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はじめにお祈りをさせていただきます。
天の力、天主様、こうして、今日は教区の公団公館のあなたの働きのように、高田教会からあなたが愛する名谷教会の皆様とともに、礼拝を捧げることができますことを心から感謝いたします。
私の8月の一番最後の聖日となっております。
学生たちには、夏休みが終わり間もなく新学期が始まろうとする時であり、時効の変わり目であり、お一人お一人のうちに色々な思いがそのうちにあることと思います。
主よどうぞ、すべてを御存じであり、またすべてのことを備え、救いの道をいつも用意しておられるあなたが、お一人お一人に今日、福を語りくださって、あなたの御愛をすべて受け入れるものとなるように、この時を導いてくださることをお願いいたします。
語るものもどうぞ、一切あなたのものとしてくださり、あなたが与えようとしているものを取り継ぐことができますように、清めかけてくださることをよろしくお願いします。
また、スズラン大に使わされました四先生をどうぞ、主を尊く用いてください。午後にはまた、この教会に余談に大の働きがございますから、スズラン大で主が力づけてお戻しくださって、さよなら午後の働きへと先生を戻しくださるように、先生の働きも助けてください。
この森の中にいろんな問題を抱えている方、共同しても来れないそのようなご事情のある方、あるいは、ここにおられますけども、また家族が救われない、そうしたいろんな思いを抱えておられる方々のすべての方々も、すべておられる方々のうちに届いてくださって、恵みの道、救いの道を開いてください。
あなたがそのことを必ず成してくださるという、確信と平和を与えてくださいますように、よろしくお願いいたします。
残されております高輪教会の上にも、主が帰りに来てくださることを、心から願い、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
改めまして、高輪教会の坊主の佐藤です。よろしくお願いいたします。
与谷教会には、2年前に、高輪教会が初めて精神主要の一つの会場を借りて、クリスマス中華を子供たちのために行くよう、その時に紙芝居のチームに来ていただいて、大変お世話になって、
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ただ、ちょっと残念なのが、その時の坊主は私ではなかったんです。
その参加者すごいに私は高めに来まして、お礼が遅れていることとは、その時のものではないので、
いや、その時は本当に良かったですと、心からは言えない。
写真で見ていろいろと、あ、すごかったなって思うんですけども、みなさんからあれはすごかった、あまりにもすごすぎて、坊主変わってしまって、
前の坊主は世界をまたにかける選挙試合の坊主でしたから、すいません、私はもうようなことはできません。
先生、いいですよということで、続いてお呼びすることができないことをかえて申し訳ないなと思ってはいるんですが、
また、本当にあのような、一緒に何か働きができたらなと思いながら、
今日は、そのことを知らない私なんですが、そのことを本当にありがとうございますと、まずお礼から始めさせていただきたいと思うんです。
まあ、高橋岡は小さな教会なんですが、それでも120年という実は歴史を持った、そういう教会です。
ですから、小さな私にとってはもういろんな過去のこと、それこそもう上り下りアップダウンがいろいろと教会の中であって、大変でしたね、ということを思います。
でも、そのような教会が私を受け入れてくださる、まあ一点、これかなって私が勝手に思っているだけなんですが、もしかしたら全然違うかもしれないんですが、
高橋岡も歴史があっていろいろアップダウンがあったんですけど、私自身も小さな教会の中でも、結構私の人生アップダウンがすごくあったんです。
残念ながら、今日そのことをお話しする時間、メッセージを用意していたら、自分のことはもうほとんど話せないな、
アップダウンがあったということだけで多分終わると思うんですが、私は何度もそのことにより自分の名前を変えたいと。
私の名前は佐藤直也と言うんですが、いや、全然その直也、直進でずっと来た人生じゃない。
その直進の曲を曲がるという感じで変えて、佐藤曲やって変えたいなと。
でも今はその真形人生を神様がこうして救ってくださって、本当にここに立ててくださった、直也としてくださった、
つけたのがうちの無信者の両親だけど、いやこれは神様の御心なんだと思って、今はそれを受け止めているんです。
またその一点をもって、今日まだこっちに、将合教区に来させていただいて、1年ちょっとしか経たない、ほとんど認識がない方々でありますけれども、
