1. 名谷教会
  2. 2011/09/25:聖日礼拝(旧音源)
2011-09-25 51:10

2011/09/25:聖日礼拝(旧音源)

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2011/09/25 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。
聖書を朗読していただきます。
池田茉積姉妹に、
使徒の働き、11章の21節から26節までを朗読していただきます。
その後、聖歌体に賛美していただきます。
聖書を拝読いたします。
使徒の働き、第11章、21節より、
そして、主の御手が彼らと共にあったので、大勢の人が信じて主に立ち帰った。
この知らせがエルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオ家に派遣した。
彼はそこに到着した時、神の恵みを見て喜び、
皆が心を固く保って常に主に留まっているようにと励ました。
彼は立派な人物で、精霊と信仰に満ちている人であった。
こうして、大勢の人が主に導かれた。
バルナバはサウルを探しにタルソへ行き、彼に会ってアンテオ家に連れてきた。
そして、丸1年の間、彼らは教会に集まり、大勢の人たちを教えた。
弟子たちはアンテオ家で初めてキリスト社と呼ばれるようになった。
聖火隊に参議していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
03:02
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
聖火518番、その後、内田正晴牧師より誇るべきあだ名と題して説教していただきます。
皆さんおはようございます。
今日は爽やかな一日で本当に恵まれて感謝をしております。
今日もまた御言葉をいただきたいと思いますが、その前に一言お祈りをいたします。
ハレルヤ天において主をほめたたえよ。
伊都高きところで主をほめたたえよ。
恵み深い天の父なる神様、今日も私たちをこえなく愛しまた育んで、今日の一日を与えてくださってありがとうございます。
9月もここまで支えられ、夏の暑い日々も過ぎ去ろうとしております。
自然の恵みを私たちは体いっぱいに受けて、また今日の一日を迎えております。
爽やかなこの秋の来るのを感じる今日のこの一日、私たちは心からあなたをほめたたえるためにこの礼拝に集っています。
06:07
精霊様が導いてくださり、この水道へと送り出してくださったこの特権をありがとうございます。
どうぞ今心一つにしてあなたを拝して、この礼拝の主なるお方を礼の目でしっかりと見て、またこのお方を拝してここからまた歩みゆかせていただけますようにお願いをいたします。
私たちの周りには様々なことがあり、またこの日本においてもいろいろと震災の被害、台風の被害がございます。
どうぞその痛みをも私たちが分かち合い、また祈り、またそのために何かできることはないかと日頃主に祈っていますが、
今日この安息の日、まずひとたびそういうこともおいて、解放されて、私たちにどの人にも分け隔てなく雨を降らせ、また日を昇らせ、またこの秋の爽やかな日を与えてくださるこの主を拝して、そして今日の一日をまた感謝して過ごすことができるように。
またこれからのいろんな戦いの中に出行くそのものにも励ましと、また力を与えて、どんな困難にも打ち勝つ力を与えてくださるように、そのためのまた御言葉をいただき、そして慰めて、また励ましてお送りくださるようお願いいたします。
今日も主を主体求め、国と神の義をまず第一にして集ってくださった二枚にありますお一人お一人を、今主が御手にとらえて、その魂に精霊を注いでいただけますようにお願いいたします。
また御言葉を通してあなたの御旨を教えてください。今日来ることのできたことを感謝し、また来れなかった兄弟姉妹方のうちにもあなたが届いてくださり、私たちの祈りをも聞き入れて、ふさわしくあなたが臨んでくださるようお願いいたします。来たる時にはまた共に声高らかにあなたを賛美できますようにどうぞ導いてください。
