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奇術積読宣言 ON AIR
どうも、奇術愛好家のしゅうたです。このポッドキャストは、手品が好きすぎて本を死ぬほど積んでいる私しゅうたが、手品を趣味とする愛好家向けに、マジックに関するヨタ話をするポッドキャストです。
はい、ということで今回のテーマは、ラスベガス初のマジシャンGloria Dea ~全てはここから始まった~です。
先に言っておきますと、歴史に関する回になります。
あと、いつもよりも長くなるんじゃないかなと思っておりますので、苦手な方はスキップしていただければなと思っております。
タイトルにもある通りですね、Gloria Dea 実はですね、発音はDeaに近いらしいですね。
この後はGloria Deaと発音していきますが、Gloria Deaさんという人物について話をしていきたいと思います。
皆さん、この人ご存知ですかね。
私は最近知りまして、どうやらこの方に関して近いうちに歴史の本がですね、この方に関する歴史の本がバニシングインクから出るらしいということで、
ただちょっとその前にですね、自分なりに手の届く範囲で調べてみたところ、なかなか興味深かったので、今回ちょっとテーマとしてですね、ポッドキャストで扱うことにしました。
よろしく詳しいことは、今後ランスリッチというマジシャンが本で発表するということなので、興味が出た方はですね、ぜひ買ってみたらいいなと思います。
発売したら私もTwitterことXの方で出ましたよということをちょっとお伝えしたいなと思っています。
さあところで、この人、グローリア・デイ。男性女性どっちだと思いますか皆さん。
実は女性なんですね。グローリア・デイさんは今年の2023年のですね、3月になんと100歳でお亡くなりになった女性マジシャンなんです。
彼女はラスベガス初のマジシャンと言われています。
初の女性マジシャンじゃなくて、ラスベガスでマジックを演じたという本当に初のマジシャンらしいんですね。
それが男性である、女性であるということじゃなくて、とにかくラスベガスで初めてマジックを演じたのが彼女だったということなんですね。
ラスベガスといえばエンタメギャンブルの街で、今ではスターマジシャンが立ち上がっています。
デビッドカッパフィールドとか、そこら辺のマジシャンたちがショーをやっているわけですけれども、その第一歩を作ったのがグローリア・デイであり、その方が女性マジシャンであって、なおかつ最近までご存命だったっていうのがですね、なかなか驚きですよね。
彼女は100歳だったということで1922年生まれで、1941年にラスベガスにあったホテルで初めてマジックを演じたという記録が残っています。
まずはですね、ここだけ知っておいてもらえれば、今日伝えたいことは伝えられたので、歴史回が苦手だという方はここで終わってもらっても大丈夫です。
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ただですね、存命だったんで、生の彼女のインタビューも結構映像も音声も残っているし、割と最近の話、1941年で彼女がマジックを演じたって話があるので、結構最近の話じゃないですか。
なので、新聞とかも残ってるんですよね。割と客観的な資料も残っているので、信頼のおけるファクトが集まっています。
ちゃんとインタビューとか今回聞いたり映像も見たんですけれども、ちょっと気になるのはですね、当時98歳とか99歳でインタビュー受けてるんで、若干そのI don't rememberみたいな、覚えてませんとか不明瞭な記憶だっていうところがあるので、
これいわゆるオーラルヒストリーと呼ばれる、口術で伝える歴史のあるあるですけど、語る人が本当のこと言ってると限らないっていうね。
嘘を言ってたりとか、うろ覚えで間違ったこと言ってるみたいなやつなんで、彼女自身もそれが正しいと限らないかもしれないんですけども、
一応ですね、ある程度正しそうな情報をピックアップして、ここでお話をしていこうかなと思います。
今回のエピソード収録するにあたって、読んだニュース記事とかYouTubeとかインタビューみたいなリンクはですね、まとめてちょっとどっかでノートとかで発表しようかなと、発表というかですね、まとめておこうかなと思っているので、それは追って公開します。
そもそもこれランスリッチとかですね、カッパフィールドが割と彼女を近年表舞台に引っ張り出してくれたみたいなので、本当彼女がいなければ、彼らがランスリッチとかカッパフィールドがいなければ彼女の功績をマジック業界が知ることもなかったので、
まずは一つ敬意を表してですね、今回のエピソードを話していきたいなと思います。もちろん彼女に関する情報は日本語では一切見つからなかったんで、一つそれで日本語で話すことは一定の価値があるかなと思って番組にしています。
