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エンジニア・デザイナーの海外進出をサポートする会社、Frog代表のSennaさんに来てもらいました。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回のこの放送では、Sennaさんの経歴とか人柄深掘れたらいいなと思ってますね。
Sennaさんのプロフィールを軽く説明させていただきますと、先ほど紹介した通り、Frogという会社の代表をやっておられるSennaさんです。
Frogは、エンジニア・デザイナーの海外進出、バンクーバー進出ですかね。カナダ進出ですかね。
最近は、そうね、北米全土って名乗りたいところではありますけどね。バンクーバーは東流門になっちゃってるよねって感じですよね、今。
というFrog会社の代表をされていまして、ポッドキャスト、バンクーバーのエンジニアのホストもしていらっしゃいますね。
バンクーバーのエンジニアさんの方がだいぶ先輩で、今もうちょっと見たら、バンクーバーのエンジニアだともう166本のエピソードがあって、もう4年ぐらいですもんね、そっちは。
あれ4年ぐらい続いてんでしたっけ。
この前ポッドキャストで行った。
やば。
だいぶ先輩ですね。
いやー、なかなか先輩面できるくらいね、なんか面白い話あんまできるわけじゃないんですけど。
先輩面といえば、もう一つブロガーとしてすごい有名。
だったですね。
有名だったらしい。
バンクーバーのウェブやというブログを、今も見れるのですが、やっていらっしゃいまして、ちょっとこれも放送の概要欄にリンク貼っておくと思うんですけど、バンクーバーのウェブやというブログを運営されております。
で、ちょっとこれ収録もあるということで、僕あんまりブログ記事、昔のものを読んだことがなかったんで、世代的にこう違うのかなって感じなんですけど、一応見てみたら、びっくりしたのが、はてぶ、はてなブックマークの一覧見てみると、
いやすごい、実績がすごくても、はてぶ1000件越えが15記事もあって、3つぐらいはてぶ2000件越えも持っているという、すごいんですよ。
これレジェン、へーって。
そんなありましたっけ?あ、そう、素晴らしい。
数えたんですよ。めちゃくちゃびっくりして。
はてぶの記事の数数えるってなかなか斬新ですね。素晴らしい。面白い調べ方やな、それ。
気になって確認してみたら、こんたくさんになって。
でもね、あれあれですよ、途中からたぶんはてぶアルゴリズム変わったんで、昔はね、鬼のように取りやすかったんですよ。もちろんそれなりにバトルやらなくちゃよかったんですけど、昔の2000は、俺の感覚今の600か700っすね。
でも、すごい。
いやいやいや、慣れればみんな取れます、きっと。
が、頑張りたい。
いやいやいや。
頑張りましょう。
そのはてぶの上位の記事を見てみると、やっぱ結構そのウェブやとしての記事が多くて。
そうですよね。
2011年から13年にかけてのなんかウェブ制作についてのいろいろなチップスが書かれているものが多くて、ちょっと時代を感じてました、個人的に。
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もう11年くらい前ってことですもんね。もっと前か、12、2、3年前か。
そうですね、2、3年。
いやー、あの時が僕の黄金期でしたね。もう今はただの時です。
いやいやいやいや。
でも、ちょっと輝いてもらわないとフロックの利用者としては困りますね。
じゃあ頑張ります。
そういうことか、なるほどね。
そうですね、その時もブログちょっとやらせてもらっていて。
でも言うてもバンクーバーのエンジ、バンクーバーじゃなかった、バンクーバーのウェブやのブログが割ときっかけで今の会社につながってるんで、まあいいスタートの話かもしれないですね、それは。
そうなんです。ちょっとそこらへん話広げていきたくて。
多分その、セナさんのことを最近知った方とかフロック利用してる方からすると、やっぱセナさんってフロックの代表としてのセナさんとしての認識だと思うんですよね。
僕もそうなんですけど、なんとなく元エンジニアでブログ持ってて、でも今はフロックの代表ですよぐらいの情報なので、
もうちょっとなんかどういうエンジニアだったかとか、そもそもなんでフロック起業したんだろうとかいろいろ聞いてみたいんですけど、
なるほど。
ちょっとフロックの経歴聞く前に、セナさんのエンジニア周りの話を聞いてみてもいいですか。
いや、もちろん。
日本でエンジニアしてたんですよね、もともと。
そう、あのね、日本では最初の職歴がエンジニアじゃなくてウェブ系のディレクターだったんですよ。
ディレクターから。
そうそう、あれ、何部やったかな。18の時に上京してデジハリっていうとこに1年通ったんですよね。
デジハリ当時は大学もなかったんで、本当になんか職業訓練学校みたいな感じです。
本当にその当時はもうデジハリに通ったらみんな100%就職できますみたいなことを豪語できるくらいウェブ系がやっぱり熱い時期で。
ウェブ2.0になる前ですからね、多分。今だとね、なんかウェブ2.0かウェブ4.0かみたいなね、そんな話をされてる昨今だと思うんですけど。
その当時は本当にウェブっていうのが本当に出てきてようやくなんかホリエモンみたいなのも出てきてみたいなね。
そっか。
そう、そういう時期だったんで。
2000、それが2000、じゃあ。
何年ある?7年とかですか、そうすると。
おお、2007年。
私小学生だ。
ね、みなさん小学生、多分何度するかやってらっしゃるような時期だと思うんですけど。
そう、その時は、それで言うとその前のキャリアが僕印刷系の会社でずっと。
あー、ちょっとブログも書かれてましたね、それで。
そうそうそう、なんかキャリアどこからスタートするのが正解かわかんないんですよね。
僕16の時から印刷系の会社でずっと働いてたんで。
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そう、で、まあこう通いながら印刷会社行って営業やってて。
で、18の時にこんな業界やってられっかってなって。
で、東京行ってデジハリ行って。
で、デジハリ1年行って。
で、そこの後、今はないんですけど、ユナイティアっていう会社に入らせてもらって。
その会社がね、当時のウェブ系の制作会社だったら割と大きかったんですよ。
そう、今はもう買収されて、多分IMJグループっていうね、まあそれは今でもあるんですけど、
割と当時は一番多分大きかった制作系の会社にもう九州合併されちゃったんですけど。
そう、そこでディレクターずっとやってたっていうのがキャリア的には最小ですね、多分。
えー、なるほど。
ちなみにその印刷会社やってたところから上京して、
そういうなんかウェブ系の業種に直収というかキャリアをチェンジしようと思った時って、
なんでウェブ系だったんですか?