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このアップダウンの人生ということにおいて、あ、明太に教会にも通じるものがあるかな、教会がアップダウンって色々言われているということではないんです。
これも私の勝手な印象です。両親にと言うところは、非常にアップダウンが多い。
佐藤 山、海へ、実はうちの信者に神戸市の役員、役所務の方があって、まさに担当しました。
このすまのこの山を削って、海への、埋め立てた、この削った側がここで、そうして住宅地が立てた、ですから当然山削って立てた住宅ですから、アップダウンが多いわけです、上り坂、下り坂。
何回かここに来させていただいても、もう本当に上って下って、上って下って、今日もそうですけれども。
元々私は関西人なんですが、つい2年前までずっと関東にいましたものですから、実は東京というのは大地ですから坂が多いんですが、山はないです。
私の行ったところは埼玉なんで、海も山もないところ。アップダウン全然ないんです。
何か余計に妙なところがある先生が、佐藤先生アップダウンの人生と言われますけど、人生には3つの坂があるんですよ。
えっ、結婚式とかで3つの坂って聞いたことある方あると思うんですが、先生、上り坂、下り坂以外にどんな坂があるんですか、その先生が言われた。
まさか。
いやでも先生、確かに私、そのまさかがなかったら救われていませんから、確かにそのまさかは本当感謝です。
感謝のまさかだけじゃなくて、妙谷に来るときにも、上って下ってここ2番目入ったらいいんだと思った。
あれ、間違えた。いやでもまあ抜けていくだろう。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるってやっぱり抜けなかった。
行くの間にまさかみたいな妙谷にもいっぱいまさかがあるかもしれませんが、そういう困ったまさかもいっぱいあるんですが、私の生涯には本当に思っても見えなかったまさか。
皆さんもそうなんじゃないかと思うんです。今日もまさか妙谷でこうした話をするとはというまさかから思わされているんですけども、
この今日開かれたルカニオルフくん一緒の、いわゆる宝刀息子という呼び名でよく知られているこの話も、実はまさかの連続なんですね。
そもそも私、最近この話自体が聞いている人にまさかだったのではないかと思わされることがあるんです。
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ずっと実は考えていたのが、こんなにみんなに愛されて、ほとんどの人が知っている。
皆さんも今日の礼拝がここだって言って、え?ここ?まさかって。この間も聞いたのに、何度も聞いているのに。
実は私もまさかって、ここだと決めてから妙谷教会に行って、神科薬聖書を使っていたようなホームページでちょっと確認してみようとホームページをパーって見てみたら、
クリスマス礼拝の場面の写真がポーンとあって、ルカの福音書15章、え?クリスマス礼拝でここ開いたばかりなの?とか。
そういうようなことがあった。それぐらいに皆さんよく知っているかというと、どうして4つある福音書のルカしかないの?
大概有名なところと言ったら2つか3つか載っているものが、こんなよく知られている話がどうしてここだけなのか。
これははっきり分からないのですが、私はこう思うんです。
この物語があまりにもまさかの連続であったために、聞いている人たちも、特にユダヤ人が受け止めきれなかった。
よく知られているのですが、この物語は1つの絵だと思うのに、結論がありますか?この絵とはどうなったの?という結論が実はない。
不思議な話でもあるのです。
だからユダヤ人にとって、え?これってイエスも何を言われようとしたんだろう?そういうこともあって、多分他の福音書家はこれを書くのにためらい。
でも実は福音記者の中で、ルカだけ特殊な人なんです。
全ての福音記者はユダヤ人なんですが、ルカだけはユダヤ人ではないんです。違法人。
だからパウロが記してあるところで、私のところにいるユダヤ人は3人しかいない、手紙で書いてあるんです。
で、他にルカが。ルカ他にって書いてあるんです。ユダヤ人でないルカがいる。
そうかもしれないな、ユダヤ人。
要するにルプキがユダヤ人じゃない、モアブのルツのことを書いていますが、あれはルツが書いたのではないので、やっぱりユダヤ人でない人はルカ以外誰もいない。
そのルカがやっぱり自分の、私と一緒で特殊な人間だということをルカも自覚していたのかもしれません。
そういうことで、これは私が書くべきだと思ったか、あるいはこれは私の原点だ、そういうことで書いたのではないかということを思うんです。
そもそも本当にこのような弟、大変な弟です。この弟を父親が迎え入れて宴会を開く。
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そのこと自身でもう受け入れられないというような思い。