あともう一つ今年亡くなったばっかりなので、ツイートの気持ちも込めつつ話していきたいなと思っています。
それにあたって言い訳なんですけど、私は別に歴史学の研究者じゃないんで、追加で本人とか関係者にインタビューはしてないですし、基本的に追加リサーチとか裏を取りに行くみたいなところはやっていません。
ただ情報の正確性にはなるべく厳密に行きたいと思っていて、今回当たった資料だけでもですね、わりと情報に誤差があったりしたので、そういう時はなるべく確からしい方とかは採用したりとか、
この根拠を別のインタビューを照らし合わせると、こちらが正しそうだなみたいなことをしゃべるようにしています。
長くなるって言ったんですけど、別に彼女の功績、1941年にラスベガスで初めてマジックをやりました。それが女性マジシャンでした。
以上といえば以上かもしれないんですけれども、この事実を知的に味わうには、結構他の背景情報とか、彼女の老いたちみたいなものを理解した方が楽しめそうだなと思って、周辺情報も話そうと決めたからです。
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なので長くなるということで、このやり口はほぼ古典ラジオっていう、ポッドキャストで日本一にもなったすごい歴史のラジオがあるんですけど、聞いたことない人はめちゃめちゃオススメなんですが、
ほぼこのやり口古典ラジオなんですけれども、その方が味わえると思って長くなりますが、やっていきたいと思います。
それでは行ってみましょう。
まず社会的背景とかをちょっと理解しておいた方がいいかなと思っていて、大きく3点理解した方がいいかなと思います。
1つはラスベガスの歴史、2個目はエンターテイメントの歴史、3つ目はアメリカにおける女性を取り巻く社会環境みたいな、こんなところですかね。
なのでちょっとここらへんから行ってみたいと思います。
そしてですね、まずはラスベガスの歴史ですね。
ラスベガスといえばまあ現代ではギャンブルの街、華やかなネオンがすごい、ビュッフェが有名とか、そんなイメージがあるかもしれません。
私はちょっとね、まだ残念ながら行ったことがないんですけれども、何回も行ってみようとしたんですけど、なかなかちょっと行けず行ったことがないんですけれども、
ラスベガスってめっちゃ若い街って皆さんご存知でした?
まあアメリカ合衆国自体が非常に若い国ではあるんですけれども、その中でも特に若い街で、実はですね、ラスベガスってこの100年ぐらいで成立したって言ってもいいぐらいの街なんですね。
ラスベガスって砂漠の中に、ど真ん中にネバダ州がありまして、最初はオアシスとして、ちゃんと水が出てたらしいんで、
物流の中継地点としてですね、人が住み始めたっていうのがあるみたいです。
ゴールドラッシュがあって、中西部で金が取れるとかあって、ラスベガスからも40キロ、50キロぐらいのところに金脈があったらしくて、
そこに行く上での中継地点とか、人がそこにちょっと泊まってみたいな感じの拠点として、まずは動き始めたというのがあったそうです。
1905年に初めてラスベガスにホテルができたと。
ただ全然それはリゾートホテルみたいなものではなくて、さっき言ったようなゴールドラッシュの人の拠点みたいな感じで、
ネバダホテルって名前で、ネバダ州そのままの名前なんですけども、できたというのがあります。
時はちょっと流れてですね、1929年に世界恐慌ってありましたよね、ウォール街から始まった。
あれで全世界が不景気に入りまして、アメリカなんてのは当然ながら不景気でした。
ネバダ州もやべえってなって、税収がどんどん落ちているということで、これはやばいとなってですね、そこで何をしたかというと、ギャンブル合法化なんですね。
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1931年にネバダ州がギャンブル合法化をして、全米でも独占的に、つまりアメリカ合衆国の中でもネバダ州だけギャンブルOKということになって、
これが1977年まではずっとネバダでしかできなかったらしいですね。
ということで、それでネバダ州は税収も復活させて何とか持ち直したということでした。
その当時に合法化があって、少しずつカジノができ始めたというのが、ラスベガスの第一歩ということで、
その合法化してすぐにですね、ラスベガスには有名なラスベガスストリップという、ストリップ劇場ではなくてですね、大通りの名前をラスベガスストリップっていう名前になってるんですけども、
その有名な大通りは当然ながらまだ全然換算としていって、換算としていってかできてなくて、ラスベガスのダウンタウンと言われる中心街ですね、
