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2023-02-19 40:57

2023/02/19:愛に押し出されて②

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2023/02/19 聖日礼拝

犬塚直樹牧師

ルカの福音書 -42

ヨハネの福音書 -26, 12:1-2


00:01
みなさま、おはようございます。
今日こそお祈りをいたします。
恵み深いです。
天の父なる神様、あなたの流してくださいました十字架の父王を心から覚え、感謝を申し上げます。
今日、雨の中でありますが、あなたが一人一人の名前を呼んで、このところに礼拝者として導いてくださいました。
あなたが命がけで作ってくださった一人一人、どうぞ私たちも、礼と誠を持って、一杯の礼拝を捧げることができますように導いてください。
私たちは心を込めて、また力の限り、声を大きくしてあなたを賛美いたしました。
また、この口を通して信仰告白をいたしました。
ただ今から、あなたの声を聞こうとしております。
あなたの御言を聞いて、従っていくものとさせて下さるよう、
そして座れた一人一人が、あなたと共に、このところから使わされていることができますように、私たちを励ましてください。
これからの時を待ち望み、イエス様のお名前を通してお祈り致します。
先週、私たちはベタニャ村で起こった美しい物語を学んでまいりました。
イエス様の十字架が三日後に迫ってまいりましたが、私たちの誰一人でその十字架を理解していません。
まさか私を愛して下さるイエス様が十字架にかかるのは夢にも思っていなかったでしょう。
その時、一人の女性が非常に豪華なナルドの香料を持ってきて、それをイエス様の頭に襲いました。
マルコの福井書には書かれていませんでしたが、
ヨハネの福井書を見るならば、その女性はマリアでありました。
すると、その香りがいっぱいに広がったというお話でありました。
さて、質問。
03:00
彼女はなぜそんなことをしたのか。
時間の経過とともに学んでいきたいと思いました。
彼女は日頃からイエス様の教えに静かに耳を傾けていました。
何が最も大切なのかをわきまえていました。
ですから、期待にぬる香料をこの人々ばかりに、
玄関に対する純粋な信仰と愛の上に、惜しげもなく注ぎ出しました。
どんな犠牲を払っても少しも欲しいとは思いません。
いや、それがむしろ喜びなんです。
マリアの心には、私のために死んでくださるイエス様のご愛。
また、弟ラザロによくしてくださったことにどうお答えできるだろうか。
ただそれだけで、人の評価もあるいは批判も頑固にありません。
尊徳の批判なんかもありません。
人からどう言われようが関係ありません。
今まさに自分にできることをここで精一杯したわけです。
そしてその日まで少しずつ蓄えていたものをすべて注いだわけです。
皆さん、私はクリスチャンというものはそういうものだと思います。
でも、こんな私を愛し許し、十字架にかかって身構えの師を取り入れてくださるイエス様を知ると、
イエス様のために何かをしたくて、その生涯をあげて変えたいと、
そして精一杯イエス様に喜んでいただきたいと、
それが得たならば、あるいは愛されたならば、誰でもそう思うはずです。
でも周りの人はそれがわからない。
いつも調子的に考え、なぜこんなことをするんだと言います。
06:04
厳しく責める絶対に関して主の御声が響きました。
このままにしておきなさい。
なぜこの人を困らせるのですか。
私のために立派なことをしてくださる。
彼女はなぜ三百世代にもする行為を注いだのか。
しかもこの時という一つのチャンスを逃さないで、それを注いだのか。
さて、彼らが最初に登場してくる箇所は、ルーカの国書による10章の38節です。
このマルタがイエス様を自分たちの家庭にお見返ししたところから、
マルタは一家の責任者として、もてなすのために忙しく接していました。
マリアはその足元に静かに座って、御言葉に聞いていました。
マルタは、接待のために忙しすぎて心をとじみ出して、イエス様のところに行ってこういったわけであります。
主よ私の姉妹が私たちにもてなしをさせているのを何とも恩恵にならないのですか。