いやいや、もうだってね、なんか皆さん勘付かれてる通り、
まあ僕高卒だったし、大学へ行くお金なかったから、
とりあえず印刷会社ずっとね、なんかおじいちゃんかなんかがやって、
おじいちゃんじゃないね、うちの親戚が昔やってってこの印刷会社ずっといたんですけど、
そう、やっぱり印刷系の会社ってね、すごい古い業態じゃないですか。
プラスやっぱりね、その当時くらいからやっぱり言われてたんですよ、
オンラインプリンティングとかがやっぱり主流になるんじゃないかみたいなので、
それに対して僕って熊本のどいなかのやっぱり印刷会社だったんで、
ずっと足使ってね、スーパーマーケットとか周りを回って、
卵1個60円みたいな、卵1個60円高すぎるな。
卵1パック何十円みたいなね、そういう知らしとかを取ってくるみたいな営業をずっとやってたんで、
それはもう信じられないくらいアナログでやっぱり。
想像していた印刷会社とかともちょっと違った世界でしたね。
本当に。だからちなみにどんな印刷会社想像してらっしゃいます?今だと。
やっぱり現代の印刷会社、突販とかそういう。
突販印刷とかね。
そういう系のものを想像していたから、地元の制作会社みたいなところあんまり想像できてなくて。
そういうことですね。
でも突販イメージできてるんであれば割と、
それの本当に超田舎バージョンだと思っていただければっていうところはありますかね。
だからそこで本当にスーパーマーケットの赤白のチラシみたいなやつを、
営業を取ってくるみたいなこととか、
あとはもう本当に印刷機のオペレーターもやったし、
ハイデルペルグっていう会社さんの印刷機の上に立って、
インクをずっとこねこねして。
そういうレベルより。
どういう状況なの?
何千枚、何万枚、何十万枚っていう紙をずっと積み続けるみたいな、その印刷機に。
ああ、なるほど。
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土方の人間だったんですよ、どっちかっていうとそういう。
すごい意外と力。
ねえ、こんな近い頃なのにね、本当に。
そうなんですよ。っていうのがあって、やっぱりその当時から、
業界に未来ないとは正直思わなかったですけど、
言ってしまってもそう思ったかな正直。
この業界そろそろ未来ないかなってぶっちゃけ思ったんで。
で、やっぱり学歴もなかった、経歴もなかったっていう状況から一発当てるみたいなイメージで言うと、
その時ウェブだけだったんですよね、多分。
見られるのが僕の目線の中で。
だから選んだつもりはなくて、やっぱりキャリア的にもはやそこくらいしかなかったかなっていうのが振り返ってみるとやっぱ思うところですかね、正直。
ある意味、そこから抜け出すのが自然な方法というか、がウェブ系だったっていう感じなんですね。
いや、でも当時から学歴社会っちゃ学歴社会でしたからね。
だからいきなり僕が医者になれるわけでもなく、いきなりコンサル会社に入れる未来も見えずみたいなね。
確かに今でもそうですけど、ウェブ系というかエンジニア系だと、海外はわかんないんですけど、
日本だと今でも高校卒業した後すぐから働いてますみたいな人をちょくちょく見るなと思っていて。
そういう人でもウェブの文学の中だとスキルとか経験があれば、他の人より早くマネージャー系とか、もっと職種のレベル高いところに昇級していって活躍してるっていうのは何人か見たことあるので、
昔からそういう感じで学歴があんまり関係ないというか、やっぱ実力主義というか感じなんですよね。
そうですね。むしろ本当に今よりもやっぱりもっと何もわかんなかった業界だったと思うんで、今よりも本当にまだ自由さはあったというか、そういう僕みたいな人間がね、なんかのし上がる土台はあったのかなとはちょっと正直感じるかなと思いますね。
うーん。のし上がる。
今ってね、もちろん今もさっき優吾さんが言ったとおり全然同じような状況かなと思うけど、だいぶやっぱり定型化されてきてるじゃないですか。
会社行く人って大体こういうとこ行くよねとか、外資行く人はこういうところから行くんだみたいな。
それに比べると、もちろん他の業種に比べるとまだまだ自由な業種かなって、実力主義かなって思うけど、
当時は右も左もわかんなかったから、なんかもっとほんと野蛮な業界なイメージでした。
野蛮な業界。
でもその野蛮な業界飛び込んだときって、瀬名さんってウェブディレクターとしていたと思うんですけど、そっからエンジニア系にどっかでまた変わったってことですよね。
そうですね。僕の中では正直あんま変わった印象やっぱなくて、デジハリ行ったときもウェブディレクター専攻みたいなやつ取らせてもらって、ディレクションやってたんですけど、
その当時のデジハリがですね、結構制作もちゃんと教えてくれてたんですよ、ディレクターに対して。
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今でも全然覚えてる林先生っていうデジハリの時に僕の先生になってくれた人がいて、その人がディレクター専攻ではなくてウェブデザイナー専攻かな?