そのエリアにカジノがあったりとかホテルがあったりとかっていう感じになっていたようです。
で、その今言ったラスベガスストリップっていうのがちょっとでき始めたっていうのが1941年ですね。
ここで、そのダウンタウンからちょっと離れたところにラスベガスストリップって大きく通ってるんですけれども、そこにエルランチョベガス、
エルランチョ、この後何回も出てくるんで、これは覚えておいたほうがいいんですが、エルランチョベガスというホテルが1941年の4月にオープンしました。
63室持っているホテルで、こちらのホテルはリゾートホテルですね。
ラスベガス初のカジノリゾートということで、カジノそのものは先ほど申し上げたようにあったんですけれども、
カジノもあってプールもあってレストランもあってっていうのが全部一体化したカジノリゾートホテルっていうのが初めてできたのが、この1941年ということでした。
これを建てたのはトーマス・ハルっていうですね、ロサンゼルスとかでいくつかホテルを経営していた人で、
彼はですね、どうやらギャンブル好きじゃなかったらしくて、カジノとかいらねえだろうと思ってたらしいんですけど、最終的に周りの説得を受けてですね、カジノも入れたということでした。
なんか、そもそもラスベガスってそんなに人が住んでいない街だったので、多くの人がカジノをやりにロサンゼルスとかから移動していったらしいんですよ。
ただ当時の車の能力、今めちゃくちゃ早くて燃費もいいですけど、当時の自動車の能力だとロサンゼルスからラスベガスまで車で7時間片道かかるということで、日帰りはないよねってことで、
これホテルちゃんと作ったらしっかり泊まってくれるだろうと思ったし、やっぱりオアシスとしてラスベガスって始まったからプールみたいな水をちゃんと確保できるような、
この頃はちゃんとダムも近くにできていたのでしっかり水も確保できてるんですけど、そういったプールもできたらいいんじゃないかとか。
当時の広告とかもネットで見れるんですけど、フルエアコンディションみたいなことでちゃんとエアコンもかかってますよみたいなのが広告に書いてあって歴史を感じたんですが、
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なんかそういった快適でゆっくり過ごせるオアシスのイメージでホテルを開通したと。
さっき言ったトーマス・ハルという経営者はもともとロサンゼルスでホテルをやってたんですけど、中流階級向けのファミリー向けのホテルをやってたこともあって、
カジノってギャンブルってやっぱり微妙というか悪のイメージが当時もちゃんとあったらしいんですね。
今もギャンブルって別にそんな素晴らしいものいいものっていうふうに思われてないじゃないですか。
ギャンブルは悪、ギャンブルは悪いものというイメージがあって、ギャンブルやるやつは荒くれ者みたいな感じで、ダウンタウンのエリアの方はちょっと治安悪かったらしいんですよ。
荒くれ者もいて、なんですけどリゾートに来るっていう言い訳を与えてギャンブルもやらせようっていうなんか考えもあって、
かつそのダウンタウンからちょっと離れたところで少し治安もいいですよというところで、ここの立地にホテルを作ったということですね。
ちなみにエルランチョウのこのホテルは、今ラスベガスの名物とも言えるバフェ、ビュッフェですね。
食べ放題を始めた最初のホテルとも言われているそうです。
ラスベガスにその41年、1941年にエルランチョウができて、翌年にラストフロンティアっていうまた別のリゾートホテルが1942年にできまして、
1946年にはフラミンゴという、これすごい有名なリゾートホテルらしいんですけど、これオーナーはマフィアっていうのがすごい怖い話なんですが、
戦後すぐにフラミンゴっていうホテルができて、どんどんどんどんここからラスベガスが発展していって、現代に至るというそんなパスを歩んでいます。
1945年時点ではもう2万人も人口がいなかったらしいですね。だからすごいちっちゃい街ですよね。
本当そういうぐらいの街で、今それが大規模になっていて、一大リゾートプレイスになっているという感じです。
ちなみに現代ってマジシャンどれぐらい劇場を持ってやっているか皆さんご存知ですか?有名どころで言うとデビッド・カッパフィールドやってますね。
あとはクリス・エンジェル、もうマインドフリックってテレビ番組をずっとやってたクリス・エンジェルですね。ちょっとなんかビザーなマジックをやる、ビザーというか過激なマジックをするクリス・エンジェルもやっているし、
あとペアンド・テラーですね。ご存知ペアンド・テラーもやっていて、あとはアメリカズ・ゴッドタレントで優勝組とか入賞組が結構やってますよね。
シン・リムもやってれば、マット・フランコもやってれば、ピフ・ザ・マジック・ドラゴンもやってますね。
