この前のそれこそ町小屋には、お寺で名古屋で喋ってきたんですけど、もうあそこには小学生も中学生も大学生もエンジニアの方もお医者さんも住職さんも経営者の人も先生もバラバラ年齢も役割もね。
そうね、懇親会でみんなから言われたのは関係ないんですね、役割だとか年齢とか性別が違ったとしても、本当に面白い学びみたいなものは全員に刺さるんだってことを教師が言ったみたいなことを、いろんな人から行く動画に聞かせてもらったんですよね。
なので、この法則というか、誰にでもこの面白いとか熱中没頭が見出されるっていう話になってたときに、さっきの過去のマイナス体験とか挫折体験みたいなものを、自分がどういうふうに規定するかっていうのは、要は自分が今決めてることなので、それをプラスにするのもマイナスのままにするのもきっと自分なんですよね。
これを僕はよく子供たちに言うのは、例えば風船を針で突くとどうなりますか?
割れます。
割れますよね。で、針で突くっていう刺激で反応はパンと割れるみたいな。
太鼓をバチでドンってやったら音が出ますよね。叩くっていう刺激に音が出るって反応があって、自然界のありとあらゆるものは刺激反応のこの図式でできる刺激反応、刺激反応。
例えば、馬の口元に草持ってたらワシャワシャって食べるだろうし、理科の実験とかでもそうじゃないですか。これを燃やしたらこういう反応が起きるとかっていう刺激反応ですよね。
自然界のありとあらゆるものは刺激反応でできてるんですけど、それが唯一当てはまらないのが人間なんですね、実は。
人間はその間にスペースがあるんですよ。刺激・選択・反応です。刺激・選択・反応。
例えば、ウナギが大好きだからといって毎回ウナギ屋の前を通るたびにこらえきれずにウナギ食べちゃうってことはないですよね。
今日は食べるって決める日もあれば、今度行くから今日は我慢っていう場合もあれば、1時間待って結局家まで帰ってきてやっぱり我慢できずに帰ってくるみたいな、いろいろパターンあると思うんですよ。
でも必ず選択っていうのが入ってますね、間に。これがつまり人間的な生き方の根本なんだよって僕は子供たちによく教えてあげるんです。
逆に言うと、刺激・反応で生きる限りこれは動物的な反応って言って、人間的な生き方にはなっていきにくいんだみたいな感じですね。
で、いうふうに考えると、自分にとってよからぬことが起きたときとか表面的に嫌なことが起きたときに、クッソーとかアホとかカスとかバカとかっていう風にして刺激即反応で生きてるっていうのはこういう生き方を動物的な生き方って言って、幸せにはなりにくい生き方って言われてるんだよねっていう感じで。
なるほど。
で、その刺激に対してどういう反応をするかっていうのは自分が決めるんですよ。自分だけが決めることができるわけで。
で、この選択の仕方が実は人生の作り方、歩み方なんだよって言ったときに、何かが刺激が、嫌な反応が刺激が入ったとしても、それが他の人にとっては嫌な刺激かもしれないけども、その人は選択力によって、解釈力によってそれをプラスなものに変えていくなんてことは大和できて、各界の第一線で働いてるとか活躍してる人の多くは、ほとんどはもうこの選択力、解釈力がやっぱり高いんだみたいな話ですね。
一回なんか嫌なことがあってずっと挫折でくよくよしてめげてみたいな感じになってるっていうんじゃなくて、自分の選択意志とか自由選択っていうもので、どっちプラスレスもマイナスレスも自分が決めるわけなんで。
だからここの主体者は、人生の主役が自分なんだってことをまずはっきりと認識することがものすごく重要だと思ってて、それは今の動物的な生き方なのか人間的な生き方なのかみたいな感じのところは入りやすかったりしますね。
なるほど。
髪のとこだけつけば。
これすごいっすね。でも確かにこれなんか感じますね、こんなのね。
自分が選んで主体者としてその反応をチョイスしてるってことなんですね。
そう、例えば夜と霧って本読んだことありますか、夜と霧。
夜と霧?ないですね。
ヴィクトル・フランクルっていう精神怪異が書いた、これはアウシュ・ビッツに捉えられた精神怪異の書いたお話です。