実はそのことの発端は、イエス様が罪人、主税人たち、ユダヤの社会から占め出された人たちを招き入れて、しかも食事まで一緒にしている。
えーって思う。その中で、いや、私はこれを喜びとしていることをぜひわかってほしい。
そうして例え話を始められたんです。
そんな人たちと一緒にいるなんておかしいじゃないですか、というのをイエス様は実は、いや、そのことはあなたたち以上に私は同じしている。
それが実は弟、息子のところにいろいろ書かれてあるんです。だいたい物語はいきなりショッキングに始まるんです。
最初にある人に息子が二人会った。
で、いきなり次のセリフがこうなんですよ。弟が父に、お父さん私に財産の分け前をください。
日本昔話はこんな始まり方しないなと思うんですよ。
もう、こういう昔のことじゃ、たあるところにおじいさんとおばあさんが。
そうしたら桃がって、そんなことはないと思うんですね。
そんな始まりなんですよ。
おじいさんは山石ばかりに、おばあさんから選択育をすると。
ちょっと前置きがあるはずなんです。
ところが息子が二人会ったって、その弟息子がいきなり、お父さんくださいって。
言いたいことは、本当にそういう弟を私は愛してるんだっていうことなんで、もう端的に。
しかもそのセリフが、財産分け前をください。生前奉養してくれ。
もっとあからさまに言うならば、お父さん、僕はもうお父さん必要ない。お父さんの財産だけ必要。
生前奉養っていうことは、もうお父さん死んだことになってくれと。
いきなり息子が父親を殺して、財産を持って出ていくっていう話から始まるんだ。
いやー、確かにすでにそんなような人種だ、みたいな。もしかしたら納得するかもしれないような。
しかし、そんなものはもう当然、何をバカなこと言ってるか。
この話は今の日本の話ではないんです。
今の日本だったら、お父さんあれ買って、これ買って、あれ買ってって、もうそんなに買えるかって言いたくなるけども、
そう言ったらバーンって出て行ってしまうから、どうして謎めすかしてこれをやり過ごすかなっていうのは、今の日本の過程ではないんです。
だいたいイスラエルのような、西アジアの地方っていうのは、今でも封建社会で、
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父親は絶対。だってお母さんですら、女性っていうのはお父さん以外に顔を見せちゃいけないっていうぐらい父親が立てられてるわけです。
その父親を死んだものとなって、財産くれって息子が言ったら、
ああ、なんてこと言ったんだって、追い出されるのが普通なのを、ここでまさか。
それで父は信頼を二人に分けてやったって言うことを聞いたんですよ、息子のこと。
実はこの財産の分けないをくださいっていうことに対して、信頼を分けてやったって言葉が変わっています。
これはギリシャ語でも違う言葉が当てられていて、この信頼っていうギリシャ語は、ビオスというギリシャ語なんです。
実は私、コロコロ話してるとコロコロ変わってしまうんですけども、ほんのわずかな私のことの一つ。
私、毎日ヨーグルトを食べる習慣がありまして、そのヨーグルトがラノンのビオなんです。
ちゃんと話は繋がるんです。このビオっていうのはビオスから来てるんですね。
英語読みだと実はバイオなんです。フランス語読みらしいんです、ビオっていうのは。
フランス語すっと発音しないらしいんで、ビオス。
それは生きて働く、命を支える。このビオスもそうなんです。命を支えるもの。
だから命を支えている生活費だとか財産っていう、そういうことなんです。
つまり父親は、息子は自分の貰える財産分けてくれよみたいな軽い気持ちで言ったかもしれないけども、
父親は、いやもう私の財産、命をあなたに与えようと言いますのも。
銀行やらそういうものがないのがこの時代です。その時の財産って言ったら土地なんですね。
土地をじゃあ分けよう、それが弟の願いではないわけです。
だから土地の長男ではないわけですから、半分よりは少ないと思うんですけども、
ある程度貸して、誰かに売って、その財産を分け与える。あるいは弟がその土地をもらったその土地を弟が売り払って。
当然予想できることです。
イスラエル、日本の土地っていうのはすごく貴重なものですが、イスラエルはもっと土地っていうのは貴重なもので、
何よりも神様が十二部族それぞれに何々族はここをここを、神様の契約において与えられた土地。
それがまた種族に、また家族にと分け与えられて、しかも事細かに聖書の中ではその土地をどうやって子孫に分け与えていくか。
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もしそれを受け渡すような子がいない場合は、それは弟とか、事細かにその土地の相続というのが決められているぐらい、
