00:06
フェスティナ連邸、この放送は、SWCのコミュニティメンバー、ワーパパCTO🦥がお送りいたします。
結構時間が空いてしまいましたが、久しぶりに放送を撮りたいと思います。よろしくお願いいたします。
両太郎さんが結構前ですけれども、スポンサー企画を終えて思うことというタイトルでスタイフ投稿されていたお話で、
コミュニティにおける共通項と共通言語のお話がめちゃくちゃ興味深かったので、ちょっとそれに関するお話をできればと思っております。
コミュニティの中心に何があるのかによって、コミュニケーションの質が変わるという感覚があるなと思っていまして、
コミュニケーションがコミュニティの中心にあるパターンとコンテンツがコミュニティの中心にあるパターンとで、それぞれ違いがあるなというふうに感じております。
コミュニケーションそのものがコミュニティの中心みたいな代表例があるとしたら、
これすっごい偏見かもしれないんですけれども、学生の教室の友達関係だと思うんですよね。
そういう場合だと、例えばあのドラマ面白かったよねとか、あの漫画超泣けたよねみたいなそういったコミュニケーションが行われるかと思うんですけれども、
基本的にはグルーミングが中心なコミュニケーションが行われるコミュニティかなと。
その中で自分たちは同じもので共感できるよねということで、コミュニティの結束が強まっているような感覚があります。
このコミュニティの結束をより強めていこうとすると、共通言語を作るんだろうなというふうに思います。
高校生の言葉みたいなのがありますよね。すっごい古いのだと、ちょべりばーとかちょべりぐーとか、mk5とかもう古すぎますけど。
ちょっと前だとまじまんじーとかですかね。これもう世代が全然違うので、今は全然どういう言葉が使われているかわかりませんが、
そういった形で共通言語を作る。その人たちだけでわかるような共通言語を作るという特性を持つなと思います。
この共通言語はその言葉を知らない人を除外する力というのがあるわけですよね。
その共通言語を使ってコミュニケーションをしているので、知らないとコミュニケーションができない。
なのでそういった人は除外されるみたいな力学が働くと。
そうするとコミュニティの中と外で境界線を簡単に引くことができますよね。
なので知らないということが分断を生むと。
一方、知っている人同士だと内と外の内側で味方同士になるので結束が強まるみたいな傾向があるかなと思います。
例えばアフリカの部族だとこういうことが起きているらしいんですけれども、
03:01
アフリカって山がなくて平原で広がっているみたいな感じになりますが、
そうすると部族間の距離が近いんですよね。
同じ言語を使っていると情報が盗まれる可能性があるということで、
異なる言語を使い始めるそうです。
さつま弁も同様な設計がされているそうで、
本州の人からすると分かりづらいみたいな話が江戸時代に流行っているようなものですが、
さつま弁ではこういうものが何かと言うと、
という特性があるそうです。
さつま弁も同様な設計がされているそうで、
さつま弁は本州の人からすると分かりづらいみたいな話が江戸時代の戦国時代であったかと思うんですけれども、
さつま弁を使う人同士で使うことによって情報を外部に流しづらくする、
解読されづらくする、暗号化するみたいな特性があるそうです。
このような共通言語のロジックでコミュニティの強度を作ろうとすると、
強度が弱まったタイミングには外に敵を作ったり、あるいは中から敵を作り出したりして分断しちゃうと、
この人のことはやっぱりムカつくよねみたいなことを言い出して、
のけものにする、みたいな。
のけものにすることで内と外をまたそこで作って、内側での結束を強めるみたいなことを仕出すわけですね。
なのでコミュニケーションを中心にしているコミュニティだと構造的にこの共通言語を使う使わないの話で、
コミュニティ自体が公開する可能性を常に抱えているということになるのかなと思いました。
必ずしもそうというわけではないと思うんですけれども、
公開する過程というのはそういうルートを辿る場合があるかなという程度ですが、そういうふうな感覚があります。
一方、コンテンツ中心のコミュニケーションがあるとしたらどういうものかと考えてみると、
SWCはこっち寄りだなとは思うんですけれども、作品を通したコミュニケーションになると思うんですよね。
なのでSWCがかわいいとか、この作品素敵だねみたいな話になるので、
ダイレクトに人を攻撃することがなくなるというのと、
あとはコミュニケーションそのものがコンテンツを介したものになっている感覚があります。
これ例として語ってみるのでちょっとわかるかわかんないかあれなんですけれども、
例え話としてギャラリーみたいな部屋がありますと、そこにSWCメンバーのAさんが作った作品がポコンと置いてあるみたいな。
それはナイトで作った動画だったり、スタイフの放送だったりとすると思うんですけれども、
06:06
そういった作品がポコンと置いてある。取りに行くのは自由なんだけれども、
SWCメンバーのBさんがそれをたまたま見たと。
その作品を受けて何かしらの影響を受けて新しい作品をBさんも作ってポコンと置いておくと。
別のCさんがAさんとかBさんの作品を見てさらに影響を受けて新しい作品を作っておくみたいなことが起きているような感覚があります。
もともと最初のトリガーになったAさんの作品を作ったAさんはBさんやCさんの作品を見て、
自分の作品をこういうふうに解釈してくれたんだなというふうに思ったりとか、
CさんはAさんとBさんの作品を見ているわけですが、
BさんはAさんの作品を見てこういうふうな解釈をしたんだなというふうなことを思ったりしながら話が進んでいるのかなというふうに思っています。
こんなふうに直接コミュニケーションをとっているというよりは、
お互いのコンテンツ作った作品を見て影響を受け合って新しいコンテンツを作ってそれを置いておく。
それをまた別の人が見てというふうな形でコミュニケーションがなされているような感覚があります。
ケースさんがおっしゃっていたパケット型のコミュニケーションを経由したグルーミングみたいなのはまさにこういうことなのかなというふうな感覚があります。
これをやっていたら本当にそのうち作品そのもので直接コミュニケーションをとるんじゃないかなというふうに思っていたら、
両太郎さんが作品で挨拶するのはどうかみたいなお話をされているというふうな話を野間さんの放送で聞いて、
マジかと本当に本質をついているなと思ってちょっと度肝を抜かれたんですけれども、
SWCではこういった形でコンテンツを経由したコミュニケーションというのが成立しているんだなというふうに感じました。
ここでハイコンテキストみたいな話をしたいなと思うんですけれども、
コミュニケーションそのものがハイコンテキスト化すると、
例えば飲み会に行ってないと飲み会で話した話題が分からなくてつらいよねみたいなことになりますが、
コンテンツ自体がハイコンテキスト化すると、
それってつまりコンテンツの現役だと思うんですけれども、
現役を作る人がいて、でもそれはハイコンテキスト化されているが、
そのハイコンテキスト化した現役をコンテキストにある程度染まっている人、
SWCですごくずっと活動しているとか、ある開発室の記事をめちゃくちゃ読んでいるとか、
という人たちはその現役を解釈しやすいと思うんですよね。
その現役を解釈して薄めてクリエイティブする人がいると。
09:02
その現役を薄めたバージョンを読む人がいると。
みたいな形でコンテンツそのものがハイコンテキスト化しても、
コミュニティ上はすごく成り立つと思うんですよね。
特にクリエイティブな人が集まっているところだと。
これは敵を作る必要もなく、分断が起こりづらい、
ハイコンテキストな作品でも希釈して渡す人がいるので分断が起こりづらいという構造になっていて、
コンテンツを中心に添えるというのはコミュニティにとって非常に重要なことなんだなと思いました。
ということで本日の放送は以上とさせていただきます。
では久しぶりに言う、スロスロスロース!