私の手伝いをするようにおっしゃって下さい。不満を口真にさせて下さい。
するとイエス様はかしなめて、マルタ、マルタ、あなたは色々なことを思い患って心をいだしています。
しかし必要なのは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。
私たちはマリアの素晴らしいことは十分にわかります。
また多くの信仰書を見ても、マリアについてはよく書かれているわけです。
でも私は少しの時間が減るのですが、ここでマルタについてもお話をしたい。
マルタはどうなったんですか。
案外私たちはマリアは素晴らしくて、マルタはダメだといろんな説教や書物で見ていく。
09:01
でもマリア、マルタの素晴らしさ、どうぞ思い出して下さい。
イエス様が来られたと聞いて、他の誰よりもイエス様を歓迎したのはマルタであり、
また弟ナタロが死んで大村に出た時に、イエス様が来られたと言って村の入り口まで迎えたのもマルタでありました。
少なくともこの聖書の箇所でマリアが喜んで迎えたのは大変でありました。
マルタは心から喜んでイエス様を歓迎しました。
でもだんだんと取り乱してしまいました。
イエス様を迎えた時は喜んでいましたけれども、だんだんとその喜びがイヤイヤに変わってまいりました。
それは人間の本来の姿、あるいは自己中心の姿と言いましょうか、
そんな自分ではどうにもできない弱さを私たちは見るわけです。
イエス様を信じた時、救われた時、私たちは誰よりもイエス様を愛して、あなたのためならという愛をもって信じて従ってまいりました。
そうでしょう皆さん、イエス様によって救われた私たち、
けれども気が連れていくに連れて、だんだんと初めの愛から私たちは取れてしまった。
初めは喜んでいたのですけれども、だんだんとその喜びがなくなってしまいました。
このところをリビングバイブルという聖書は面白く表現しています。
とうとうイエス様のところに来てと、とうとうという言葉を使っています。
忙しさも極限に至って、とうとうもう観音袋が消えてしまった。
もう丸太の顔つきも最初のにこやかにして迎えていた顔とは随分違うように私を。
皆さん、神様に報酬をすることは大きいことです。
けれどもその報酬のやり方です。
心の空にもなく報酬をすれば、だんだんと忙しくなって心は乱れて、
12:02
あるいは妹を批判し、あるいはイエス様に対しても苦情をするわけです。
苦情を言うようになるわけです。
不平不満、たらたらです。
美味しいご馳走も美味しくありません。
さて、聖書はこの信仰の欠けだらけのものに対してどう言っているのか。
きょうどうぞ皆さん、聖書を教えてみてください。
弱音の福音書の11章の5節。
イエスはマルカとその姉妹とラザロを愛しておられます。
ともすれば、この物語がマリア中心になりがちな中、
マリアという名前が消えてですね、ここでは。
あえてマルカの名前を使っているわけです。
ただし、イエス様の目から言うならば、マルカも愛される。
マリアは必要な大切なものを選びました。
そしてその必要なことはたった一つだと言っています。
大切な、必要なものは何でしょうか。
それはたった一つだと限定するほどに大切なものは何でしょうか。
今朝皆さんは神様からの声を聞いていました。
神様は必要なものは一つだけですよと言いました。
それは、今私たちは心を神様に集中することであります。
マルカの心は神様に集中するところが分裂していました。
けれども心を神様に集中して、
そして今どうしても必要なことに思いを寄せることが信仰である。
信仰生活の上で基本的なことは考えることや、あるいは語ることや、
いろいろ本性をすることではなくて、まず聞くことである。
15:00
神様の前に自分を出していく。
ローマ人の手紙の10章の17節に、信仰は聞くことから始まる。
聞くことは、聞い人についての言葉を通して聞いて見つめます。
そう言っていると、私たちは神様から作られたもの、そして住み人である。
また神様の御心を知らなければ、まことに何をしていけばいいのか分からない。
まずに言葉を聞くことである。
ゲストにも言われました。
必要なものは一つだけです。
その一つとは何でしょうか。
大切なものはたくさんあります。