これは神様からいただいた命なわけなんです。
それをこれって言ってあげた。
命が引き裂かれるような思いを持って、しかも私なんですね。
私はここに十字架の愛を思うんです。
好き勝手に、それも立法学者やパリサイ人という神の立法を信じているはずの人々ですら、自分が支配されることを好まないで出ていくと。
そのためには支配しようとしているこのイエス・キリスト、その支配というのは決して私たちを縛る支配ではない。
愛のもとの自由というその支配だったはずなんですが、それを拒んで、まさにイエス様を引き裂いた。
でもイエス様はその引き裂かれることをご自身の意思で受け取られて、従われた。
父親が弟息子の与党連にして、それで弟息子がやがて自分がバカなことをしたって気づいて帰ってくるだろうなんて保証は一つもないです。
イエス様が十字架に剥がれて、そうしたそのことに対して私たちが本当に爪を貸したって歓喜をして私たちで救われるという保証も一つもないです。
しかしこの父親もイエス様も、ただ愛のゆえに自分の命を差し出した。
恨みも怒りも一切なく、お前な、財産をくれと言って出て行くというのが、その土地を削くということがどんなことなのかということも一言もなく、
イエス様を私が十字架にかかるということがどんなことなのか、それはただ聖書に書かれてあると弟息子に予言しただけで、それがあなたたちにどんなことなのかとも一言もなく、
よみがえされたとも言われていないのです。ただ弟息子がそのことを語っていた。
愛を決して捨てない、自分を引き裂くものをなお愛し、その愛を変えることなく、かえって自分を引き裂くものを受け入れるというその道を選んだのです。
実はその後命を失い、我を失っていったのは弟息子の方でした。しかしその弟息子にわずかなまさかが起こったのです。
我に返る。もう自分の一切を失ってしまった。その時にこの弟は我に返って行ったのです。
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十七節以降にこう書かれてあります。
父のところにはパンの余り余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに私はここで植木にしそうだ。
だって父のところに行ってこう言おう。お父さん、私は手に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私はあなたのことを呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。
実は雇い人というのは、主人の所有となって住み込みで働く人ではないのです。
普通の職人。どこかで家を構えて、サラリーマンみたいなものです。
朝になったらやって来て、夜日が暮れる前には仕事を終わって帰って行く。全くの他人なんですね。
この息子は自分は奴隷にいかならないと思ったのです。
もし奴隷であれば、それは主人の所有であり、もちろん自分の自由は一切ないのですが、その代わり主人はその奴隷の責任を全部持たなければいけない。
食べるものも用意する。寝るものも用意する。生活に一切を保護する。
実は奴隷というのは一切自分の自由はない代わり、完全に守られた状態であるのです。
自分はそれにさえなれない。
でも父の家は雇い人ですらパンが有り余る。
父はそれだけ恵み豊かなというその恵みが彼を我に差し替えらせたのです。
なのに自分は飢えて死のうとしている。
だから息子はただ父親のこの恵みに自分を賭けるしかない。
まあ全部なくなってしまったわけだからもう頼れるのはそこしかないと当然といえば当然かもしれませんが、
でもそんな考えが息子に及ぶ。
なんでだろう。パンは謝っている。
父親の愛になんと息子が目覚めかけたんですね。
そして息子はこんなのことを言われる資格はないと自分の罪を認める。
そんなのことが与えられた。
でもそれをさらに上回る驚くべき父親の行いがあるのです。
こうして彼は父の元に帰っていきましたが、
まだ彼のセリフを一つも聞かない。
彼の心のうちを一つも確認しない。
遠く離れたところにその息子を見つけた時に、
かわいそうに思って走るよと受け入れたんですね。
かわいそうに思う。
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直訳すると実は腹綿がよじれるという意味なんです。
日本語で胸が痛むという意味がありますけれども、
これはもうちょっと違う言葉を当てはめるなら、
共感という意味なんです。
つまり他人の苦しみを自分の苦しみとして受け取るという意味なんです。
実はイエス様が哀れむ、神様が哀れむと書かれてある以外に、
このかわいそうに思うという言葉の義理尺が当てられているのは、
ここと良きサマリア人だけなんです。
ペテロもヨハラもユクブもパウロも、
哀れむという言葉は使われていない。あれは自分は使っていない。