もう明日をも知れぬというか、あそこの収容所に入れられた人たちはどんどんとね、近しい人が亡くなっていったりとか、もう次は誰だ、次は我が神かみたいになる収容所にフランクルが捉えられたわけですよ。
その中でフランクルはそのまま終戦を迎えて、出てきた後に書いたのが夜と霧っていう本です。
出た後なんですね。
夜と霧って本は世界中で発売されてる本の中でもトップ10に入ってる異例中の異例の本で、1位とかが聖書なんですけどね。
そのぐらいの並びの中に精神怪異が書いた極中記が書かれてるんですよ。
日本で最近それが圧倒的にまた70年前ぐらいに書かれた本なんですけど、それが最近一気に日本でまた売り上げをさらに伸ばした時期があって、それいつだと思います。
何かが起きた時っていうふうに考えていったらいいんですけど。
地震とかですか?コロナじゃないですか、コロナコロナ。
素晴らしい、地震です。東日本大震災の後に東北地方を中心にこの夜と霧の本が爆発的にさらにまた売れた。
それなぜかってなった時に、フランクルはアウシュビッツの収容所の中でいろんな人たちの人間模様を見たわけです。精神怪異という視点で。
要はめちゃくちゃ過酷な労働といつ自分の命がなくなるかもわからない極限な状態ですよね。
その時に極中の中でほとんどの人が例えば自暴自棄になったりとか、残り少ない食料を奪って傷つけ合ったりとか、
そんな風にしてなる人がいる一方で、同じように捉えられているのにも関わらず、同じように自分の身体的な自由をこれでもかって奪われているのにも関わらず、
例えば歌を歌って仲間を励ましたりだとか、自分もお腹減っているのに自分のパンを誰かに分け与える人がいたりだとか、
大丈夫、希望あるよって言って人を励まし続ける人もいたと。同じ環境ですよ。
フランクラーがその時に気づくわけですよ。どんなに拷問にかけたとしても、どれだけ厳しい環境を敷いたとしても、
人間からは決して奪うことのできないたった一つの自由がある。それこそが選択の自由なんだって言ってるんですね。
与えられた環境に対してどのような態度を持ってその人生を歩んでいくかっていうこの選択の自由だけは、アウシュビッツっていうこの過酷すぎる状況にあったとしても結局奪われなかった人がいたって。
だからこそ人生において大変なこととかまさかって思う出来事ってあるんですけども、結局その時にもどういうふうに選択解釈するかは全て自分が決めるっていう。
希望の書なんですよね。だから今もずっと売れ続けてるんです。
なるほどね。
すごい、それは希望をもらえますね。そういう状況ではやっぱり選択で人を助ける人がいるっていう。
その状況でね、自分がもしかしたら明日死ぬかもしれないのにも関わらず最後までそうやってパンを分け与えたりとか励ましたりとか歌を歌ってみんなを陽気にみたいな。
そうやってだから奪われなかった人がいるんですね。だから奪えないんです。どんなに拷問にかけたとしても、どんなに過酷な収束に入れたとしても、毒ガスで命の危険とかをこうやって見せたとしてもですよ。
奪えないその自由を。だからあなたの心の中にもちゃんとその自由がある。なんですね。
なるほど。
いい話ですね。
素晴らしいですね。
タイタニックの最後までバイオニー弾いてる人思い出しました、今。
あれミッチーさんでしょ。あれミッチーさんでしょ。
あれミッチーさん。
出演されてる。
あれ出演されてますよね、たぶん。
フランクルがもしちょっと入りのが難しいとかがいたとしたら、別の言い方も全然いくらでもあってこういうストックがね。
例えば松下幸之助って経営の神様って言われてるような日本でも一番有名な社長さん中の社長さんがいるんだけどみたいな感じで子どもたちに話したときに、
松下幸之助さんにインタビューした人がいて、なんであなたは一代の間にこの松下電機パンソニックをここまでね、築き上げて大成功を収めることができたと思いますかって聞かれたときに、
松下幸之助が答えたのは次の3つしか理由が考えられないって言った答えがあるんですよ。
1つ目に家が貧乏だったこと。
2つ目に頭が悪かったこと。
3つ目に体が弱かったことって言ったんです。
家が貧乏で、小学生の頃からというか小っちゃい頃からデッチボコ出されて。
