ようこそ、自己理解を深める心理学ラジオへ。このポッドキャストは、株式会社自己理解で自己理解コーチとして活動する配信者が、自身やクライアントの自己理解を深めるために探求し始めた心理学をテーマにお話をする番組です。
毎月一桁目に1がつく日の朝に配信してまして、月末はゲストに出ていただいて、心理学に関する雑談をお送り予定でございます。
心理学というテーマに興味のある方や、同じく対人支援をされている方、自己理解を深めたいと感じている方の参考になれば嬉しいです。
はい、今日も聞いていただいてありがとうございます。
今日のテーマはですね、部分と全体どっちが大切というところで、構成主義という考え方と機能主義という考え方を比較しながら、最終的には自己理解を深めるという視点につなげていければと思っております。
構成主義と機能主義という言葉、聞かれたことありますかね。
私は心理学を勉強する前までは聞いたことなかったんですけれども、言葉構成ということと機能ということで、なんとなくイメージつく方もいらっしゃるかもしれませんが、構成主義というのが意識を構成している要素を分析分解して考えていくという主義。
機能主義というのが、それぞれのパーツを見ていくというよりも、人が生きるために意識がどういう機能、役割を連動して果たしていっているのかというのを見ていく主義になっています。
そういう意味では構成主義の方は部分を一個一個分解して理解していくものの見方に対して、機能主義というのはどっちかというと全体の流れとかつながりみたいなことを理解していく主義じゃないかなと思いました。
この辺を踏まえて、それぞれのことについてまずご紹介していきたいと思います。
構成主義というのは、ドイツの心理学者の文人さんという方が提唱された主義になっていまして、この主義の元ネタというんですかね、発端は実験心理学という考え方だったようです。
文人さんは人間心理の研究に自然科学の手法である実験というのを取り入れていきました。
これまでの心理学は、前の放送でもお話ししたかもしれませんが、哲学であって科学にはなり得ないという立場を取る哲学者が多かったんですね。
例えば同じドイツでいうと、カントさんという18世紀の哲学者の方がそういった立場を取っています。
一方で同じくドイツの文人さんは、その1世紀後の19世紀に活躍されたんですけれども、近代心理学の父とも呼ばれている方で、そんなことはないですよと。
心の動きを精密に観察すれば、心理学って科学になり得ますよという立場を取っています。
例えばですね、文人さんはこんな実験をやっているんですね。
リンゴを目の前に置いて、2人の被験者の方に何を意識したのかというのを報告してもらう実験なんかをやったと言われています。
例えばお一人の被験者がリンゴを見て、赤くて硬くて何かまずそうだなと思ったとしたら、それを報告してもらって、
一方でもう一人の向かいに立っている被験者さんは、赤くて丸くて何かおいしそうだなと感じたということを報告してもらいました。
ここから分かったのが、同じものを見ても人によって感じ方が違う、そんなことが分かったということを文人さんは言っています。
どうですかね、これって今を生きる人からすると、ある意味当たり前のことで、人によって見方、感じ方が違うよと、意識が違うよというのは当たり前のことかもしれないんですけれども、
この当時は同じものを見ているんだから、同じように思うに違いないというところを思っていたんじゃないかなと思うんですが、
それを覆したとしたら、すごい発見ですよね。こういった実験を通して、人の感じ方は違うんだという心の動きが一部明らかになったということなので、すごく今につながる発見だなと思います。
そんな文人さんが提唱されたのが、この構成主義という考え方で、意識、心というのは表象、イメージのことですね。
例えばリンゴだったら赤くて丸くて、あの絵ですよね。あの絵って言っても伝わらないんですけど、みんながイメージしているリンゴという図が頭の中にポッと浮かぶことを表象と言います。
表象と意思、感情、感覚みたいなものに分類できて、それぞれさらに細かい要素に分類可能だというふうに主張しています。
例えば感覚で言うと固いとか丸いとか、感情で言うと食べたいとか、意思で言うと食べようとか、表象で言うとあの赤くて丸くてツヤツヤしたやつということですね。
こういうのが人の頭の中に浮かんで、それぞれの要素を分析、理解していけば、その物質が何たるものかというのが分かっていくという立場を取ったのが、この構成主義という考え方になります。
じゃあ一方で機能主義の方はどうかというと、これはアメリカのジェームスさんという方が提唱された考え方なんですけども、
例えば車で言うと構成主義というのはパーツを分けてタイヤだとか車体だとかネジだとか椅子だみたいなことに分析して踏む踏むって感じのが構成主義なんですけど、
