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奇術積読宣言 ON AIR
どうも、奇術愛好家のしゅうたです。このポッドキャストは、手品が好きすぎて本を死ぬほど積んでいる私しゅうたが、
手品を趣味とする愛好家向けに、マジックに関するヨタ話をするポッドキャストです。
エピソード14は、
ラスベガス初のマジシャンGloria Dea ~全てはここから始まった~の後編です。
はい、後編なので、前編をですね、あの、まだ聞いていない方は、ぜひ先にそちらを聞いていただくと
より楽しめるかなと思います。今回は歴史に関する回なので、めちゃめちゃ長くなっています。
これ、もはや3回ぐらいに分けても良かったんじゃないかなと思うんですけど、まあとにかくですね、
今、Gloria Deaというラスベガス初の女性マジシャンですね、を話をしております。
で、前回は、社会的背景のところをちょっとお話をしましたので、
やっとGloria Deaさん登場です。本人ご登場ですね。
はい、長かったですね。やっと本人登場です。
じゃあちょっと本人登場なので、Gloria Deaさんの生い立ちについてね、私が調べた
限りの話をちょっとしていきたいと思うんですが、
前回も話した通りですね、彼女はユダヤ人なんですね。ユダヤ系の家系に生まれていて、
1922年生まれ、8月25日生まれですね。
生まれたのはカリフォルニアのオークランドという街で、これほぼサンフランシスコです。
で、Gloria Deaというのは芸名らしくてですね、Gloria Metznerというのが本名みたいです。
で、お父さんはレオメッツナーというお名前で、
塗装業の、ペンキのセールスマンだったらしいですね。
はい、お母さんはマーサメッツナーで、仕立て屋さん?服の
貼り子さんみたいなのをやっていたということで、まあ共働きというかどっちかというと、
お母さんは内職って感じでしょうね。はい。で、お父さんレオはですね、そのセールスマンだったんですけれども、
実は、
副業でマジックをやっていたというところがあります。まあここがまず運命のいたずらですよね。
だからお父さんがマジックやってなければ、Gloria Deaはマジックをやることはほぼなかったわけです。
前回も話した通り、その女性がマジックのリソースにアクセスするのって、
非常に困難な時代なんですよ。
だから、夫がマジックしているか、
お父さんとか家族がマジックを趣味としているかっていう状況じゃないと、
マジックに触れるっていうのは基本ないわけですね。
で、お父さんはレオっていう名前なんで、レオメッツナーって名前なんで、グレートレオっていうですね、
かっこいいのかダサいのかわかんないんですけど、グレートレオっていう
ゲーム名で、ナイトクラブとかでマジックやってたみたいな、副業というかセミプロみたいな感じで
やってたみたいですね。で、しかもそのオークランドという町
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にはマジックサークルがあって、オークランドマジックサークルの副会長もお父さんやってたということで、結構ちゃんとマジック好き
のお父さん。マジック好きというか、まあ普通にそれでお金もらってたんで、
マジックをがっつりやってるお父さんだったみたいです。
で、第一次世界大戦で出兵とかもしている人なんで、
で、帰ってきてそのペンキ屋の整列マンやって、最終的にそのペンキ屋自体も経営するようになったっていう、なんかそんな
経歴をお持ちのお父さん、まあそしてお母さんのもとに生まれたのが
グロリアでした。
はい。で、
まあマジックには普通に触れるような生活をしていたので、4歳5歳の頃には
もうマジックを他の人に見せてたらしいです。
お父さんからもちろん習っていて、
で、お父さんさっきナイトクラブで立っているって話をしてしたようにですね、あの
どうやらお父さんが娘連れてステージに立ってたみたいなんですね。で、一緒に立って
で、やってたんですけど、なんかある時期
その観客席にいたお母さんが
なんかその
見てるお客さんたちが喋ってるのが聞こえてきたらしくて、これ笑っちゃったんですけど、
なんか
お父さんより子供の方が良くね?みたいなことをお客さんたちが言ってたらしくて、で、それお母さんが
あのお父さんとねグロリアに言って
それで、あのお父さんすねちゃったみたいで、で、そっからね単独で