その中で僕は痛いくらいにお金の大切さ、なんならお金の扱い方をそこで学ぶことができた。家が貧乏だったから。
僕は頭が悪くて小学校しか出てない。でも松下電機とかパンソニックに入ってくる人は東大とか京大出てるようなものすごい能力の高い人ばっかりが入ってくる。
でも一方僕は社長になったときに、僕は自分が頭が悪いってちゃんとわかってるから、いろんな人に物を尋ねてこれってどうやるのかなって教えてもらうことができた。
頭が悪かったから。
そして体が弱くって兄弟の中でも河野介が一番前足持ちで、もう長生きせんだろうみたいな感じで言われたんです。親からもね。
自分の体が弱いこともわかったし、自分一人なんかの力がちっぽけだってこともよくわかってたからこそ、僕は人を頼ってその人に任せることができたみたいな。
だって自分の力が弱くてちっぽけってことがよくよくわかってるから。
だから僕は貧乏で、そして頭が悪くて体が弱かったから成功を収めることができましたって言ってるんですよね。
普通なら逆のことを言ってくれそうな。
そうそう、全く逆ですよ。今ね、たぶん子供たちとかほら、例えば上司ガチャとか先輩ガチャとか、なんなら親ガチャとかって言葉がね、それから時代ガチャとか国ガチャとかガチャガチャガチャガチャ言ってるわけですよ。
結局その与えられた環境で自分の人生決まってしまうって言ってるのと同じなんですね。
どこにも自分の主役感とか選択が入り込めないんですけど、そんなんで決まるわけないじゃないか。
ガチャ3連発で一番悪いの引いたら松茶子之介どうなるんだみたいな感じですね。
そんなことじゃ決まらない人生は。つまり選択こそが人生を決めるっていうような話をしたりだとか。
なるほどねー。
いやーこういう話をほら、ね、岡田さんこういう話をやっぱり聞かせたくなるじゃないですか。
いやー聞いてほしいですこれ。
自分の子供が悩んでたら聞いてほしいですしね。
やっぱりなんかそれはすごくあると思いますよ。
だからちょっと次の質問っていうかあれなんですけど、最近なんかそういうちょっと不登校。
この間もちょっとねお話しさせていただいたんですけど、不登校とかなんかそういうのがやっぱりすごい自分の周りでも増えてて。
今身近な人の子供がちょっと不登校になっちゃったりとかっていうのはちょこちょこ見受けられたりとかするんですよね。
学校行けなくなって、どうにか通信生とかフリースクールとかに頑張っていこうとしてるけど、それもちょっと難しいみたいな子たちとか。
昔もあったのかもしれないのが、今露呈してきてるのか、それとも今の時代的な背景によるそういうことなのかっていうのはちょっとわかんないんですけど。
なんかそう、不登校になってる子たちに、なんでなんだろう話もあるんだけど、どういうふうに考えたらもうちょっと楽しく生きれるかなっていうのを先生と話したかったんですよね、僕なんかすごく。
行けなくなる理由がみんなそれぞれなんでしょうけどね。
解釈の話に近いものがあるかもしれないですね。
そう、解釈に近いし、この時代の変化っていうところも結構大きかったりするんですけどね。
昔って、昔っていうかそのね、そんなに時代も経ってないですけど、この本オススメですよ、その答えとか知る上ではこれ。
叱らないが子供を苦しめる。
っていう本があって、この中にその不登校の歴史を振り返るって言って、例えば昔はその登校圧力がすごい強かったから、基本的になんか刺激を与えてゆっくり休ませるなんてことは昔はしてなかったし。
なかったですね。
もっと言うと学校に行ってなかったら気持ち悪さだとか、なんていうかこう、いたたまれなさみたいなことをちゃんと子供たちは感じてたからこそ、学校行ってたみたいな。
でも、今の時代っていうのは、様子を見ましょうとか充電期間なのでとか、いろんな、例えば家にいてもいろんなコンテンツがあるからもそうだけども、これ世界からの押し返しが不足してるって言うんですよ。
押し返し。
こうしたいみたいな感じの時に押し返されたりとか、それダメよとか違うでしょみたいな感じで押し返される経験がめちゃくちゃ足りなくなってきてるってことをこの本の中で書いたってすごい面白い論談だと思うんですね。
しかも成長に不可欠だっていう世界からの押し返しですね。