イエス様以外に使われたのがあのサマリア人とこの父親だけ。
共感する。
ペテロたちは本当に思ったんですよ。
イエス様のように私は罪に苦しむ人のその罪を共感できない。
なのに罪を犯したことのないこの方は、
その罪を共感して十字架にかかってくださったわけだな。
どうしてでも自分の命を引き裂いたその命を全部どこに捨てるようにして
なったみすぼらしい姿で帰ってきたものの、
なんでお前はそんなことをしたんだと反発ではなくて、
共感できるんだろうと。
もちろんあなたのことを呼ばれる資格はないといったその言葉に共感したのではない。
まだ聞いていません。
ただ失われて、一切失って、もう何者でもなくなった。
雇い人としてしか帰ってくることができないという、
完全にどこにも居場所がなくなったものを、
ここが居場所だよって苦しんで苦しんでまたそのところに来なさいと。
受け入れたこの父親。
だからこそ一番良い着物を持ってきて来て、
手に指を離させ足に靴を履かせなさい。
これらは息子の身分を回復するものです。
父親はここで初めて息子の言う言葉を否定したんですね。
財産くださいっていうことを受け入れたこの父親は、
雇い人同様っていう言葉を完全に否定したんです。
愛することにおいてはとことん貫きますけども、
恵みと愛を否定する言葉はとことん否定する。
これが神様だっていうことを皆様知っていただきたいんです。
私はそんなものではない。
神様はそんなことを受け取れませんっていうことは、
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完全に否定されるんです。
時々奉仕が重い。祈ることが重い。
でも神様は奉仕や祈りを恵みとして与えてくださるんです。
だって神様の働きを持つことができる。
そんないきなり大きなことは祈れません。
祈ることはすごいことなんだよ。
もちろんそんな押し付けではされませんけども、
こうして礼拝に来ることも。
もうこの人たちが教会は資金が高いから、
教会にはなかなか行けませんってなるんですけど、
本当はこんな弟息子も財産を土木に捨てた、
そんな弟息子もこうして宴会を開く。
それぐらいに受け入れたいと思うんですけど、
資金が高いって言って躊躇されてる方は、
それでも来なさいって引っ張るわけにはいかないけど、
いや、もう走り寄って来て宴会しようよ。
そう言いたいのが神様なんです。
それもただ来て礼拝しなさい、参加しなさいっていうことではないんです。
これから奉仕を引いて御振りなさい。
後で兄息子が言います。
これぐらいで一匹さえこださらなかった。
これ滅多にしないことなんです。
それどころか、
普通、超えた奉仕というのは年に一回の特別なエルサレムでも、
礼拝の時に神様に全生の生贄として捧げる。
とっておきの捧げ物。
奉仕ですから、毎年毎年いるとは限らないわけです。
奉仕はそのうち大人になります。
大人になったら超えた奉仕ではなくなるわけです。
神様にはその年その年の最高のものを捧げる。
この奉仕というものは、
ここで処分してしまったら、もう神様に捧げるものをどうするの?
あえて教会で例えて言うなら、
クリスマス献金を全部使って、
人気の人が来たということで大宴会するようなものなんです。
兄息子が怒るのもわからないでもないです。
神様に捧げるものを、
どうしてここでとても悪いことをしていた弟のために、
ポンと引っ張ったのですか?
それが神様の愛です。
イエスかです。
だからイエス様はこのところで、
まず主税人が罪人たちに、
やったことを教えるとともに、
どうしたらいいのか、
こうした人たちを、
ここまで犠牲を払って迎えたいという愛がないのだろうか、
本当は言いたい。
30:00
でもあなたたちはそうだね、という。
実はここまでが語論なんです。
どうしてイエス様は、
そんな罪人たちと局所するんですか?
ということに対して、
この話を話されたという本論が、
ここから実は始まるんです。
もともとクリスマス献金を取っておかずに、
一人の人の救われた洗礼式で、
先生君、クリスマス献金で、
いろんな電動渋滞やら、
なんやらできるんじゃないですか。
洗礼式の一人のパーティーのために、
これを全部使うんですか。
皆さんもちょっとは言いたくなる。
兄息子もそのように怒ったんですが、
ただ兄息子の怒り方が、
実はそこで自分の本心が出ているんです。
29節、30節。
しかし兄は父にこう言った。
ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、
忌まし目を破ったことは一度もありません。
その私には友達と楽しめと言って、
小柳一匹砕かったことがありません。
それなのに幽獣に溺れて、
あなたの信頼を食い潰して帰ってきた、
このあなたの息子のためには、
こういった格子をほふらせなさったのですか。