一切のものを主に委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。今朝は教会学校、少し時間を早めて終わり、そして南落合小学校の運動会に行ってきました。行ってきましたというより、覗いてきました。
子供たちが一生懸命演技やら、加血行をしておりましたが、もし礼拝になっても牧師が戻ってなかったら運動会で楽しんでいるんだろうというふうに言っておいてくださいということでしたが、無事間に合って帰ってきました。
09:14
本当に子供たちが喜ぶ姿を見て、私たちの将来を託せるという思いもありますし、私たちが子供たちの将来のために、また一つ一つの魂のために引き続いて祈りをさせていただきたいと思っております。
本当にこの爽やかな一日。またそういうところに行くことによって、かつての自分、そういうものを取り戻す、そういう良い機会でもありますし、自分たちの大きくなった子供たちが、あの頃、そういえば自分も弁当を持ったり、いろいろと運動会にも行ったな、
あるいは府県の架けっこで足がもつれて転んだなとか、そういう思いでもよみがえってきます。
今日のその一日、私たちはまずここで手術の礼拝、安息日を守らせていただき、またそれぞれに使わせていただきたいとそう願っております。
今日も御言葉から神様の夢音を教えていただきたいと思っております。
使徒の働きの十一章、全体を見ながら一緒に御言葉に聞いていきたいと思います。
私の友達の一人にブッチーという人がいます。
このブッチーというのはニックネームで、ちゃんと名前があるんですね。池渕。池渕くんなんですが、みんなブッチーと言っています。
携帯にその名前登録にブッチーと入っているかどうかは別にして、みんながそう言うんですね。
ブッチーどうしてる?元気にしてるかなという、そんなことがありますよね。
あるいはそれこそ小学校の頃に、背が高くてひょろひょろっとした男の子がいました。
その子のことをみんなきゅうりと言っておりました。懐かしい。そんなことがありますね。
それはいわゆるあだ名ということですよね。いつしかその人をそういうふうに呼ぶようになった。
決してそれが本名でもないし、その人がきゅうりでもない、ちゃんとした人間であるわけですが、
そういうふうにいつしかそのように呼ばれるようになった。
12:00
そのことが今日の使徒の働き十一章の二十六節。
イエス様の弟子たちが二十六節のところで、弟子たちはアンテオ家で初めてキリスト舎と呼ばれるようになった。
公約聖書では弟子たちはアンテオ家で初めてクリスチャンと呼ばれるようになったというふうに書かれてあるわけです。
それまで彼らは別に何か呼ばれていたかというと、そういうことはなかったろうと思うんですね。
何かある人たちがあそこで集まって何かしているらしい。
あるいはこちらで何か祈っているらしい。
そういうようなことが一年、二年、三年続いていった。
そういうのを見ていた周りの人たちが、あの人たちはあそこで集まっては、あるいは何かしている。
会うと話すと何かはいつも口からキリスト、キリスト、キリスト、キリストと言っている。
そういうことがいろいろ周りの人々に伝わって、いつしかあの人たちはキリスト舎だ、クリスチャンだというふうに呼ばれるようになった。
一種のニックネームと言いましょうか、あだ名をつけられたわけです。
ですから最初からクリスチャンとかいうものはなかったわけですね。
キリストの弟子たちも自分たちがクリスチャンだとかそんなことを考えたこともない。
そういう名前も自分たちが、自分でつけたわけでもない。
周りの人たちがいつしかそういうように呼ぶようになった。
それがこの十一書の中で書かれてあるわけです。
弟子たちはアンテヨケで初めてキリスト舎、クリスチャンと呼ばれるようになった。
クリスチャンと呼ばれるようになったんですね。
話はまた変わるんですけれども、この間の教会のキャンプに来ていた小さな三歳ぐらいの女の子だったかな。
よく来たね。名前は何て言うの?って聞くと、アイちゃんと言いました。
自分のことをアイちゃんと言いましたね。
そう、よく言えたね。君はアイちゃんか。私はクリスチャン。
そんなことは言わなかったんですが、私たちはクリスチャンですよね。
でも、私たちは最初からクリスチャンとか、私はクリスチャンですという名前をつけたり、そういうものを掲げて生きているわけではない。