機能主義、ジェームスさんが提唱された機能主義の方は、個別のパーツを見ていくというよりも、左の車輪と右の車輪があって、そこに棒が通っていて、アクセルエンジンとかがあって、アクセルを踏めばエンジンに動力が伝わって、
エンジンがその車輪の中の棒を回して結果的に車輪が回ってみたいな、車が動くということに対して各パーツの役割とか繋がりみたいなことを探求していくっていうのが機能主義だったようです。
どうですかね、どっちが大切かって言われると、どっちもそれぞれ一つの対象の見方が違うなっていう感覚なんですけども、
そうですね、車が動くっていう目的みたいなところに一番直結するのは機能主義の考え方なのかなというふうに個人的には思います。
いくら構成主義的に一つ一つの要素を解像度高く見ていっても、どうすれば車が動くのかっていうところは見えてこないんですよね。
だけど各パーツの解像度がたとえ低くとも、この丸いのと軸となる棒を組み合わせたらクルクル回って、そこに物を乗せたら動いていくなみたいなことは何となく分かってきますよね、機能主義的なものの見方をしていると。
そんなふうに思うので、心を捉えるときに、どちらかというと機能主義の方が私は大切なんじゃないかなというふうに思います。
これは個人の見解なので、反論とかご意見とかぜひぜひお待ちしております。
この機能主義は意識が流れていくっていう考え方を取るので、例えばですけど、アイスクリームを目の前にして食べるというところまでをイメージしたときに、アイスクリームだって考えるのが表彰ですね。
思い浮かんだイメージみたいなものですね、アイスクリームをその人が見て頭の中に浮かぶイメージ。
そのイメージに対して感情が動く、おいしそう食べたいみたいな感情が動いて、続いて思考が浮かぶんですね、でも太るかもしれないみたいな思考。
そこで意思が浮かんできて、でもいいや食べちゃえっていう意思が生まれて、その意思に従って食べると冷たいなっていう感覚とか、
前に食べたことある味だっていう記憶とか、なんか懐かしいなっていうこれまた感情とかが湧いてきて、最終的にこれも感情で幸せだなっていうふうに感じるみたいな、
絶え間なく一個一個の要素として分解はできるっちゃできるんだけども、常に動いているものなので意識は流れていくんだよと、固定的な要素の結合集合体ではないですよっていうのが機能主義のものの見方でした。
これをですね、自己理解、自分を理解するっていう観点から見ていくと、そうですね、公正主義の方はどちらかというと部分に分析を分解をして焦点を当てていく考え方なので、
例えばヤギ・ジンペイさんが開発された自己理解メソッドにのっとってお話しすると、自己理解、本当にやりたいことっていうのは大事なこと、得意なこと、好きなこと、イコール価値観、才能、興味、この3つに分解できますというこの見方が公正主義的な見方かなと思います。
それぞれ解像度を上げてみていくと、例えば大事なこと、価値観っていうのは主観的に自分がこれまで大事にしてきたこと、過去から現在に至るまでに大事にしてきたことから導き出せますよっていうふうに分かってきますし、得意なこと、才能っていうのは自分じゃなくて他人から、他社から周りから客観的に得意だと思われていること。
イコール価値を出せることっていうところに分解して解像度を上げていけますし、好きなこと、興味っていうのはこれはご自身が興味が湧いたこと、そしてこれから湧きそうなこと、現在から未来にかけて主観的に興味がありそうなことっていうところで解像度を上げていけて、
それぞれのパーツは違った自分の視点の当て方で分解して考えることができるというふうに置き換えられそうです。
一方で機能主義的なものの見方で考えると、それぞれ大事、得意、好きというのは目的と手段の関係性、役割、流れみたいなものがあって、大事なことっていう価値観が人生だったり仕事の目的になってきます。
この人生、仕事の目的に対して手段としての得意なこととか好きなこと、得意なことはどういう行動をその目的のためにやっていくのがいいのか、好きなことであればどういう分野でその目的のためにやっていくのがいいのか、みたいなふうに考えるとつながっていくというか、
自分の自己理解イコール本当にやりたいことを見出していくときに、まずは目的をイコール大事なこと価値観を明らかにして、そこにつながりそうな得意なこと好きなことっていう手段を明らかにしていけば自己理解が深められるんだっていう、
このパーツとこのパーツでこういうふうに動かしていけば車が動くんだみたいな感じで、流れで自己理解を捉えることができるかなというふうに思います。
これどっちが大事かっていうと、どっちも自己理解においては大事なんですけども、さっきお伝えしたことと同じで、部分部分だけを見ていても本当にやりたいこととか深い自己理解っていうのはたどり着かなくて、
目的をまず明らかにして、それに対して手段である得意なこと好きなことを掛け合わせていくと初めて深い自己理解、自分がこのためにこんなことをしたいんだっていうのが見えてくるという意味では、