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2021-07-03 14:18

第5回「関心はあるし同意もするが、強い連帯に加わりたいとは思わない、だがしかし」

ハッシュタグを活用した繋がりやTwitterデモを糸口に、自身のアイデンティティと行動原理について考えます。
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こんにちは、今日もお疲れ様です。
このポッドキャストは、自分の意見を言うのがすごく苦手な私が、
言いたいことを言えるようになるまでの練習としまして、日々の考え事とか、
こういうことを勉強してるんだけど、この部分がよくわからん、みたいなことを
こねくり回していくものです。
今日、こねくり回したいのが、
ある主義主張に対して、関心はあるし同意もするんだけど、強い連帯に加わりたいとは思えなくて、
でも、そういう自分にもまたモヤモヤする、っていう内容です。
で、ツイッターとかで見かけることが最近多くなったんだけど、
ある主義主張に対して、分かる分かるって同意したり共感したり、
私もそうだなぁ、こういうことあるなぁって当事者感を覚えたり、
あるいは、この主張はとても納得できるなぁと思ったり、することって結構あるんだけど、
その主義主張の旗の下に集まって連帯する動き、
みんなで声を上げていきましょう、みたいなものに
参加したいかと言われると、
それはちょっとまだ分からない、みたいな態度になることがすごく多くて、
これが、
自分が弱いせいで、今までずっと日和見主義で生きてきたので、今もそこから抜け出せずにいるから、
連帯に加わりたくない、加われないって思うのかなぁ、
とも思ったんだけど、
自分なりに考えてみて、一つ行き着いたこととして、
例えば、ツイッターで、
最近、デモをよく見かけるようになったなぁと思ってるんですけど、ツイッターデモって言ってね、
同じハッシュタグをみんなで投稿して、そこに自分の意見を添えることで、
政府に動いてもらえるように働きかけるとか、その問題の大きさを世に分かってもらう、気づかせる、みたいな
ものがあるなぁって思ってて、
でも、
その一つのハッシュタグのもとに集まった人たちが、必ずしも一枚岩というわけではないじゃないですか、
絶対。
ハッシュタグじゃなくても、
例えば、
フェミニストと名乗っている人たちが、一枚岩というわけでは全然ない。
むしろフェミニスト同士で、めちゃくちゃ議論が対立して、
激しいバトルみたいになっているのをツイッターとか、インターネットで見かけることってものすごくよくあって、
だから、
声を上げようと集まったからといって、みんなの意見が完全に一致しているかというと、そうではないんだよね。
今ぱっと思いついた例で言うと、
例えば、マイノリティ差別に反対ですっていうハッシュタグがあったとするじゃない、
そのハッシュタグ自体は私は同意するし、確かにそうだ、そうなってほしい、そうあってほしい、
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あらねばならないみたいなことは思うんだけど、
同じハッシュタグをつけている人の中に、例えばAさんが、
マイノリティの人たちは、マジョリティの人たちと何も変わらない対等な存在だから、
マイノリティ差別に反対です。
って言ってたとして、
はたまたBさんは、
マイノリティの人たちってとってもかわいそうな存在だから、
マジョリティはマイノリティを大切に保護して守ってあげなきゃいけないじゃない、
だからマイノリティ差別なんて良くないと思う。
って言ってるかもしれない。
マイノリティ差別に反対ですっていうハッシュタグをつけている、
差別に反対しているっていう意味では、
AさんBさん同じなんだけど、多分ね、この2人を
同じ意見の人として扱うと、
ヤバいと思うんですよ。ヤバいっていうか、全然違うやんけってなるんだよね。
だから、今言ったのは、パッと思いついただけで極端な言い方をしたけど、
多分こういうことってめちゃくちゃあると思ってて、
でも、ハッシュタグをつけていることによって、AさんもBさんも、
ある人からは、全く同じ思想の人間と思われてしまうかもしれない。
例えば、AさんがBさんと同じハッシュタグをつけているってことは、
Bさんと同じ考え方なの?
それはちょっと違うと思うよとか言われちゃって、
なんかトラブルになっちゃうかもしれないし、
Bさんにも同じことが起きるかもしれない。
というリスクがあるなーって思うんですよ。
AさんもBさんも、そういうリスクを考慮した上で、
ハッシュタグをつけるツイッターデモに参加したのだとしたら、
私はそこに何を言うこともないんですけど、
私自身はまだそのリスクを背負って、
同じ一つの短い言葉でまとめられた一つの主張の下に集まるっていうところに、
まだまだ積極的に慣れないところがあるんだよね。
なんというか、同じことを主張しているけど、
蓋を開けてみたら、全然この人たち仲良く慣れてないやんけみたいな。
仲良くなり必要ないのかもしれないけど、
考え方が誤解されるかもしれない、
違った受け取り方をされるかもしれないっていうリスクを
引き受けるだけの覚悟がまだ私にはないなぁと思うんですよ。
だから、主義主張を大きく声に出して言うことができている人たちのことをすごいなと思うし、
私もそういう強さがあればって思うことはものすごくたくさんあるんだけど、
ツイッターでもだけじゃなくて、何かの主張に賛同してますっていう声を上げるときに、
そんな覚悟なんてそもそもいらないのかもしれないんだけど、
私にとってはまだ勇気のいることで、
声を上げることができるかもしれないんだけど、
それだけの力がない、強さがないなぁみたいなことを考えてるんだよね。
それだけの力がない、強さがないなぁみたいなことを考えてるんだよね。
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声を上げるときに、その主張が自分のアイデンティティの一つだと言えるくらいまで落とし込めてないと、
まだ言えないって思ってしまうんだよね。
アイデンティティって言うと、自分を規定するものっていうふうに解釈できるかなと思うんだけど、
もう少し自分なりに噛み砕いた例で言うと、