一人の人間として生きている。
しかし、いつしか弟子たちのことを周りの人たちがクリスチャンと呼ぶようになった。
15:06
それをこの2000年代ずっと受け継いできて、そして今日に至ってもクリスチャンと呼ばれる人がこの世の中にはたくさんいるということですね。
私たちもそのうちの一人であるということ。
ですから、今日はこのクリスチャンという一つのあだ名、それについてもう一度整理しておかなければいけないということを覚えたわけです。
このあだ名というのを辞書で調べてみますと、人の顔形や性格とか、その人の何か特徴によって他の人がつけた別の名前、呼び名あるいはニックネームのこと。
本当の名前はその人にあるのに、それを呼ばずに別の名前で呼ぶということ。
それをあだ名と言うんですが、まさにこの弟子たちは当時初めてクリスチャンだ、クリスチャンだ、あの人たちはクリスチャンだと呼ぶようになったわけです。
ただ、このあだ名というのは呼ぶ方は勝手につけていいわけですけれども、
呼ばれる方がもし心地よい、あるいはそれが親しみを持てるものならばそれでいいと思うんですが、
もし本人が不愉快だというのならば、これはそう呼ばない方がいいと思うんですね。
そのあだ名は却下するということに、少しずつそういうものが消えていくようにしないといけないと思うんですが、
この当時彼らはクリスチャンと呼ばれていたということ。
そしてそれが今日に至るまでそのあだ名はずっと続いているんだということですね。
では当時どういう人たちをクリスチャンと呼んだのかということを私たちが見ることによって、
そして私たちこの21世紀のクリスチャンと呼ばれている人たち、その人たちのことも考え、そして祈っていきたいと思うんですが、
まず第一に、例えば11章の1節のところに、
さて、人たちやユダヤにいる兄弟たちは違法人たちも神の御言葉を受け入れたということを耳にした。
ここに神の御言葉を受け入れた。
これが周りの人たちにとっては一つのクリスチャンと呼ぶ人たちの特徴であった。
あるいは17節、こういうわけですから私たちが主イエス・キリストを信じた時、神が私たちにくださったのと同じ賜物を彼らにもお授けになった。
18:09
ここに主イエス・キリストを信じたという言葉を書いています。
21節、そして主の御手が彼らと共にあったので大勢の人が信じて主に立ち帰った。
ここに信じてということがあります。
当時の周りの人たちが、そこにいるキリストの弟子たち、その人たちのことを、
ああ、あの人たちは神の御言葉を受け入れたそういう人たち、そしてイエス・キリストを信じている人たち、そういう人たちだということがわかるようになって、
あの人たちはクリスチャンだということを言ったわけです。
ですから、クリスチャンという人たちは、それは信じるとか受け入れたという、
まさに真言の神を信じて、そのお方を我が救い主と信じて、そして受け入れた人たち、
そういう人たちのことを、あの人たちはクリスチャンだ、キリスト者だというふうに呼んだわけです。
しかし考えてみますと、私たちは真言の神、これは三味一体の神を真言の神とする。
それは聖書を通し、またあるいはそれをまとめた教団の信仰告白にも書かれていますように、
私たちは三味一体の神を真言の神として信じる信仰に立っている。
決してキリストだけが神ではないということは、これは言わずもがなですね。
しかしクリスチャン、キリスト者というふうに呼ばれているわけです。
ですからあだ名というのは、決してあだ名はあだ名であって、その実態ではないわけですね。
皆さんがイメージを持って言っただけであって、その本質はまた違うということ。
ですから私たちもそのことをはっきりと再認識しておく必要があります。
キリスト者だからキリストのみが神ではない。私たちは父なる神、子なる神イエスキリスト、そして聖霊なる神、
この三味一体を真言の神として信じて、それを救い主として受け入れた者たち。
ですから本当ならクリスチャンというよりも三味一体ちゃんみたいな、そんなふうには呼ばれなかったわけですね。
どうしても彼らはキリスト、キリスト、キリストと言っていたものですから、キリスト者、クリスチャンというふうになったわけです。