ウェブ制作専攻かな?そっちの方の先生だったんですけど、その先生の授業をたまたま受けることができて、そっからもうガッツリ制作超楽しいってなったのはもうそこからなんですよね。
デジハリの時代から常にずっとオールナイトって言って、本当に夜中の2時から朝の6時までずっと何か作ってるみたいなのをずっとやってて。
じゃあ元々作ること自体も楽しさを感じていてって感じですね。
そうそうそう、だからあんまり僕は移ったって印象はないですね。当時からずっと、僕のでもそうですね、プログラミングの一番最初はそういう意味で言うならフラッシュでしたね、そのときは。
たまに。
そうですね、聞く、僕自身は触ったことないけど働いてるとたまに昔はねっていうことで。
昔はねって出てくるフラッシュですね。
そうなんですよ、当時もか今はもうないけどアクションスクリプトっていうフラッシュの裏側で使われてる言語はずっと、それが僕の最初のプログラミング初体験で。
1.0、その当時いつくしやったかな、1.0から2.0に多分移行するタイミングで、そのときに初めてオブジェクトオリエンテッドっていう、なんか日本語で言うとオブジェクト思考化の概念をね、ちょっとそこで理解をして、
わーめっちゃ便利やんみたいなのを体験したのは僕はアクションスクリプトでしたね。
それもアクションスクリプトの名前しか聞いたことがないので、だから全然わかんないけど。
どんな言語だったの?
言語自体は割と結構シンプルですよ。本当にね、今のJS書ける方々だったら何やこのイージーな言語って思うと思いますけど。
まあでも確かに、クリプト言語でほんと簡単に書けるような言語とかですね。
なるほど。それでウェブのディレクターやら制作する人っていうのをどれくらい続けてたというか、日本でどれくらい続けてたんですか?
そうですね。それでデジタルに卒業して、日本でやってたのは多分2年か2年半、いやもうちょっと言うのかな、2年か3、2年か、ん?ちょっと待ってよ。
19年卒業して21年バンクーバーから2年ですね、やっぱ。
あ、2年。で、その2年経ったらもうバンクーバーに行こうみたいな。
そうですね。ここも話すとね、なんか長くなっちゃうからちょっと前回にすると。
そう、まあユニアイティやってその会社行って、めっちゃいろいろレベル、その当時だとレベルがすごく高い仕事をさせてもらって。
で、こういう業界やっていきたいなって思ったときに、割とやっぱり激無で、もう当時はね。
もう何、その当時はちょっと有名になりましたけど、私はブロック企業に勤めてる限界かもしれないみたいなタイトルのウェブ漫画が流行ってて。
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そういうタイトルの漫画が出てくるくらいテック業界はもう殺伐としたくらい、とにかくもう開くブロック企業がいっぱいで。
うちの会社も全然ね、やってることはむっちゃ楽しかったんですけどね。
もう例に漏れず相当ブロックで、もう寝袋を持って会社の勤めは当たり前みたいな。
そう、終電絶対に乗れないから、もうチャリ通勤になりましたからね。
私の周りにも、終電が乗れないからチャリ通勤結構長めの30キロぐらい走るっていう先輩いました。
すいません、30キロちょっとすいません、僕舐めてましたっていうしかないですね。
むかんだから死んでいってたから。
えーってなりました。さささ、30キロ?
30キロ。
30がすごい。
いやー、毎朝?やばいですね、そういう人。
わかんないです。ちょっと持ってるかもしれない。でもすっごい長さで。
いや、すごいですね。ちょっとその人はちょっと僕に、僕はもうちょっとね、まだまだ甘いですっていうしかないですけど。
いや、もうでもそういう時代だったんですよ、やっぱり。
時代なんですね。
なんか結構ファイタリティ鍛えられそう。
いやいや、でもやっぱ僕ね、優吾さんは知ってると思うんですけど、むちゃくちゃひょろいんですよ、あの体型が。
そうですね。
そうですね、そうなんですよ。
そうで、まあね、やっぱり、やっぱり体持たなくて。
そうで、21人の時に普通に入院しちゃって。
無理だそうです。
割と最初はそれだったかな。で、それで、あれ、この働き方やばくねっていう風になって。
で、その時に、何も考えてなかったって言ったらちょっとあれかもしれないですけど。
その一緒に働いた会社の別の部署の上司に当たるのかな。
上司というか上の役職の方がバンクーバーに1年とか2年とかちょっと行ってらっしゃったって話を聞いてて。
で、それでバンクーバーっていう土地があるんだっていうのを知って。
で、カナダっていうところって、なんかアメリカより行くの簡単そうだなとか。
当時からビザね、やっぱりアメリカは辛かったんで。
で、英語できて海外就労の、就労というか海外で渡航してた経験とかあったら、
ワンチャン日本帰ってきては空でも飛べんじゃないかなって思って行ったっていう、
すごく簡単な、何も考えずにそれだけで行きましたね、本当に。
元から英語は結構喋れたんですか?
