1. 小松正史『耳の保養』
  2. 身体は借り物、心に刻む思い出..
2024-07-16 09:59

身体は借り物、心に刻む思い出は永遠。

身体は借り物、心に刻む思い出は永遠。生きる証を大切な人と分かち合い、記憶の中で生き続ける。
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みなさん、おはようございます。作曲家で大学教員の小松正史です。
今日はですね、自分の身体をいずれ地球に返さなくてはならないタイミングが来るというような、
そういうちょっと哲学的な、ちょっと考えながら喋るみたいな、そんなね、お話をしてみたいなというふうに思います。
それで、自分の体というのは借り物という考えがありますよね。
普段ね、自分の思い通りに動いたりとか、あるいは病気したり、体の調子が良くなかったりすると、
自分の身体をですね、自分じゃない感じで過ごしているような、そんな時もありますけど、
ほぼ無意識のうちにですね、反自動的に人の体って動いたりとか、自分の精神が乗っかっているわけですよね。
で、その体っていうのはですね、これ当たり前というふうに普段思いますけれども、
いずれね、命が燃え尽きると言いますか、寿命が来たら、それを返すというか、返すというのはちょっと無くなって灰になっていくわけなんですけど、
そういうふうな状況で、自分の精神とか魂とかね、そのあたりはどこに行くかっていうのは誰も分かっていないし、
誰にも実証できないことですけども、無くなったらゼロっていう考えもあるんでしょうけどね。
そんな中で自分の身体がですね、借りているものなんだっていうふうな考え方でね、
普段、仮に生活をするとですね、なんかやっぱり逆に大事にしなくちゃならないと思うんですね。
借り物だからね、何か過剰に負荷をかけたりとか、痛めつけたりとかね、いじめたりとかね、自分で自分をいじめるってことを人って意外とすることがありますから、
そういうふうにしがちなところがありますけど、これをね、元通りに生まれたての頃の体に戻ることは絶対できないわけなんですけど、
ある程度、節目がついたと言いますか、そういうふうになるとお返ししなければならないなという、そういうことはあるなって思うんですね。
あの世に行くと何も持っていくものをできないですからね、物理的なものというか、物とかお金とか、土地とか家とかね、車とかピアノとか楽器とか、
それはあの世に絶対持っていけないわけで、その反面持っていけるものが仮にあるとしたら、僕は絶対持っていけないとは思うんですけども、
亡くなるときに良かったなって思う瞬間っていうのは、物とかお金とかそういうもんじゃなくてですね、
あの時一緒にあの場所に行ったなとかね、家族で北海道旅行行ったなとか、そういう思い出が最後残っていくのかなってそういうふうに感じますね。
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それで生きてる人が亡くなった人の存在を覚えていればいいんですけど、当然ね、大事な人の存在っていうのは忘れることはないんですけれども、
それでもですね、人というのは日々時間のね、ヤスリにかけられて記憶は薄れていくわけです。これは間違いなく薄れてくると僕も思います。
そうしていくと、その亡くなった人っていうのは、その生命はそこで絶たれてしまうわけなんですけど、
残された人たち、亡くなった人を思い出す人たちがいる限りは、やっぱり心の中でその人は生き続けているっていうふうに僕は思いますね。
で、生き続けているその原動力としてはですね、やっぱり生前の頃にその人と一緒に何か一緒に行動したとか、なんか苦しかったけどあんな体験したなとかね、
これポジティブ・ネガティブ両方あると思うんですけど、そういうものが存在することによってですね、やっぱり後でその人を何度も思い返すきっかけになるんじゃないかなっていうふうに思います。
なので、先ほどお金とか物とかはあの世に持っていけないけれどもっていうのはね、逆を返せばですね、思い出は生きてる人がいる限り、その人の思い出はやっぱり残り続けている。
そうすればするけれども、ゼロにはならないなっていうふうに思うんですね。
そんなふうに思いつつですね、最初自分の体は借り物であるからっていうふうな話に立ち戻っていきますと、やっぱりね、残っていくものは物ではなくて精神的なもの。
その時に一緒に心をね、動かし合ったというか、影響与えあった何かが残っていくっていうのがすごく印象深くね、一生かたどっていくんじゃないかなっていうふうに思いますね。