ですからそれはニックネーム、あだ名であって本質ではない。
私たちの信ずる真言の神は三味一体なのだということですね。
21:05
当然イエスキリストというときには父なる神も聖霊も一緒に言っているわけですし、
父なる神というときにはイエスキリストも聖霊も一緒、聖霊なる神よというときは父なる神もキリストも、
その三味一体を私たちは真言の神として信じて、そして受けているんだ。
そして何よりも神の御言葉を受け入れた。
ですから私たちが信ずるこの信仰に御言葉、あれは聖書というものをなくしてはあり得ないということですね。
聖書を偽りのない神の言葉としてそれを信じて受け入れているもの。
これに疑いを持つもの、あるいはこれに何か批判する。
それはいわゆるクリスチャン、キリスト社ではないということですね。
ですから私たちがまずこのお方を信ずる、あるいは信仰に入る第一歩はやはりこの神の御言葉に出会い、
そしてこの御言葉をしっかりと受け入れてこの御言葉に従っていくという。
それは欠かせない。
それをしっかりと認識し、そういうふうに歩んでいこうと決めた人たち、その人たちがクリスチャンである。
当時の弟子たちも当然そうしていましたし、今日のクリスチャンたちもそうであります。
御言葉なくしてクリスチャンではあり得ない。
ですから聖書を読まない、それじゃクリスチャンってあるのかというのはこれはないですね。
もう矛盾します。
クリスチャンは聖書を読む、神の御言葉を受け入れたもの。
ですから私たちが日ごとに御飯をいただいて健康を保つ。
ですからクリスチャンは魂を養い、そしてそれを育てるために御言葉という霊の御飯をいただく。
ですからクリスチャンにとって魂の食事、それは御言葉であります。
ですからクリスチャンは御言葉をいただく、それはもう一つのことですね。
ですからクリスチャンが聖書を読まない、神の御言葉をいただかないということは、これはないわけです。
もし少し最近御飯を食べていないという方は、ぜひもう一度今日からこの魂の御飯である聖書をいただいてください。
それはクリスチャンとしての特権でありますし、恵みでありますし、この聖書を読むということが何よりの楽しみであり、
そしてかつて自分はこの聖書を読むことが生き甲斐であったり、あるいはこの聖書を読むことが毎日の喜びであった、そういう時があったわけですね。
24:11
ですからもし御言葉から遠のいているならば、そういうクリスチャンがいたならば、もう一度そこに帰って、
今日からもう一度この神様の御言葉、礼の糧をいただこう、それがクリスチャンなのだということを再認識して、
そしてただ自分は飽き性なので、ちょっとしてもすぐまたやめてしまう。
でもこのクリスチャンであるということとか、あるいは聖書を読むということは、この飽き性とかそんなこととは関係ありません。
これはそれこそ私は飽き性で長続きしないから、御飯を食べるのをちょっとやめますという人はいないわけです。
ですからクリスチャンは常にこの御言葉をいただく、自分の御飯として糧としていただくということ、これを生涯やめてはいけないわけです。
もしやめたならば、それこそ飢餓状態、もう痩せ細って、やがては死んでしまうという大変なことになってしまう。
ですからクリスチャンにとってこの御言葉と、そしてそれを信じて受け入れる、これは一つのことであり、クリスチャンというのはそういうものをしてきた者たち。
そして今もこの御言葉を常にいただいている者たち。
そういう人たちのことを周りの人たちは、あの人たちはキリスト社、クリスチャンだというふうに読んだわけです。
二つ目に、それじゃあどういう人たちのことをクリスチャンと言ったのか。
十八節見てみますと、人々はこれを聞いて沈黙し、それでは神は命に至る食い改めを、違法人たちにもお与えになったのだと言って神を褒めたたえた。
ここに命に至る食い改めということが書かれてあります。
例えば十六節、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は精霊によってバプテスマを授けられると言われた御言葉。
ここにバプテスマということが繰り返し書かれています。
十五節にも、精霊があの最初のとき私たちにお下りになったのと同じように、ここに精霊ということが書かれてあります。