全然全然、僕びっくりするくらいできなくて、AからZのスペルの並びすら分かんなかったですね。
ほんとですか?そこから?
GDFGってそんな歌を歌うところから頑張りましたね。
歌えばみたいな。
すごい。じゃあまず英語分からない状態から、もうバンクーバーに行ってみようって。
そうですね、もうそんな、英語がそんな必要だとその当時思ってなかったんじゃないかな、たぶん。
すごい。
18:01
バイタリティがすごいですね。
いや違う、本当にね、田舎の人だとわかると思うんですけど、
情報がないから、バイタリティが自分があるのかないのかもわかんないですよ、たぶん。
いやいやいや、でも飛べないですよ、急に。
それってたぶんあれですよ、そういう飛んだら難しいっていうことを知ってるから飛べないって思うだけで、
僕当時何も知らなかったから。
行けばもう簡単に生きていけるんだぐらいの認識で。
そう思ってましたよ。1週間くらいで多分英語ってできるんでしょ、みたいな。
かっこいい英語を感じられるのが、飛び込んで、まずは飛び込んでみようっていう考えが好きです。
いや、まずは飛び込んでみようとすら思ってないから何も言えないですよね、それ。
意味で周りの土地にちょっと移動したぐらいの認識って感じです。
そういうことですね。
飛行機ってこんな長いんだって乗ってみて初めて気が付くみたいなね。
面白い。
だいぶな距離感を。
何も考えられない。いや、マジで知らなかっただけですけどね、本当にね。
それでバンクーバに来たと。
ITトリオ。
そんなこんなでじゃあバンクーバに来たのが、22歳?
21かな、22、20歳の時かな、20歳、22、やっぱり21か、やっぱり21ですね。
それで来た後はバンクーバで何をしてらっしゃったんですか。
普通になんかね、2ヶ月経っても3ヶ月経っても英語できないんで。
そりゃそうだというのもあって。
でも言うてなんだろうな、こっちでとりあえず生活するレベルには困らなくなったのが多分3ヶ月目くらいで。
3ヶ月。
普通に語学学校やっぱ行って、英語は普通に全然できない中でも勉強頑張って。
で、3、4ヶ月くらいしてとりあえず生きてはいけるかなみたいなレベルになって。
で、最初はやっぱりそんな英語力しかないから全然どこも雇ってくれないんで。
一応唯一広告代理店みたいなところが、日本人の人がやってる広告代理店みたいなところがバンクーバにあったんですよ。
で、ちょうどこっちに市場進出しようみたいなタイミングで、
まあラッキーなことに当時なんてもうそのウェブ系の制作なんかできる人もう一人いなかったんで、特に日本人。
そう、別に日本人募集されてたわけじゃなかったけれども、
まあその時に一応実績だけはね、その制作会社でこういうのを作ったんですよとかっていう肩書きは持ってたんで、
で、割と大きいところの会社さんのウェブ制作案件とかもいろいろ並べて、
その会社突撃したら雇ってくれるよってことだったんで。
すごい。
ラッキーですね。
巡り合わせですね。
その突撃はリアルに、今その時代だとオフラインで行った感じですか?オフィスに突撃というか。
どうだったかな。でもほぼオフラインみたいな感じだったかな。
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なんかどっかから応募したような気もするんですよね。
で、もう本当に次の日にはそのオフィス行ってたみたいな。
すごい。
すごいな。
いや、ちょっとね応募の仕方、言うてだって16、7年前なんでちょっとあんま覚えてないんですけど、そんな感じだった気がする。
だいぶ前ですね、確かに。
そうそう。で、そこで普通に製作者としてっていうので、ウェブの担当僕しかいないみたいな形でね、ずっといろんな案件やって。
最初の案件が多分こっちのレストランで、その後こっちの学校で、その後何やったかな。
まあなんかそういうこっちのローカルの人たちとか、もしくはジャパレスとか、そういうところのウェブサイトとかバンバン作りまくってっていうのが変わらずの2年間くらいそれで続けた感じですね、多分。
変わらずウェブ製作をバンバコバンバコ。
バンバコバンバコ、もう来たら裁くっていうのをね、ずっとやって。
それを2年くらいやったらまた何か変化が現れる感じなんですか。
そうですね。で、2年やってる間になんか飽きたとは言わないか。飽きたとは言わないんだけども、やっぱりね、変化っていうか割とお金が必要になったんですよ。
まあそりゃそうだと。海外でね、ずっと生活して。
で、その当時ちょうどね、うちの弟が学校通いたいって言ってた時期で、大学。
そうで、うち知ってるのが普通に貧乏だったんで、大学の学費なんか出るわけねえじゃねえかっていうことで、僕が出すことになって。
で、じゃあ大学の学費担保せないかんから、今の稼ぎ口だと足りないので、何かせないなって思ってやったのがブログでしたね。
そこの選択肢でブログが出てくるんだ。
でもね、当時は今のYouTuberみたいな感じだったんですよ。
ブロガー言って、なんかめっちゃお金稼いでるらしいで、みたいなのがあったんですよ、やっぱり。
あったっしょ。ねえ、たぶん、ほんとにちょうど十何年前じゃないかな、十二、三年前くらいに、おそらくほんと第一次ブロガーブームみたいなのがあって。
第二次だったかな、わかんないけど。