あとはマック・キング、コミティ・マジックの王様マック・キングもやっていますし、
マイケル・カルボナーロもペアンド・テラーの劇場でやってますけども、マイケル・カルボナーロという若手のマジシャンもやってますね。
あとは、メンタリストで言うとバナチェックとかですね。バナチェックもマジックショーやっております。
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マジックショーというかメンタルショーですね。今は本当にエンタメ、カジノだけじゃなくてエンタメの街でもあるということで、
何人も超スターマジシャンがいるラスベガス。始まりは本当に小さいオアシスから始まったという、そういった話でございました。
なので1941年に最初のホテルができたというところで、そこでこのグローリア・デイはマジックを演じたんですね。
本当に文字通りラスベガスのリゾートというところで初めてマジックをやっているのが彼女だったということなわけです。
ではですね、ちょっと次。もう一個知っておいた方がいい。エンターテイメントの歴史ですね。
これはね、ちょっとどこから話そうかなって思ったんですけど。
伝えたいことは、これ話した方がいいかもって思ったのは、結局彼女女性じゃないですか。
言うてマジシャンって男性のイメージが当時も強かったんですよ。
っていう中でやっぱり彼女がそのエンターテイメント業界にいて、なおかつマジックをやっていたのはどういうエンタメ業界の動きがあったのかなっていうのをちょっと思ってですね、少し調べたんですね。
で、ちょっと遡ります。19世紀のパリまでちょっと遡りますね。
まずパリなんですけど、フランス。で、そのあたりから、まあ
経済的にもね、こう世界的にちょっと余裕が、世界的にも特にフランスなんていうのが出てきて、
いろんなそのエンターテイメントっていうのが出てきましたと。そのうち、いろんなバラエティに富んだいろんな具を出し物が、いろんなこう何テジナもそうだし、パントワイもそうだし、いろんなものが
混ざっている。歌もダンスも混ざっているショーみたいなものが出来上がってきて、これをボードビルとかレビューっていうんですよね。レビュー。
ディズニーランドにミッキーマウスレビューって昔ありましたよね。そのレビューっていうことなんですけども、なのでこのバラエティに富んだ出し物のショーっていうのがレビューとかボードビルとか呼ばれるようになってきたと。
ちなみに、これにめちゃめちゃ影響を受けたのが宝塚ですね。宝塚の創業者はパリに行った時にこのレビューを見て、これやと思って宝塚を始めたっていう宝塚歌劇団を日本で始めたっていうのがあったそうです。
ちょっと余談ですけれども。そのレビューとかボードビルショーには手品は手品師いたんですって。かつここらへんって結構やっぱり女性パフォーマーが、手品のみならず歌とかダンスとかいろんなところで女性パフォーマーが結構普通に出ていたと。
で、このレビューとかっていつ確立したんだっていうと1920年代にニューヨークで確立したって言われています。私が読んだ資料ではそう書いていました。
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そこでのレビューの定義はコミカルでドラマチックなスケッチ歌、モノローグ、ダンスナンバーなどの変化するシークエンスからなるものという定義であってですね。
音楽のほかにダンス、曲芸、技術、パントマイムがあって、これね、エクストラバガーズンザ。発音むずいですね。エクストラバガンザっていう別名もあったみたいですね。別名なんかここらへんね厳密に定義するの難しいらしいんですけど、その超バラエティーに富んでるショーのことをエクストラバガンザっていう名前でも読んでいたようです。
1920年代にニューヨークで確立って言ったのは、すごい大物のレビュー仕掛け人がいたみたいで、ジークフェルド・フォリーズ、これ全然覚える必要ないんですけど、ジークフェルド・フォリーズっていう人が1907年から1931年まで25年も続いた一大レビュー団を組成してですね、がっつりと演じていたみたいです。
で、この特徴はやっぱりほとんどパフォーマーが女性だったと。大勢の美女ですね。これショーガールとか言われたりして、とにかくですね、この頃ダンスとか歌とかそういった出し物に出てくるのは女性がメインで、女性の活躍する場としてですね、こういう場が発達していたし、スターとしてもっと流行られていたという背景があるようです。
で、パリ時代は割とちょっとエロティックな、ヌードで踊ったりとかそういうのもあったらしいんですけど、アメリカに来て発達させた人たちは全然そういったエロティックさっていうのは、ヌードとかもやらずに華やかな服を着せて、美しさ、ファンタジックな感じに切り替えたことによって民衆にめちゃめちゃ受けたということだったそうです。