ですから人々がその人たち、キリストの弟子たちのことを見ていたときに、
あの人たちは何やら永遠の命とか命に至るそういう素晴らしいものを得たと言って喜んでいる。
そしてバプテスマというものを受けて、それによって精霊の注ぎをいただいて、
27:06
そして新しくそこから生まれ変わって歩んでいくんだということを言っているということを周りの人たちは聞きました。
ですからクリスチャンというのは悔い改めて、そしてバプテスマを受けて、そしてそのことによって精霊の注ぎを受けた人たち、
そういう人たちがキリスト社あるいはクリスチャンと呼ばれるようになった。
信じて、そして自分の罪を悔い改めて、そして神の許しをいただく、あるいは精霊の注ぎをいただき、
そういうことから私たちの新しい歩みが始まっていくわけです。
その一つの印、あるいは一つの儀式として私たちはバプテスマを受ける。
私たちは信じて、そして口で告白して救われる、そのように書いています。
それはローマ人への手紙の十章のところに書いてあるわけですね。
私たちにとって、人間にとって大切なことは救いということです。救われるということ。
それでは救われるということはどういうことなのか。ローマ人への十章の九節、十節。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからだ。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ここには信じる、あるいは告白する、それが救いなのだ。
神様はそれを見て、それでいいのだ、あなたは救いに預かったのだと言ってくださるわけですね。
そしてその一つの表しとして、永遠の命の保証として私たちは主が十字架にかかって、そしてよみがえってくださった。
そのことに合わせて私たちは水のバプテスマを受ける。
このバプテスマというのは、私たちが古い自分に死んで、そして新しくよみがえる。
神様の新しい命をそこにいただいて、そして前とは違う新しい自分がそこから歩み出すんだ。
それを自分が最確にし、あるいは周りの兄弟姉妹方と共にそれを分かち合って喜ぶ。
それをするわけですね、洗礼、あるいは洗礼式。
ある人は私は心に信じて、そして口で告白し、だから救われています。
それじゃあ洗礼を受けましょう。
いやちょっと待ってください先生、もうちょっと考えさせていただきます。
30:01
いやでもあなたは信じて、救われたんです。
だからそれを自分が確認し、そして皆さんにもそれを公表してお祝いしましょう、洗礼を受けましょう。
でも何かその人の中には洗礼という少し自分なりのイメージがあるようですね。
ですからちょっと待ってください、そうおっしゃる方がいますし、皆さんの中でもどうでしょうか。
洗礼というとちょっと待ってください、それは先ほど言ったと同じように矛盾しています。
信じて口で告白し、救われたなら即バプテスマなんですね。
そしてそれで私たちはイエス様の新しい命に預かってクリスチャンとなっていく。
ですから信じて救われたならばバプテスマを受けましょう。
中には、いや私はかつてバプテスマを受けたんです。
でももう信仰はいいです、精神も呼んでないし、礼拝も行ってないし、そういうおっしゃる方がいます。
でもそれも矛盾しています。あなたはバプテスマを受けたんでしょ。
受けたということはあなたは信じて口で告白し、救われているんです。
もう一度それではバプテスマを受け直す、そんな必要はありません。
イエス様からいただいたその愛と許しとそして永遠の命の、この効力というものは永遠に変わることはない。
今あなたがすべきことはバプテスマを受けたということのその印は逆に言えばあなたは信じて告白して救われているんです。
ですからもう一度あのバプテスマを受けたときのあの思い、それをもう一度今日から改めて始めればいいわけであって、
決して信じることと口で告白することとバプテスマを決して離して別々に考えることをしてはいけない。
これは一体であるということですね。
私たちにとって特にこの日本でバプテスマということに関して何か先入観あるいは私たちに植え付けられた、
刷り込まれたものがあったならばそれをもう一度解決してそこから解放される必要があります。