それで、だから弟の学費を稼ぐために、お兄ちゃんとしてブログを始めるっていうのはすごい。
僕、べっきり、なんとなくこう、もうちょっと楽にお金稼ぎたい的な文脈かなとか勝手に想像してたんですけど。
そっちのほうが近いよ。別に弟の学費なかったとしたって、俺何かせないのちょっとやばいなって思ってたんで。
カナダでの生活するお金と弟さんの学費を稼ぐってなると、結構なお金が必要そうっていうイメージがあるんですけど、結構ブログで稼げたんですかね。
楽勝でしたね。
楽勝でしたね、すごい。
でもね、なんでしょうね。だからその時に、あまりに端折っちゃうんですけど、
24:04
多分そのブログやって3年目くらいで、わりかし今で考えてもちゃんと稼ぐ量になったんで、
これもうええやんみたいな、なんかロテリーでなんか当たったなみたいな。
へー。
なんか宝くじかなんかに当たった感覚でしたね、正直。
ブログ始めた時は多分他の仕事しながらだったと思うんですけど、どっかでブログ専門とかになったりしたんですか。
専門というか普通にフリーランスにやりましたね。
バンクーバーの広告代理店2年くらい勤めた後、ブログが終わったりしたんで、
アラッキーっていう風になって、これ辞めれるやんって思って、結構割とサクッと辞めて。
で、そっから普通にブログ1本でやりつつ。
で、ブログって結局どこで儲かるかっつったら、だいたい広告か、もしくは案件獲得なんですよね。
そうですね。
そうですね、よくあるパターンですけど、それでフリーランスとしても全然もう案件途切れることなくなったし、
自分の広告でも十分に食っていけたし、
そうっていうのでフリーランスに転移行したっていうのがその当時ですね。
13年前かな。
2011年ぐらいですかね。
そうですね、本当にもうブログはど真ん中の時だからそうですね、11年くらいですね。
バンクーワーのウェブヤーを調べてみると、2011年の12月3日に、
公開1週間で10万PV、ダメブログを見直し月間10万PVのブログにするまでの激闘、みたいな記事を書かれた。
あー懐かしい。
ちょっとやめんそれ、すごい恥ずかしい。
なんか見るとちょっと、当時からの瀬名さんのブログのテンションというものが、会話を見ると面白いですね。
懐かしいけどちょっとやっぱすごい赤っぱあずすか、なんか恥ずかしいですね。
そっかね、それでブログメインというか中心でやっていって、
そっからどっかのタイミングでフロック作ることになるわけじゃないですか、
そこら辺の流れあんまり知らないんですけど、
それも割とストレートフォワードで、
ちょっとめんどくさいけど説明しなくちゃいけないところがいくつかあるとすれば、
バンクーバーのウェブやっていうくらいだから、
そりゃバンクーバー行きたいって人から連絡がむちゃくちゃ多かったんですよ、とりあえず。
当時は留学先って言ったらオーストラリアかイギリスかカナダかみたいな、
アメリカはビザの影響でワーホリそもそもないし難しいみたいなのがあったんで、
だからカナダに行きたいです。
で、カナダって言ったら温暖な気候のバンクーバーを選びます。
で、誰に連絡していいかわかんないからバンクーバーウェブとかで検索したら僕のブログが当たります。
なるほど。
で、やたらとむちゃくちゃ連絡くるやんって言いながら、
僕そのときね、別にフロックやるつもりそのときはなかったんで、
ボランティアでやってあげるか、
27:00
1回ちょっと調子に乗って、
ワンセッション5000円で僕の時間売りますよみたいなのもやったんですよ。
はいはいはい。
そしたらむっちゃくれんぼ来て、
あなたの出してくれる情報に5000円の価値はありませんって12,3人くらい言われましたね、たぶん。
でも実際に人は来たわけなんですよね。
そう、来はしましたよ。来はしたんだけど、俺が言えることなんてここの飯うまいっすよねとか、
ここの地域なんか治安悪いらしいっすよとか、
ウェブ系のこういう技術のミートアップとかこういうの参加しましたよとか、
今のフロックのスラックコミュニティでやってるようなことをぼちぼち言ってただけなんで、
確かにそれにワンセッション1時間くらいあったかなって5000円言って、
まあまあ高いって思われてもしゃあないのかなみたいなね。
っていうのと、たまたまブロガー始めてどのくらいだったときかな、
たぶん半年くらい経ったときに、
僕が住んでたアパートメント、ワンクーバーの年のたまたま住んでたんですけど、
そのときの隣のアパートにもう一人ちょっと有名なブロガーがいるらしいっていうことで、
お話しすることになって、
それがねウェブクリエイターボックスっていうブログやってたマナーさんっていう女性アパートなんですよ。
ここでそのつながりが。
確かになんかそこつながりあるなっていうのは、
ワンクーバーのエンジニアとか聞いたりしてると、
なんか話に出てくるから、
あ、他に知り合いなんだなーみたいな思ってたんですよ。
そこでまさかの住むところが近かったという。
で、ブロガーさんやしっていうので、
いろいろとお話、情報交換させてもらう中で、
で、マナーさんと喋ってる中で、
フロッグって作ろうぜってらしいなったんですよね、実際。
だから普通に最初はビジネスパートナーだったんですよ、
マナーさんはそういう意味で言うんだったら。
一緒に始めたんですか?
