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そんな中ですね、3年中3の時の私の担任になったのは荒川先生っていう人で、この人はですね、もともと白山中学校っていうところにいて、3年の私が担任になった時に転勤、転任ですかね、してきて担任になりました。
ちょっと触れ込みとしては、白山中っていうのもだいぶ荒れてると。
白山中は何学ですかね、名古屋のことを知ってる人なら、ああって思うような感じかもしれませんけれども、当時ね、名古屋の中でも荒れている中学校っていうのがいくつかあって、時代覇権もありますよね。
校内暴力っていう言葉がすごく全国的にあった時代なので、我らが宮中もその五本の指に入るって言われてたんですけど、その五本の指に多分白山中も入ってたんでしょうね。他に3つあるんかいって思いますけど、あるでしょうね。
噂に聞いてたんで本当か知りませんけれども、覚醒剤事犯があった中学校があったって聞いてますんで、あるんでしょうね。
そういう中学校から諸案を変われてですね、荒れ切った我らが宮中にやってきたのが荒川先生だったんですけど、そういう触れ込みが最初に広まったんですよ。
確かにしっかりした先生でしたけれども、そんなに別に革命的な人っていう感じじゃなくて普通の先生でしたけどね。ともかくその人が他人でしたね。
3年生になってもそういう暴力的な傾向とかってのは全然変わらない感じで、女子の中にもやっぱりヤンキーグループっていうのが現れて、だから普通に中学生の時に化粧とかしてね、いわゆるヤンキースタイルで長いスカート履いたりしてね。
女子の中にも番長学みたいな子がいたりとかしてね。そしてS君番長と番長学の女子が付き合ったりしてっていうような、いろいろなことがありましたよね。そういう中で修学旅行とかにも行ってたんですよ。
だから修学旅行ね、私たちの学校だけ全員ジャージ着せられるっていう。結局制服にしちゃうと改造制服、ボンタンとかですよね。着ていくわけじゃないですか。そうすると、ちなみに修学旅行先は東京だったんですけれども、東京で他校の生徒との間でいろいろな摩擦が起きる可能性ありますよね。
なんだお前、みたいな感じで。服装でわかっちゃうじゃないですか。っていうのを多分封じるためにジャージで行けということになって、いわゆるイモジャーってやつですよね。体育の授業で着るようなやつを全員着ていかなきゃいけない。これは屈辱的でしたね。
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ただ東京にね、そういう格好をしていかなきゃいけないっていうのはね、だって別にあれですよ。なんか普通に東京ってどこ行ったの?全然覚えてないですけど、多分雷門とか行ったんでしょう。ジャージの集団がいたら本当にやですよね。やってられないなって感じしますが、そういうことがあったんですね。
ちなみに私妹いて3学年下なんですけれども、彼女の時には普通に制服で行ってましたね。私たちの学年が特別荒れていて、ゆえにジャージを着せられて、修学旅行だったっていうね。修学旅行の思い出、本当に全然ないな。
同室の校とすごい狭い、両国のビジネスホテルだったように思いますけれども、明らかにシングルだろうみたいな部屋にベッドが2つ入ってて、もうベッド以外には足の踏み場もないみたいなところで寝たなっていうのを覚えてますね。それしか覚えてないな逆に。
中二の時には林間学校で名古屋市の中学生がいなぶっていうところに行くんですよ。愛知県の中の自然がたくさんあるところですね。いなぶって何があったっけな。全然覚えてないなこれも。
そうですね。その3年生の間に私にお鉢が回ってきて殴られ、毎日のように殴られるっていう時期が一時期あったんですけど、それは結局、学校の外でたまたま番長のS君と、忘れもしない熱帯駅前の信号交差点でしたけど、S君がたまたま一人でいるところにあって、めちゃくちゃ久しぶりに会ったんですよ。
それに2人でさっしり喋ったんですよね。信号待ちの間に。信号が変わってからしばらく喋ったんですけど、その時に彼にいろいろな事情があるっていうことを、そんなに直接的にはないですけど聞いたのと、
俺は今こんな感じだけれども、お前は勉強頑張れよみたいなことを最後に言われて別れたんですよね。やっぱり彼の中では同じ母子家庭の境遇であるって私に対しては、一応そういうシンパシーみたいなのがあって、おそらくはその裏返しで、なんであいつは同じような境遇だったのに、そういうことにならないのかっていうところがあったんじゃないかなと思いますけれども、
結局それで、その後は殴られなくなりましたね。私もそういう境遇は変えようもありませんからね。彼に対していろいろ思うこともあって、ちなみに高校行ってからも連絡を取られるっていうこともありましたけれども、結局会わなかったですね。今どうしてるんですかね。
彼は中学を卒業した後、地元のちょっとした歓楽街のパブ、スナックみたいなところにバーテンとして就職したと。就職したって言うんですかね。ちゃんと会社員としてあったのかわからないですけれども、とにかくそこに職を得て、そこからのことはわかりません。
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もう地元にはいないという話は成人式の時かな。戻った時に聞きましたけれどもね。いろんな人生がありますよ。ただその卒業式は彼らも来てたと思いますね。ヤンキーグループっていうのは晴れの場っていうのは好きですからね。来てたと思いますが、さてじゃあそこで一体何があったのかな。
卒業式自体は涙涙の卒業式だったように思いますけれども、成立してないってことはもうすでになかったかな。確か記憶があんまりさらかじゃないんですけれども、その対立グループも握手をするみたいなことはあったようななかったような。
ちょっとその辺は私、直接関わってないですからね。あまり記憶で言ってもあれですよね。そう、突然思い出しましたけど、私そういえば生徒会長をやってましてですね。思い出すなって感じですけど。
そうで、当時、どっちが卒業生かというと当時だな。当時は多分私が読んだんだと思いますけどね。生徒会長なんでね。何喋ってるか全然わからないな。ただそういうのが得意なんで。作文とかも得意でしたからね。普通にやったんでしょうね。
プラスアルフはそこであったのが、私ね、生徒会長、会長だけ男子で、あとみんな副会長以下女子だったんですよね。初期と会計がそれぞれ2人ずついるんで、副会長もね。だから6人生徒会の役員っていて、全員私以外は女子だったんですよ。
その中の1人にね、制服の代入ボタンをくださいって言われるっていうね、甘酸っぱい思い出がありますよ。こんな私にもね、あげましたよね。ただ、だからどうってこともその後何もないっていうね。
そうですね。彼女はね、厚田神宮で働いてる人の娘さんなんですよ。だから、みこ姿みたいなのでね、アルバイトとかをしているっていうね。これは厚田神宮界隈ならではでしょうね。同居生に宮大工とかいましたしね。
宮大工ってよっては神宮専門の大工さんってことですからね。大きい神宮、神社があるところの周辺にしかない職業だと思いますけれども、代々やってるっていうね、子がいましたね。はい、まあそんな感じで中学生活はね、終わっていくというところでございます。