グロリアはあのステージに立つようになったらしいです。いやすごいですよね。だからもう
5歳過ぎから単独でピンで、これまあどこまで本当かわかんないですよ。まあでも
あのピンで一人でステージに立つようになっていたっていうところで
で、当時のナイトクラブってその
マジックだけじゃなくてダンスとか歌とかもそういうのもやってた場所で食事も
取れるような場所だったんで、まあ一つのこう
あの
一般大衆の息抜きの場所になってて、まあそこで
えー
もう日々ステージに立ってですね腕を磨いてたってことになると思います。で、実際
まあどこまで本当かわかんないって言った割に
ちょっとね7歳の時に新聞に載ってるんですよ。グロリアが
1929年にはもう7歳になってますが
Youngest Working Magician in the World
世界で一番若い
まあ働いているマジシャン、プロのマジシャンということで
地元市にですね
新聞で載っていて、それちゃんと写真も載ってるんですよ
四つ玉の写真、四つ玉を持っている写真がね載ってるんですよ。なので結構普通に
サロンで、まあサロンというかステージで四つ玉やってたっぽいですね
で、その新聞記事読むと結構ガッツリ
あの
円目こんなことやってたっていうの書いてて、これ結構すごいですよ
水の入ったコップにコイン入れたら消える
なんかね心当たりあるマジックですね。あとは帽子から鳩を出す。鳩出しこの年でやったってマジって思ったんですけど
すごくないですか7歳時点で鳩出ししてたっぽい
あとハーフダラーを消したり出したり
あとはマッチボックスがカードになったり
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これね結構すごいですよね。で、ボンドが消えるとか
で一番、あの新聞記者が一番すげーって書いてたのが
ティッシュ破って復活する。ティッシュペーパーが破って復活するっていう
話だったみたいです
いや本当にすごいですよね。でね、なんかどうやら11歳になる時にはあのパシフィックコーストアソシエーションオブマジシャンズ
だからまあなんですかねアメリカの太平洋側のマジック協会みたいなメンバーにはなっていた
そうです
で
やっぱりその5歳の時からステージにピンで立っている
だけあってですね
非常になんか彼女自分で言ってたんですけど自分でこうな
性格は自信家で生意気だったということでまあそうですよね
自信ないと多分ピンで立つことはないんでまあそういうですねまあ自信家生意気で
自分ならできるって多分思ってちゃんと活動してたんだろうなと思います
で肝心のそのマジックどうやって学んだかっていう話で
お父さんから習ったっていうのはそうなんですけどじゃあお父さんどうやって習ってたんだと
でこれ1926年とか29年の話で
この辺りの話です20年代後半の話なんですよでねこれちゃんと
インタビューで答えてたんですけど
ターベルコースだったらしいんですよね
いやこれ熱くないですか結構皆さんのターベルコースってもともとは通信販売
通信性の通信教育だったんですねマジックのねターベルがやってた
であの郵送で送られてきてそれがあの
マジックの教材になっているということで
ターベルコースって1926年スタートで
あのやってますからあのちょうどいい感じの年なんですよね1926年にはもう
4歳から5歳っていうことでマジック始めた頃なんで
そこでですねターベルコースを読んで
まあ
すいません本人が読んでたかわかんないですけどお父さんが少なくともターベルコース持ってたらしいんで
通信販売の物がまあ定期的に届くというそういった時期だったみたいですね
はい
でえっと
1929年まで話しましたね1931年に9歳ぐらいの時に
これが前半のエピソードで言ったネバダ州がギャンブル合法化した年なんですよ
でね両親ギャンブル好きだったらしいんですよねこれちなみにね
あのグロリア本人もギャンブル好きにね
あの晩年になってますだから最後ラスベガスに住んでたんですけどあの
なんで両親の血を引いてですね本人もギャンブル好きなんですけどとにかくギャンブルが好きだったみたいで
ベガスにね年1
1回から2回は
行ってたらしいんですよもう9歳10歳ぐらいの時に
だから結構そのラスベガスという町に
まあ当時町というかまだまだ
砂漠の中のギャンブルやるちょっと荒れた土地みたいな感じですけど
その親しみが町にあったと思われます
