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2020-09-27 14:07

009. 残すことの出来ない文化遺産

世界遺産でもあり,現在でも祈りの場である「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を通して,形のない遺産,形はあるけれどもその場には残せない遺産などのお話をさせていただきました. 

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いちです。おはようございます。今日は長崎の平和公園から録画録音してまいります。
今日は本当は平和公園のすぐそばにある裏上天主堂というカソリックの教会からお送りしたかったんですが、ちょっと僕の中で思うことがあって平和公園に場所を移しました。
ご存知の通り1945年昭和20年8月9日に長崎に原爆が米軍によって投下されています。
その爆心地グラウンドゼロから本当に数百メートルしか離れてない場所に現在座っています。
後ろに平和記念像が見えているかと思います。YouTubeでご覧の方は後ろに平和記念像が見えているかと思います。
長崎の原爆は地上500メートルで爆発していますので東京スカイツリーよりも低い高度ですね。
ですからこの平和記念像の前に立っていただくともう本当に目の前ちょうど目の前というか少し首を上げたぐらいのところで原爆が爆発したファットマンが起爆したというのが想像できるかと思います。
もちろんここらへんは原爆によって被災しているわけです。
この平和公園のすぐ隣にある浦上天守堂も当時大規模な破壊を受けたわけです。被災しているわけです。
浦上天守堂はもともとは大正時代に巨大な天守堂としてできあがったそうで当時は東洋一位を誇るカソリックの教会だったそうなんですが
それが広島でいう原爆ドームのような形で一部壁が残り一部破壊され中は当然焼き尽くされていたわけですね。
僕が長崎に引っ越してきた時にいろいろ世界遺産、当時は世界遺産はまだなかったですけれども興味があって調べていく中で
なぜ浦上天守堂を残さなかったのか、被災した浦上天守堂を原爆ドームのように、広島の原爆ドームのように残さなかったのかという疑問を持ったわけですね。
もし残していれば戦争あるいは原爆の悲惨さを残す象徴的な建物になっただろうにと思ったんですが
よくよく調べていくとそれにはいろいろ複雑な状況があったということが分かりました。
これはデジタルアーカイブといってコンピューター技術を用いて文化財を残していこうと活動しているとどうしてもその方法論ですね、どのようにして残すかということに分かり目が行きがちなんですが
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そうじゃなくて、なぜ残さないといけないのか、あるいは残していいものだろうか、あるいは他にその上に何か立て直すために撤去しないといけないんじゃないだろうか、そういうところまで思いを馳せないといけない、考えなければいけないということに気づかされた大事な場所です。
実は裏上展手堂に関しては、いろいろ調べていったり調査していったりインタビューしていったりするたびに、ものすごく深い事情が分かってきて、
今朝も今回の録画録音前にウィキペディアで裏上展手堂のページを見ていたんですが、途中からまた年のせいですか季節のせいですか、もう号泣してしまってですね、
裏上展手堂の前で録画録音するのはまたなんか泣いてしまいそうで無理と思ったので、場所を平和公園に移させていただきました。
長崎というのは非常にカソリックの信者さんが多い場所で、エジプトのピラミッドであるとかスフィンクスであるとか、多くの世界遺産というのが観光地になっているわけですね。
特にエジプトのピラミッドなんかは象徴的なのは、紀元前にもうすでに王朝が交代していて、ギリシャ系のプトレマイオス朝がエジプトを支配していて、
その最後の女王ですね、クレオパトラがローマのユリウスカエサルと結婚した時に、正式な結婚かどうか分かりませんが、新婚旅行でナイル川からピラミッドを見ていた、みたいな記録があるわけですね。
記録というか言い伝えかもしれませんが、それが紀元前100年頃の出来事とすると、もう2000年以上にわたって観光地だったわけですね。
ところが長崎の今度世界遺産になったキリスト教の教会群なんかは、現役の祈りの場であるわけです。
なおかつ、これは全認知の長崎県立大学の先生に指摘されたんですが、なおかつ非常に厳しい弾圧を受けた信者たちが勝ち取った教会であると、
建てることを許された教会、明治の何年かに明治政府がようやく日本人によるキリスト教信仰を認めて、それでようやく建てることができた。
裏上天主堂なんかは非常に巨大な教会を建てたので、時間をかけて大正になってからようやく出来上がったという教会です。
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なぜそこに建てたのかというと、裏上で潜伏していたキリシタンたちが弾圧を受けたちょうど現場であったわけですね。