信じて救われたならばバプテスマです。
バプテスマを受けたということはあなたは信仰を持って救われているんです。
ですから信仰から離れていようが、あるいはバプテスマを受けて今どういう状態にあろうが、
33:03
その人は間違いなくキリストの御救いに預かって、そして信仰者、そしてクリスチャンなんです。
その人たちはもう一度原点に立ち返って、そしてそこからまた始めればいいわけであります。
神様はきっとそのことを喜んでくださる。
そういう人たちのことを周りの人たちはキリスト社だ、クリスチャンだ、そして口ではキリスト、
そしてまた川へ行っては、あるいは何か水のあるところでは洗礼をさすけている。
そんなことを周りの人たちは見ていたんでしょうね。
三つ目にどういう人たちをクリスチャンと呼ぶようになったのか。
それは二十三節のところにこういう言葉が書いてあります。
彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、皆が心を固く保って常に主に留まっているようにと励ました。
ここに常に主に留まっていると書いてあります。
二十六節では、彼らは教会に集まり、大勢の人たちを教えた。
ここに教会に集まりということが書いています。
二十節に遡りますと、シュイエースのことを述べ伝えた。
ですから当時の人々は教会に集まって、そこでは礼拝というものをして、
そしてことあるごとに集まっては、そこで集会をし、
そして伝道あるいは宣教という御言葉を伝える、そういう働きをしておった。
そのような人たちのことをキリスト社あるいはクリスチャンと呼ぶようになった。
クリスチャンたちは、聖日あるいは主日と言われるこの週の始めの日、その日を礼拝の日と定めて、そして礼拝を捧げている。
そういう人たち。礼拝とは何か。
これを一言で言うことはできません。
ある人が自分は教会のことを何も知らないので、一度礼拝というものがどういうものか見てみたいと言って来られたわけですね。
そして帰られていかがでしたか。
何か自分と思っていたものと違うというようなことをおっしゃったわけですが、
私はいつも言うんですが、一回来ただけではわかりませんよと。
一回来たというのは年に50回ほど礼拝がありますが、その50分の1しか見ていないわけですから、それを見てだけで礼拝というのを決めないでくださいと。
36:07
でも何か自分が思い描いていたものと違うということで。
当然の当然でありまして、そんなことで決めてはいけません。
私たちにとってもこの礼拝というものがいかに豊かでいかに深くて、それだけの素晴らしいものがいっぱい詰まっている。
私たちにとってまだ知らない礼拝というのがたくさんあります。
あるいは私たちの神様が与えようとしてくださっているその恵み、まだまだ知らない部分がある。
それぐらいのこの礼拝、それを一回来ただけで、礼拝とはこういうものかということを決めるということはもうこれは大胆でありますし、決してそれだけで捉えられるものではない。
毎週毎週日曜日ごとに来てこそ、礼拝とはこういうものなのか、礼拝とはこういう新しい発見があった。
それを1年3年5年10年20年30年通い詰めてこそ、礼拝とはこういうものかと分かるものですね。
そして集会に彼らは集まっていた。それは時にはお祈り会でありましょうし、時には訓練のための集会でありますし、あるいはそういうものがない、ただ交わりという。
みんなが集まってどうしますか、元気にしてますか、あるいは一緒に何か食べたり歌ったりしましょうかという、そういうことをするために彼らは集まっていたわけです。
時には聖書の学びのために。それを見ていた周りの人たち、あの人たちはキリスト社、クリスチャンだというふうに言ったわけです。
私たちはそういう中で、いつしか自分は主を信じて、そしてクリスチャンになるわけですね。それはあだ名ですけれども、キリストを信じるものになるわけですね。
私たちはこういう時に自分も、あるいは周りの人も先輩のクリスチャンですね。そういう人たちも気をつけないといけないことが一つあります。
その主を信じて、そして救われて、そしてバプテスマを受けて、クリスチャンになったということですね。なったということは、その人はベビーのクリスチャンです。