自分の思い通りにならなかったりだとか、なんならもっと言うと自分がやりたいこととはちょっと反するような、そういう意味での押し返しもあったりするんですけど、
成長って結局押し返されたときに何かとってもっとさらに自分から押していったりだとか、挑んでいくみたいなそういう姿勢が心の火につながったりだとかそういうことってあるんですけど、
今の時代っていうのはその世界からの押し返しが極めて少ないと。
もっと言うと、世界からの押し返しを親が本当だったら子供にしつけの中でとか親子の関わりの中でやるんだけれども、
それを害虫してしまったりする親も増えてきてしまう。
いやー、ありますね。
だから先生から言ってやってくださいとか、私が言っても効かないのでみたいな。
いやいや、その押し返しを害虫しちゃったらダメなんだっていうようなそういうことも書いてあるわけですよ。
押し返しみたいなことを考えていくと、今の時代っていうのは本当にむしろその子の思い通りにさせていって、
要求充足率をずっと10割でいったらそれでいいんじゃないかみたいな感じで思ってる人いると思ってる。
いやいや、いっぱいいますよ。
別の言い方で言ったら、除菌教育とか無菌教育って言われたりするんですけどね。
昔当たり前にあった祭り行事とかは今学校という学校からどんどん姿を消してまして、
例えば食中毒が起きたらどうするんだみたいなことを誰かが言ったらですね、
じゃあ危ないから祭りで食べ物禁止みたいな。
これ祭りなのかみたいな、ダイナミックさが祭りじゃないですか。
みんながめちゃめちゃ安全なレールを敷いた上で食べ物もゼロみたいなダイナミックさの欠片もない祭りみたいなことがあったりだとか、
遊具とかでも一人怪我人が出たらね、もちろん危ないのが全部いいとは言ってないですよ。
そうやって怪我したりする中で押し返しを感じながら学んでいくことって絶対あったと思うのに、
だから危ない遊具はどんどんテクトですよ。
だから安全すぎる遊具しかないみたいな。
確かに。
そんなふうにしてリスクというリスクを排除していって、
舗装されたアスファルトの上をただ歩いてごらんとかっていうような感じになったときに、
子どもたちはいつ転んだりするんだろうとか、いつ押し返しを経験したりするんだろうとか、
そのまま社会に放り出してどうなるんだろうみたいな。
だから押し返しだとか難しさとか足りなさみたいなのを、
今はデザインしなきゃダメな時代に来てると思うんです。
確かに逆にですね。
なるほど。
だって今の時代ってめちゃくちゃ情報とかサービスにあふれてて、
もう我々が子どもの頃だったら考えられなかったようなサービスが、
今本当に歌い放題とか使い放題とか掛け放題とか低額とかサブスクとか信じられない価格でね、
サービスが提供されるじゃないですか。
あります。
そうしたらもうサービスが豊かなのは当たり前だし、
そういうふうに与えられきってると、さっきの不足さっていうものが圧倒的に不足してるんですよ。
だから足りないっていう経験が圧倒的に足りてない時代になったんですね、今。
確かに。
足りないが足りないですね。
足りないが足りない。
だから足りないをデザインしてあげなきゃダメなんですよ。
僕はだから教育者としていろいろ教えたりとか伝えたりとか講演してる時に、
舗装されたアスファルトだったとしても、この情報とかサービスが行き渡った時代だったとしても、
あえてその道の途中になんか小石を置いてケツマザカしてあげたりだとか、
穴ぼこを掘っておいてあげたりだとか、壁を作っておいてあげたりとか、こういうのが大事になるっていう。
つまり押し返しをデザインしていくっていう感じですね。
なるほど。
なんか人生のマリオメーカーみたいな感じです。
うん。
例えが独特。
いやいや、面白い。
何も面白くないですよ。そのままダッシュしてくれる。
いやいや、そうですよね。
わざとね、デコボコさせて作るわけですね。
すごいよくわかる。結構ゆとり教育時代の方たちとか、もちろん例外はいっぱいあると思うんですけど、
見てたりすると、全然ディスってるわけじゃないんですけど、
コミュニケーションに対しての抵抗をすごく嫌がる方が結構多いような印象があるんですよ、僕は。
