会にいたとき、そのような方がおりました。
信じたいけれどなかなか信じられない、
求道者として礼拝を守っている人は仕方ありませんが、
別に求道しているわけでもないのに、ただ本当に礼拝に来られている、そのような方がおりました。
しかし、どんなに教会に来られていても、個人的に、
罪を本当に悔やためない、その人は本当に無義になる、
すなわち、見栗の子供になることができません。
皆様はファイサイ人に対して、
彼らは本当に独無義になりかねないと、そのように見ておられました。
神の言葉を彼らは知っておりましたけれども、
その生きた信仰がなかったので、
その生活は全くこの御言葉にかなったものではなかったんですね。
私たちは神の御前に罪を告白し、
系統の十字架の秩序によって罪の許しを確信し、
新しく本当に生まれ変わらせていただいて、
神の子としての身分をはっきりさせていただく、
そしてこのクリスチャンとしての信仰生活を日々送るものであらせていただきたいと思います。
十七節から三十節を見ますと、
無義と独民が反映したとしても、
24:01
それを急いで抜き集めないようにとイエス様は言われています。
すなわち急いで捌いて区別を明らかにしてはいけないと言われています。
その理由は無義も一緒に抜き取るかもしれないからであります。
要無義、すなわち憎にの子供らは、
系統のたっといその地によって贖われた魂です。
イエス様がご自分の命を懸けて救ってくださったその魂は尊いものです。
かけがえのないものです。
独民が生えてきても一緒に抜こうとはしないで、
忍びつつとにかく無義を大事に扱い、
その無義を本当に犠牲にしてはなりません。
私たちは他の人が無義か独民かと言って調べるよりも、
まず自らが要無義であること、すなわち救われていることを確信して、
信仰生活を送るものであることが大切です。
罪の許しと心の清めを受けて精霊に満たされ、
系統を宿しているものであることを本当に信じて、
なお神様の今に感謝をさなげていきたいと思います。
また他の人の悪に対して無関心にならないで、
他の人をも救いに導くべく、愛の業と祈りに励まなければなりません。
そしてこの善をもって悪に勝つことができるように、
努めていくことが大事であります。
悲しい裁きは神様がしてくださいます。復讐は神がなされることであります。
イエス様は、あなた方は世にあっては艱難があります。
しかし勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのですとそのように言われました。
この勝利者イエス様との交わりに生きる者にとっては、
どのような困難の中にありましても、応しくあることができます。
私たちの人生には楽しいこともあれば、本当に悲しいことも起きてきます。
幸いな時もあれば苦しく思う時もあります。
困難なことに出会っても何とかしてそれに克服した時、その時の経験は貴重であり、
振り返ってみると祝福となっていたことに気づくこともあります。
パウロは苦闘しながら福音宣教のために努力していると語っています。
神様は神を愛する者には全ての事を働かせて、
益としてくださると教えられています。
私たちは苦しみを通して品性が磨かれます。鍛えられ、清められます。
そのような心が尊いのであり、私たちの品性は苦難の中で成長していきます。
収穫の時、すなわちこの世の終わりが来ますと、麦と毒麦は区別されます。
羊麦は毒麦と分けられて蔵に収められます。
育児の子供たちはこの世から救い出され、神の栄光の住まいまで高く挙げられます。
そしてこの栄光の姿に変えられます。
その時には悪魔が行った全てのものは取り上げられて片付けられます。
ただ貴人によってなされたもの、貴人の救いに預かっている者たちだけが高められます。
27:01
十三章の四十節に
ですから毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
人の子はその身遣いたちを疲らします。
かいらはつまづきを与える者や不幸子の者たちを皆、身国から取り集めて火の燃える炉に投げ込みます。
かいらはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
その時正しい者たちはかいらの父の身国で太陽のように輝きます。
耳のある者は聞きなさい。
終わりの時には全ての者が神様の正しい裁きの前に立ちさせられて裁きを受けなければなりません。
正しい者と正しくない者、福音を信じる者と信じない者とにはっきりと分けられます。
貴人を信じている者は最後の裁きがなされるとしましても貴人の家に裁かれることがありません。
貴人が十字架の上で罪人の中に加えられ、
エレエリレマサバクタニと叫ばれ、神の裁きを一心に受けてくださったので、
信じる者は裁かれることがないとそのように聖書は語っています。
神の恵みにより神の祝福に預かっています。
そしてこの良い無意義として天国に迎えられます。
しかしいつしか敗者人のようになって貴人を十字架に追い張るような者は神様の前に裁かれていくでしょう。
不可解とも思える神の誠心のもとにうめきもたえるような時がありましても、
目の前の状況に振る舞わされることなく、静かに神の時を待つその信仰が求められます。
神様は本当に全てのことを御存じであります。
人の心の中までも御存じです。
真実な方でありますので必ず祝福に見せた神の国に私たちを導いてくださいます。
主はこの良い無意義のためだけを考えて両方とも育つままにしておけと言われました。
主は身国の子供たち一人一人に対する愛こそこのたとえの中心的な真理である。
そのことを教えておられます。
主にとっては良い無意義の一本一本が他の何者にも変えられないほど大切であると見ていてくださいます。
常に主の御心の中では独無意義ではなく良い無意義のことを優先して考えてくださっている。
そうして私たち一人一人の救われた魂のことで心を本当にイエス様はいっぱいにしておられます。
人のことを見て安ずるよりもまず自分自身にいつも御心を懸けてくださる主の愛を深く思うそのことが大切です。
私たちは主に愛されているお互いです。
ですから裁きは神に任せて人を裁くことなく絶えず主を信頼してみくじで太陽のように輝くものとなるために信仰から信仰へ光の子として明るく生きていきたいと思います。
どのような悪魔の力も神の子供らを抑えつけたり滅ぼしたりすることはできません。
迫害したり苦しめることをしましても救われた私たちの魂はきっとのうちに既に隠されています。
ですから私たちはいつでもどんな場合でもしっかりとキリストに結びついて主の愛のうちに織り続けるものであらせていただきたいと思います。
30:05
ヨハネ15章9節に父が私を愛されたように私もあなた方を愛しました。私の愛のうちにとどまりなさい。
本当にイエス様の優しいその愛のうちにいつもとどまり続けて良い麦として良い養成としてその収穫の時を迎えさせていただきたいと思います。
それではお祈りをいたします。
天皇、主なる神様、今日もこうして私たちに礼拝を守らせていただくこの時をお渡しください。ありがとうございます。
被災されている方、また被災されている地方の教会では本当に礼拝を下げることができないでおります。
神様、どうぞその地方のクレチャンの方々を、また多くの方々をどうぞ主を憐れてくださって、神様の助けをお渡しくださり、
神様の慰めをなお添えてくださること、また速やかなる救援の業がなされることができるように切にお願いいたします。
そしてどうぞ主よ、私たち本当に地にあってこの教会にあって、
良い麦として神様に本当に喜ばれるところの信仰障害を送っていくことができるように助け導いてください。
お一人お一人のその信仰に主がお応えくださることを切にお祈りをいたします。
そしてどうぞ主よ、太陽のように輝くところの、どうぞ本当に主よ光の子供、
神様に本当に喜ばれるところの子供としてのその歩みが直されていくことができますように、どうぞ主を導いてください。
全てを主の御手に委ねます、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーミン
32:04

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