そうそう。で、むしろね、
俺ぶっちゃけね、そのフリーランスでずっとそのブログ一本で食えてたんで、
会社なんかやる必要ないやんみたいな、
もうそれはね、なんか企業家みたいな企業家というか、
なんていうんだ、個人事業主か。
で、ずっと食っていけるやんっていうふうに思ってたので、
会社作る気なかったんですけど、
あのね、マナーさんのね、ビザを出してあげなくっちゃいけなくなって。
なるほど。
そうそう。で、就労ビザ出すためには、
やっぱりね、会社にしないと法人化しないとあかんよねっていうことにもなって、
それでまあ、じゃあ企業というかね、
法人化しようかって話になったみたいなとこですね。
へえ。
最初からフロックのなんか事業内容みたいなのは決まってたんですか?
必要に駆られて法人化したという感じの印象だったんですけど。
そうですね。で、マナーさんもやっぱりバンクーバーっていうとこにいるよっていうので、
当時多分その海外でブロガーですっていうのって、
多分だけど僕とマナーさんくらいしかいなかったんですよ、
そのウェブのね、制作業界だったら。
30:00
だから割と結構、
戸田さんは商売できるんじゃないかなとぶっちゃけ思ってて。
うん、なるほど。
で、会社法人化したんだけれども、
これが全然ね、儲かんないと。
儲かんないんだ。
そりゃそうだと。
ブロガーでね、それなりになんか知ってくれてる人も多かった時期だったんで、
割と簡単に収益化できるんじゃないかなって思っていたら、
会社としての売り上げで考えると、
最初の2、3年くらいはずっと赤字で。
へー。
ブログで貯蓄貯めてきた資金とお金をずっと食い潰すみたいな。
食い潰すメリーだったんだ。
そうなんですよ。
で、窓さんもいろいろと家庭のご事情というかご自身のご事情とかもあって、
日本に帰らなくちゃいけなくなったんで、
で、そこから一応僕一人で会社、一応法人化しちゃったもんだから、
僕らの会社、もう既に頼っている人たちも来ちゃってるので、
ちょっと運営していかなあかんなっていうのが本当に最初の2年くらい。
ここが一番つらかったというか、やっぱりいろいろ大変でしたね、そういう意味になったら。
ブログの稼ぎを使ってあったことは別に外から資金調度とかするっていう感じではなくて、
結構こうスモールビジネスというか、
そうですね。
自分たちのできる手の届く範囲から広げていったみたいな。
そうですね、一応どっかから資金を得るみたいなことも頭の中よぎりやしたんですけど、
その当時僕がブログ使ったのが多分2000年だから10何年だろ、6年とか?
違う、14年か。
そう、14年だわ。
14年。
当時って本当にYコンビネーターあったのかな、なかったんじゃないかなっていうくらい、
本当に資金調達をするっていう流れが全然表面化されていなくて。
そうだな、時代がまず違った。
なんかめっちゃ巨大な大型資金調達やってる会社がポンポンポンポンいるらしいみたいなのは聞いてたんですけど、
それを具体的にどうするのかっていうのは全然知らなくて、
周りに聞ける人も全然もちろんいなかったので、
自己資金でやるかみたいな感じ、自然の流れでなっちゃったっていうイメージですね。
なるほど。
その1,2年の赤字からどう転機があったんですか、黒字になってから。
でもね、これがわりとまた話すと長くなるから果たしてどれくらい喋っていいのかなって思うんですけど、
やっぱりブロガーとか言ってしまうとインフルエンサーみたいな形でビジネスやってきちゃったもんだから、
わりと自分たちの名前通りのビジネスだったんですよ。
セミナーとかやっても、わりと集まるんですよね。
日本でセミナーやりますと言ったら1人5000円っていうわけのわからない値段のセミナーやって2,300人来るんですよ。
すごいね。
セミナーだけで飯食えるやんとかって思ってたんですけど、
33:00
そこに来る人たちってね、やっぱり握手しに来てるだけなんですよね正直。
本当に今のブログ、中堅の今のYouTuberみたいに会いに行くイベントに参加するイメージで多分。
だから今でこそPMFっていうワードをさま当たり前のように聞くようになりましたけど、
その当時はPMFなんて知らなかったけど、単純にPMFできてなかったですね。
だから自分たちが普段相手にしていたブログの読者っていう相当、
フロッグっていうのを事業化するにあたって必要な相当っていう部分に全然リーチできていなかったなっていうのが、
今振り返ってみると反省点ですね。
だからやってきたことはそこからはわりと単純ですね。
ゆうごさんの指定の通り今のコミュニティがあって、当時はコミュニティがとりあえずなかったんで、
とりあえずコミュニティ作っていって、僕がPMFしなくちゃいけない人っていうのとバンバンしゃべって、
今のフロッグのコミュニティが形成していく中で、
そのコミュニティの人たちが必要なものっていうのをどんどんどんどんリストアップして、
それを皆さんの目の前に置いていっただけっていう、
わりと単純なことをずっと続けてきたっていうのが今ですね。