なるほど。
多分それは少し抵抗値が減った時代だったのかなっていうのも感じるとかですね。
今は聞いてて思いましたけど、コミュニケーションが上手くいかないっていうのの世代とかを聞いてると、
結構そういう自分たち世代とその下の世代とかっていうのが、そこら辺がちょっと相違があって、
それを昭和は根性論だったからみたいな感じで捉えたりもしてたんですよね。
昭和は根性論。
平成はそうじゃないみたいな。
でも今抵抗値って話聞くとすごい納得しましたね。そこに関する考え方として。
確かになんかね、苦労味噌っていうドラえもんのアイテムがありましたよね。
苦労味噌って。
食ったら苦労しちゃうみたいな。苦労は勝手でもしろみたいなやつの秘密道具でしたけど。
ガンダム世代とワンピース世代って本もあったりしますけど、まさにピーターさんが言ったのはそういうことだと思ってて、
ガンダム世代はいわゆるブライト艦長みたいな感じで、強烈なリーダーシップと人格者が上で強く束ねて、
トップダウンでやるぞ!みたいな感じでなったのが、その押し返しもたくさんあった時代ですよね。
その方々が今管理職だったら上の立場になってきた時に、押し返しなんて当たり前だって思ってる人たちが、
今のワンピース世代の人たちは別にルフィみたいな感じで、海賊の船長であったとしても仲間であって同士であって、横の並びなんですよ。
縦横じゃなくて、上下ではなくて、横並びのそういう仲間意識とかがすごい強い世代でもあるので、
だから押し返すとかっていうんじゃなくて、そもそもみんなでなんとかみたいなそういうマインドになってる人たちのコミュニケーションの相互が生じるのは結構不自然なことで。
たった十何年とかぐらいの世界観ですからね。でもそんなん言うけどね。
いろんなところで最近見るんですよ、それ。
文科省も不登校は悪いことではないってはっきり言ってて、選択肢の中でいろんなものをどんどん生んでいくべきだっていう感じで言ってるので、
僕だから別に学校に行かないという選択肢があっても全然いいんじゃないかなと思ってるし、大切なのは今の押し返しだとか足りなさをどうデザインするかってことですね、大人たちが。
で、その中で育まれていくことがあるってことを知らないと、もうファブリーズでシュッシュッってやって、ありとあらゆるところ除菌してリスクを排除しながらただ済ませたら、
いやもう僕そっちの方がリスクでしかないと思ってるので。
怖すぎますよね。
ずっとファブリーズ持って生きていかなきゃいけない。
でもなんかそういう感じ感じますけどね、いろんなところでファブリーズシュッシュしてる感じ。本当にファブリーズもしてるしね。
だから預けるだとか委ねるみたいなことを、だから親っていうのは近い存在だからこそ子供には危ない目に合わせたくないみたいな、昨日も僕バーベキューしながらそんな話してましたけど、
もうなんか目に見えてもこけそうだとか、池にはまりそうとなったり、腕引っ張って危ないとかってやっちゃうのが親なんですよ。
だから押し返しがそもそも親はしにくいっていうその原理もやっぱり知っといた方がいいですよね。
だから大切なのは信じて任せるとか委ねるみたいな、だから自分はもうついて危なかったら手引っ張って命を守りたいと思っちゃうんだから、
そういうふうな、ちょっとある程度この押し返しがあったりとかそういう場所に放ってあげるというか、入れてあげるだとか、頑張っといてみたいな、安全基地だけちゃんと作っといてあげる。
どんなふうに怪我してきても大丈夫だよとかいう感じで、それこそが僕はね、家とか親の役割だと思ってるので。
うん、確かに。
なるほど。
いや、ほんとですね。すごい100点の回答でしたね、今なんか。
なんか不登校っていう問題に対して。
いやいや、僕もそう思ってたような感じもあったし、それがすごい言語化され、していただいたみたいな感じもあったし、
僕はなんかほら、学校とかちゃんと行けなかったタイプなんで、どっちかっていうと、真面目に言ってるわけでもなかったですし、
どっちかっていうと、なんかどうでもいいやって思ってたタイプだったから、今の感じの子たちの気持ちっていうのもなんかわからんじゃないんですよ、だからなんとなくね。