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でまあグロリアどんどん成長していくわけなんですけれども
高校生ぐらいの年になって高校辞めたんですってでコーラスガールまあ歌ですよね
歌ったり踊ったりするっていうところでコーラスガールとして
ナイトクラブとか色んなとこで働き始めて
パフォーマーにそっからなったらしいんですよ
でこっからねちょっとどういうふうに
彼女がそのパフォーマーキャリーをね着実に積み上げてみたのか
どういうところで修行したのかとかは
ちょっとねやっぱあんま出てこなかったんですけれども
ただ要所要所で結構
大きいステージとか出し物イベントに参加はしてました
1938年高校生ぐらいの時ですね17歳とか16歳の時に
ハリウッドにあるですねバニティーというアールキャロルというですね当時またこれ有名な
パフォーマンスが見られる場所があったらしいんですけども
女性ばっかりのパフォーマーでここもね
でこのバニティーズというところでちゃんと本人もパフォーマンスしていて
1940年にはゴールデンゲート国際博覧会というものが
あのやってきてですねこのアクアケードっていう
なんかね巨大なプールがあるステージみたいなのがあるらしいんですけど
そこでも本人パフォーマンスしたということでした
なのでそこで着実に
そのハリウッドはまあロサンゼルスで
アクアケードが来たのは多分サンフランシスコですからまあその
カリフォルニア州の中で着実にパフォーマーとしてのキャリアを歩んでいたと
で
やってきました1941年なんですね
これがあの彼女が
ハリウッドラスベガスでマジックを初めて演じた年なんですけど当時19歳です19歳
でママがあの
ラスベガスまで車で送ってくれたらしいですねはい
多分ねこの時にはすでにねロサンゼルスに引っ越してたっぽいんですけどちょっとそれは
いつ引っ越したかわかんないんですけど
で
これあの
なんか特定のエージェントと契約をしていて常に仕事発展してもらってたのか
っていうふうな質問をインタビューでしていて
なんかねどうやら決まったエージェントがいたわけではなさそうでまあなんかラスベガスで
やるパフォーマンスショーの中に空きがあるからということで声がかかったみたいですね
ただなんかそう当時もなんか生意気だったらしくて
なんかその声かかったやつ時になんか見返りを求められたまあ多分そのなんか体とか
なんかそういう関係だと思うんですけど詳しくは言ってなかったんですけど
けどいやいや私の才能かどうかであなたが雇うかでしょうみたいな感じで
結構顔ぶいてたらしくてですねまあそれで結局あの
雇われた
うんって言ってますけどこれ本人ダンなんでまあこれちょっと
あのどこまで本当か怪しいんですけど
あのなんかねとにかくうよ曲折あってラスベガスのショーに出られるという状況になったと
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でこのエルランチョホテルっていうのは4月にオープンしたんですね4月3日にオープンをしていて
このグローリアが出演したのは5月14日ですねだから
ホテルラスベガス初のリゾートホテルがオープンして1ヶ月後のショーにもうマジシャンが出ていたと
でラスベガスエルランチョホテルのバラエティショーの中で
なんかラウンドアップルームっていう劇場があってそこでマジックを演じたそうです
当時は先ほど前半でも話した通りストリップ通りもなく全然盛り上がってなくてですね
むしろエルランチョホテルしかないというような状況で
ただそこでですね1日2ステとか3ステージ2,3ステージ演じたということでした
ただあのバラエティショーっていうふうに私話した通り彼女が単独で
あのやったわけではなくて何人かの人が
どんどん入れ替わるとでダンスもマジックも歌もあるみたいな感じで
でグローリアはダンスもマジックもやったということでしたからマジックやって
終わったらダンスやってまたマジックやってっていう感じですね
であの
当時の潜在写真みたいなのも出てきてあのググれはあるんですけれども結構ねセクシーなビキニみたいな
あの服を着ているものもあれば華やかなこうミニスカートで
カードマニュプレーションしているような絵もあればですね
なんかシルクを引っ張り出してる絵もあればということで本当にあのグローリア
マジック&ダンシングって書いてるんでマジックとダンスをするというようなそんな立てつけで彼女は