アイちゃんではないですけれども、赤ちゃんです。あ、すべりました。赤ちゃんですね。赤ちゃんなんです。ですからこのことを本人もちゃんと自覚しておかないといけない。それが年齢が高くなればなるほどそうなんですね。
39:17
周りの人もそうです。なかなか難しい。例えば20歳でクリスチャンになった。あるいは50歳でクリスチャンになった。70歳でクリスチャンになった。それぞれにクリスチャンになったということは、その段階でベビーなんですね。赤ちゃんです。
その生まれたばかりの赤ちゃんに何か固いものを与える親はいないし、その赤ちゃんにもう5年生、6年生のお兄ちゃん、お姉ちゃんと同じような幼児を言いつける、そんな親もいないわけです。
ですから生まれたばかりのベビー赤ちゃんクリスチャンは、私は何も知らない、何もわからない、ただただ死を信じてバプティスムを受けて生まれたばかりの赤ちゃんです。だからそれでいいんです。
ですから1年経ち、2年経ち、3年経ち、そういうふうにして少しずついろんなことがわかってきたり、力をつけてきたり、そして何かできるようになるわけですね。
周りの人もこの人は年齢はさておいて、生まれたばかりの赤ちゃん、ですからその赤ちゃんに周りの人たちと同じような扱いは当然できませんし、少しずつ少しずつその成長を見守り、そして支えて、そして大きくなるようにという願い、祈りをしていく。
それがうまくいけば本当に年を追うごとに成長されていく。
それは時折難しい時があります。年齢が高くなればなるほど、そのベビークリスチャンの年齢が高くなればなるほどという言い方は難しいんですが、やはり自分はクリスチャンになったんだ、そして実際の年はもう30、50いっていると。
周りの人たちはあんなにうまくお祈りしている、あんなに精神をよく知っている、自分は何も知らない、当たり前ですと言うんですけれども、なかなかそういかないと。
それは私たちが気をつけなければいけないところですね。
ですから、焦らなくてあなたはどういう言い方がいいのか、僕としても難しいんですが、赤ちゃんクリスチャンでだめならベビークリスチャンなのか、生まれたばかりなんですよ、あるいはクリスチャンになったばかりなんですよと言い続けるんですが、どうしてもそういう気負いがある。
周りの人たちはあんなにすらすらお祈りする、精神のこともよく知っている。
42:02
当然です、あの人たちも5年、10年、20年、30年かかってここまで来たんです。
あの人たちも最初は赤ちゃんで何も知らなかったんですと言うんですが、私はあの人たちのように立派にできませんとかおっしゃる。
それはもうなしにしましょう。
私たち周りの者もそのことを配慮して、1年目はこれぐらいで、2年目、3年目、4年目と。
その進行歴と言ってもいいのか、その成長に合わせて、あるいは時を重ねるごとに、それに付随して成長していくように見守り、配慮し、支えてあげないといけないということなんです。
もちろんあの人は何年で私は何年、そういう単純にまた比べられるものではありません。
その人の進み具合、成長の度合いというのを私たちは見ながら、その段階段階で精一杯励んでいる。
それが一番ふさわしいことだろうと、そう思うわけです。
こういうふうにして、キリスト社と呼ばれるような人たち、あるいはクリスチャンと呼ばれるような人たちが当時いたわけです。
そして、今日この2000年たった今も、その人たちの流れを汲んで、この21世紀にも同じように礼拝を保ち、集会をし、そしてお祈りをし、また訓練を受けて、そして宣教、御言葉の宣教に預かる、そういうような人たちがいるということですね。
もし私たちもその人たちの中に加えられているならば、その者はクリスチャンであります。
当時はこのキリストの弟子たち、集まっては何かをしておった。
いわば彼らの交わりとかグループというのは、アリのような本当に小さな群れであったわけです。
そして、そのキリスト社であったりクリスチャンと呼ばれるようなそういう人たち、その教会はやがて当時ゾウのような巨大なローマ帝国を倒してしまうほどの力を持つようになるわけです。
そして、2000年たったそのキリスト社、クリスチャン、教会が、この21世紀にも主にあって立てられ、また生かされているということですね。