弟が帰ってきて、こういった格子をほふられた兄は、
全く受けられなかった。
そもそも弟が帰ってきたことも受けられない。
でもその理由が、
私には小柳一匹くださらないのに、
あの信頼を食い潰して、幽獣に溺れて、
信頼を食い潰して、
あの弟にどうしてこういった格子なんですか。
不公平じゃないですか。
皆さんの中には、クリスマス劇に、
まずは優先生がクリスマス劇に全部使って、
一人の受宣者のためにパーティーする、
ないと思うんですが、
皆さんの中に、
先生、私たち教会のために、
ちょっとクリスマスのパーティーしないで、
って言う人は一人もいないと思うんですが、
もしかしたらでも、
この私は、こう思っていて、
こうだけ個人的に、
私の家族を救われていない、
あの人は、
あの人の家族をどんどん救われている、
もちろん、あの人で私は祈っているとは思わないでしょうけど、
神様、あの人は祈りが足りていて、
私は祈りが足りないんですか。
自分の行いで救いを決めてしまう、
そんなことはないでしょう。
33:01
もちろん、だからといって、
祈らなくて救われるということでは、もちろんないんです。
祈るということは、
本当にフリコのように揺れ動いて、
上ったり下がったり、
そういう人生の連続の中では、
祈って神様どうぞと、
自分の心が本当にそうやって祈りに向かっていかないと、
アップダウンのうちから、
どんなにすごいジェットコースターでも、
必ずレールから外れるということはないように、
計算されてずっとレールを辿っているから、
ちゃんとどんなにアップダウンがあっても、
とどまっていられるんですが、
私たちはそうはいかない。
しょっちゅうピョーンとどこかに溶け出してしまわないか。
だから祈るし、礼拝に来るし、
本当に神様と一緒にいなければ、
溶け出してしまうんだ。
そうして礼をいただく。
ところがこの兄息子は、
しかもそうして、
アップダウンの多いこの私を、
いつも繋ぎ止めてくださって、
私のこんな祈りをも聞いてくださって、
神様本当にありがとうございます。
その愛意に触れることができるから、
私たちは喜んで祈るし、
喜んで礼拝に出席する。
だって神様にお会いできるんだから。
ところが兄息子が長年仕えていたのは、
お父さんと一緒にいることが本当に嬉しい。
お父さんが私にこんなにもしてくれたから、
お父さんに少しでも本当に楽をしてもらいたいと、
私は仕えている。
お父さんのためではない。
あるいは喜びでもない。
むしろ苦しんでいる。
いつになったらこれ一匹もらえるんだろう。
まだ足りないのか、まだ足りないのか、
誰かが家族のために祈っているけど救われない。
もっと祈らなきゃいけないのか、
もっと祈らなきゃいけないのか、
ということと同じことを言っているんです。
なのに、
そうやって仕えてきたのに、
信頼を食いすぎた弟がこういうふうに、
どういうことなんだとかって、
ユーフォームが出たんですね。
実はこの兄息子、
そして仮裁員と立法会社の、
なぜ神様に仕えているか。
実は弟息子と一緒だったんです。
報酬が欲しかった。
兄はしかしながら、
弟のように大胆にバーンと言うことはできない。
それはおかしいでしょう、人間として。
働いてもらうべきでしょう。
実はこの兄息子の方が、
私は深刻ではないかと思うんです。
弟がこんなことがありながらも、
でもありあがっているという、
父の恵みに気づいたんです。
私は恵みを完全に否定したんです。
この後、息子は言っています。
私のものは全部お前のものだ。
36:01
これ一緒に過ごしていて、
そして職を共にしているから、
ああ、お父さんのものは兄のものだな、
そういう兄弟的なことではないんです。
本当は全部兄のものなのに、
兄はそれを受け取ろうとしなかったんです。
もう一度、私が一番最初に読んだ、
12節をもう一回お見せしたいと思います。
12節。
弟が父に、
お父さん、私に財産の分け前をくださいと言った。
それで父は信頼を二人に分けてやった。
それで父は信頼を二人に分けてやった。
弟を求められてもらったんです。
そこに兄がいないんですが、
父は二人に、兄にも分けたんです。
不公平なんです。
ところが兄は声を打ってもらったことがない。
働いていただけるものはいくらでもいただけます。
でもこんな自分が欲しいとも言ってない。
自分の働きではなくて、
一方的にもらえるものは、
それは私、もらえません。
あぶくぜには身につかないという言葉があるかもしれませんが、
自分の貸し取ったものを私はもらいたいんです。
つまり認められなきゃもらえない。
実は兄の方がわがままなのかもしれません。
だから実はこれ一匹くださらなかった。
僕のしていることを知っても認めてくれていない。
もっと大きな愛を弟にあげるときに
必ず兄にもあげていた。
父は愛していたのに、
弟は、兄は自分がやったことを見て欲しい。