ただまあ、なんとなくそれで、その後いろいろ遠回りをすごくしたんだけど、気づいたこととかの収穫で学んで、
今なんとかいろんな人たちと一緒にね、こうやって来たりするとこに入れるっていうことまでなったので、
まあそれが悪いことじゃないっておっしゃりましたけど、それはなんか自分がそうやってきたんで、なんかそう思うんですけど、
なかなかみんな思えないじゃないですか、そんなのって、なかなかある例でもないですし、
さっき言ったみたいにね、松とか竹とかの話はもうないからですね、これってなんかもう。
でもお話聞いてて、戻ってこれる、安全な場所を作るっていうことが結構親の大事な仕事なんだなっていうのもいいと思いました。
バンジージャンプとかスカイダイビングとかもそうですけど、ゴムが絶対切れないってわかってるからあんなとんでもないチャレンジができるわけで、
パラシュートが絶対開くからあんなことができるわけですよ。で、開くかどうかわからないパラシュートだったら絶対できないですよね、怖くって。
いや、確かに。
なので究極のパラシュートになったらいいんだろうと思ってるし、親がね、家が。
で、やっぱ教室とかもそうで、どんなチャレンジしても大丈夫みたいな、フルバックは任せろというかね、そういうふうにしてなってたりとかすると子供たちのチャレンジ精神とかめちゃくちゃ火がついたりするわけですよ。
で、なんならガンガン失敗しといてみたいな、みんなそうやって大きくなってくるんだからっていう、そういう感じになってたらいいですし、
そういう場所をたくさん作りたいし、そういうマインドである親の方々、本当は心配で本当はもう低下してあげたいんだけども、
それをグッとこらえながら、その笑顔で送り出すみたいな。
押し返しがある世界ってのはおもろいんですよ、そもそも。
確かに確かに。
親から見るとビクビクハラハラするような世界が一番面白かったりするんですよね。
いや本当、だから親もね、小離れしていかないとですね、こうやって出す勇気がね、いりますよね、親も。
なんか子供もね、旅立つ勇気がいるんでしょうけど、旅立たせる勇気もなんかあるような気がしますね。
なんかそういったお話聞くと。
いやー、素晴らしいですよ。
いい子育てできて、いや子育てってやっぱすごい迷ったんですよね、僕もなんかこう、
結構ほら、なんか自由業というか、自由にある程度ほら、なんか勤めじゃないからできるなんで、
やっぱり子供のことすごい好きだったし興味あるから、関わろうとかほら気にしようと思ってずっと見てたりするんですけど、
分かんないんで、学校の先生とかもなんか保育園ぐらいまではすごい密だったんですよ、仲良しでいろいろ聞いて。
でも小学校の先生だったから急になんか距離ができちゃって、全然なんかほら保育園の時みたいに話せなかったりとかしてですね、
なんかそこ、それは僕の問題とかいろいろ問題もあるんでしょうけど、なんかよく分からなくなっちゃって迷いが結構あって、
なんか複雑じゃないですか、小学生ぐらいになってくるとだんだんだんだんなんかこうね、
インサイドヘッドじゃないけどこうなんか頭の中にいろんな感情がわーってできてきて、
なんか分かるんだけどこう、親が言ってもなんか伝えきれないみたいなとかもある中でね、
そう、なんかミッチー先生みたいな先生がいたらね、いいなーって思ったわけですよ。
いや親もね、やっぱ最初絶対父親1年生から始まるじゃないですか。
はい。
いやもうだからわっかかんない状態で子供に教えてもらえながら親も育っていくわけなので、やっぱ親も不安ですよねそれはね。
ねー、ほんとに。
だから今僕が住んでる東川は、ほんとに僕住んで3、4ヶ月でこんなにコミュニティ機能が広がるっていうぐらい、
もうなんだろう僕が出張してる間ももうご近所さんがどっか一緒に遊び連れてってくれたりとか、
いやいやほんとですよ。
すごいすごい。
そんなことがもう山とあって、だから僕も安心して出張できるというか、
そうですよね。
僕自身のだからその安心でもありますね。
この町自体がパラシュートに動く。
そう、さっき言った安心の場、町が作ってる。
安心の場。