で、このボードビルじゃあさっきマジシャンいたっていう話なんですけど、マジック状況どうだったのか、あとその女性マジシャン状況どうだったのかって話なんですけど、言うてマジシャンは男性だったんですよ、基本は。
いろんなデータを見ていると、このボードビルとかに出演したっていう人いるんですけども、ただですね、成功した女性マジシャンもちゃんといて、イギリスでアデレイド・ハーマンだと思うんですけど、アデレイド・ハーマンという女性マジシャンがボードビルで成功していてですね、本当にそれこそニューヨークにも出張講演をちゃんとしていて、そういったマジシャンもちゃんといたということで、ゼロではなかったと。
でもちょっと特殊なのがですね、彼女はもともとはマジシャンのアシスタントだったらしいんですね。旦那さんがマジシャンでメインでやっていて、旦那さん亡くなっちゃって、ちょっとそれ引き継ぐわって言って、こうマジシャンとして自分も活躍して一大スターになっていったというようなことです、みたいです。
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やっぱり当時もロンドンのマジックサークルが長いこと女子禁制だったようにですね、マジックをやるのは基本男性だったし、マジック情報を手に入れるにもそういったマジックサークルが女子禁制だったところがあったように、すごい女性がそういった情報を手に入れるのはハードルがあったんですよね。
ましてやそのアシスタントで基本やっているのは女性で、マジックで人体切断されるのは女性だし、割と差別されていたというか、区別されていたというところが当時の、これ現代がどうだっていうところにちょっと今あえて言及しませんが、少なくとも当時ファクトとして残っている話なわけですね。
なのでこういったエンタメ業界かつ女性パフォーマーを取り巻く現状があったということです。
そしてもう一個理解しておいた方がいいなと思った社会状況なんですけれども、アメリカにおける女性を取り巻く社会環境ですね。
これさっきはちょっと女性パフォーマーの話をしましたが、女性一般の話をすると、日本とちょっと類似ではあるんですけども、女性賛成権がまず1920年に成立してるんですね。憲法で成立していて、ただこれ白人女性だけですね。
これ当時、当然黒人差別が残っている状況ですから、白人女性のみ賛成権が与えられたと。
ですがその時に与えられたぐらいの話なんで、女性差別は社会的地位が低いという状況で、当時は見られていたと。
グロリア・デイさんは1922年に生まれてますから、女性賛成権が成立した直後ですよね。
なので女性の社会進出がじわじわと進んでいったタイミングでもあったそうです。
当時、高卒のうち60%が女性だったそうですし、特に白人女性の高卒率は高いし、その後もちゃんと仕事に就ける。
そして事務職といった知的労働というか、いわゆる服を作ったりとかっていうようなものだけではなくて、事務職に就いていく人も増えていったと。
電話交換所とかね。
ただどうしても職場では家庭の延長として仕事を求められたりして、売り子をやらされたりだとか、そういったような社会的な状況で監督者、マネージャーは常に男性だったと。
男性の下で女性が働くという構図にはなっていましたと。
ただ、そういった女性活躍というか、女性の社会進出の文脈があったんで、女性が多い職場っていうのは一種のステータスみたいになっていて、
ただこれは言い方悪いんですけども、ファクトとしてやっぱりあったのは、白人女性いっぱい雇っていると売り子として動いてもらったりだとかっていうので、客受けもいいし、働く女性の受けもいいという話でございました。
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なんでこの話をしたのかというと、グローリア・デイさんってユダヤ人なんですよ。アメリカ系ユダヤ人で、彼女が就職が難しい立場だったかどうかは怪しい。わからない。
これはインタビューとかでも聞かれてるのはなかったので、わからないんですけども、少なくとも彼女は白人ですし、写真をぜひググってみていただきたいんですけど白人だし、
多分この社会状況だと働くことは普通にできた。実際その後彼女、1960年代になって普通に仕事に就いてますし、働く状況が可能だったという中であえてパフォーマーを選んでいるという、そんな社会状況だったということですね。
ということで、ちょっとこれ前半ですので一旦切ります。前編ということで、一旦まず社会状況を理解いただいた上でですね、後半の方でこのグローリア・デイさんの老いたちとかですね、彼女がいかにしてラスベガスにたどり着いたかというところをお話ししていきたいなと思いますので、また次お会いできればなと思います。それではさようなら。