やっていたみたいですね
なんかダンスはあのダンスの種類は最初エルランチョホテルでやったのはルンバだったらしいですはい
今ちょっとルンバは私あんま全然詳しくないんで
ルンバって聞くとすぐそうぜひかと思っちゃうぐらいのあの
ダンスに関するリテラシーなんであのすいません詳しい人は
ぜひあのルンバやってたんだってあの頭で思い浮かべてくださいはい
で
これねまあじゃあその時何の演技やったんだって話なんですけど
これは
まあ新聞記事とか彼女の話を聞くと
まあ四つ玉もやっていたし
フローティングカードトリックって書いてるんですよねフローティングカードトリックって何だろうっていうのがちょっとよくわかんない
ですけどとにかくカードが浮く
これちょっとよくわかんないんですねまあもやっていたし
あとは
えっと
あそうそうカードインオレンジあるよねハンカチまあシルクインオレンジをやっていたみたいですはい
なんかね歴史をちょっと感じるデパートリーですよね
でこのエルランチョホテルの出演は
あの2週間か4週間まあ続いてまあその間泊まり込みで
あなんかねホテルに泊まり込みじゃなくてなんか別のスタッフ用の
コテージとかがあったらしいんでそこで泊まって
その2週間から4週間ぐらい
こう結構差ありますけど
まあやっていたということで数年間ね固定で
あのやっていたというわけではなくて本当にスポットでそれぐらいの出演をしたということだったそうです
15:03
はい
ですねでどうやらこのエルランチョホテルはその後もですねほぼ年に1回は確実にマジシャンを
このショーに読んでいて
ほぼ毎年読んでいますし戦後
第二次世界大戦後はさらに好頻度になっていました
あちなみに今戦後って話をしましたけど1941年になってねもうバリバリ戦時中じゃないですか
で
ねその時怖くなかったみたいな話もインタビューでされててまあラスベガスとか
まあ
まあ対してその戦争の影響を受けない
まあここがその空爆されることもなけりゃ
ああねなんか意外とそんなにそのまあ物資は配給制だったけどそんななんか辛い暮らしでもなかったから
そんなに戦争は怖いと思わなかったみたいな話をしていましたねはい
で
なんとですねまあその後しばらく彼女はパフォーマーとして
えーまあマジシャンとしてダンサーとして
まあいろんなところで演技をしていたみたいですね
あの外国ではメキシコにも行ったし
えーハワイまあ当時まだハワイは州ではなかったのアメリカの州ではなかったですけど
ハワイのマオイ島でもなんか演じていたそうですよ
なんかここら辺でね展開とことであったみたいな話があれば激アツだったんですけど
まあさすがにそういった話は出てきませんでしたはい
でえっと1940年代後半ぐらいにカリフォルニアの南部の方に
まあ多分ねこれそれこそロサンゼルスとかもっと
宮城の方だと思うんですけど
それで引っ越してえっと
映画に出るようになりましたなのでねマジシャンとしては
そんなに体制しなかったっぽいですね
しどっちかで言えば彼女の野望は
まあ女優というか
まあそっちの世界にあの彼女の野望があったみたいです
1945年には
メキシカーナメヒカーナですかねという映画に出演し
そこから続々と出演をしますまあメジャーな役というよりかは
チョイ役が多かったっぽいんですけれども
まあでも別にあのちゃんと出演をしていてギャラもしっかりともらっていたみたいですね
1952年にキングオブザコンゴってやつに出て
1957年にですねプラン9フロムアウタースペースという
これどうやらなんか映画ファンには有名な映画らしくて
なんかね史上最低の映画っていうことで
国標されているあのクソ映画中のクソ映画というか
超B級映画らしいですプラン9フロムアウタースペースですねこれね
興味ある方調べてください普通にdvdとかも出てるんで
あの見れるようで彼女自身もこれは本当に最悪の映画だったってインタビューで言ってます
最悪の映画だったしなんか監督もクソ野郎だったみたいなことを言っていて
ただですねあの撮影自体は楽しかったわみたいなこと言っていてなんか人柄が伝わってくるエピソードですけど
18:00
あのプラン9フロムアウタースペースですね
という映画に出演して
1963年にまたクレオパトラという映画に出演したんですけどなんかね彼女ここで
もうええわってなったらしいんですよなんか
キャデラックに当時乗ってたらしくて車
でそこにねテレビもつけてたらしいんですよすごいですよね当時テレビ付きの車に