名詞を作るときに肩書きの部分に何を書きたいかとか、
自己紹介で一言目にどう名乗るかとか、そういうことかなーって思ってて、
例えば私は本が好き、音楽が好き、ライブに行くのが好きっていう要素を持ってるので、
その一つ一つがアイデンティティを構成する一つになってるかなーって思うんだよね。
他にも30代であるとか、女ですとか、既婚者です、
あとBL好きなので婦女子ですとか、芸能人の何々さんを応援してます、推してますとか、
あとは今性差別やジェンダーのことに関心がありますとか、そういう要素があるんだけど、
その要素すべて本当のことなんだけど、どれか一つだけを取り出して、
これがイコール私ですっていうことってできないなーと思っていて、
例えばね、私数年前に病院で検査を受けてADHDだって言われたんですよ。
あの例えば仕事とかで診断書がいるんだったら出せるよみたいな感じで、
出せる状態です、状況ですっていうふうに言われたんだけど、
でも結構ツイッターで見かけたりする、プロフィールにADHDです、診断済みですとかって書いてある、
ああいうクラスターっていうとあれなのかな?今はそういう言い方しないのかもしれないけど、
ADHDのコミュニティみたいなところには全然なじめない感じがあって、
それはあの人たちと私は違うんですとかそういうことを言ってるんじゃなくて、
ADHDの特性があるっていうのも確かに自分を構成する要素ではあるんだけど、
それを別にツイッターのプロフィールの一言目に書こうとも思わないっていうか、
イコール私ではないって思ってるんだよね。
だからADHDなりの生きづらさとか、社会がもっとこうなるといいよねっていう考えとかにはものすごく同意するし、
いやわかるーみたいなことも考えるんだけど、そこを取り出してこれが私のアイデンティティとは思えずにいるっていう感じです。
だから私は多分考えすぎなのかもしれなくって、
ツイッターのプロフィールに書いてあることをそこまで重く受け止めてる人ってそんなにないのかもしれないし、
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ツイッターデモにしたって、デモという活動にまではなっていない大きな世論みたいなものに対して同意したり賛同の声を上げたりするときに、
そのアイデンティティじゃないから言えない、言っちゃいけない、覚悟がないみたいなことって多分そこまで考えなくていいよって感じだと思うんだよね。
でも私は気にしだし嫌われないようにっていう選択をしがちなので、まだまだ一歩踏み出せずにいるっていう感じなんだよね。
でもたまにツイッターで見かけることがあるんだけど、このハッシュタグでツイートしないってことはこれに賛成してないってことですか?みたいな。
差別に反対って言わないってことは差別を要望するんですか?みたいな。そういう意見を見かけることもあって、いやいやそれはちょっと待ってって思うんだけど。
難しいところなんだよね。別に私が考えていることすべてを声に出さなきゃ考えてないものとして見られるみたいなことってそれは違うだろうって思うし、他の人に対しても私はそう思う。
別に差別反対ですって言ってない、声に出してない人全員が差別に賛成してるなんてことは絶対ないわけで、声には出してないけどいやそう思ってるよっていう人は絶対いる。
そういう声に出さないけど理解はしてるよっていうあり方自体は否定されるべきものではないと思うんだよね。
でもその声を出してない、連帯に参加していない自分がこのままでいいともまだ思えずにいて、もやもやしてるんですよね。
っていうのも、声を出さずにちょっと様子見とか、ちょっと離れたところから応援してるよっていう立場を取ることができるのって、要するにまだ自分が切羽詰まってないというか、真に困ってないみたいなところもあるんじゃないかなっては思ってて。
だって例えばね、例えばだけど、とある事例の被害者とか、それで苦しんだことがある人たちが集まってどうにかしてくださいっていう声を上げようってなった時に、困るとは思うけど、声を上げるのはちょっと様子見かなぁみたいな態度を取るのって、ちょっとあまりにも消極的すぎる気がしてて。
そこはちゃんと、ちゃんとっていう言い方もおかしいな。声を上げるべきところ、参加することで物事を前に進めるっていう、そこも含めて同意したっていう時にはちゃんと加わるべきというか、声を上げるべきだよなぁみたいなことは思うんだよね。
そういう見方をされるかもしれないなぁ、みたいなことはぼんやり考えてますね。
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参加しないから叩かれるみたいなことはあってはならないと思うんだけど、参加しないのに、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、参加しないから、
とかいうのが最善というわけでもないっていうか、
時にはやっぱり覚悟を決めて、
覚悟を決めなくても、参加しなきゃいけないときっていうのは訪れるんだろうな、
みたいなことが、考えてて、
そういうときに、迷わず判断できるように、今のうちに色々知識をつけたりとか、
いろんな人の意見を見たりとかして、
ここの土壌を作っておくみたいなことはしておきたいなって思いましたね。
一旦冷静に見てみるみたいな態度は忘れないようにしたいなーっていう脅しどころで
今日は締めくくりたいかなって思います
本日もお疲れ様でした
この後もどんどん勉強を頑張っていきたいなと思っています
それではまた次の動画でお会いしましょう
バイバイ
これね、NHKでやってるみんなの体操っていう5分番組で
ご高齢の方とか怪我をしている方とか体がうまく動かない方も
こなせるような体操を5分間やった後に
メインの講師の先生が
皆さんどうぞこの後もお元気にお過ごしくださいって言って終わるんですよ
私その言い方がすごい好きで
頑張りましょうとか無理しないでねとかじゃなくて
どうぞお元気でお過ごしくださいってめちゃくちゃ優しくて
程よい言葉だなーって思ってたので
ちょっとね今真似しようと思った
今日はこれで締めくくりにしようと思います
この後も皆さんお元気でお過ごしください
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