けれども無くてならないものは、必要なものは一つだけと限定するほどに大切なものはない。
牧師録の18章においては、地上でみなさんが求めているものが、価値がなくなっていく時が来る。
そして誰も買わなくなる。
牧師録の18章を見るならば、金や銀や宝石や真珠や天物や香油や小麦や、
牛や車や奴隷や地図にはずっと出てくるわけです。
大切な言葉、大切なものがいっぱい出てくる。
ともこの世でみんなが求めているものです。
でも誰も買う人がいなくなったと言っています。
たとえそれらのものがなくても、人は幸せになれるし天国に行くことができる。
しかし一つの大切なもの、それは永遠に関するもの、天国への切符です。
ある人はずばり、ゲストは自信かと言っていますが、
私もそう思います。
マリアはゲストの足元に座って引き入っていました。
18:05
御言葉によって救われ、ゲストのもとに売り分けられました。
その救いが私たちを天国まで運んでくれました。
それ以外に天国まで運んでくれるものはありません。
そしてゲスト様がここにいます。
この時が大切になります。
想像するならば、マリアはゲスト様の足元にいて、いろんなことを聞いたと思います。
ゲスト様は神の国についてのか、またそこからの国へのためであるとか、
あるいは数十時間来られて、そしてみんなの御祝いとなって十字架に架けられるとか、
そういうものも私は想像を伝わっています。
すなわちゲスト様は、その座っているマリアに対して、
マリア様中の永遠に対する関わりに対することを話されたのだろうとなりました。
福音の引きについてです。
だって私たちは今、神様に集中しているでしょうか。
皆さんは救われて天国に行くことができるでしょうか。
先生、私は今日見されても天国に行けますと言われたら、
ああ、これは感謝のことであります。
私たちはゲスト様の声を聞くために、礼拝するために集ってまいりました。
ですから私たちは、その礼拝の最初の前奏からです。
メッセージだけが中心となって、後のものはそういうものではないです。
神秘においても、道徳文においても、使徒信条においても、
その一つ一つを持って私たちの心を神様に向けていく。
そしてもし、そこでたとえ見されたとしても、感謝だ。
すなわち、その一つ一つを私たちは言葉の果てと言われるかもしれませんが、
命かけて知っているのです。
ですから、説教以外のものは付け加えというのではない。
ですから、私たちの心は、今日見されても天国に行くことができるか。
先生、立ち止めです。この御言葉に後悔がありますが、
たとえ今見されたとしても、私は天国に行くことができる。
これは幸いなことです。
また、神様、私はあなたの声を聞きたくて、あなたの前にヘネがありました。
21:01
死をお語りください。
人の様子や声ではなくて、この礼拝で各自神様の声を聞く。
参議院議では、神様に耳を傾ける方が捧げ者よりも優れそうです。
どうぞ皆さん、どんな人でも永遠に関する救いに関する御言葉だけは聞き流してはいけないと思います。
どうしても大切なことは、あなたを天国まで導く救いのことです。
さて、次に神々たちが現れたのは、ヨアネの11章のラザルの復活の過程です。
ヨアネの11章のこの20ステップに、
マルタはイエスが来られたと聞いて出迎えに来た。
マリアは家で座っている。
ヨアネはこの二人の姉妹の相方を対照的に変えてやる。
ルカの勲章においても対照的に変えてやる。
イエス様とそのお弟子たちを家に迎えても、お手納めのために忙しくしているマルタと。
そして一方、イエス様も側に座り込んで御言葉を聞いているマリア。
そしてマルタは爆発してしまいました。
さて、このヨアネの10章においても、マルタは出迎えて、マリアは座っていました。
さらに12章を見るならば、救事に接しているこのマルタの姿が描かれ、
お世話すること、救事することが彼女にとって自然なこと、気遣いの人であって、配慮の人です。
でもその前のこの11章のところでありますが、マルタはイエス様を出迎えに来ました。
そしてイエス様に出迎える意味や好みや、相変わらず心にある不満をイエス様に受けているわけです。
21章、マルタはイエスに言った。
24:03
主よ、もしここにいてくださったから、私の兄弟は死ななかったでしょう。