それが自己強心だったんですね。
この私をあげると。
そして父親がどんなに愛しているか、
父親がどんなに恵み深いか、
雇いにですら余り余っている
弟でさえ気づいたのに
これ一匹くださらない兄は
全く足りないと言うんです。
もし長年礼拝に出ていて
足りないと思っている方があるなら
こんなにも悲しいことはない。
この与谷教会には
あやまっている恵みがいっぱいあるはずなのに
私の生涯は
こんなにも豊かに満たされているはずなのに
そしてこんな弟の
わけないくださいということに対して
十字架で引きかかれてでも命を与えてくださる
そのような愛のお方であり
ボロボロになって帰ってきた。
39:01
本当にわかったと思うんですね。
豚が食べる稲穂豆でお腹を満たしたいとほどにやつれた
その変わり果てた姿
何があったかって想像つくわけです。
息子をそのまま受け取り入れて
こんなことではいけないってすぐに回復があったよ
言い訳も何も聞かないで
回復を優先してくださる
それも神様に捧げるものを犠牲にしてまで回復してくださる
私も救われた時本当にそうでした。
ここに到着するまでこの話を言おうか言うまいか悩みに悩んで
ここに今立っているんですけども
少しだけ自分のことをお話しさせていただきます。
私はトイス教会から吸収され
クリスチャンになり牧師になったんです。
壺や印鑑は売ってないんですが
そういう訪問販売ということは引きかけたものです。
しかもそれを住みと思わないで世界救済のためだと思っていた。
これを吸収するために教会はすごい犠牲を払ったんです。
私と同年代でクリスチャンホームで育った人が
その人も私も癒されて含まれたからお互い言い合えるんですが
トイス教会の働きのためにいつも午後1時から4時長い時には5時まで
その相談のために礼拝堂を完全に相談のために開け渡して
多い時には30人ぐらい相談者が来る。
相談者のための対応する者がまたいるわけです。
100人ぐらいバーッと礼拝堂を埋め尽くすと
当然教会の居場所がなくなるんです。
それも混沌前の始めたその当初に
教会はすごい犠牲を払って私を救ってくださったんです。
教会の午後の働き一切これだけになるというぐらい。
教会の中のみんなどこに行けば青年たちが
私たちの居場所がないってその時に思っていたんだ。
でもそれこそが神様の愛だって知って
だからお互い救われた者同士が本当に
まさに兄息子と弟息子が神様の愛の中で一つとなっていった
というのが私の御教会なんです。
自分がどんな犠牲をはがまれて今ここにあるか
ただ犠牲の賜物でしかない。
私の祈った宝とか何とかそんなものは何もないとここにいる。
ということは
あなた自分で頑張ってねってされる神様ではない。
一切満たしてくださる。
なぜなら父親であるなら
42:00
子供にどうして良いものを与えない父親があるだろうと。
卵を与えてくださいと言ってヘリを渡す父親があるだろうか。
それだからこそ天の父は
あなた方に良いもの、聖霊を与えないことがあるだろうか。
でもこの兄息子は
自分の力で勝ち取ったものでないと頂けない。
つまりあなたの力で頂くものは要らない。
神様こんなに否定してるんです。
そうして自分の力で勝ち取るべきだというその自己中心が
自分の力で何も勝ち取ってないところが
自分の力で父親のものを全部捨て去ってしまったものが
どうして受け入れられようかと
恵みと救いを完全に崩し
弟どころか
そんなことをするのあなたもと言って
もしかしたら父親も追い出そうとする。
そうしてイエス様は十字架にかけられた。
だからここは実は
結論が書いてない。
弟兄はこの後どうしたんだ。
本当は弟を迎えてほしいと父は言うんですが
そんなの受け入れられないし
そんなことがあなたも受け入れられないと
父親は十字架にかけたという結論が
実はこの福音書の最後にあっている。
私たち教会がそんなことをしていいだろうか
皆さんの祈り
本当に満たされて
恵みにあふれた祈りがなされているだろうか
そして本当に神様の恵みは
どんな人をも救う
私をも救ったんだからどんな人をも救う
だから誰をここに連れて行けば大丈夫なんだ
誰に福言を語ってもこれは受けられるのだと
ここは本気でいるだろうか
それならばそのように祈っているだろうか
皆さんあの高槻秀衣で
中学1年生の少女が死体で見つかって
今あの死体
息の容疑で宮ヶ谷の男性が逮捕されて取り締められている
この事件をご存知だと思います
私実は高槻出身なんです
あの現場は歩いても20分ぐらいで着くような
もうすぐあそこって頭の中にパンと思い浮かぶ場所なだけに
私も祈らされました
でも祈らされた後ですごく自分も問われたんです
同じことを皆さんにちょっと問いかけたいと思います
皆さんこの事のために祈られたと思うんです
特に宮ヶ谷は小さい子供たちがたくさんあり
またいろんな事件がこの近辺でも起こったことを私も知っています