乗っていたらしいんですけどなんか撮影中にその車からテレビが盗難されて
なんかもうこの業界ええわってなくなって
なんか引退したらしいですまあこれもねあの
体制しなかったから引退する体のいい言い訳なんじゃねーのって俺は聞きながら思いましたけど
なんかまあとにかくね
この段階で
引退ということだったそうです引退して
結局普通のまあサラリーマンというか仕事をして保険販売とか自動車販売っていうのを
してたみたいですはい
でまあなんだかんだもうその頃って1900
60年代後半から
80年代まではなんかそういった自動車販売とかしたりとかなんか地元の事前団体を一緒に手伝ったり
とかっていうこう一般的なもうあの芸能界から離れて一般人として生活をしていて
なんですけれども1980年にラスベガスになんと彼女戻るんですね
あ途中ね何人かと結婚しては離婚をしてますはい
ここらへんはちょっとまあ詳しくは特に話さなくていいかなと思うんですけど
3人ぐらい旦那さんが生涯いたのかなはい
でだから1980年にラスベガスに戻るこれ彼女が58歳の時ですね
なんでもう多分仕事も引退するぐらいの年なんですけれども
でこれなんでラスベガス戻ったのってやっぱりギャンブル好きでカジノに通ってたかららしいですね
でだしやっぱ昔ラスベガス
でやった時のこういい思い出が結構あったみたいではい
なのであの
なんていうんですかねパラダイスエリアっていうなんか
ラスベガスにあるらしいんですけどそのエリアの
えーとちょっと近くにですねまあちょっと近くだけど少し外れたところに
旦那さんと当時の旦那さんサムと一緒にですね
ラスベガスに住み始めたということでまあこの頃にはマジックなんていうのは当然情熱はなかったんですけど
あのどうやら彼女やっぱいろんなマジック道具を持っていてそれは衣装も含めてですね
でそれをどんどん処分していってたらしいんですよもうマジックやることないかなって言ってで
ゆえにラスベガスのね古着屋とかになんかこうおしゃれな
レトロなだけどおしゃれな衣装
みたいなのがどんどん流出していったと売っていたそうなんですね
でまあ運命がやってくるのはですね2021年まで届くんですが
もう彼女98歳とか99歳ですけど
なんかねマジシャンの
アナローズアイナーセンという人がですねラスベガスで買い物をしてたら
なんかイケてるスカートを見つけてですね
なんだこれとそしたらなんか店主が
ああそれね昔のハリウッド女優があの
21:00
着てたものよってあとその人マジシャンだったらしいわよみたいな
ことを教えてくれたらしいんですよ
確かねあのすいませんちょっとここ
あの
詳細には書いてなかったんですけどお店で見つけて
そのスカートが昔のハリウッド女優かつマジシャンのものだと聞いたという記載がありました
でえっそんな人いるのってことになって
グローリアデイを探し始めたそうです
で最終的に彼女が見つけてですね
見つけたというかアイナーセン
アナローズアイナーセン女性のマジシャンなんですけど彼女がこのグローリアを見つけて
で一気にあのラスベガス界隈のマジシャンにね
なんかすげえ人がいるとどうやら彼女はあの
1920年代に
1940年代にベガスでマジックをやっていたマジシャンらしいかつなんか女優らしいぞってことでバーって情報が広がって
でカッパーフィールドまで情報が行ってですねでなんとカッパーフィールドはショーで
あのお客さんに招待をしてでかつ客挙げすると当時も99歳とかなんでもうヨボヨボなんですけれども
ただめちゃめちゃそのインタビューとかで答えてるの聞いてるとすごいね
元気なんですよね元気なおばあさんで
あの
しっかりこのお答えするしやっぱカジノとギャンブルやってるから
多分冴えてるんですよね
それでやっていて
マジック業界に再発見されたっていう感じなんですかね
あの実際ニュース記事見ててもリーディスカバーみたいな感じで再発見されたみたいなかかり方をしていて
彼女は別になんかそんな私はすごいマジシャンではないけれどもみたいなことをおっしゃるんですけれども
あの本当にですねあの最初彼女がやってなければ翌年以降もエルランチョホテルが
マジシャンを呼ばなかったかもしれなくて今あのハリ
ラスベガスにマジシャンがアッパーヒルドを始めてするマジシャンが
固定のシアターを持つなんて未来がもしかしたらなかったかもしれないから
本当にですね
彼女はその第一歩を作った功績としてはとても大きいものをやってくれたのかなと思います
それでなんとですね2022年には100歳になり