なぜ早く来てくださらなかったのか。
なぜ助けてくれなかったのですか。
お葬式は終わり、もう4日前には墓に葬られてしまいました。
ずっとおそらく心に抱いていたその問い、あるいはイエス様に対する不満もあったでしょう。
失望の思いもあったでしょう。
だってイエス様とのこの受け答え、会話、今日はそのところは詳しくはお話はしません。
でも皆さんが先ほど読んでいただいたところを見るならば、マルタは聖書知識も教理も熟知していて、
我々の世の蘇りを知っていたことは、まるで人神像をただ備えているかのようです。
聖書を暗示してですね、口先で言っているかのようです。
信じますと言いながらですね、墓碑を取り除けなさいと言ったら、もう臭くなっているかのようです。
死んですぐには蘇るかもしれないけれども、もう4日も経っていますから、だめです。
頭の中でイエス様は何でもできると信じておりながらですね、その御言葉に信頼して一歩進もうとはしなかった。
誰も彼女を責めるとはしません。私たちも人神像を備え、聖書を頭で信じているはずであります。
でもなかなかそのようには生きていません。
弟ラバムの死という現実の前に彼女たちには限界がありました。
死をもしあなたがここに行きつかなかったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。
マルカは言いました。
でもその同じ言葉をマリアも言っている。
私はここで私自身の教えたことは、
27:08
イシンコはみんな一緒なんだな、マルカもマリアも。
かつてマリアはイエス様の足元にいて御言葉を響いていました。
ここではどうかご覧なさい。
その足元に切り伏していた。
ここを直訳すると、崩れていったという意味です。
私の兄弟は死ななかったでしょうね。
といった途端に言葉にならなかった。
泣き崩れたわけない。
ただイエス様の前に泣くしかなかったわけない。
私たちは信仰であっても、
もっと悩んでもいいんじゃないだろう。
もっと愚痴をこぼしてもいいんじゃないだろう。
もっと泣いて、そこで悩んで、もっと悲しんで。
でもそこからしか見えない。
またそこからしか気づかない。
イエス様のご臨在、確かな恵みがある。
イエス様は、この病気は死で終わるものではないと言いました。
そして死んだララロのお姉さんマルタに語った言葉。
25節。
私はよみがいで次の地で。
私を信じる者は死んでも生きるまで。
また生きていて私を信じる者は永遠に。
決して死ぬことはありません。
あなたもこのことを信じます。
僕主の務めが聖書に書いてあることを
わかりやすく説明するという
この務めがあるとするならば
この言葉に関してはもう
私の手に植えるような言葉ではない。
30:00
この言葉を説明して
人に納得させることは不可能です。
イエス様ご自身も一切の説明をしていないです。
信じる者は死んでも生きる。
生きていて信じるなら
決して死にません。
そして説明向きで
あなたはこれを信じるかと言われたわけです。
イエス様が私たちに聞きたいことはただ一つ
あなたはこれを信じるか。
この病は死で終わらない。
けれども現に人が死んでいるんです。
間違いなく死んでいるんです。
墓に葬られているんです。
人が死んでいるという事実が
あなたにとって確かで動かし難い事実に見えようとも
イエス様はこの病は死で終わるものではない。
あなたはこれを信じるか。
だから私たちにとって問題なのは
この聖書を教えていることは
たとえ肉体が死んでも
リュイコンが残るから大丈夫だということではない。
体は死んでも魂は天国に行ったところにいて
いつまでも生きているということでもない。
世の中の人たちは
天の風に乗ってあなたの周りについて
そうやってあなたを見守っていてくれますよということではない。
その一つ一つが気集めに過ぎないことは私たちがよく知っている。
そうではなくて
聖書が私たちに伝えたいことは
私たちに伝えているただ一つのこと
それはここにできたのです。
そして本当に死んでしまった人を前にして
この病は死で終わるものではない
そういうことをできた人が
死んでいるんだけども
これで終わるんじゃありませんよという
イエス様がおられる。
そしてその言葉が
嘘でないことを知的を持って