地道な努力というか、そこで必要とされているものをちゃんと調べて、
それをできる範囲から徐々に広げて提供していって、現在している。
確かにもうすでにユーザーというか身の回りに人はいたから、
あとはどこのアプローチ、どこのビジネスポイントにアプローチしていくかみたいな話にできるんですね。
そうですね。だからなべさんの企業話も、もしかしたら触れるのかもしれないですけど。
僕の場合、やっぱりラッキーでしたね。
言うてもブログ発信だとはいえども、そのコミュニティを作る土台はあったので、
海外に行きたいエンジニア、デザイナーみたいな人たちにリーチする術がむちゃくちゃあったから。
大きいですね。
でかいですね。一番苦労するところがその部分だと思うので。
人を集めるのが一番難しい。
だから最初の読者層、ブログの読者っていう層と、
自分がビジネスの方向先向けなくちゃいけないターゲットっていう部分がずれてるということに気がつくのにむっちゃ時間かかりましたけど。
気づいてからはもう、じゃあそういうリーチしなくちゃいけない層の話をむちゃくちゃゼロから聞いて、
必要なものをゼロからリストアップしていって、じゃあビザが必要なのでサポートできる人と組みましょうねとか、
じゃあ住まいが必要なのでホームステージの手配ができるライセンスみたいなの取りましょうかねとか、
仕事が見つけたいのねって、じゃあ人材紹介できるライセンス必要らしいから取ってもらおうかねとかね。
何でも揃ってますね。
大抵のことを話し聞きながら揃えていったっていうイメージなので、
36:05
僕はそういう意味だとビジネス的にはPMFするための最初の土台が整いやすかったなと思いますね。
確かにブログ、今も確認すると上の方のメニューに留学相談っていうボタンがあって、
今見るとフロックを設立することになったので今後はこちらからご相談くださいってなってるんですけど、
集める窓口っていうのをもともと持っていたので、それを利用できたっていうのは強いですね。
今でいうと、あれですかね、YouTuberが起業するみたいな感じなんですかね。
そうなんですよね。でも結局ブログ辞めたのもそこが転機というかね。
ブログ続けてるとね、どう足掻いたってワンクーバーのウェブ屋のセナさんなんですよ、やっぱりその時は。
確かに個人になっちゃう。
そうで、ワンクーバーのウェブ屋のセナさんに話聞きたいんですっていう層って、
大抵やっぱり僕がそのフロックとしてターゲットにするべきではない層の人たちがやっぱり連絡することが多くて。
なるほど。
PMFしてるつもりなんだけど、いや俺実はこれ全然違うとこに話聞いてんじゃねって思うまではむちゃくちゃ時間かかったんですよ本当に。
確かに。
気づきがづらいですよね。
分かんないですよ。
そこを本当気がつくまでにむっちゃ時間食って本当に最初2年3年、無駄にとは言わない、むっちゃ勉強になるんだったけど、
全然検討値以外のビジネスやってたなって。
自分のインフルエンシングをずっと頼りに、俺人集められるし楽勝やろみたいな。
思っていたら全然違う人集めてたっていうね。
なるほど。
難しいです、本当に難しかった。
そこだけですね、でも本当に。
それでも自分が全然違う方向向いてなって。
でもね、そこを気がつくのには割とスモールビジネスの教科書っていうね、竹田先生って、竹田事務所の方がやってる。
そう、瀬名さんとかと話して、最近ちょうどそういうスモールビジネス興味ができてから、ちょうど僕昨日から読み始めました、そのスモールビジネスの教科書。
僕ももうすでに読んでます、それ。
本当に素晴らしい。
そう、でもこれ僕当時読んでたわけではないんですけど、今思うとここに書いてあることって大体実践できてたんだなっていうふうに思って。
で、ここ最近だからビジネス系の話とかするときは、とりあえずスモールビジネスもしもやりたいんだったらこれ読んだらいいし、スタートアップやりたいんだったら多分別の何か頼ったほうがいいし。
なるほど。
そういうことが多いんですが、まあまあ本当にこの本に書いてあることをそのままなぞっていたみたいな感じですね。
だからある種、まあなんか蓋を開けてみて、振り返ってみると実はなんか堅実に、徐々に徐々に事業を確実に伸ばしていったみたいな印象ができましたね。
そうですね。
だから、そうね、最初の2年、3年目以降に関しては本当に売上げ下がったことがほぼないみたいな感じじゃないですかね。
39:03
すごいなあ、それ。
だからね、謙調に謙調にやることをやることをずっとやってるっていう感じですね。
なるほど。
はい、ティートリオ。
ちょっとじゃあ長くなった人に最後の質問したいと思うんですけど、そうやってフロック今代表されてると思うんですけど、今後フロックをこうどうしたいとか、今後のなんか野望みたいなものがもしあったらちょっと聞いてみたいなと思ったんですけど、そういったものあったりしますか。