これなんでそんな話したかというと、やっぱりライブなんですよね。僕対面のライブとか、僕対面のライブだけじゃなくて、今日もね、実は大学の授業ありましたけどね、昨日も今日も。
ほぼ月曜日から木曜日までは人前で喋ったりとか学生と分かち合ったりとか相談を受けたりとかする時間っていうのが本当に多いんですけど、その都度感じるんですよね。
今日例えばやってきた学生さん、1年生なんですけど、何か一緒にプロジェクトやろうとか、小松さんなんかピアノできるし、自分も表現できるから、なんか一緒にこの大学でできたらいいですねみたいな。
最近そういう学生が少なくなってきてるんですけど、なんか年全然違うんですけどね、30以上も違うんだけど、声かけしてくれてるわけですよ、こんなおっさんにもね。
なんかありがたいことですけど、そういうふうに感じたらですね、年とかそういうこと関係なく、何か一緒に分かち合える瞬間、話ししてるだけでもなんか共鳴し合ってるところが多かったんですけど、その瞬間にやっぱ感じてるんですよね。
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やっぱり思い出とか場面とか、そういうのが一つでも多くあればいいなと思うし、いろんなところで各種仕事っていうのは僕のみならず、聞いてるあなたも大変大変忙しい思いされてる部分もあるかと思うんですけどね。
そういう中でもやっぱりそういう思い出とか、一緒にやろうっていう、そういう時間とか未来への可能性なんですけどね。そういうのがあると、しんどい仕事もちょっと乗り越えていこうかなっていうふうに思いますし、それこそがね、生き延びるためのやっぱり知恵だと思うんですよ。
そういうのをね、毎回毎回一期一会で僕授業とかライブとかやってますけど、その時にやっぱ感じるんですよね。結果を求めるために授業とか人前で喋ったりとかライブ、僕してないんですよ。その都度都度の決めとか決めっていうのは、その都度の肌触りとかね、そういうものです。
そういう感覚とかね、その都度やっぱり人って意識がどんどん変化していったりとか、旅していくわけですよね。これ不思議なことに。その道すがらにね、やっぱりその時々しか感じることのできない感覚質と言うんですかね。
クォリアってあの方は言ってますけどね。忘れて、あの方って忘れるよね。すみません。はい、後でまた調べてください。クォリアでね。はい、そんな感じで。
模擬ケンイチローさんですね。その方が言っておられましたけど、その都度を感じるためにそういう日々の何か結果的に何かそういう行いとかね、活動があるんじゃないかなと思いますし。
まあそれをね、先日の京都タワーでもやっぱり思いましたね。自分次第でガンガンガンガン演奏しましたけど、やっぱり共鳴感、一体感っていうのはやっぱりすごくありますし。
ライブでもそれも感じるわけなので、やっぱりそういう一期一会のとこっていうのは、思い出を結果的に作り上げていくね、生きてる証なのかなっていう。
それ以上でも以下でもない行いなんですけど、まあそういうその瞬間に立ち会うために、やっぱり日々練習したりとか準備したりとかしてるのかなと思いますね。
音楽であってもレクチャーであっても授業であってもですね、発信者だけではこう、完結しないですからね。受け手の方がやっぱりいらっしゃって、それで何かの共鳴があって初めて成立するものなので。
自分自身で演奏することもね、自分のために演奏っていうのはあるんですけど、なんかね自分以外の他者がいらっしゃるところで演奏したり喋ったりするっていうのは、この音声配信も含めてですけど、やっぱり独特の感覚があるんですよね。
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この何とも言えない日々の感覚、一方的な喋りかもしれないけど、僕はね、そこの対面にいらっしゃる、もう目の前にいるような感じで、リスナーさんと一緒に喋ったり語り合ったりするようなイメージで喋ってますけど。
それがあってこそのね、循環であり、日々の些細なんだけれども、生きていくための大事なエネルギーのガソリンスタンドみたいなね、そんな感じで日々配信してるということで、それは体じゃなくてね、目に見えないもので繋がってるんだよって、そんなお話をさせていただきました。
それでは今日もここまでお聞きいただきましてありがとうございました。それでは今日も良い音の一日をお過ごしください。
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