33:01
示すことができたお方がいたんだ。
その方が私たちの人間の中に生きてくださった。
今も生きてくださるということの中に
私たちの希望があるんだということです。
イエス様はしょっちゅうエルサリに向かうときに
このマルタ・マリア・ラドロの家を訪問しました。
何度も何度も行って泊まりました。
そのイエス様との深い関係の中で
マルタ・マリアは弟ラドロを愛してもらいました。
そのことを体験した彼女は
どう生きていくのか。
次に彼女たちの姿が見られるのは
ヨワネの12章です。
さてイエスはスリコスの祭りの6日前に
ベタニアに来られた。
そこにはイエスが死人の中から飲み会なされたラドロがいた。
人々はイエスのためにそこに夕食を用意した。
マルタは休止しラドロはイエスとともに
食卓についていた人たちもいました。
一方マリアは
相変わらずこのマルタはここでも休止しています。
しかしもういい。ここでは嫌がりません。
イエス様もまたここで喜んで休止を受けていました。
ラドロはその席にいて
何をしたとも何を語ったとも記されていました。
でも多くの人たちはさらにイエス様を見るだけではなく
イエス様に触れるだけではなく
ここに死からよみがえらされたラドロを見るために
休止するということでしょう。
すると大勢のユダヤ人の群衆がそこにイエスがおられると知ってやってきた。
イエスに会うためだけではなく
イエスが死人の中からよみがえらされたラドロを見るだけでなく
ラドロが見たい。
36:00
神様の宮座が現れた
変えられたラドロを見たい。
私たちは何か神様に防止するというよりも
神様の力が本当にめぐみが働いて
その人が変わっていく。
こんなことが起こったらこのようになった。
あのノンベが飲まなくなった。
あのジャングルで薬を飲ませていたご主人さんが変えられた。
そういう私はもう山から行った。
そのことを見て神様は何と素晴らしいことをしたのか。
その人を見て神様は分かるわけです。
赤羽に住んでいたゲラサ人は皆さんもよくご存知の
彼はやたりとイエス様のことも伝えています。
しかしイエス様はあなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。
神があなたにどんなに大きなことをしてくださったのか。
どんなに憐れんでくださったのかを知らせなさい。
皆さん、イエス様に愛された人
めぐみを受けた人
大きなことをしてくださった人は
拝見した人はそれに応えていく。
それも自分の頑張りではなくて
知らぬ知らぬのうちに無意識に
イエス様の場合に押し出されてですね
やっていく。
クリスはみんな主に応える献身者でしょ。
何も読士やあるいは宣教師が献身者だけではなくて
イエス様の愛を受けたら
大きく受けたならばそれに応えていく。
多く許されたならばあのマグダラのマリアのように
多く許されたからイエス様に応えていく。
そしてイエス様のために
その人生を使っていきたいと思うわけです。
聖書の御言葉の中に
クリスの愛が強く私に迫っていく。
イエス様の愛を体験したものを知ったものが
イエス様の愛です。
私たちは忙しい時代に生きてきて
忙しいからなかなか奉仕ができませんという方も
39:00
あるいはまた長官にいけませんという方も
私はそれをどうこういうのではなくて
本当にイエス様のご愛を続けて
それに応えていこうとしているか
もっと進めているならば
本当にイエス様の愛を受けたのかどうか
皆さんはイエス様を愛しておられるか
愛していればそれでいいのではないか
それはイエス様の愛を受けたということ
そこでイエス様を体験したものは
何とも言いますが
頑張って奉仕するのではなくて
無意識に自然に喜んで感謝して
この人たちから
あなたは無駄遣いをしていると言われたマリアでありましたが
イエス様は彼女を賞賛しました
イエス様は私を愛してくださった
弟ラサノに慰してくださった
お姉さんに対して
その愛に応えていこうと彼女はしたわけです
皆さん愛のありたる印は何でしょうか
その価値を無視して
受けたことを感謝して
犠牲を払うことになさい
と答えます
40:57

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