45:02
世界中にそれこそクリスチャンとあだなされて、あるいは呼ばれている人たちがその信仰を守り通している。
今日もこの日本中の教会、あるいは世界中の教会で礼拝がもたれている。
そこに集っているキリストを信ずる者たち、三民一体の神を信じて励んでいる人たちはクリスチャン、私たちと同じ兄弟姉妹と言われる者たち。
その人たちが今日も世界中で主を礼拝している。
当時のこの弟子たちは安定を受けで初めてキリスト社と呼ばれるようになった。
クリスチャンと呼ばれるようになった。
そのキリスト社、あるいはクリスチャンというのは当時はただのあだなにすぎなかった。
しかしその後、私たちの先輩、あるいはこの2000年の間にキリストを信ずる者たちがたくさんの良きことをしてきた。
世界中でいろんなクリスチャンたちが生まれ、そして大きな活躍をし、
時には世の光、地の塩となって、世に大きな貢献をしてきてくださったということですね。
私たちもその流れの中の一人に加えられている。
その人たちのおかげで、このクリスチャンというあだ名は今や一つのブランドです。
あなたはクリスチャンなんですか、そうですか、というような。
中には一目億というような人たちも出ている。
私もあなたが信じている、そういう世界に憧れています。
そういう人たちもいます。
あるいはクリスチャンたちがこの世にあって、いろんな悪の戦い、さまざまな困難の中で手を差し伸べて活躍してくださっている。
本当にありがとうございます、そういう人たちがいてくれるということは、私たちにとって本当に救いであり慰めですと言ってくださる、そういう人たちもあるわけです。
このクリスチャンというあだ名は今やブランドであり、もし私たちがそういう中の一人に加えられているならば、私たちはクリスチャンであるということの誇りを持っていいわけです。
そして私たちはしっかりと十字架を仰いで、クリスチャンであるという名札をつけたり掲げて生きているわけではありませんけれども、
48:04
皆さんがクリスチャンとして持っておられるイメージとか、あるいは何か呼んでいるその中に、私たちもそれに応えていけるような、そういうものであろうというふうになろうと、
それは神様の恵みでしかなれないわけですが、生涯この神様の恵みの中に行かせていただく、これは本当に特権であります。
狭き門から入りなさいと聖書に書かれてあるように、このクリスチャンという今やそのブランドを私たちがいただいているということは、本当に狭き門から入ったわけですね。
ですからそれを本当に大事にして、そして誇りを持ってしっかりと主に従っていく、そういう神様の恵みの中に生きていくものであり続けようと、そう願ってお祈りをさせていただきます。
弟子たちは安定を受けで初めてキリスト社、クリスチャンと呼ばれるようになった。天の神様、今日はもう一度このクリスチャンということについて、いろいろと御言葉から考えさせられ整理をいたしました。
私たちが一人の人間として、時には御言葉に出会い、キリストに出会い、また教会に出会い、そしてその神様の恵みの中に加えていただいたことをありがとうございます。
私たちがどう呼ばれようと、あるいは自らを何と呼ぶのか、そういうことは抜きにして、私たちはこの三位一体の神を誠の神とし、そしてこの神様の恵みの中にしっかりと生きて、主が十字架の上で現してくださったその愛と許しのこのメッセージをしっかりと受け止めて、
今日も世に会って、地の主を世の光として会いましていただけますように、もしふさわしくないという思いがあるならば、そういうものも一切主に委ねて、今あるがままを主に見ていただいて、そして主が私を成長させていただき、
そしてまたその神様の見足の後を従えるような、そういうものになれるように精霊を注いでください。そして何よりも自分が主を信じ、またバクテスマを受けたあの始めを思い出し、もう一度原点に戻って、そこから始めさせていただき、霊に燃え、主に仕えるものとならせていただけるように、どうぞ一人一人をお導きください。
今日の御言葉を感謝し、イエス様の皆によってお祈り致します。
51:04
アーメン。
51:10

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