2023年に最後感動脈系の疾患でお亡くなりになったということでございました
ということで
そんな
人生なんですね
はいやっぱりその
結構私が思ったのは
まあさっきも言った通りあのエンターメン第一歩を作ってくれたっていうそういった功績はもちろんあると思います
ただやっぱりこの当時の社会状況を考えると女性マジシャン自体がレアだし
かつその彼女がベガスに行っていたというのが本当偶然って面白いなと思います
で当時彼女は自分で主体的にパフォーマーまあマジシャンをとしてやろうと思ったかを置いといて
まあ芸能界に入りたいというふうに思ってやっていて
そっちの思いがやっぱ強かった
ゆえに今マジックは辞めてしまったと思うんですけれども
まあ最後ねこうやって発見されてとてもなんかエモい感じになってるなと思います
24:02
まあ
ね彼女がその最初の一歩を作ってくれたとまあ言いはしましたけれども
まあブッキングされたのは多分結構たまたまだったと思うんですよね
で彼女がブッキングされなくても別の男性マジシャンがブッキングされていた可能性は
あのあってその結局そのバラエティ賞の出し物としてマジックっていうのは比較的一般的だったんで
まあでも彼女がその新聞でもねその当時載っていた
すごい一番良かったのはこの彼女のマジックだったみたいなこと書かれてたんでやっぱり高い評価を
やってくれたっていうことで
ベガスにおけるマジックの最初の一定の地位を作ってくれたっていうのはありますね
はい
であとはまあちょっとここ深入りするつもりはないんですけどやっぱり女性マジシャンを取り巻く状況って
なんか言うてそんなあの
現代もねなんか人数は比較的まだ少ないですし
やっぱりそんな変わってないようには思いますよねなんかマジックの情報の
アクセスは当時から比べればもちろん比べもならないほどアクセスしやすくはなってるんですけど
あのやっぱり相対的な人数っていうのは男性に比べてすごい少ないし
まあ男性がマジック業界を発達させてきたというか秘密をそこで
保持していたので多くのマジックが男性用になっている
あのトランプのサイズとかもブリッジとかもありますけど
まあポーカーサイズだったりとかねなってるんでそういった状況もあるので
あの未だにやっぱり女性マジシャンっていうのはあのなかなか
厳しい厳しいっていうのは社会的にねなかなか難しいような
状況に取り巻かれてはいますけれども
あの昔なんていうのはもっとそうだと思いますしね
その女性用のボールなんてボールというかマジック道具なんてなかっただろうし
なのでそういった中でもあの一定のクオリティを保ってパフォーマンスができる
そんなレベルの高いマジシャンになっていたっていうのは本当に
すげー偶然だなと思っていますね
あ偶然って言っちゃいましたあの
すごい上手くなったのは彼女の努力であって
だけどそのマジックに出会ってマジックを好きになってくれたのは
お父さんがマジックやってたからって偶然ですよね
かつてやっぱりターベルコースの功績も僕あると思いますよ
ターベルコースで
家に送られてきたんでちゃんと新しいマジックに定期的に触れられていたっていうところも
一つあると思うのでやっぱりいろんな偶然が重なってですね
今があるというこれが歴史の面白さですよねね
あの本当にこう偶然の重なりで今になっていたというような
そんなことがあると思います
ということでめちゃめちゃ早口でずっと駆け足で喋りましたがいかがでしたでしょうか
めっちゃ疲れました前半後半
あのぜひですね皆さんこのグロリアデイさんの功績をちょっと胸に思いながら
100歳でお亡くなりになった今年亡くなったばっかりですから
あの追悼の思いをお伝えいただければなと思いますということで
以上になりますねこのエピソードを聞いた皆さんの感想お便りでお待ちしておりますので
ぜひそちらもよろしくお願いします
あの
ちょっとねネタがもうないんですよポッドキャストの
なのでちょっとね週2回更新をさすがにやめるかもしれません
27:02
っていう言い訳をしておきます
がまあちょっとマジックマーケットもありますのでまあそこに向けてはねなるべく更新をして
まあちょっと原稿も書いておりますので
なんかそれに関するちょっと告知だとかねいろんなものはやっていきたいなと思っておりますので
ぜひ
聞き続けていただければなと思いますスポーティファイでお聞きの方は番組フォローもよろしくお願いいたします
それではまたお会いしましょうバイバイ