そうですね。最終的にはね、いろんなところで喋っているんですけど、やっぱり日本の人たちが海外に挑戦しやすい土台をね、やっぱりバンバン作っていきたいなっていうのがやっぱり今の目指しているところではあるので、とりあえず1000人、フロックメンバーってね、今優吾さんはアクセスできると思うんですけど、今500人くらいかな、そのバンクーバーに住んでらっしゃる方でいるかなと思うんですが、
1000人までは面と向かって喋ってビジネスするって僕の中では決めてて。
なるほど。
面と向かって。
そうそう。やっぱりね、さっき言った通り、PMFするまでにいろんな人と喋って情報を吸い上げて形にしていくっていうのが僕のやっぱり土台というか、ベースとしてやっぱりあるので、1000人行くまではその課題を見つけ続けるっていうところの意味を含めて、とりあえず今と同じことを続けたいなっていうふうには思っていて。
1000人到達した時点ではね、わりかしその時にはおそらくフロックを通して海外挑戦っていう部分が、別にテンプレ化するとまでは言わないかもしれないけど、方向性は多分見えていると思うので、それを使ってじゃあ次はロジックとして、日本にいる人たちが海外に挑戦するっていうベースで、
こういう流れをたどればいいんだよっていうのを、わりともうちょっとオートメーション化できればなっていうふうには思ってはいると。見えてはいないですけどね、まだ。
で、何にもしなくて良くなって全てオートメーション化できてっていうふうになって、僕の手がむちゃくちゃ空いたなっていうタイミングで、僕なんかやっぱり次スタートアップやりたいなって思ってて。
やっぱりね、開発できる人たちがバンバン集まるなんか東流門みたいなのを作れたと思うので、この海外に行くという部分だったらね。せっかくそういうなんかね、
北米圏の最前線で仕事できるような人たちが通る道を作れたのであれば、なんかそこにこういうスタートアップじゃあやったら楽しいんじゃねみたいなのって、
もしもそのね、なんか途中に置くことができれば、なんかもしかしたら人集めもそうだし、なんかテンション流れるようなプロダクトを作っていく、なんかその流れみたいなのができるのかなっていうふうに思ってて。
で、最終的にはもう誰にも文句言われずに作りたいもんずっと作るみたいなのを、そういうデベロッパー天国みたいなのができれば。
すごい、この今までの話を聞いてきてやっぱそこにモチベーションがあるんだなーっていうことは。
42:03
そうっすよね。
クリエイター意識。素敵だなーって思いますね。
誰にも文句言われずに作りたいもんずっと作るみたいなのを、お金にも環境にも縛られずやりたいなっていう。
いやーそれ幸せですよね。
その気持ちすごいわかります。
そうなんですよ。なのでまだ全然漠然とはしていますし、1000人行くまでは地道にやるっていうふうには決めてますが、そういうところまで行きたいなっていうふうには思ってますね。
なるほどー。いやー、ちょっとワクワクしますね。
過去の話聞いてもワクワクしましたけど、やっぱ未来の話聞くとさらにワクワクして、ちょっと今後も瀬名さんと仲良くさせてもらいたいなと思いましたね。
この放送が私は初めましてなんですけど、本当に人柄を感じましたね。
だからこそ人が集まってくるんだなーっていうところとか、相談したくなるなーっていう気持ちがわかって、
新しくスタートアップ始めるってなった時にも、周りから人が集まってくるんだろうなーっていうことが想像できましたね。
どうなんですかね、飲み会するたんびに僕だいぶ舐められたなって思ってるんで、最近ちょっとね、もうちょっと威厳をどうやったら得られるかっていうのがね、実は課題なんですよ。
だからヒゲとかちょっと生やしてみようかなとか。
結構この今回の放送で、瀬名さんの過去を深掘ったり、フロックの流れとかを深掘れたので、この放送をもって瀬名さんへの尊敬がちょっと高まるのではという期待が。
放送公開したら多分フロックのスラックでも宣伝しようと思うんですけど、宣伝したら瀬名さんへの賞賛の声があふれかえるかもしれない。
スラックでやるのなんか恥ずかしいね、それは。
バリバリやるつもりだよ。
そうなんですか。じゃあちょっとランダム化なんかにね、ちょっと適当に掘って。
あります。
そのあと100投稿くらいして、ちょっとさっさとね。
はい、じゃあちょっと今回の放送はそんなところで、瀬名さんにいろいろ話を聞きました。ありがとうございました。
ということで、この番組を気に入っていただけた方は、Spotify、Apple Podcast、YouTubeなどで番組のフォローをお待ちしております。レビューもぜひよろしくお願いします。
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待ってます。それではまた来週お会いしましょう。瀬名さん今回はありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
And now, a short commercial break.
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