だからこそ夏休みが終わろうとするこの時に
この事件でいろいろ皆さん祈っておられると思うんですが
捕まった容疑者のために祈っておられる方はあるでしょうか
私はそれを示されています
45:01
この容疑者のために私はどう祈るべきか
というのはこんな話を聞いたことがあるからです
まだアメリカで黒人の人種差別が色濃く残っていた時代
おそらく50年近く前でまだ差別はあったんですね
ある白人牧師が自身の信仰のように
周囲の牧師仲間たちもどちらかと言うと
白人を擁護する人が多いという
教会の有様の中でもこの人は
イエス様は全ての人を愛しておられるのではないかと
だからこそ黒人のために人種差別撤廃のため
また選挙権のために立ち上がって戦っていたんです
ところがその時クルイチさんをテキストする
無神論者の新聞記者が彼の働きを深い思い
その牧師にこう問いただしたんです
お前が信じているキリスト教のメッセージを
10の単語で言うとどうなるんだ
聞かせてくれと
英語で10単語
突然の質問にこの若き牧師は
とっさに答えたのがこういう言葉でした
英語では言えません日本語で言います
私たちはみんな親なし語のろくでなしだが
それでもとにかく神は私たちを愛している
新聞記者はゆるゆる数えて
単語数を数えて言ったんです
10単語だと言った
あと2単語残っている
言い直すつもりはないかと
とっさに言った言葉なので
そう言われて思い返したんですが
牧師はこのことをとても気に入ったんです
確かに
この弟息子もそうです
本当は親はいるんですが
自分が親を殺してしまった
親なし語にしてしまった
それでもとにかく
神様私たちは愛している
本当その通りだ
言い直さなかったんです
しばらく経って
同じ人種差別反対運動のために
一緒に戦っていて
そのために逮捕された友人が
いよいよ釈放されるという日が近づいて
ところが釈放されたその日
白人の保安官が
迎えの車をお願いしようと
電話を掛けようとした
その友人をめがけて
ショットガンをぶっぱなして
即死してしまった
友が帰ってくるはずの日が
友が永遠に帰らない日に
変わってしまったことに
皮膚へのどん底に落ちて
その牧師に
さっきの新聞記者が
なんとこともあろうに
挑戦状を叩きつけたんです
その挑戦状はこうです
君の殺された友人は
ろくでなしか
この友人は自分が知る
最高に穏やかな男の一人でしたが
誰でも罪人だというのは事実だと
48:02
そういう意味では
彼は確かにろくでなしだと
次の言葉が
では君の友人を殺した保安官は
ろくでなしかと
もちろん殺人者はろくでなしです
まさかの質問がここで来ました
神はこの二人のろくでなしの
どちらを愛しているか
動きを持たない平和主義者に
ショットガンが発砲され
そして殺害された
しかし神様は
その殺害した男を
無罪で釈放する
もう吐き気しそうな
決して耐えられないような
そんな考えですが
しかしこのことが事実でなければ
そこは今ない
恵みはない
これが真実でなければ
悪い知らせ
ただ立法によって
救われるという
そのことしか残らない
僕は胸を打たれました
自分が信じていた
復興は何だったのかと
神はこのろくでなしの
どちらを愛しているか
それで恵みは
ふさわしくないものだけではなく
その反対がふさわしいものにも
提供されるということ
つまり人種差別を受けている
個々人だけではなく
人種差別をするもの
白人修行主義
無神論者
殺人者のためにも
恵みを与えられると気づき
今までの働きを全てやめて
白人修行主義者や
人種差別主義者たちと
共に過ごすようにと
この人は変えられていったんだ
32節
だがお前の弟は死んでいたのが
生き返っていたのだ
いなくなっていたのが
見つかったのだから
楽しんで喜ぶのは当然ではないか
罪人たちと共に
即死することを楽しみ喜ぶのは当然
その恵みの真実を
本当に私たちは
全て受け入れているだろうか
私は救われたからここにいる
そしてここにいるという
この事実で私は救われている
自分の何かを根拠にここに
いてしまってはいないだろうか
私たちが何者であっても
神様
先週一週間こんな私でした
でも神様は
あなたがここにおられることを
喜び楽しんでおられる
ただあなたであるがゆえに
そしてあなたが神のことになっていることを
喜び楽しんでいる
それならばどうしてここに住む
51:01
多くの方々それが
たとえどんな事件を起こしたからといって
どんなに壺を売って
銀貨を売ったものだからといって
ここにいたすことを
しょうがないよねって言って
置かれる神様であるだろうか
神様が
最も大切な御子を十字架にかけるという
大いなる無駄遣いと思えるほどの
犠牲を払ってくださったということを
皆さん忘れてはいけません
だからこそ
多くの人にこの良き訪れを知らせ
毎週毎週ここで
恩返しが開かれるべきではないでしょうか
お祈りをいたします