有名な文江なんかもそうですし、起教しなさい、キリシタンをやめなさいという拷問が行われた場所でもあったそうです。
その土地にようやく自分たちの天主堂を建てることができた。なおかつその天主堂をもとにして東洋一の大きな教会を建てることができた。
ものすごくこの地域に密着して、必ずしも長崎の人全員がカソリックであり全員がキリシタンだったわけではないですが、もちろん仏教徒も多数いらっしゃったわけなんですが、
その中でマイノリティとしてのキリシタンたちがあるいは潜伏していたキリシタンたちが強い思いを持って守ってきた土地、その上に建てた教会、それが今度は1945年に米軍によって破壊されてしまった。
そこをもう一度自分たちの教会を建てたいと思い、当然あったと思うんですね。過去の資料を漁っていくと、長崎の原爆投下というのは当時のアメリカのトルーマン大統領が明治的な許可を与えたわけではない。
広島と違って明治的な許可を与えたわけではなかった。それからアメリカにもカソリックが非常にたくさんいらっしゃって、原爆で被災した教会を戦争以降として残すことに反対する団体もあった。
というわけで日本に圧力がどうもあったようだという、それを匂わせるような資料もあります。それでアメリカの資金援助もあり、もちろんそれから長崎のキリシタンたちの援助もあり、自分たちの教会という意味もあったと思うんですが、
長崎の第一教区というのは非常に広いですし、バチカン直轄ですし、非常に大事な教会だということもあって、お金を集めて、大正時代の建築に近い形で再建をすることになって、
元々の原爆以降、広島の原爆ドームのように壁が一部残って、中は完全に焼き払われていたんですが、壁とかは撤去して、ピースミュージアムの方に移して、現在新しい建物が建っています。
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奇跡的にマリア像のお顔が残っていたそうで、それも残っていて、現在見ることができます。
そんなふうに、現在生きている人たちの祈りの場であること、そのためには、やはり撤去せざるを得なかったということもあるわけですね。
ただ、現物を残せばいいというだけじゃないんだ。そこには、やはり祈りの場として残していかなきゃいけない思いがあるということを、僕は長崎に来て初めて知ったわけです。
だから、形を残していくだけではなくて、気持ちも残していくのが本当のアーカイブなんだろうな、だから生きたヘリテージ、生きた遺産であること、長崎農協会群というのは生きた遺産であること。
実は面白いことに、長崎に2つ世界遺産がありまして、明治時代に近代化していた産業遺産の中で、長崎港に、ひょっとしたら過去の動画の中でたびたび映り込んでいるかもしれないんですが、ジャイアントカンチレバーという110年ほど前のクレーンのようなカンチレバーがあるんですが、
世界に何体かあるんですけど、稼働しているのが長崎だけだというので、生きた世界遺産というのが産業遺産でもあるんですが、実はこの祈りの遺産というのは、これはもう引き継いでいくからこそ価値がある遺産である。
そこをデータとしてフリーズさせてしまうのは、遺産を殺してしまうことになるということを考えていただきたいと思って、今日お話をさせていただきました。
まだまだお話をしたりでいないですし、まだまだお伝えしないといけないことがあるんですが、今日はこの辺で終わろうと思います。
本当に長崎の世界遺産、特にキリスト教の教会群の遺産を調べていくと、もちろん江戸時代から明治初期にかけての潜伏キリシタンたち、
実はカソリックにほとんどの方が戻られていったんですが、江戸時代初期からずっと金教令が敷かれて、本来のカソリックからは枝分かれしていった隠れキリシタンという一種の宗派ですね。
実は隠れキリシタンの方々はまだ長崎にもいらっしゃいます。ただ当然それが誰かというのはもう明かすことはないですし、彼女らも公の場で宗教行事を開くということは今後もないと思うんですが、
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そういった方々、見えない祈りといったものをどうやって次の世代に残していくのか、失ってしまっていいものなのかどうか、そこら辺も考えていければと思っているんですね。
それはかけがえのないもの、例えば命というのは失われたらもう戻らない、環境というのも破壊してしまったら元に戻すことはできない。文化財というのは破壊してしまったら元には戻らないんだけれども、形あるものとしては破壊せざるを得ないこともある。
ただ人々の気持ちというものは自然に消えていってしまうのは仕方がないにしても、残したいと思う気持ちがあるものを消滅を早めるようなことは我々はすべきではないと僕は思うんですね。
だからなんとかデータじゃないものというものも残していく方法、できれば次の世代の若い人たちと一緒に考えていければと思っています。
今日は取り留めもない話になってしまったんですが、またいずれ考えをまとめて今度はブログか何かに書いてみたいと思っています。
今日は聞いてくださってありがとうございました。
それでは。
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